日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし
た。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。 独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さい。 |
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【21年5月29日】
オリンピックを政治利用することは、オリンピック憲章に反することではなかったか。今の政権は、その浮沈をオリンピックの成否に賭けている。それって、とても分かりやすい政治利用のひとつではないのか、と素朴に思う。オリンピックを早期に中止し、コロナ対策にその全力を傾けていたら、今の状況はもっと国民の「安心と安全」にとって、好ましい状況になっていたであろうことは、大半の国民も否定はするまい。それにしても、アスリートにとっての「安心・安全」な大会であるはずなのに、コロナに関しては「自己責任」の一筆が必要とは……。大会そのものは、IOCの誰かさんの言のごとく、完全に「安心・安全」なものですが、もしコロナにかかったとすれば、それはあなた個人の不注意による、自己責任ですよ! ということ。面白いですね……。この発想は、日本の行政機構などに典型的なもの。器はきちんと作った。かりに問題が発生するとすれば、それはその器を実際に活用する者の責任なのだ、ということ。この発想は、世界に共通するものだったのか……。
オリンピックとは、ある種の「伏魔殿」なのかも。
【21年5月25日】
樽見博著『自由律俳句と詩人の俳句』を読み進めている。読み進めつつ、どうにも困惑してしまうところが自分の中にあることに、気づいてしまう。本文は、資料を重視して、作品の引例などもたっぷりとあるのだが、困惑と言うのはその作品に関することだ。ごく簡潔に困惑の中身について触れるなら、引例の作品の良さがどうにも「わからない」ということなのだ。短律の自由律俳句については、理解できるところが多いけれど、長律の作品、長い俳句になるとその作品のどの点が良いのか、よくわからなくなってしまう。せめて一行の短詩(それならまだよいけれど)、そうでなければ、一行の散文という印象が強い。これは、五七五の有季定型俳句にすっかり泥んでいるせいということが大きいのだろうけれど。しかし、短律の場合は、極端にまで切り詰めた表現・内容に対してこちらは比較的対応が可能なような感触をもつのだ。ところが、長律になると、その長さにこちらの感覚がついていけないような、そんな状態になるということのようだ。自由律には、各作家ごとの独自な韻律というものが実現されている、と評されたりするのだけれど、その独自の韻律というものに、対応しきれていないということなのかもしれない。さらに、内容に関しても、どうしても冗長という印象をもってしまう。特に、自由律が現実生活との密着の中でその本領を発揮するということらしく、日々の生活や労働などを素材として詠われる時、その内容に詩的なものを感じる以上に、その要素に乏しい日常的な「ただ事」風なものを感じてしまう、ということがあるようだ。短律の凝縮された内容・韻律の中にキラリと誌的要素を感じるのに対し、長律には薄められ弛緩したと思われるような情緒・情感をまず感じてしまう、ということのようでもある。作品に核となるキラリとした中心的要素(そういえば、自由律の推進者であった河東碧梧桐に「無中心論」という俳論があったような……)をなかなか感じ取れない、見いだせないということであるようだ。
こんなふうに書くと、なんとなく自由律俳句を貶めているような印象をもたれるかもしれないけれど、もしそうであるならば、最初からこのような評論を読んだりはしないから、やっぱり無関心ではいられないという思いが、自分の中にあるということなのだろう。引き続き、読んでいこう。
今日は。夕方まで台風並みの強い風が吹いた。ちょっと異様な感じ。それでも、午前中、早い時間帯はそうでもなかったのだが、午後からはびゅんびゅん風が吹いて、早めの犬の散歩も、すぐに切り上げて抱いて帰るという状態であった。帰宅後、不貞腐れたような犬の様子が、少々気の毒ではあったけれど。夜に入って、雨。せっかくのキリシマツツジが、咲いたなりに風雨のせいでだめになってしまいそうな様子である。腹が立つ。雪で痛めつけられたものが、それでもけなげに(ちょっと思い入れが強すぎるか……)小さな花をたくさんつけたというのに。やっぱり、腹立たしいことだ。
【21年5月22日】
一月に一度、声楽の専門の方に実家に来ていただいて、歌唱指導を受けることになった。母の知人からの紹介で、とんとんと話が進み、母や私など三人が防音設備のあるピアノ教室を使って講習を受ける。昨日が、第一回目。時間で区切って指導を受ける。練習はなかなかきついけれども、この先どんな風に自分の歌唱に変化が生まれるのか、楽しみでもある。京都時代、同じ合唱団の団員の中にも、専門的な指導を受け、ソロで歌ったりする機会を持つ人がいたことなどを思い出したりもした。そのレベルは無理だとしても、もう少し自由に歌えるようにはなってみたいものだ。
日フィルのチケットを購入する。コンサートは数か月先になるけれど、久々の地元での演奏会なので、出かけることにした。生で音楽を聴くことになるのは、本当に久しぶりなので楽しみではある。今より状況がひどくなり中止になる(地元でそうなったら、日本中ひっくりかえるような状態を迎えているのかもしれないけれど……)ことがないよう、願うばかりである。
コーツとかいう人物が、緊急事態宣言下でもオリンピックはやる、と平然と口にしているらしい。日本側の関係者も誰一人として、その発言に異を唱える人はいないようだ。国民世論の60~80%がオリンピックの延期や中止を思っているとしても、まったくおかまいなしの状況である。開催国の国民の懸念や危惧を一切無視して、この状況のもとで大会を強行しなければならないほど、オリンピックは今更どれほどの意味や価値を持つものなのか、と改めて疑問にとらわれる。最初の東京オリンピックの時のような、素朴な感嘆の思いは残念ながら自分の中にはもうどこにもない。
おそらく、やったもの勝ちということなのだろう。やってしまえば、その後については、オリンピックとは別問題。感染状況が悪化しようが、どうなろうが、因果関係は科学的には証明しようがない、ともかく世紀の大会をこれほど困難な状況の中で日本国は堂々とやってのけたのだ、まさに「コロナに勝利した!」という見せかけの結果だけが強調されるのだろう、広報やマスコミを通じて。のどもと過ぎた日本国民にも、やってのけたという複雑な達成感だけが、競技の余韻とともに織のように残るだけ、という顛末を迎えそうだが……。そんな、暗ーい予想が、内心わだかまっているみたいだ、鬱陶しい!
やってみたら、コロナの気晴らしになって、意外と楽しかった、ということもあり得るかもしれないけれど……。
【21年5月20日】
終日、雨。時折激しく降る。膝が少々痛む。雨のせい? いやだなと思う。耳鳴りもあいかわらず酷い。処方されたビタミン剤も効果なし、みたいな状態。体のあちこちがガタついているようだ。仕方ないけれど……。
自由律俳句関係の評論を読む。作品の引用が多くて、論評部分よりどちらかというとそれが面白い。短律(短い作品、「咳をしてもひとり」とか)と長律(「たんぽぽたんぽぽ砂浜に春が目を開く」とか)の作品があるけれど、個人的には、徹底した省略の上に一句としての作品世界がぎりぎり成立しているみたいな短い作品の方が好きなので、やたらに長い作品について、それが俳句としてのどのような成立要件を満たしているのか(特に何もない、と言い切ってしまえば、そうかもしれないけれど)、かなり気になるところがある。本文の筆者の問題意識の一つは、まさにそのようなところにあるみたいで、その点に注意がひかれる。今のところ、その疑問に対する筆者なりのまとまった見解はだされていないけれど。この評論は引き続き読んでみようと思う。
夕方、実家の犬の様子を見に行く。雨のせいで、いまひとつさえない様子。目を離したすきに、ティシューペーパを口にしていたらしい。きつく叱られる。お前は、山羊さんかと思う。ハイタッチを覚える。今は右前脚のみ。左は反応がない。とはいえ、前脚の動きは素早い。上手にこちらの手の平に自らの肉球を合わせてくる。
【21年5月16日】
散歩の途中で失踪したご近所さんの犬が、八日ぶりに発見された。最後に目撃されたところの近くの大きな農家の納屋の中に「緊急避難」しているところを、その農家の人に発見され、警察に通報の上、めでたくパトカーで帰還することとなった。なにはともあれ、よかった。個人的には、私も2度ほど、「歩き」を兼ねて犬探しに歩いたりもした。農事で働いている人や、通学の中学生たちに見なかったかなどと尋ねたりしたけれど、情報を得ることはできなかった。犬が発見されたのが、地元がちょうどひどく早い時期に梅雨に入ったまさにその日で、見つからないままに降り続く雨にうたれることになったら可哀そうだなと思っていた矢先のことでもあり、発見のタイミングは最高のものであったと思う。その犬は、熊本地震で飼うことが困難になった保護犬で、ご近所さんが引き取って飼っておられたものだ。うろつくこともなく納屋でじっとしていたことが、結果として今回の発見につながっていて、あるいは震災時の体験が犬自身に何かの知恵をもたらしたのだろうか、などと勝手に思ってみたりもしたものだ。帰還した際、別段弱っている風でもなく、また痩せてもいなかったのは、じっとしていたことが効を奏したということであろうか。
それにしても唐突に梅雨に入った。例年に比べて二十日ほども早いという、異常な入梅のように思われる。この先、長い梅雨になるのか、梅雨の中休みがしばらく続くことになるのか、例年通り一月ほどで梅雨が明け、長く暑い夏になるのか、いろいろ気がかりなところではある。長くて猛暑の夏というのは、正直かんべんしてほしいな、と思う。
ボランティアは無償、どころか、交通費・宿泊費などは自腹負担(人によっては、数十万も自己負担?)なのか? 一方で、人員不足を人材派遣会社に委託して、高級でバイト採用をして補填する、しかも業務内容については、オリンピック関連であることを伏せて、さらにその旨口外することも禁じるというやり方を取る(さすがに後ろめたい、という良心の反映というよりは、明らかになると当然非難・批判の対象となるので面倒だから黙っておこう、ということなのだろうが……)、などと、さすがは姑息なやり方、と感心するばかりである。
【21年5月11日】
九州の兄夫婦は、コロナワクチンの接種予定日が決定したようだ。地元のほうは、今月中旬ころから順次、予約の確定作業が始まるらしい。副反応や後々の後遺症などの不安要因やリスクをはらみつつも、一方では状況の改善の強力な手段として、期待をかけるばかりだ。
某水泳選手に対して、オリンピック辞退の強要がネットを通じてなされているらしい。もちろん、某選手にはなんの落ち度もない。強要は理不尽以外のないものでもない。マスコミは、それに対する非難を声高に語るけれど、それ以上のことはなぜか触れようとはしない。この問題に対するネット上の書き込みを読んでみると、皆とはいうわけではないけれど積極的な投稿者たちの一部が、事の本質をわきまえた書き込みを行っているのはあきらかだ。既存のマスコミの、現実の変形や忖度・隠蔽という形でのさらなる劣化と、ネットの本音・本質暴露的機能の精度の向上の対比とが、さらに鮮明なものになってきている一面を思ったりもする。
もっとも、コロナの感染や死亡数などは、世界との比較では「さざなみ程度」と書き込み、オリンピック中止を願う声に対して嘲笑してみせる、上級国民の姿もまた、ネット上に露わではあるけれど……。
ここ数日、耳鳴りがひどい。耳鳴り自体は長い付き合いではあるけれど、あきらかに強まっていて、ちょっとうるさい。とうとう、数年ぶりに耳鼻科に行って診察を受ける。聴覚機能にほぼ問題はないとのことで、ストレスや疲労で耳鳴りは悪化することはある、とビタミン剤を二種類処方される。そうか、ストレスや疲労を感じているのか、と改めて思う。そういえば、今朝の夢は6泊7日で海外旅行というものだった。日本を離れ、たのしくのびのびと外国の街並みを闊歩し、いい気分で帰国。すると、なぜか入国の際、薬物の不法使用(その摂取薬物というのが、塩のことなのだが、いかにも夢らしい訳の分からなさではあった)という全く身に覚えのない(ないわけでもないか、塩だし……)ことで捕まる、という理不尽な覚め方をする。やっぱり、ストレスの蓄積かな……、と思う。
【21年5月8日】
昨日、一昨日と二晩続けて、BSチャンネルで新歌舞伎『風の谷のナウシカ』を見る。前後編で、どちらも夜中から始まり、終了が3時。両方で6時間くらいのボリュームの歌舞伎。アニメ版が原作の途中までを映画化したのに対して、新歌舞伎版の方は、アニメ版以降の内容を中心に舞台化されたような気がする(前編は最初の3分の1くらいを見ることができなかったので)。壮大で複雑なお話をまとめあげたということで、場面展開がかなりこまごまとしていて、主要登場人物も多く、原作を最後までコミックで見ていないと少々分かりにくいところがありはしまいか、などと思ったけれど、舞台それ自体はまさに歌舞伎のエッセンス満載で、とても面白かった。両編併せてかなり長時間の視聴となったけれど、ほとんど時間を忘れるほどの面白さだった。新歌舞伎、スゴイと感嘆する。
結局、五輪関係者だけは、日本国民とは別枠、別ルートでコロナワクチンの接種がなされるみたいだ。さすが、オリンピックは世界の祭典?まさに、オリンピック関係者(医療関係者やボランティアにまでは、その枠は拡大されないみたいだけれど……)にとっては「安心・安全」な体制が、別枠で準備されるということらしい。個人的な感想は、ちょっと言葉は下品ながら、「なんというか、ゲスなやりかた!」とでもいうところ。競技者やその関係者の中にはあからさまに、その自らへの特別待遇に謝辞を語る者もいるらしいが。コロナ対策が右往左往する中で、7割もの国民がオリンピックの中止・延期を希望する(残り3割がすべて実施に賛成しているのだろうか、保留はないのかとも思うけれど)、国民に望まれてはいないオリンピックを無理やり「安全・安心」の美名・虚名のもとに実施するためになされるこの「忖度」的配慮に対して、どれほどの賛意が国民から、あるいは世界の人々から示されることだろうか、と疑問に思う。それって、「差別・選別」を持ち込むオリンピックそのものを汚す行為ではないか、などと個人的には思ってしまう(オリンピック出場に関して、ワクチン接種について、競技者・関係者への公平な条件配慮、というような口実は立つのだろうが……)。
政府や関係者は、あくまで「別ルート」からの提案で、国内の状況とは「別問題」という立場と姿勢で押し切ろうとしているようではあるけれど。
円滑なワクチン調達に失敗したという、日本の固有・個別の事情が、その判断や思いの前提としてあるとは言え……。
【21年5月7日】
近世の仏教思想を読んでいたら、僧侶は大悪人という話の中で、一般人が犯罪を犯した場合は、その犯罪のみで処断されるけれど、僧侶はその犯罪ならびにそもそも僧侶になるさい犯罪を犯さないという戒律を認め、そのうえで僧侶になったのだから、戒律違反がさらに上乗せされて、犯罪行為ならびに僧としての戒律違反という二重の処罰を受けることになる、そのような趣旨のことが語られてあった。僧侶は大悪人、という言葉には、そのような意味合いが含まれているようだ。なんとなく、犯した罪の重さ+道義的責任風な受け止めを、一般人としてはしてしまいそうだけれど(妙なたとえだけれど、警察官が罪を犯した場合、民間人の1,5倍増しの量刑、みたいな判決はなされない。でも、警察官が犯罪をという部分で、量刑には直接影響しないけれど、警官としての道義的部分が言われたりはする、みたいな)。しかし、僧侶にとっては戒律違反は道義的責任とは質がことなる純然たる罪であって、その報いも、一般人とは比べ物にならないほど重いらしい。地獄において、永遠に近い処罰を受け続けることになるようだ。灼熱の鉄の飲み食いや寝床や衣類など。
そんな話を聞いていた、僧侶希望の100人の者たちは、50人が僧侶を選び、50人は僧侶になることををあきらめた、的な落ちがつくのだけれど……。
そもそも、「道義的責任」など、最近のお偉い方々の振る舞いを通じて、責任の体すらなさないという、お寒い状況がもたらされてはいるけれど。
母の日が近い。今年は、コロナ禍の影響でカーネーションの価格が高騰しているらしい。私は、ここ数年、花のプレゼントはしなくなっているけれど、別の贈り物を選んで贈ることにしている。明日にでも、近年プレゼント選びをしているなじみの店へ、出かけてみようと思う。
【21年5月5日】
今日は、「子供の日」、そして「立夏」。「暦の上では今日から夏」という天気予報の常套句なども浮かぶ。最近は、聞かないようにも思うけれど……。今日から、夏。全く実感が湧かないのが残念。せめて、良い天気ででもあればと思うが。5日から7日にかけて、「みずがめ座流星群」の極大日らしい。ここしばらく、そんな時に限って、悪天が繰り返されてきたので、今回もまた期待薄なのであろうか。夜明け方、東の空を中心に目を凝らしてみようとは思うけれど。流星の出現は、全天に渡るということではあるようだ。暗闇を見つめて、15分ほどかけて、次第に夜空の暗さと星の明るさに目がなじんでくるという。最近、あきらかに視力が劣ってきていて、果たして15分で間に合うのだろうか、と危惧しつつも。
ようやく、『史記 世家』三巻を読了。個々のエピソードの点で、少々物足りなさを感じつつも、歴史のうねりと、その中を生きるまさに(民衆を除いた)当事者たちの姿を総体的に描いているようで、面白かった。8年間にわたり、翻訳作業を続けてきた監修者の、大きな仕事をやりおおせた感慨と、そのうえでちょっと不本意な思いの語られた最後の一文が印象に残った。次は、『史記 本記』へと移ろうと思う。本当は、「列伝」を読みたかったのだが、本の準備ができていなかった……。
『源氏物語』は、「幻」の巻。これで、光源氏は物語上から姿を隠すことになる。本文自体も、全5巻中、4巻の半ばが終了、ということになる。後、2か月弱くらいで、『源氏物語』通読の2回目が終了予定。次をどうするか、ちょっと考えておく必要があるな、と思う。少し間をおくためにも別の古典作品を読んでみるのもよいか、と思うが。
コロナ禍の非常事態宣言は延長のもよう。東京にインド型の変異ウイルスがおそらく浸透しつつある(すでに入管での検疫以外で、一般人1名の発症者が見つかった以上、どう楽観的に考えてみても、すでに広がり始めているだろうことは、素人でも想定はできることだろう。インドからの入国を5月1日になって初めて問題視した時点で、ほぼ手遅れではないか、などとも素人なりに想定できることでもあるし……)。それとも、経過措置的に改めて「マンボウ」でお茶を濁そうとするのだろうか?コロナと経済、結局「二兎を追うもの一兎をも得ず」という格言通りになってしまったようだ。格言自体が、歴史的な様々な場面で引用されてきて、今現在も十分意味的に通用していることを思えば、その言葉の真実性や重みを否応なく感じてしまうことだ。格言に学ぶ、ということも、広い意味での歴史に学ぶということなのだろうか……。
【21年5月3日】
故郷の山、8合目以上は雪で白くなっている。昨日、昼過ぎに一時的に霰(あるいは小さな雹なのだろうか)が降ったけれど、山の方も相当に寒かったようだ。今日は快晴(残念ながら、無風とはならなかったけれど)なので、その雪も夕方までには消えてしまうかもしれない。この時期に山頂部に積雪があったのは、ここ数年ないことだ。山に雪が多いと豊作とか言われるみたいだけれど、今年はどうであろうか。パンよりはお米好きとしては、期待したい。
昨日は、結局家籠り状態で、近日返却の本、よみさし2冊をなんとか読み終える。犬養隆『儀式でうたうやまと歌』、いとうせいこう『どんぶらこ』。『どんぶらこ』はその描写が老醜と言うには生理的嫌悪を感じさせるくらい、かなりえげつないもの。処女作『ノーライフキング』から、こんな地点まで進んでいるのだとある意味感心する。残りの2短編も内容的に微妙だったけれど、一族の歴史を私小説風に語るというやりかたが、中上健司を最高と思っているこちらとしては、どこか中途半端な印象を持つ。変なたとえのようだけれど、中上作品は「ぎらぎら」した世界の中に、「きらり」と澄んで美しい一点を感じる。それが、せいこう作品には個人的に感じられない。それが物足りないのかも。
『儀式でうたう』の方は、面白かった。『源氏物語』を読んでいる中で、その世界の周辺を埋めたいとの思いで読んでみて、それとは直接つながらない部分でとても面白かった。なんとか返却期限に間に合わせたい藤川勝也『平安貴族の住まい』も、同様の興味から。でも、住宅関係の話は、それ自体面白く、興味深いものだ。
本日は、憲法記念日。別に現行憲法に固執するつもりもないけれど、第9条にしろ、「非常事態宣言」にしろ、現状での変更は国民の命取りになりかねない(別にそれでもかまわん、という人たちも結構多そうだけれど……)ような気がするので、個人的には早急に手を付ける必要なし、と思う。
【21年5月1日】
5月に入った。季節外れの寒気の流入とかで、天気は不安定。強風下、朝のうちに実家の犬の散歩を終えて、その後は家籠り状態。夕方になってふと振り返ってみると、散歩以外に今日一日何をしていたっけ、というふやけた状態であった。これが、風薫る五月の初日というのも、ちょっとふがいないようだ。
とはいえ、ちょっと頼まれものを買いに出かけ、3軒ほどホームセンターなどを回る。いつも、犬の餌を買う大型店舗では、新装なったペットショップの壁面天井がガラス張りの飼育ケースの中の犬、猫などをしばらく眺めなどした。生後4か月ほどのシーズーが不自然なほどに明るい飼育ケースの隅で、所在なさそうに腹這っている様子などを見たりもした。その横に、おしっこの小さな溜りがまだ掃除もされずに残っている。シーズーは最近ちょっと人気を盛り返しつつあるみたいで、久しぶりにこのショップにも「入荷」したもののようだ。早く飼い主に出会えて、この「物」みたいな状態から抜け出ることを祈る。
晴れると、本当に風が強い。帰りは、荒蕪地から吹きあげられてほとんど埃のような細かい砂粒が、煙のようになびいては車に被さってくるものだから、せっかくきれいにしたばかりなのにコンチキショウ!と腹を立てつつ、車を走らせる。