日々録
日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし た。             
備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。
独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さい。

         
21.1「日々録」 21.2「日々録」 21.3「日々録」 21.4「日々録」 21.5「日々録」

【21年6月30日】
六月末日。新旧の暦でいえば実は違うのだけれど、とりあえず六月末日、「夏越の払い」の日として、一年の前半分の厄を払う日、ということになるのだろう。京都にいた頃には、厄払いを兼ねて、「水無月」というけっこうあっさりと美味しい和菓子をいただいたりもしたものだった。台風は、すでに温帯低気圧に変わったとはいえ、梅雨はこれから本格的になっていくらしい。割と雨の少なかった前半とは、ちょっと様子が違ってくるのだろうか……。
コロナ禍は、相変わらず収束の様子を見せないようで、わが地元の県も、少々嫌な様子を見せ始めているようだ。ワクチン接種とのいたちごっこ状態に入ったようで。地元は、明日から六十〜六十四歳までのワクチン接種の申し込みが解禁になるようではあるが……。東京の叔母は、本日第一回目のワクチン接種を受けてきた、と電話をくれた。東京の知人は、一回目がもう少し後になるらしい。東京都の本日の感染者は714人とのこと。多いな、と思う。
明日から七月。どのような一月が始まることだろうか。


【21年6月25日】
実家の家族含め、3人で本格的な歌唱指導を受けている。今回で2回目。先生は音大出身で、イタリアへの留学経験もある方。実家へ来ていただいて、ひとり1時間程度のレッスン。きついけれども、確かに自身の歌唱に違いが生まれることを実感。指導は、厳しいけれど、同時に褒め上手で、ついついその気にさせられ、やる気を鼓舞される。楽しい。これが、合唱の方にも生かされれば、さらに楽しいことになるだろう。来年三月には、実家のピアノ教室の発表会で、歌唱を披露する予定。頑張らねば、と思う。コロナ禍の閉塞状況の中で、生徒三人は、ちょっと日々の息苦しさから解放された気分である。楽しい。
市内の方は、どうやら雨らしい。雷鳴なども届いたりしている。六月の台風接近が、どんな影響をもたらすやら、ちょっと気がかりではある。

「安心・安全のオリパラ」。どこが! と言いたいような体たらく。普通ではない国で開催される、普通ではないオリパラ。オリパラそれ自体が、ある意味汚された、そんな開催にならないことを、今さら祈っても、願っても仕方ないのかもしれない……。第一回目の東京オリンピックの記憶が、どんどん薄墨色に上書きされていくことが、正直本当に不愉快である。

【21年6月22日】
ワクチン接種5日後。微妙な倦怠感もすでに感じず、平常に戻ったような感触。抗体ができるのに2〜3週間かかるのだったか。ともかく、自分の体にまかせることとなるのだろう。ラインを通じ、大学時代のサークルのメンバーのワクチン接種情報が入る。私同様2度の接種が終了しているのはまだ一人だけ。体調は変わらず、ということのようだ。他の人たちは、皆予定は決まったけれど、まだ未接種ないしは1回目が終わった状態。日本中にメンバーは散らばっているけれど、地域ごとの進度の違いが実感できる。

とうとう、森友問題の赤木ファイルが開示されたらしい。とはいえ、不都合な部分は相変わらず黒塗りらしいけれど。特に、誰が誰にメールを送ったのかという点について、受取人は名前がだされるのに、差出人は黒塗りというのは、怪しさやいかがわしさ満載、という印象ではある。プライバシーにかかわるような私的な文書・メールではない、それ自体が公的な意味をもつ文書・メールに、黒塗りで勝手に手を加えるな、と思う。それもまた、ある種の「改竄行為」のように見えてしまう。
オリパラ実行委員会の支離滅裂な運営は、さらに現在進行形のようだ。一方、ネット上の中止要請はとうとう43万筆を越えた。いくら「やる、やる」と強硬な(硬直した)姿勢を示しているとしても、反対は反対として明確に意思表示を続けることには意味があると思う。いずれ、コロナ禍での東京オリパラをふりかえった時、最後まで反対を表明した人たちがいたということは、それもまたひとつの良識的判断として歴史的意味を持つことだろう。それは、日本にとっても不名誉なことではあるまいと思う。

【21年6月18日】
ワクチン接種後、二日目。特に異常は感じない。注射後の腕の痛みが全くない、というのが意外ですらある。母の方は、午後になって少し寒気を感じると言っていたけれど、今日は終日雨で、気温もやや低く、そのせいかもしれない。このまま、安定して進んで行けば、と思う。
韓国人作家ハン・ガンの『すべての、白い……』は、本当にすごい。そしてそれは、翻訳者の力量もすごく関係しているのかもしれない。これほど、繊細な日本語で表現された純粋な世界、しかもその背後には直接は触れられていない、主人公の直接・間接に関わって来た、個人的体験や社会的体験がとても微妙な遠近感をともなって表現されている、ように感じさせる、それほどの繊細で、同時に硬質・鋭利な日本語表現を実現していることがすごい、と思ってしまう。
工藤玲音の歌集『水中で口笛』、もとても面白い。二十代の歌人の第一歌集なのだが、年齢や経験の大きな隔たりを越えて、彼女の詩的世界に引っ張り込まれ、単純に分かる、分らないの壁を越えて、いいようもなく共感を感じさせられる世界へと連れて行ってくれる、そんな印象。若い人の短歌ってのは、こんなにおもしろいものかと感じさせられたのは、個人的な原点と言える俵万智以来、久々のものだった(歌集それ自体を読む機会が少ない、ということはあるのだけれど……)。

オリ・パラ。愚策に愚策を重ねて、一体どこへと向かっていくつもりなのだろうか、とほとんど他人事を遠く見るような、そんな状態(実際、多くの国民の思いは蚊帳の外状態、非当事者として処理されているありさまだし……)。感染爆発を招来しないことを、切に祈るばかりだ。

【21年6月17日】
本日、午前中にコロナワクチンの第二回目の接種をすませる。かかり付けの個人病院での接種だったこともあり、待ち時間もほぼなしで終了。今のところ、私の方には変化はないけれど、高齢の母はだるさと眠気を感じると言っている。九州の兄夫婦は、もう少し早い時期に二回目まで終了したけれど、その後体の痒みと睡眠不調状態が続いていると連絡があった。今夕ぐらいから、体調の変化が出るとしたら本格的にそうなってくるらしく、おとなしくしながら様子をみることにする。兄夫婦は発熱やだるさということは生じていないらしい。個々人によって、かなり違うみたいだとは、その兄の感想。接種後、免疫力がしばらく落ちるとも聞いているので、注意したいと思う。
市内の知人は、二度の接種後も体調に全く変化なしだったそうだし、句会の高齢女性も元気そのものに見えたりしたのだが……。
ここしばらく、アジア地域の小説をもっぱら借りて読んでいる、トルコやベトナム、ミヤンマー、そして今は韓国の作家ハン・ガンの『すべての、白いものたちの』を読んでいる最中。散文詩的な内容、文体の短編小説風小説。まっさらな感性が切り取った世界の切片を見せられているようで、高純度でとても印象的。面白い。
今回は、それ以外に短歌一冊、詩集二冊、漫画一冊を借りてきて、『源氏』『史記』と併せて、同時進行的に読んでいる。

現実逃避というほどではないけれど、ちょっと現実逃避気味なのであろうか……。

【21年6月13日】
昨日、「歩き」の途中、ご近所さんとカラスの子を助ける(助けきれたかはわからないけれど)お手伝いをした。足首に紐が絡まったうえ、フェンスの金網に頭を突っ込んでばたついている子ガラスを見つけたご近所さんと一緒に、子ガラスを捕まえて、足首に食い込んでいる紐を鋏で切って、さらに親切なお隣さん夫婦の手助けで、まだ十分には飛べそうにないカラスではあったけれど、裏山のカラスの巣が見えるあたりに、大きな段ボールに子ガラスを入れて、親ガラスが見つけられそうなあたりに置いておくことになった。親切なお隣さんによると、ここ二、三日、近所にたむろする猫たちを大きなカラスが追い回す姿を見てきたということで、あるいはそれはこの子ガラスの親ではないか、との判断もあった。このまま、人間の姿がみえなくなれば、子ガラスは親ガラスを呼ぶだろうし、それから先はもう、我々の手を離れるというお隣のお父さんの言葉に賛同して、一同その場を離れる。
私自身は、捕獲の際、生まれて初めてカラスを両手にすることができて、つややかな羽の感触とふわりとあたたかい温もりと、逃げ出そうとして必死に口を開けて威嚇する姿が印象的だった。
夕方ぱらついていた雨は、今朝はばらばらと音をたてて降り続いている。


【21年6月12日】
オリンピックの採否の判断が近づいて後、読売・サンケイ関係のメディアには、開催賛成の声が反対の声を抑えて掲載されるようになっている。両メディアともに、政府系のメディアなので、そのような方向に世論を誘導しようとする動きがあっても当然のことなのだろう。オリンピック賛否の声について、なんとなく気になるのは、その「世紀の祭典」たるオリンピックの当事者の一人、というより、ある意味主役としてその社会的位置を占めているはずのアスリートたちの声がほぼ全く聞こえてこない、ということだ。ある意味、オリンピックがコロナ禍の困難な状況の中でも実施していこうという大きな動因のひとつは、アスリートたちの努力に対し、全世界(日本の)の人間が自らのリスクを一方に置きながらも、報いようという思いがあるということを前提にしての、アスリートファーストということであるはずだ。物事の実施に関して、常に賛否というものが対立すること自体は、別にオリンピックに限ることではないだろう。開催賛成の人たちの中にも、おそらく手放しの賛成ではなく、コロナ禍という大きなリスクを一方では抱えつつも、そのリスクを含めてそれでもアスリートたちの努力に報い、その成果をできれば眼前で目撃したいとの思いを抱いている人が、ずいぶんいることだろう(もちろん、その逆で、アスリートたちの努力を認め、その努力の発現の場を、オリンピックという華やぎの場で提供したいとの思いを持ちつつも、しかしコロナ禍という大きなリスクを考えると、やむなく賛成しかねるというひとたちも、闇雲に反対を唱える人たちとは別に結構いることだろうと、個人的には思う)。いずれにしても、賛否の渦の中で人々の思いはあきらかに、当事者であるアスリートたちの方に向いていることは、確かではないかと個人的には思われる。ところが、その当事者たるアスリートたちは、オリンピックに対して沈黙を保っているようだ。あるいは、今回のオリンピックがコロナ禍の状況下での開催という特殊事情を切り離して、通常時の開催と同様に、ただオリンピックに向けて頑張りますとしか、発言していないような印象を持つ。ひねくれ人間としては、ただのひとりであっても、「このコロナ禍のもと、国民の多くが苦しみや不安の思いに苛まれる中で、せめて自分はその苦しみの克服のためのエールを、自分の競技に全力を尽くすことを通じて表現していきたい」くらいの「青臭い」ことを言ってくれたら、などとついつい思ってしまう。それが、あるいは多くの失笑と反発をまねくかもしれないとしても。

でも、とうてい言えないよね。すでに、オリンピックが政治化され、経済化され、競技の結果ばかりを問題とされる環境の中に置かれていれば、様々な板挟みの中での当事者としての苦痛は平凡な一般国民の共感や理解をはるかに越えたところにあるのかもしれないし。


【21年6月9日】
植物の生態系に大きな影響を与えるという事で、特定外来植物として駆除対象になっている「オオキンケイギク」について、以前市役所の環境課に群落の所在を連絡したことがあったけれど、重機などを使っての大掛かりな駆除作業が終了したようだ。根こそぎ取り除かないかぎり駆除が困難という事で、作業後はほとんど平地状態となっていた。他の植物を含めての駆除という形になったようだけれど、昨年と今年の状態を知っているこちらとしては、その繁殖力の大きさに驚いているところがあって、この処置もやむを得ないものかも、と思っている。実は、もう一か所、規模は小さいながら同様の「オオキンケイギク」の群落を知ってはいるのだけれど、住宅に囲まれた狭い範囲のことなので、連絡等どうしたものかと思ってはいるところだ。
セイタカアワダチソウも、今ではもう当たり前のように、周辺の耕作放棄地の中心植物化しつつあって、ススキとの競合関係も、どうやらアワダチソウの優勢という状況の中で、もう手遅れかなという思いを感じつつ、アワダチソウの花粉によるアレルギーに悩んでいる姪っ子の姿などを気の毒に見たりもしている。せめて、花穂をつける前の段階で、一斉に刈り払うということを繰り返せば、広がりを留めることはできないかとも思うのだけれど、荒蕪地と化している元耕作地が群生の温床となっておりながらも、本来税金との関係も含めて、農地の所有者が刈り払い作業をすることが、一番有効な方策のように思えるけれど、実際にはその作業をさえ行えない、そんな農家の厳しい現状が一方であることを、深刻な事態とも思ってしまう。

ここしばらく、連日こまごまとした用事の積み重なりがあって、いろいろ思うように生活のペースが保てないことだ。毎日が日曜日生活を送っている中でのことで、なにを贅沢な、ということになるのかもしれないけれど……。

【21年6月5日】
天気は回復した。とはいえ、曇りで、かなり蒸し暑い。今日は、覚悟を決めて、自家と隣家の垣根になる山茶花その他の剪定作業を行う。作業は、自家の側と、隣家の側と、どちらからも手の届かない上側の部分を二階からと、三方面からの剪定作業となる。
とはいえ、自家の側からは庭の剪定と清掃である程度終わっていたので、今日は主に残りの二方面からの剪定作業。ちなみに、庭の剪定作業の結果、約60キロの枝、葉、そして花の廃棄物が出た。車で、市の処理場まで運んだが、全部は運びきれず、残り10キロほどは、今回の選定作業で出たものと合わせて、次回処理場に運び込むつもり。
隣家の方に断りを入れ、脚立や剪定ばさみ、高枝切りばさみなどを持ち込んで、作業を始める。ほぼ3時間ほどかかって、剪定、ならびに隣家の庭の清掃を終える。その間、2度休憩。最後には、立ち眩みしそうな状態になって、これはやばいなと思いつつ、午前中の作業を終える。約9キロ近い枝と葉が出る。後始末は、特に念入りに行う。午後は、二階から、高枝切りばさみを精一杯延ばして、上の部分の選定作業。これは、1時間足らずで終える。終える、というより、もういいか、これで、という感じに近い終わり方。
ともかくはこれで、恒例の今年の庭の選定作業はほぼ終了、ということになる。本当に、疲れる。

【21年6月3日】
とうとう本格的に雨が降り出した。これで、明日いっぱいまでは、雨降り状態であるらしい。それにしても、天気予報の精度というのは、本当に上がっているのだなということを実感する。一日の生活のリズムの中に、きっちりと実家の犬の散歩が組み込まれていて、本日は朝と、そして午後天気が下り坂になることを見越して昼前にもう一度、散歩に出る。一日二回の散歩タイムである。歩き終わりごろには、すでにぽつぽつと雨が来かかっていたので、絶好のタイミングでの散歩であったと思う。天気予報に、感謝したい。最近は、一日に一度は会いに行くご近所さんが出来て、出かける。この頃では珍しい、屋外の犬小屋暮らしの中型犬。割と温厚な相手なので、距離感など注意しつつ会いに行く。行くと言っても、こちらが誘導するわけではなく、犬の方がそれなりに散歩道を誘導してこちらを連れていく、というところ。道筋は、ちゃんと頭の中にあるようで、日によって近回り、遠回り、さらに大う回路などという手を変え、品を変えての誘導を見せてくれる。

普通ならやらないオリンピックをやろうとするのが、神国ニッポンの本領発揮なのかもしれない。もっとも、吹くのは神風であってコロナ禍の風でないことを祈る。日本国民の「安心・安全」にとって、ワクチン接種以外に、もうほとんど打つ手はないようだ。というよりは、ある程度ワクチン接種が進むまでの間は、何があろうと、起ころうと見ない・聞かない・言わないが政府の基本方針のようなので、ある意味見殺しもやむなし、という冷徹な政治的判断が根底にあるように思われる。「普通」ではない国家の姿をライブで見ている感触。

【21年6月1日】
6月に入った。とたんに、原因不明の腰痛。ぎっくり腰の気はずっとあったから、突然の発症ということか。実家の犬の散布だけは、律儀にこなして、あとは静養(図書館の本尾返却にも行ったか……)。早めに、寝る。明日の回復を期待するほか、ない。
角川『俳句』の、おまけの「俳句手帳」に句が載る。われながら面白い作と思っていたので、ちょっと満足する。
同じく、角川『俳句』。良い俳句とは、『歳時記』に載るような俳句、誰からも理解されるような俳句である、と知人の作に一言講評。それ、ちょっと(だいぶん)違うのではないか、と腹立たしい思いになる。誰からも理解されるような「良い俳句」なら、毎月の新聞、雑誌、結社誌、その他を通じ、数十万句?も流通していると思うのだが。日本中に、「名句」が溢れかえる状況になっている、ということか……。そんな実感は、ない。

6月に入った。それが、どうした、と少々荒んだ気分がわだかまる。そんな折の、大坂なおみ。個人的には、きちんと自分の思いを表明する勇気ある人、と思ったりしていたのだが。本当に、大変なのだろうなと思う。昔は、嫌いだったのだが、今ではちょっと違う。