日々録
日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし た。             
備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。
独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さい。

         
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【21年8月28日】
韓国の作家パク・ソンウォンの小説『都市は何によってできているのか』読了。ちょっと村上春樹的な要素があって(翻訳の仕方にもよるのだろうか……?)、面白かった。父親の宝くじを奪い合った姉弟の話が、そのまま100年後、姉のコールドスリープからの覚醒後の別話につながっていたりするSF的内容とか、二時代ほど前の不条理劇みたいな感触のものがあったりと、変化に富んでいるところも、短編小説集の醍醐味として堪能できたりしたことだ。アメリカの詩人ホイットマンの「草の葉(初版)」を読み始めたけれど、こちらは読み続けようかどうしようかと、かなり考え込む。その詩の言葉の熱量の膨大さに、こちらが圧倒され、そしてずいぶんと疲れてしまいそうだからだ。ほとんど、言葉によって世界(主にアメリカであろうけれど)を抱え込んでしまおうとする勢いの激しさに押し流されてしまいそうだ、ということだ。ホイットマンは、この詩を生涯にわたって改定を続け、その詩が彼の死によって永遠に中断されるまでに、「草の葉(初版)」の5倍ものボリュームの作品となっていたそうだけれど。言葉のことを「言の葉」などと言ったりもするが、「言の葉」が、巨大な「草の葉」の拡大、繁茂をもたらしたということであろうか……。
半藤一利の『漱石俳句探偵帳』、楽しく読んでいる。修禅寺の大患を経て後の、漱石の人物と作品の変化をどこか残念がっているような作者の姿が面白い。
テレビを見ていたら、突然のニュース速報。コロナ禍関係か、アフガンで再びのテロか、あるいは豪雨、地震など天災か、などと瞬間的に不吉なことを一気に思い浮かべたが、テロップを見てみると、パラで日本人選手がメダルを獲った、との速報。たしかに、こんな世情の下でめでたい明るいニュースではあるけれど、番組に割り込んで、突然に流すほどの喫緊の情報であるのか、と思う。オリの時に繰り返されたことではあるけれど、個人的には通常のニュースの中でしっかり紹介すれば足りることでは、と思う(パラだから、ということではもちろんなくて)。正直、テロのことがあったので、どきりとしたのは確か。

【21年8月25日】
本日は、定例の通院日。かれこれ数十年にわたり、この生活を続けていることよ、と思う。一進一退しつつ、グラフは全体として徐々に右肩下がり、という有様か。診察が終わり、上手に調整しておられますね、と看護師さんからお褒めの言葉をいただき、ちょっといい気分になる。こんな調子で細く、長く、自分がやっておきたいことをちょこちょこやりながら、いずれ来るその時まで、などとしおらしい気持ちにもなる。
待合室のテレビで、パラリンピックのライブ中継をやっている。個人的には、今回の東京オリ・パラについては、絶対見ない、と思っているけれど(オリパラを全否定するつもりは毛頭ないけれど、今回については、それが自国開催で、その分オリパラのブラックな部分がコロナ禍によりあぶりだされた結果をそれなりに見せつけられた結果、こんなことになってしまった……)、偶発的に目に入るものまで拒否するつもりのないので、見ていた。あらためて、パラスポーツは、勝ち負けの価値観で測られるものではないな、と思う。いやいや、アスリートの人たちにとっては、それもまたパラスポーツに取り組む意欲や気力の根源のひとつかも、と思いつつも。今朝の新聞の囲み記事で読んだ、「誰もが輝く『ゆるスポーツ』」とサブタイトルのついた文章の内容について、健常者と障害者の垣根をはずす、文字通り皆で楽しめる500種類ものスポーツの提案・実践者の記事に感銘を受けつつも、メインタイトルの「弱さを生かせる社会へ」という太文字の「弱さ」という言葉に、ちょっとひっかかりを感じたことなど思い出しつつも。障害者と健常者を、「弱者」「強者」という価値基準(もちろん、その内実によるのだろうけれど)で関係づけているのか、などとつい思ってしまって。それが、パラスポーツを含むスポーツの大枠を形作っているようで。それ自体個人的な誤った認識や偏見かもしれないけれど……。「強い」「弱い」という関係性の中で行われる取り組みは、必然的に「勝敗」という価値をその中にひきづりこむのでは、などと。そんなことを思うこと自体が、特にパラスポーツに専心するアスリートの人たちを貶めることにもなるのかもしれないと気がかりではあるけれど。
ただ、少なくとも、オリパラの報道や、アスリートの人たちの評価に、やたら金メダルが、などということを前面に押し立てるような扱いがなされるとしたら嫌だな、個人的にはきっと違和感が強いことだろうな、とパラのライブを視聴しつつ思う。

【21年8月22日】
政治と金のオリンピックという機構や制度については、うんざりした思いが強いけれど(アスリートたちの当事者責任という点についても、メダルをたくさん獲ったから良い、とも単純には思えないが)、ただパラリンピックについては、その器は同じであっても、ちょっとこちらの構えが異なっているような思いはある。つまり、パラリンピックにはどこか容認する(あるいは、がんばれ!)という思いが内心どこかにあるということだ。ところが、本日の新聞のひとつの記事を読んで、それ自体に大きな問題を含んでいるのではという意見が、障害者で運動競技に関わっている人物(ある意味では当事者の一人であろうか)からあって、考えてしまった。その人は、パラリンクックは反対だと言う。なぜ反対を主張するのかという点について、オリンピックとパラリンピック、健常者と障害者のスポーツに対して、区分けして取り扱おうとする点に異議を唱えたということのようだ。本来、パラリンピックはスポーツを通じて障害者と健常者との間に存在する意識の垣根を取り除くことに大きな意義があるとしながら、現実には逆の状況、世界規模の大会において、両者の垣根をより高くすることにつながるのではないか、ということのようだ。そもそも、障害者は生まれる以前から健常者との間に大きな断絶が存在する。障害者は場合によっては生まれる前から命の選別がなされている。それは、生まれて後も教育の面を含め、社会制度的に健常者とは別の道筋の中で生きることを余儀なくされ、それはオリンピックにおいても同様の構造が残されているという主張らしい。きっと、そのようなことを主張すると、決まって一部の人たちからそれなら障害者に対する様々な社会的支援や配慮をすべてなしにして、健常者並の扱いをすればよい、いろいろ社会的な恩恵を受ける身でありながら、勝手なことをいうな、という類の非難が轟々という規模で起こるかもしれない。でも確かに、オリンピックとパラリンピックを二つに分け、あたかも二つの大会のように期間も分けて実施することに違和感を持つひともいるのかもしれない、と思う。なぜ、そのような形をとるのか、おそらくそれが大会運営上効率的であるから、そして効率的であるということは、健常者側にも障害者側にもメリットがある、という判断によるものなのだろう。ただそれが、より高次の理念「共生社会の創造」という点から見て、はたして健全なありかたなのか、どうか、ということを新聞記事の人は問題としているように思われる。
今、パラリンピックについて、子供たちの観戦が取りざたされている。それを進める側は、パラスポーツを臨場することで、障害を持つ人たちに対する認識と共感を深め、それはひいては「共生社会」という理念確立に対して、有効な教育的効果を持つ、と主張する。ただ、その見解には一つの落とし穴に似たものがありはしまいかと、新聞記事を読んで後、考えてしまう。つまり、健常者であるだろう多くの子供たちは、パラスポーツ観戦を通じて、障害を持つ人だって、とてもすごいことができるのだという思いをきっと強く持つだろうけれども、それがはたして健常者と障碍者の間に横たわる壁を打ち崩すものとなり得るのだろうか、ということだ。まちがっても、「障害者の中にもすごい人がいる(障害者の中の特別な人たち)」という形で、さらなる障害者全体の意識の囲い込みがおこなわれはしまいか、という危惧の念(健常者目線からどれだけ解放されるのかということ)を抱くのは、ひねくれた心根のせいであろうか……。
*「障害者」という物言いに抵抗はあります。とはいえ、「障がい者」と一字違えてみても、「障害を持つ人」と少し和らげたような言い方にしても、ひっかかりがあることは同様です。本文では、現在対義語として一般化して用いられていると思われる「健常者」「障害者」という対の言い回しを使っています。

【21年8月19日】
ここ数年、毎年8月に依頼のある俳句関係の(ほぼ唯一の)お仕事が、今年はないみたいだ。終了になったとも、なんとも連絡がないのだけれど、おそらくコロナ禍のせいで、それどころではない、ということなのだろう。昨年は、実施されたので、今年はそれ以上に厳しい状況におかれているのだろうと想像する。実際のところ、オリンピック辺りを一つの分岐点として、コロナは感染爆発状態を引き起こしてしまったようだ。地元の状況も、一時期の無風状態がまるでうそのようなありさまとなっている。ワクチンの接種は終わったものの、この先そのメリットはコロナに罹患しても重篤化の可能性が低くなるだけ、ということを基準にワクチンそのものを冷静に割り引いて考えた方が良いみたいだ。どこかの国の総理のように、ワクチンがすべての切り札ということは、総理の妄想に近い願望の発現であろう、と思われる。
BS放送では、最近2度目になる再放送の番組、小松左京のSF小説『復活の日』の「アナザストーリー」というのをやっていた。正体不明の病原体によって、人類のほぼ全員が死滅するという内容。その先見性や科学的正確さなど、SF作家の想像力と構想力、さらに該博な知識とが1時間番組の中で、ドラマチックに語られてあって、切実に面白かった。
今日は、久しぶりに午後に入っても雨が降らない。その分、蒸し暑いけれど、雨の鬱陶しさからは免れる。今週は、こんな調子で、またまた雨も降るらしいけれど、来週からは残暑の日々が始まるようだ。ずいぶん雨が降ったせいか、今ごろになって庭の山法師の木がぽつんと花をつけている。

【21年8月17日】
今年の京都大文字送り火は、部分灯火で、物寂しいものとなったらしい。BSの番組でその様子を見て、そのまま自宅の送り火の方へ移動。甥が勤務のため、一人抜けた状態で、送り火を実家の前で灯す。犬も抱かれて送り火を見る。天気は、高曇りで、月がほんやりと雲に影を映している。昼の間に、墓を回って花をシブキに置き換え、ろうそく代わりの小型懐中電灯を灯篭から回収。灯篭に火が入ったのは、今年は一日のみ、という状態だった。本当に異例のお盆であった。
京都の水害の状況をメールで送っていただく。7年間ほど通勤に使っていた道路の側道が陥没したとのこと。あの道が、とちょっと驚く。山科の方でも、琵琶湖疎水が危ない状態になったとか、地下鉄駅に水が浸入したとか、ラインで知らされたりもした。豪雨の上に、京都は何度目かの緊急事態宣言。やった感のみで、ほとんど実効性のない対策。政府は、何もする気が実はないのでは、という棄民政策をコロナに関して実行しているような気がどうにもする。菅内閣の支持率は、ジリ貧状態とか。総理は4週間も休みなしでお疲れ気味と、某大手御用新聞が報道していたりもするけれど、実効性のありそうなことを何もしない状態で、ジリジリと身を焼かれつつ疲労感を重ねるよりは、小さくても何か手ごたえのある政策を実現した方が、「張を感じて疲れない」のにと思ったりもする。とはいえ、酸素ステーションは、素人目にも思い付き感の強い割に、実現に程遠いもののように思われる。オリンピックのPVのために、公園の木を伐って敷地を確保するくらいなら、本気で「野戦病棟」をそこに作った方がもっぽどまし、などと思う。
人流を抑えつつ、パラリンピックに子供たちを見学させようとする。平時ならいざ知らず、教育的効果と言いつつ、コロナ禍は子供たちにも感染や症状の発症をもたらすということが言われているにもかかわらず、そんなことを言い立てる。何かあった場合の責任は、どうやら見学を判断した市町村や学校に負わせようとしている(言い出しっぺは、責任取らないといういつものやりかた)らしいけれど。個人的には、思考が曲がっているのではないか、とつくづく思う。

【21年8月14日】
昨日の午後以来、小止みなく雨が降り続いている。地元は、大雨警報は出ているものの、ゲリラ豪雨的なひどい降り方ではない。ただ、強めの雨がずっと降り続いているという状態。降り始めからの積算雨量は数百ミリに達しているようだ。そのせいもあって、迎え火がちゃんと焚けず、お坊さんが読経をあげに自宅を訪問することもなく(これは、こちらから気を使って、「降雨やらコロナ禍やら」とお断りの連絡をしたけれど)、さらにすっかり準備はできていたけれど、お墓にお参りに行くことも中止した(今日は、昨日以上に墓参は難しそうだ)りという、全く例年にないという以上に、いままで一度もなかったようなお盆の入りになってしまったことだ。この雨のせいで、人流は大きく歯止めを食らうだろうから、コロナ感染の面からいえば、僥倖と(ラッキーと)考えている人たちもいるかもしれないけれど……。
雨の中、長靴をはいて実家へ。ちょっと犬の様子を見に出る。本日は、散歩など完全に無理なので、家では昼寝するぐらいしか、犬もすることはなかろうと思って、お遊びの相手をするつもりで出かける。人形かおもちゃを使って、室内とはいえ少しはバタバタ走り回らせなければ、ストレスと欲求不満で、前脚の肉珠をぺろぺろ舐め始めたりする(犬のストレスのサインの一つとかいうけれど)かも、などと考える。それ以外は、こちらも自宅籠りで、今月中が締め切りの文章を、先に進まないストレスで前足をぺろぺろしながら、書いたりする。
困ったものだ。

【21年8月12日】
気が付けば、8月も12日。明日からはお盆である。今日は、午前中に、盆花を買いにいつもの店へ行き、二抱え程の花やシブキを買ってくる。ずいぶんな出費である。天気は、終日雨という事であったが、ヤフー天気を見ながら、雨雲が切れる時間帯をめどに、二か所車を走らせて盆用意に出かける。草むしりは先日済ませてあるので、本日は盆花を飾ることが中心。小雨の中の作業? であったけれど、連日の猛暑に比べて、かえって気持ち良いほどだった。昼過ぎには、終了。車専用道路の無料区間を快適に飛ばして帰る。車の量は多い。県外車のバンパーもちらほら混じっているみたい。
そのまま、午後はぼけっと過ごしてしまう。ここしばらく、暑さのせいか、眠くて仕方がない。これは良くない状態と思いつつ、早めに寝るように心がけているが、なかなかうまくいかないようだ。一度目が覚めると、次がなかなか寝付けない。うれしくない習慣が、きっちり身についているようだ。やむなく、起きて、しばらくペルセウス流星群の観察をする。二階の窓から、東の方向にペルセウス座が眺められる。周辺は薄雲がかかっていて、星の輝きも頼りない。おまけに、東方向には、Ledライトによる街灯が、煌々と輝いていて、それが視界を邪魔する。流星群の極大日は13日とのことだけれど、どうせその頃は秋霖前線が活発化して、星空を望むなど不可能だろうから、そろそろ流れ星が出現しはじめるという情報を頼りに、街灯の光を遮りつつ、30分ほど観察。幸いなことに、明るい流星がひとつと暗い流星を二つ観測できた。しかし、その後は、薄雲がペルセウス周辺をも覆い始めて、観察は終了。
再び、ベットに寝に帰って、その後はラジオを聞きながら、うとうとする。意外と、ラジオの声は誘眠効果がありそうだ。
5時には、起床。BSの番組で、東京混声合唱団のコンサートを聞く。「列車」組曲という合唱団からの依頼作品で、本邦初演というのを聞く。歌は上手で、曲もおもしろかった。歌詞の中に、「体は売っても心は」的な部分があって、大丈夫かな、とは思ったけれども……。

【21年8月7日】
暑い。気温は35度。猛暑日。それにしても、夕立を含め、ここしばらく一滴の雨も降らない。とはいえ、今朝、ほんの一瞬、路上の色を変える程度の雨がふる。台風10号の影響で、この後本格的に雨が降るかもしれない。ゲリラ豪雨ほどの雨はいらないけれど、ざっと一雨、涼む程度に夕立がほしいなどと思う。空の一部、隆起準平原の山脈の上には、入道雲が発達しつつはあるけれど、連日同様、発達しては夕方までには萎むという繰り返しでろうか。
昨日は、広島原爆投下の日。菅総理の失態が、ネット上や新聞にまで報道されている。糊で原稿がひっついたらしいけれど、一度も原稿に目を通さないままに、本番を迎えたということなのだろう。読みたくない本文があったので、わざと飛ばして読んだ、などという穿った説もあったらしいけれど。日本国内のみならず、世界に対し、恥をさらしたということだ。当人は型通りの謝罪で済ませたらしいけれど……。たしか6日は、立秋だったはず。暦の上では、日本は秋を迎えたということだ。
午前中は、実家の犬のトリミング。お世話になっていたトリマーの方に来ていただき、居間を臨時の調髪(調毛?)場所とする。夏バテ気味で、ここ数日、昼間はおとなしく昼寝、という犬も、大好きなトリマーさんが来てくれて、大はしゃぎ。私は、臨時の助手をつとめたけれど、私以外に甥や母まで加わって、2時間ほどかけて調髪(調毛?)終了。かわいく仕上げていただいたけれど、本人(犬)含め、皆ぐったり。月に一度の結構手間ひまのかかる行事であった。昼過ぎ、実家へ顔出しをすると、母も犬もお昼寝中であった。私も、1時間ほど、寝ることにする(寝た!)。
龍谷大学の俳句講座が、京都で開催されているはずだけれど、どんな様子であろうかと思う。本日は、宇治吟行会の予定であったか……。

【21年8月4日】
突然のように政権から提出されたコロナ禍における入院要件の変更案は、相も変らぬ維新の中途半端な賛成を除き、当の自民党からも危惧と反対の意見表明がなされるらしく、大幅に提案が修正されるか、一度引っ込めるという形をとりそうな雲行きである。重傷者用のベットを確保するためにという趣旨は、反対されるいわれは乏しいものの、そのなおざりで場当たり的でほとんど思い付き的なやり口は、国民にとって令和の「姥捨て山」的な印象を強く与えるものになったことだろうな、と思う。かって、老人介護施設への未入居者の数を減らすために、入所条件を厳しく変更することで、結果として労せずして数値上の未入居者数減を達成したとかいう掟破りともいえそうな離れ業を行った政府であってみれば、今回のことも、その本質は共通するということになるのかもしれない。条件や数値の変更は、問題の基本的な解決には結びつかない、ということなのだろう。

エアコンと扇風機の併用で、なんとか夜を寝苦しくなく過ごそうとしつつも、なかなか思うようにいかない。ふりかえってみると、ここしばらく夜間の睡眠時間が3〜4時間くらいの日が続いている。眠れなくて、つい早朝4時からの中国ドラマを見て、さらに朝涼しいうちにノルマをこなそうと、ひきつづき「歩き」に出て、そのまま朝を迎えるということの繰り返しだ。そのせいか、昼間本を読んでいるうちについうとうとして、本文にはない文章を勝手に読んでいる(半分、夢をみて、夢の中で本の一節を読んでいるみたいな)などという妙なことが起こったりする。困ったことだ。


【21年8月1日】
8月に入った。オリ・パラは日本人の金メダルラッシュで沸き立っているらしい。一方、それと歩みを同じくするように、新型コロナの感染状況も今までになかったような急騰状態を続けているらしい。オリンピックは残り1週間ほどで終了するけれど、コロナの感染急拡大はいつ収束を見せるか、いまのところわからないようだ。一つの国で、華やかなスポーツの祭典と感染症の進行というまがまがしい事態が同時進行している様子は、文字通り一国の明と暗の現状が露呈している、一国のあり様が象徴的に現れているということなのだろうか。現政権の腹の括り方は、オリパラが終了し、ワクチンがある程度浸透するまでは、国民に自粛を求めるだけで、それ以上は何もしない(うかつに何かして、それが失敗したときの政権のダメージの大きさを考慮すれば、あえて何もしないに越したことはないのだ。おそらく、政治家の度量のひとつには、そのような非人間的と一般人には思える状況判断にどれほど耐え忍び、我慢できるか、ということが含まれているのだろう)、ということが明らかで、この先の感染状況に対しても、今以上の事は何一つやらない、結果として現状を追認し続けるということなのだろう。「国民の安心と安全」など、菅総理を筆頭とする現政権は問題としてはいないということだ(闇雲に、政権の悪口を言っているつもりは個人的にはない。現状を見ている限り、素人の目にすらそのような態度に映ってしまうということだ)。金メダルの数と引き換えに、政権・政治の冷酷さ(計算づくであって、無能さの現れという風には思えない)をチャラにしてもらおう、という政治側の冷たくも虫の良い計算が、そこには働いているのだろう。
そういえば、オリ・パラ開催に反対した奴はテレビを(オリンピック中継を)見るな、と偉そうにネット上で語る著名人がいたりするけれど、金メダルラッシュですっかり気をよくした挙句の嫌味、皮肉かもしれない。正直余計なお世話だと思ってしまう。仕組みや制度、その運営についての東京オリ・パラの在り方については、一時期八割近くの日本人が反対や危惧を感じていたのは事実であり、その思いは金メダルラッシュで表面上は沈静化しているとはいえ、オリ・パラ開催に手放しで賛成という風に一気に世論がひっくり返ったとは、個人的には思えない(一部のマスコミは、変わったと報道しているけれど)。同時にまた、オリパラに対しては懐疑的な部分があるにしても、参加するアスリートたちには罪はないという思いを多くの日本人がもっていたらしいことも確かなことで、その結果、オリパラそれ自体には疑義を感じつつも、アスリートたちの活躍は応援したい、見てみたいというのは、矛盾しているというよりは、かなり自然な思いなのであろう。だから、視聴率が20%あったとしても、視聴することに嫌味や皮肉を語る著名人は、軽薄なお調子者で、余計にお世話様!ということになるのだ、と個人的には思う。とはいえ、私自身は、テレビは一部の番組しかそもそも見ないので、娯楽としてもオリンピックを見る必要性を感じない(もちろん、第一回目の東京オリンピックのように、少年の無邪気で純真な目と心で見ることはとうてい無理!ということもあるが)。

数日前に山に登ってきた。暑くて大量に汗をかき、頂上小屋では500円出して、追加で水を買うという初めての出費もあった。頂上周辺は、ガスが時折覆って、その時は涼しくて気持ちが良かった。八月をひかえて、お花畑が頂上の緩斜面に広がっており、可憐な風景であった。急登、急下降の結果、現在太ももがかなり痛い。階段の上り下りが、苦痛である。しかし、すでに次はどこに行こうか、などと考えている始末だ。コロナ禍進行の中で、人を離れ(田舎暮らしゆえ、そもそも周囲に人は少ないのだけれど)、自然の中にすっぽりと身を置くのは、気分が良い。