日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし
た。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。 独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さい。 |
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ちょっと、合唱に対して意識を変える。
随分長い合唱経験の中で、合唱団の個々人は、各自の個性を滅却しつつ、ひとつの楽曲を歌いこなす的な隷属的意識を自分の中に醸成してきたように思う。それは、歌い方そのものにも反映してきたようだけれど。
けれど、今の指導者は、合唱団員は、一人一人がソリストとしての意識を持ちつつ、楽曲の構造の中に自らを生かせ、と要求する。それって、ずいぶん高度で困難な要求だと、心底思う。しかし、そう思いつつも、その方が合唱団のメンバーとして、真っ当な意識の持ちようだと、思ってしまう。
ソリストの意識と言っても、それは実際、技術的な側面を伴わない、脆弱なものかもしれない。しかし、そのような意識を自らに課することで、初めて合唱団員は、歌う人としての、自立と自覚を自らのものとするのかもしれない、と思う。
歌う主体は、あくまで自分である。そのことを基軸として、一人一人が協力しつつ、ひとつの楽曲をものにしていく、ということは、ある意味楽しくもあることだ。
合唱団という集団の中で、個々人が束縛されるという、一種の頸城からの自由、解放の道筋がそこにはありそうだ。
プロではない、あくまで素人のアマチュアであるとしても、そこにはそれなりの自らの存在意義と、存在理由があるように思われる。
コロナ禍が収束に向かいつつあるとはいえ、2時間余りの集団での合唱練習を終えて、ちょっと考えたことだ。
それにしても、疲れた……。
ちょっとだけ、リフォームすることにした。主に、お風呂と、裏の物干し場の屋根。その他、ちょこちょこと……。冬の寒さに耐えて、お風呂に入っていたけれど、もう限界かな、と考えて。古いタイル張りのそれなり立派なお風呂をユニットバスへ。古いものの良さと味わいは、転居後数年味わってきたので、もうこれくらいでよいかと思う。気候の極端な変動も、リフォームに拍車をかけたといえようか。業者とあれこれ打ち合わせをして、工期はできるだけ短く、ということで契約。その他のリフォームを含め、数日で。
もともと。中古住宅の購入なので、いずれは手を入れる必要があった。とはいえ、屋根については、購入段階で手を入れて数年であるにもかかわらず、かなりひどい状態であったため、買ってすぐ塗り直し。手抜きの業者の仕業らしく、3年にして屋根ははげはげ状態であった。最初の高速洗浄が、完全に不十分であったということらしく。家自体の作りの良さに納得して購入したので、やむを得ない出費と考える。今にして思えば、その問題について住宅業者もなんとなく口をつぐんでいたような気配があったけれど……。
リフォーム資金にも限りがあるので、これから先、考え考えしながら、少しずつ住居に手を入れてゆくことになるのだろう。なかなか、大変だ。
今なら、こんな子供向けドラマは作れないだろうな、と思う。BS日曜朝のチャンネルで、子供の頃楽しんだ「ウルトラセブン」のリマスター版が放映されていた。内容は、地球防衛のために開発された超兵器の実験対象になった惑星が、破壊とともに、その惑星にいるはずのない生物が超兵器の影響を受け強大な能力を持つ怪物に変化し、地球を襲うというもの。襲うといっても、その生物にしてみれば、棲家を破壊された復讐などでなく、生物の持つ生存、あるいは防御本能から、自らの身を守るために害をなすものを破壊にきた、ということだろうか。番組の大半は、怪物に対する攻撃、さらにはウルトラセブンの怪物退治物語ではあったけれど、粗筋として単純にまとめきれない内容を含んだもので、その部分が今ならドラマ化が困難ということにも繋がりそうに思われる。内容はさておき、強く印象に残ったのは二つの場面。どちらも怪獣が地上で暴れるその場所について。一つは、崩壊した教会と十字架が林立する墓地を前景とする場面、もう一つは赤い花が咲き乱れるきれいなお花畑を戦いの場所として、セブンと怪獣が戦うシーン。なぜ、そんな場所を選んだのか。そもそも戦闘場面と言う見せ場中の見せ場に、まるで似つかわしくないそんな2カ所ということに、正直なところ個人的には衝撃を受けてしまった。子供の頃ならば、きっとそのまま見過ごしにしただろうけれど。作品の背後に製作者がきっと込めたであろう思いをじわり、あるいはずしりと感じてしまった。もちろん個人的に、勝手に、ということだけれど。
それにしても、ウルトラセブンはなぜ怪獣を倒すのに、片腕をもぎとり、ついには喉笛を切り裂く、なんていう残忍なやり方をしたのだろうか、などとふと思う。怪獣が、派手に爆発して粉微塵になったりする最期は、結構ありがちだけれど、今回のは、ひどく生々しく、血なまぐさく、ちょっとやりきれないものを後に残したようで……。
床に入ると、すぐにヘンデル「メサイア」のCDを聞く。合唱練習のためというより、聞きながら寝付くためにということの方が大きい。2枚組のCD。その1枚を聞き終わる前に眠り込んでいるので、夜中に目を覚まして、曲の最後までを聞いていなかったことで、寝ていたのだと確認したりする。続いて2枚目。それも同様に最後の「アーメンコーラス」を聞きことなく目を覚まして、寝ていたのだと思う。寝つきが悪いのをカバーするのに、かつて入院の時期、名人「古今亭志ん生」の聞き取りづらい落語を聴きながら、いつのまにか寝ついていたことを思い出したりして、ここ数日、「メサイア」で代用している。眠るのも一苦労ではある。
変な夢をみたりもするし……。しかも、続き物で。
横井弘三の『露店研究』を読み始める。なぜこんな本を、と思うけれど。読み始めてすぐ、ああこれは「フーテンの寅」さんに対する内心の興味がこの本を選ばせたのだと気づく。香具師の寅さんの背景に対する関心。それは、(映画の中とはいえ)寅さんの生き方を理解するひとつでもあろう。そう思うと、読むのが俄然楽しくなる。古い文章の復刻ばんらしいけれども。それにしても、露天商というけれど、コロナ禍のこの時代、改造車を使っての外食などの商売が商機を得ている、などということもふと思ったりしたのだろう。
オストメイトのことをBSチャンネルでやっていた。いろいろ貴重な情報を、結構BSで仕入れることだ。オストメイトとは、人工肛門装着者のことをよぶ。番組は、オストメイトのひとりで、モデルなども務め、オストメイトに対する無知や偏見への啓蒙や、装着者への励ましのために活動している女性を取材するドキュメンタリーだ。番組中には、生後すぐ人工肛門をつけた今四歳の女の子と女性との交流などについても、紹介されてあった。その子の両親や、その女性、さらには女の子当人が気にかけていることが、オストメイトに対する周囲の無知と偏見、ということだ。日本人の中にも根強く残る、自分たちと違うと感じられるものに対する差別と排除の心性が、いつか女の子を傷つけ、いじめの対象になりはしないか、という危惧を強く感じているというだ。
そんなことを書き付けている自分自身も、あるいは負の同調圧力の中で、そんな差別や偏見を持ちかねない危うさを思う。しかし、一方では自分自身もまたそのような境遇に身を置く可能性がかつてあったことを思い返すと、そんな差別や偏見に対する抵抗感や怒りも感じる。
ただ同時に、自分の中で、『私は運が良かった』という思いがふと浮かぶ時があり、改めて『運』の良し悪しでこの問題を眺めている自分自身にたいして、疑義を感じる。人工肛門を装着しないで済んだ自分は「運が良く」て、人工肛門によって日々の生活を生きる人は「運が悪い」などという発想自体が歪んでいる、と思ってしまう。
『斎藤茂吉の百首』中、99番目の歌。
「目のまへの売犬の小さきものどもよ成長ののちは賢くなれよ」
昨日は、犬の買い物で市内の大型雑貨店にでかけた。文字通りの雑貨店であったけれど、その店舗のひとつにペット販売の店があり、そこではガラス張りの水槽のようなものの中に、子犬や仔猫を入れて、展示販売をしていた。ケース内は清潔に保たれていて、前面のガラス張りが、四六時中人目に触れて、子犬や仔猫にとってストレスになるのでは、と勝手に心配していたのだが、店舗の方はその点も配慮して、時間を区切って、ケースにカーテンを下ろして、人目を遮る配慮をしていた。ちょっと安心もした。犬の餌やおやつ、下に敷くシートや新たに首輪などを買い終えて、しばらくその展示ケースの前で、歩いたり、おもちゃで遊んだり、眠ったりしている犬・猫の姿を眺めていた。いずれ、このうちの何匹かは、買われて各家庭に引き取られていくのだなと、改めて思う。
茂吉の百首を読み終えて、最後に近いこの歌に出会って、昨日の店舗での情景を思い出した。「成長ののちは賢くなれよ」という下句に、茂吉の仔犬たちに対する祝福の祈りを思う。仔犬たち、仔猫たちが新しい家族の下で幸福な暮らしを送ることを願う。
先日見た、「ヒトラー・最期の12日間」の中に、彼の愛犬のシェパードが、ヒトラー自殺の前に部下たちの手で薬殺される場面があったことを思い出す。ゲッベルスの子供たちがそうであったように、シェパードも数人の部下たちに体を押さえられ、無理やり開けられた口に毒薬を流し込まれて、即座に絶命してしまった。犬は、そのまま男たちに抱えられて外へと運び出されたようであった。その場面も、印象に残っている。
「ヒトラー・最期のの12日間」という映画をBSチャンネルで見る。ドイツ制作の映画。ヒトラーとその側近たちを中心に、ベルリンの地下に籠城しつつ、ドイツ降伏の日を迎える兵士や市民たち周辺の人々の姿も非常にリアルな感じで描き出している。迫力があり、むごたらしい映像が展開する中で、どこか地獄めぐりをしているような感覚(「地獄の黙示録」にもあったような薄気味悪さ)もあり、胸に迫って見るのが辛くなるような場面もあり、戦争映画はあまり見たくもないのに、結局最後まで見てしまった。上映当時は、いろいろな意味で評判にもなり、議論を巻き起こしもした映画らしい。それも無理ないことなのだろう。ヒトラーやその側近たち、あるいは周りの人々について、あくまでナチスドイツという側の視点から、生々しく描き出している、言い換えると人間的に描き出しているというところがはっきりとしているからだ。もちろん、ヒトラー礼賛、ナチス称賛的な映画でも、逆にヒトラーやナチスを悪役として描き出すような底の浅いものでも、批判的に描写する教条的な指向優先の映画でもない。やはり、一人の人間としてのヒトラー、人間の集団としてのナチスを突き詰めて描き出そうとしている。当然、議論の対象になることだろう……。
最期の方で、ゲッベルスの妻が、自分たちが自死する前に、自分の子供たちに睡眠薬を飲ませ、眠っている間に、ひとりひとり毒薬のカプセルを口に含ませ、無理にかみ砕かせる場面があるが、たとえそれがナチスの中心人物の一人ゲッベルスと一心同体のように振る舞うその妻の所業とはいえ、むごくあわれなものだった。
余計な、あるいは余分な思想的評釈や解釈など一切排除して、起こっただろう出来事を、カメラの冷たい目線で掬いとるような描き方は、見る側にも強く迫ってくるものがあった。とともに、戦争を中心になって計画・遂行する、今風にいえば「上級国民」に所属する人々の、物事に対する受け止めや処理に対し、時代状況を越えて、薄気味悪いほどの違和感を感じたりもした。これもまた、この映画の力のひとつであろうか……。
台風の余波というには、まだまだ台風そのものが日本の南西方面はるかかなたに居座りつつある状況なのだが、それにしても風が強い。雲も分厚い。雨が降らないことはまだ幸いながら、妙にムシムシしていて、居心地が悪い。ご近所の犬仲間とは、雨の具合と朝夕の犬の散歩のことで、この台風の動きが気がかりなことになっている。
犬にとっては朝夕の散歩は一日のハイライトみたいなものだから、何とかしてやりたいとは思うけれど。ただ、雨の中の散歩は長毛種の犬にとっては(その飼い主にとってもも)、難儀なことなので、本当に困る。
『斎藤茂吉の百首』を読む。大島史洋の鑑賞。茂吉の短歌は、品格に満ち満ちたた作品から、とんでもない規格外のものまで、幅広く当人の生活とこの社会や世界をカバーして詠まれているので、読んでいておもしろい。時に困惑もするけれど……。わずか三十一文字とはいえ、これほど個性の際立った作品が生まれるのかと、改めて感心もする。茂吉の膨大な作品を読み切ろうとはとうてい思わないけれど、興味をひきつけられはしたものだ。
『源氏物語』の二回目の通読も、すでに「浮舟」を終え、「蜻蛉」と終盤へと入っている。読み終えたら、引き続き三度目の通読に入るか、それとも別の作品へ一旦移るか、さてどうしようかと思う。『源氏』に登場する男どもには、時代状況の違いとは言え、正直むかつくところがないわけではないけれど、それを差し引いてもやっぱり面白い。
さらに、犬俳句など。
緑陰を犬のしきりに出たがりて
香水の人になつきてわが仔犬
大の字の仔犬廊下の涼み場所
水たつぷりと錫の鉢仔犬用
柄をしがむ犬より団扇とりあぐる
時には俳句など。
夏の雨仔犬を抱きて駆け戻る
遠雷や居間のまなかに犬立ちて
しばらくは青葉の道が散歩道
茂へと鼻先入れて尾を下げて
夏の雲毛色に白の犬抱きて
自民党の総裁選。こちらは党員でもなんでもないので、勝手にやって、ということではあるけれど、今の制度では総裁はそのまま総理へと横滑りするので、結果については一国民として関心はある。とはいえ、超有名な政治辛口コラムの「政界地獄耳」で、このままの人員で総裁選が行われれば、いずれ国民に飽きられてしまうという内容はそうかもね、と思う。この総裁選が俄然面白くなるとしたら、それは石破茂が参加することとも。これもうなづけること。世論調査ではなく、自民党党員内の調査では最も信を集める、自民党の議員内でもまともで真面目な政治家の筆頭に挙げても良いと思われる石破茂。かれが党内で不人気なのは、これも「政界地獄耳」の言葉をかりれば、安倍・麻生・甘利のいわゆる3A、党内有力者たちから余計な詮索をするな、と嫌われている、という理由ぐらいらしい。本人に言わせると、顔がこわいとか、人づきあいが下手、ということもあるらしいけれど……。有力者に目を付けられている人に対して、自民党議員の中で石破茂に支持の手を挙げることは、イビられることが目に見えているだけ、難しいことだろう。でも、勝ち負けを措いてでも、ぜひ石破茂に総裁選へ参加してほしいと、部外者ながらに思う、今日この頃。
石破茂で思い出したけれど、ご近所さんはけっこうたくさんの家庭が犬を飼っているみたいで、散歩などでもしばしばいろいろな犬に出会ったりする。その中でも、我が家の犬を除き、一番のお気に入りは、「フレンチ・ブルドック」。まだ2歳にもみたない年齢(犬齢?)ながら、苦み走ってどこか愛嬌のある表情は、石破氏と相通じるところがありそうで、なかなか良いなと思う。
9月9日、本日は「重陽の節句(奇数日の重なり。1月1日、3月3日、5月5日、7月7日、そして本日。いずれも大切な日であったりするが……)」。高いところに登り、お酒に菊の花びらを浮かべて飲んで、長寿を寿ぐ日。とはいえ、今のところ、高いところと言えば、2階くらい。菊の酒を飲むほど、優雅な生活を送っているわけでもないので、夕方晩酌は焼酎。ナッツをおつまみに。長寿を寿ぐというわけでもなく、とはいえ、健康には注意をせねばならない我が身としては、朝晩の愛犬の散歩と、「歩き」。ちょっと呼吸法とダンベル運動を申しわけ程度。どの程度、健康に貢献しているのかは、よくわからない。
彩瀬まるの短編小説集『川のほとりで羽化するぼくら』を読む。とても読み口の良い作品群。4編中1編は寓話風のお話、1編は純然たるSF小説。その発想が、とても面白い。いろいろな若い才能がいるものだなあ、と感心する。
インドのノーベル文学賞受賞詩人のタゴールの詩をちょっと読んでいる。インドの植民地支配からの解放を背景とする作品であるらしいけれど、表現は素朴で、しばしば同様の言い回しが反復される。全体に単純で純朴という印象を受けたけれど、それらの諸作が基本的に歌われるものとして書かれてあるということを解説で読んで、なるほどと思う。簡潔で印象的な内容とか、表現の反復などは、歌として重要な要素なのだろうと思う。作品の中には、インドの国歌として歌われているものなども含まれているらしい。なんとなく、歌繋がりで。BSの番組で見た地中海のコルシカ島で歌われる歌が、400年にもわたり、口伝いで歌い継がれてきたものということで、タゴールの作品の中にも、インドの民衆の間で歌われてきた歌の歌詞や、その精神の反映があるらしいということが、作品それ自体を支える共通の要素があるようでとても印象的だった。歌と言えば、これもまたBSの番組で知った、サイモンとガーファンクルの素晴らしい作品『明日にかける橋』。ベトナム戦争を背景に歌われ、さらに9.11のテロ事件の際に、一方では人々の心励ましとなった大切な歌でありながら、その歌詞からラジオで放送禁止になったなどという出来事があったことを知って驚いたりもした。天がける「銀色の少女」という部分などが、貿易センタービルに突っ込むジェット機の姿を連想させるという危惧に基づく配慮から、そのような仕業になったらしい。過剰反応だな、と今にして思うけれど、当時の米国の世情の反映なのかもしれない。その歌が、差別される黒人の心を温め、南アフリカのアパルヘイトからの黒人の解放の精神的な支えのひとつともなり、現地の教会においては、現在もゴスペルの曲の一つのようにして、歌い続けられているということも知った。音楽の力ということを感じさせられたことだった。一日で、いろいろなことを教えられたようだ。
それにしても、いろいろ批判されるNHKだけれど、民放のレベルではとうてい太刀打ちできない、すぐれた内容と質の番組を作る実績があるという点も見逃すべきではないな、と改めて思ったりしたことだ。
菅総理が、次回の総裁選に不出馬、とのこと。自己の延命策が、しかし万策尽きた状況の中での「名誉ある撤退」ということになるのか。早速、ネット上では菅総理に対する称賛と慰労の書き込みが、ぽつぽつ目に付き始めた。前総理が、病気を口実として眼前の政策課題をすべて放棄して遁走したにもかかわらず、その評価は一気に上昇したという、その再現ビデオでも見ているような感触。何もしない、どころか課題を放棄して逃げ出したとしても、それが身を引くという形を取ると、すべてを帳消しにして心情的な同情と共感ばかりが表面を覆いこむ、その繰り返しとその結果に対する期待とが、今回の「名誉ある撤退」劇の一面の真相のように、個人的には思われる。もちろん、当人にとっては忸怩たる思い、最悪の結果かもしれないけれど、自民党にとっては最良の選択なのだろう。国民にとってはどうなのか、それは未知数ではあるけれど。ただ、頭をすげ変えても、内部崩壊と腐敗とが進行している組織体に対して、多くの期待はかけられないだろうな、と思う。残念ながら……。
パラリンピックは、成功裏に終わりを迎えようとしている(ようだ)。やっと、一区切りがついて、改めてコロナ禍と、待っていたように政治の季節が動き出すようだ。オリパラを含めて、改めてスポーツの力の光と影の部分とを目にしたような気分ではある。あれほど、多くの国民の危惧の中で開催されたオリパラが、いざアスリートたちによる日々の華々しい活躍の中で、いつの間にかその評価が、政治と金の薄汚い「黒い祝祭」から、人間の能力の可能性の発揮、輝かしい「人間力の祭典」へと置き換えられていったようだ。本来は、その陰陽両側面を露骨に示した今回のオリパラが、いつの間にか光一色に染め変えられたような、そんな感じ。スポーツは、悪しき器を良き器へと置き換えるほどに強大な影響力を持ったものなのだろう。しかも、それがアスリートたちの無私の努力の結果を称賛の対象として称揚されればされるほどに。
もちろん、多くの国民はそれほどに昏迷してはないだろうし、オリパラが輝かしいほどに、同時進行的に社会全体を巻き込んだコロナ禍の黒い影が際立つという現実を目の当たりにしてきた。ただ、今回のオリパラの評価は、今後の時間の経過が定めるなどといわれているけれど、そもそも歴史は権力を持ったものが作るいうことはほぼ常識的な基本認識であるし、まして権力を前にして、それに対し自立的、自律的に機能するはずのマスコミが、進んで迎合するような形で衰弱・衰退した姿をさらしているような現況の中で、この巨大なイベントにどんな評価が下されることになるのか、さて……。
メダルを獲ったアスリートたちが、テレビの娯楽番組でもてはやされている、そんな中で、いずれにしろ速やかに穏やかにオリパラは終焉してほしいと願う。
9月に入った。夜、遠雷の音が聞こえる。天気は、悪化する予報。明日は、終日雨のようだ。かなりの降水量を予想もしているらしい。
半藤一利の『漱石俳句探偵帳』読了。面白い。筆者独自、あるいは独特の分析や見解があちらこちらに見受けられて、それもまた楽しい。筆者の奥さんのお母さんが、漱石の娘さんという関係らしくて、筆者の旺盛な好奇心と豊富な情報量の背景が伺えたりするのも、また面白いと思う。この人が、あの『日本のいちばん長い日』の著者であるとは、と感心もする。漱石関係の著作は、他にも数冊あるとのことなので(ちゃんと、本書の「あとがき」で筆者本人からきっちり、ちゃっかり紹介してあったりして)是非読んでみたいと思う。
たまたま、「ボッチャ」というパラの競技を見る。高度なテクニックと知的判断が要求される競技なのだな、と思う。固い球と柔らかい球の使い分けなどもあるらしい、と初めて知る。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ということわざがあるけれど、「袈裟が憎くけりゃ坊主まで憎い」というわけでは、ない。
小さなドッグランを庭に作っておられる人と知り合いになる。散歩の途中で、実家の犬がしきりにそこに立ち寄りたがるので、ついお邪魔してしまうことになる。迷惑なんじゃないかな、と気掛かりではある。