日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし
た。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。 独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さい。 |
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「おかえりモネ」最終回。最後まで、緊密で繊細なドラマ作りでした。
20年2月にりょうちんの船の進水式があって、ドラマは「それから数年後」と時間が飛び、モネと菅波先生が再開したのが、2年半ぶりということから、ドラマの中の現在の時間は22年の春くらいだろうか、などと想像してみる。現実の時間から少し近未来の時間設定が最終回にはほどこされているわけだ。
今と時間をそのまま重ねるのではなく、いまより少し先、コロナ禍が落ち着きを見せて、それぞれが新しい生き方へと方向性を定めて、しばらくたってからのこと。その間には、ドラマの世界の中でもコロナ禍が進行していて、今私たちが経験しているような日々を、ドラマの登場人物たちもきっと経験したことだろうと想像すると、いやおうなく、彼らに感情移入してしまう。まして、ドラマの人物たちは、いずれも地震や津波や原発の直接の被害者として辛い経験を経てきた人たちで、などと考えていくと、虚構のドラマが生々しい現実とひとつに重なっていく、その痛切さを改めて思ってしまう。
それにしても、菅波先生が一度モネと別れて、正体不明の呼吸器系の病気(コロナなのだろう)の治療現場へと去っていく際、その後ろ姿がなぜかスローモーションで映された時、はっきり言ってとても不安で不穏な印象を持ったものだ。菅波先生は、このままコロナに罹患して、結果として死んでしまうのではないか、という不吉な想像だ。さすがに、そこまで悲惨な結末にならなかったことを喜びたい。
「おかえりモネ」、朝ドラの中では地味で暗めなドラマであったけれど、とても鮮烈な印象を残したすごいドラマだったな、と思う。
「モネ・ロス」に苦しむことはないけれど、見続けてよかったと思う。
個人的には三生君、存在感が光っていたな、としみじみ思う。
たまたま、上田岳弘の短編集『旅のない』を読んでいる。作品の背景は、まさに今、このコロナ禍の時代。その中で生きる30歳前後ぐらい?の男女の姿を描いている。まさに今を描いているお話であるけれど、ちょっと村上春樹テイストの混じった、こちらも繊細で、作品自体がどこか白色光にすみずみまで照らし出された世界のような感覚で描かれているみたいで、面白い。
ひさびさに「安倍のマスク」の話題。8000万枚が使われぬまま保管されていたとのこと。当時のマスク不足の状況の中では、「安倍のマスク」も意味があったとのことだけれど、果たしてどれだけの「マスク」が実際に使われたことか。私も、当時送られてきたマスクを、テレビの横のいろいろ積み上げたものの上に置いたなり、今日の今日まで使うこともなく保存してきたことになる。8000万枚で115億円だったか。保管費用は6億円だったか……。過去の亡霊が突然よみがえったみたいだけれど、しかしこれは今現在の話。このまま保管し続けられることだろうけれど。いずれ、何かに活用される時がくるのかもしれない。
温暖化のおかげで北海道のコメが旨くなったとの発言。さすがに、ちょっと天才的な発想の飛躍を思い、やはり並大抵の人ではなかった、と驚嘆の思いにとらわれる。彼の回転する舌をとめることができるのは、人ならぬもの以外にはないのかもしれない……。
対面句会。参加者は4人。句会は1時間ほどで終わったけれど、その後の雑談が面白かった。自衛官の山中サバイバル訓練の話などは、ちょっと驚愕の部分もあった。たとえば、霊山と呼ばれる山で、夜を送っていると、人ならぬものの気配に包まれて、なかなか厳しかったとか。句会でも、ちょうど山を異界と詠う句などがあって、盛り上がったことだ。
工藤玲音の歌集『水中で口笛』を読む。読み終えて短歌は自由だなと思い、自由なのは作者自身であると改めて思う。俳句に自由を感じたことは、ない。不自由なのは、自分自身なのか、と改めて思う。
『史記』の「本紀」読了。最後は、漢の武帝の本紀。司馬遷にとって、武帝は当代の皇帝であるとともに、李陵の禍を通じて、自らを裁いた当人でもあり、司馬遷にとっては宿敵(現代人の感覚でいえば)ともいえる相手ではないかと思えるけれど、その人物の史伝をまとめあげた司馬遷の中にどのような思いがとどまったことだろうか、と思う。漢王朝の英傑とも思われる武帝の後半生は、不老不死への熱望に突き動かされ、怪しげな連中の妖言に惑わされ続けたような、ある意味暗愚な君主という印象をどこかに残す。武帝自身の閲覧を受けたであろう、「武帝本紀」ではあったろうに……。
故郷の山は、すでに例年に2週間も早く雪が積もった。稜線が雲の切れ間に白い姿を見せているのは、まさに秋を通り越して冬が来た、という実感をもたらすものだった。紅葉は、まだこれからのはず。今年は紅葉と雪の二弾染めの光景を望むことができそうだ。
ガソリン、高いなと思う。とはいえ、給油は月に1度で、満タンに入れてその月は大丈夫という程度の車利用ではあるけれど。とはいえ、請求される料金が、以前と比べて目に見えて違うので、いやだなと思ってしまう。頻繁に車を使う人にとっては、嫌だなどころの話ではないと思うけれど。円安があれあれという間に進行し、産油国が原油輸出を渋っているということらしい。将来的に石油消費量が減るという見通しに立って、今のうちに高く売れという魂胆で輸出調整を産油国が結託して行ているらしいけれど。商売とはいえ、商売ではすまないところで、困る。
韓国の詩人申庚林の詩選集『ラクダに乗って』を読む。朝鮮戦争を背景にした作品など含まれていて、時代的にはずいぶん前の作が収録されているようだ。文学史などでいえば、「プロレタリア詩」の系統の作品なのだろうけれど、詩人の生活と心情とが暗い熱気の中に詠われているところに強く印象付けられる。昔々の他国の詩、というだけでなく、コロナ禍の下、格差拡大社会の中で苦しい思いをしつつ生活している今の人の胸にも響くものがあるのではないか、と思う。
ソロで山登りをして、それをユーチューブで公開している「MARIA」さんのファンである。彼女の山行映像は残さず見ている。その中には、時に自分自身も山行を重ねてきた関西の山々の映像などもあって、懐かしいと思いつつ楽しんでいる。映像の美しさとBGMのセンスの良さは同じような登山映像の中でも、出色と思っている(ファンなので……)。地元に帰ってきて、それらの山々の遠さをつくづくと思う。
昨日は、突然に寒かった。それまでの、短パン・Tシャツ生活から、長袖・ズボン生活へと一変。今日も、その延長ではあるけれど、日差しそのものは暑い。なんて、ちぐはぐな陽気なんだ、と思う。いつも行く近所のスーパーの主人は、今年は秋がない、夏から一気に冬だな、としみじみ語る。もう、八十歳をいくつか越えた人。一人で、店の切り盛りをしている。かつては地元でも十指に入る投資家オヤジだったとか。今は、好々爺。でも、レジのそばにはパソコンが置かれ、時に投資関係のページを見ている姿を目撃したりする。気さくで面白い人。
土曜日夕方の某番組で、コロナ禍が障害者に、健常者では想像の難しい困難をもたらしているという報道をしていて、健常者が本当に知らない、あるいは気づかないことを改めて知らされた。人出が減り、街騒が減ったことが視覚障害者から移動の手づるを奪う結果になることや、マスクが聴覚障害者からコミュニケーションの手段を奪うことなど、全く思ってもみなかったことで、とても複雑な思いになってしまった。この番組は、以前オリ・パラでの食品廃棄問題をいち早く問題提起したこともあり、あの時もそんなことがあったのかと驚いた経験があったけれど、今回のことも、コロナ禍という現状に対して思ってもみなかったところから深刻な状況を提起した内容であった。
ミャンマーの作家キンキントゥーの短編小説集『買い物かご』を読む。自分の子供の頃の故郷の田舎町の情景が自然と思い浮かんできて、懐かしいような気分になる。もちろん、ひとつひとつの風俗とか習慣とか、人と人のやりとりなどには様々な違いがあるのだけれど。あるいは、「貧しさ」という共通の境遇が、そんな共感点をもたらしたのだろうか、などと思う。
「おかえりモネ」。昨日から今日の展開は、とても緊迫感があって感動的で良かった。金曜日には、お話に一応のまとめを付けるのが約束とはいえ、ひとつひとつの場面に、思い入れやら感情移入しながら見ていたようだ。「ようだ」というのは、視聴の最中はそんなこと意識しないでいたので。まさか亮が遭難死するなどという地獄の展開にはなるまいと思ってはいたけれど。無事寄港して、その後のモネ、ミーちゃんとの三人のやり取りは胸に沁みた。ある意味地味なドラマではあるけれど、描こうとする芯のしっかりした物語だ、と改めて思ったことだ。
「モネ」についての、ネット上の芸能コラムみたいなところの視聴者評がたまたま目に入ったのだけれど、動揺するモネに対して菅波先生の「あなたが決めたこと」という言葉が、突き放しているようで冷たすぎるとか、少しは甘えさせてやれとか「非難の声轟々」などとまとめられてあって、個人的にはそうかな、と思ってしまう。厳しい現実に直面して苦しんでいる人に対して、一時的な慰めや同情や励ましの言葉が必要な時もあるのだろうけれど、その状況が乗り越えるほかに術がない場合には、逆に突っぱねるような厳しい言葉も必要になるように思われ、モネが今置かれた状況がきっとまさにそれであり、菅波先生はそのことをわきまえたうえで、モネがその言葉をしっかり受け止める強さを持つ人という、彼女に対する深い理解と信頼感が口にさせた言葉のように思われた。この「おかえりモネ」には、視聴者を慰撫するようなものとは異なる、もっと厳しいものを登場人物たちを通じて描き出そうとしているな、と個人的に思う。
実は、そんなふうに考えるところがあるので、亮の遭難死なんていう、あまりに残酷なお話の展開もちょっと頭に浮かんでいたのだろうと思う。さすがに、それはなくて、良かった。
『源氏物語』2度目を読了。「夢の浮橋」の章段名のように、なんとも漠とした終わり方。物語それ自体が、「浮橋」のように、ふわふわと不安定で中途半端な感じ。物語に結末を求めるのが当然みたいなところからは、ずいぶん隔たったところで、この長編物語は終わっているようだ。すでに、光源氏の死によって、大きな物語は終わっているようなので、この宇治十帖はなくても、なんて思ったりもするけれど、しかし作者の紫式部にとっては、こちらの物語の方が、自身にとっての本題を扱っているのかも、とか。女性として、どう生きるのか、その選択の幅がものすごく狭い中での、ひとつの終わらせ方。とはいえ、その終りも中途半端なままのようで。すべてを「夢」に拡散するほか、ないとか……。
これで『源氏』は一休み。いずれ、3回目を読み始めるだろうけれど、今は別の作品『夜の寝覚』を読もうと思う。『源氏物語』中、「宇治十帖」と深い内的つながりを持つとかいうお話らしく。
お風呂リフォームも、ほぼ終わり。ただ、肝心の湯舟への給水湯用のカランが付いていないので、まだ入浴はできない。明日を待つのみ。ユニットバスになって、一回り小さな浴室となったけれど。
小冊子の秋号が完成。ネットの印刷サイトから出来上がりが送られてきて、さっそく発送準備。部数は多くないので、今日中には郵便局に持参して、送り出す。
衆議院解散。昔の自民党は評価すべき部分も多かったけれど、安倍以降の自民党は個人的には〇〇としか思えない。衆議院も保革伯仲状態(どれが「保」で、どれが「革」かわかりにくいけれど)になって、初めてちょっとまともな状態になりそうだ。とはいえ、中途半端な自公の議席減であれば、コウモリ政党の維新が、第二の公明党の椅子を狙ってちょっかい出してくることだろう。維新は、個人的には超低評価の政党(元のN党の方が、害がない分マシかも、などと)。
NHKの朝の連続ドラマ。「おかえりモネ」。
毎日、見ている。
東日本大震災によって、深い心の傷を負った人たちの、その痛みを繊細に描いだドラマで、
いくつもの胸に沁みるシーンなどもあって、習慣的にということではなくて見ている。
けれど、最近はちょっと見るのがシンドクなってもいる。
痛みの繊細な描写が、こちらの心の負担になってきているような気がするからだ。
まして、その前のドラマが、「マーねーちゃん」で、かなり楽天的でちょっと能天気な
ところもある、面白楽しいお話である分、その落差に少々疲れてしまう。
主人公モネの常に口ごもったようなしゃべりかたも、そのおかれた心境の反映とは思う
けれど、時になぜかちょっとイラッとしてしまう時すらあるのは、なぜなのだろう。
ひとつの救いは、モネの同級生でお寺の跡継ぎを選んだ三生。最初は、浮ついたお調子
者的なキャラとして登場するけれど、次第にいい味を発揮してきて、ある意味登場人物
の中で、とてもふくらみのあるキャラに成長してきて、この子は良いな、などと思って
しまう。
モネのお話の背景は、コロナ禍以前の社会状況の反映の中で描かれていて、この物語に
続く世界が、日本中(いうまでもなく、世界中なんだけれど)を巻き込んだコロナの世
界で、日本人全体が大きな不安と恐怖と苦痛の中で日々を過ごすことになる。もちろん、
架空の世界とはいえ、モネたちもまた、再びの不安と苦痛の中を生きていくことになり、
その想像の中で、初めてモネたちの味わっている思いが、今現在の僕たちの心情とシン
クロしていくことになるのだろう。共感や、苛立ちも、その反映なのかも……。
そして、改めてすでに終わってしまったオリ・パラという別次元の祝祭空間のことが、
ちょっと思い出されたりもする。
オリパラのどこに、東日本大震災でもたらされた不安と苦痛に対する共感が存在したの
だろうか?コロナ禍に対する、モルヒネ的効果は認めるとしても。
すでに忘れようとし、あるいは忘れ去られたものを、再び問い直そうとするこの連続
ドラマ、どうなのだろうか……?
荻原慎一郎歌集『滑走路』を読む。荻原は、32歳で夭折した歌人。第一歌集が、遺歌集となった。素直で純粋な魂の持ち主、という印象。作品も、そんな作者のありようを映し出しているような気がする。作者の最良の歌とはいえないかもしれないけれど、読み始めた頃、ふっと心ひかれた一首。「葡萄狩しているわれらこの手もて『過程』をしらず『成果』もぎとる」。ちょっと理屈っぽい感じをうける人もいるかもとも思うけれど、個人的には『成果』を意識しつつ、『過程』に心をやる作者の姿に、この人の健全な批評精神や、本質的な優しさ、豊かさをふと感じてしまった。歌集の最初の方にある歌で、おそらく作者の20代前半のころの作か、などと思う。読了して、とても印象深い歌集だった。
『源氏物語』を再読し始めて数か月、とうとう「手習」の巻も終わりに近づき、明日にも全五十四帖の最終の「夢の浮橋」の巻にはいりそうだ。ほぼ毎日、数ページずつを読み進めて数か月、読むことがなんとなく『源氏』の物語世界を旅でもして巡ってきたような印象が強い。まもなく、その旅も終着点かと思うと、ちょっと感慨深いものがある。
10月に入る。大型台風は、すでに日本近海を離れたらしい。地元は、台風の進路から遠く離れていたせいか、特に何もない、というより、秋にしては蒸し暑いままに昨日が終わった。今日も朝から快晴。気温は高い。犬を連れての朝の散歩のとき、地元の名山が青くかすんで見えていたりした。
散歩後は、自分の「歩き」。今日は、2キロ弱のジョギングを交える。先日の歌のレッスンでも注意されたように、「歌は体力」ということで、少し体に負荷をかけることにしている。歌のレッスンは、発声1時間でも相当シンドイ。全身運動の感触(日頃の運動量の少なさのせいもあろうが……)がある。指導の先生は、ソプラノの歌い手で、イタリア留学の経験もある方。本格的な指導にまるで追いつけず、気長く練習を重ねましょうねと励ましの言葉をいただきつつレッスンを受ける。目標は、バリトンとしての声域が、それなりに歌唱の声として出るようになること。もともと自分の声はバスと思っていたのだが、バリトンとして練習をした方が良い、との判断があったみたいだ。ともかく、呼吸が弱い、と繰り返し注意を受ける。しんどい。
呼吸法を通じて(それがすべてではないらしいが)、声帯そのものの持つある種単調な響きは、歌う声としての響きや広がりを持つらしい。難しいけれど……。
県の俳句協会の仕事の手助けを依頼されて、ヘルプで出かけて行って、その機会にあらたに一つ地元の句会に誘われた。少人数ではあるけれど、結社会員と無所属の人との集まり。早速、参加してみた。初めて参加したから、というだけでなく、面白い作品がいくつもあって、新鮮な感動を受けた。コロナ禍が、まだ落ち着いたという状況ではないけれど、新たにひとつ集りに参加することにした。少しずつ、行動の幅を広げたい、との思いがある。