日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし
た。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。 独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さい。 |
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今年も最後の日を迎えた。昨夜来の雪が、路面までを白くしている。積雪は数センチほどだろうけれど、ひとしお寒々とした印象をもたらすのは、なぜだろうか、と思う。同じ蜘蛛であっても、夜の蜘蛛は不吉、朝の蜘蛛は縁起が良いなどと言う。年明けの降雨・降雪は豊年の予祝として縁起が良いものだけれど、大みそかの雪は、どうなのだろうか、などと思う。今年一年の出来事を、すべて覆い隠し、包み隠しての雪と思ったら、少しは慰めにもなるのかもしれない。白には、浄化の効用もあることだし……。
元々は雪国。豪雪は御免蒙りたいけれど、10センチくらい積もって、世界中がふわりと新雪に包まれるということであれば、雪の昼間も、雪の夜も美観的に悪くはないなどと、感傷的に思ってもみたりするけれど。とはいえ、窓の外を見ながら、雪が冷たい物、濡れるものと学習した実家の犬は、今日の散歩をあきらめているだろう。昨日のうちに、ドックランでいつもお世話になっているご近所さんと短時間じゃれ合うことができてラッキーだったなどと、犬なりに考えていることか……。
今年最後の「犬俳句10句」。
「冬に入る犬の毛なみも整ひて」「しばらくは山茶花の道散歩道」「冬草をしきりに犬の嗅ぐばかり」「霜除に近づく犬を制しをり」
「綿虫や犬とそぞろに野を行けば」「十二月犬の誕生月なると」「初雪や散歩の犬を抱き上げて」「冬構しきりに犬の出たがりて」
「犬停めて立派な雪吊を見上げ」「ポインセチアお洒落な犬を飼ふ家の」
それでは、よいお年を。
ジョギングを再開してから、三か月ほど経過。再開と言っても、ブランクの期間が数十年というレベルではあるのだが。当時は、時間があれば、普通に10キロ、少し頑張って20キロくらいを走っていたのだけれど、いろいろ時間が詰まり始めたり、体力の関係もあったりして、「走り」を「歩き」に切り替えることになっていたのだった。それが、最近月一で歌唱指導を受けるようになって、「運動しなさい」という厳命のもとに、ちょっとずつ「歩き」の合間に「走り」をさしはさむことになった。歌うには、筋力と体力が必要である、ということを痛感したことが大きい。1.5キロから始めて、2キロ、3キロと距離を伸ばし、現在は4キロ。これを上限としている。昔に比べて、1キロを走る時間が2分くらい違っているのが、ちょっとびっくりだけれど、別にタイムを気に掛けるというわけでもないのでこれでいいかな、とも思う。腕時計が、距離や心拍数を表示してくれるので、こまめに確認しつつ無理せんとこと思って、走る。
その結果、夕方4キロ走った日は、やった感が強くて、もうそれ以上何もする気にならない、という困った状態になりつつある。お酒飲んで、さっさと寝てしまおう、という感じだ。夜の時間帯をもう少し有効に使ったら、という思いもないわけではないけれど、まあいいかとの思いも強い。
眠る際には、最近はユーチューブでクラシックを聴きっぱなしにして寝る。聴いているうちに、真剣になってかえって目が冴えることもあるのだが、おおむね途中で寝入ってしまって、そのままということが多い。イヤホンで聞いていたのだけれど、どうやらこれは耳の健康上好ましくないらしいと知った。気を付けねば……。
近年まれな強力寒波襲来ということで、どうなることかと思っていたけれど、幸い昨夜からの雪は10センチほど積もっただけで事なきをえた。強烈な寒波、という割に雪は湿雪で、水分を含んで重たく、庭木などにはうれしくないものだった。これで一段落か、といえば、どうやらそうでもなくて、午後から夕方にかけて「線状降雪帯」が出現するらしく、本格的に降るとしたらこれからということになりそうだ。夜、カーポートの屋根の雪下ろしをするような破目にならないことを祈りたい。
今年最後の地元句会に参加し、年賀状は出し終え、あとは投句と文章を送って、今年のやるべきことはほぼ終了ということになる。大掃除があるけれど、天候が不順でもあり、中掃除か小掃除くらいで今年は済ませようか。あるいは、もう換気扇掃除だけで、良しとしようか……。ふりしきる雪を見、風音を聞きつつ、切にそう思う。
外国の詩の翻訳の現場がどうなっているのか、私は知らないけれど、ただ、翻訳された作品を読んでいると、日本語の作品として読んだ場合に、多少の違和感を感じることはある。それは当然そうなるのだろうけれど、ただ程度問題はあって、時には原文の一語一句をなんとか厳密に日本語に置きかえて表現することに、ずいぶん意を用いて苦労しておられるな、とつい思ってしまったりする時がある。今読んでいる、某韓国詩人のとても浪漫的な詩集も、そんな翻訳作品のひとつで、それが散文ではなく、韻文であるというせいか、時には日本語としては意味がとれないと感じさせる部分や、助詞の用い方がこれで良いのかと思わされるところがあって、ちょっと困惑してしまう。
昔、ミステリー作品の翻訳に「超訳」と銘打って、おそらく翻訳者による意訳的な要素の強いものなどが本文を厳正に生かすものとはかなり方向が違うものがあったりしたようだけれど、娯楽性を強調するのとはちょっと方向が異なるかもしれない(読む側としては、享受するという点では同質に近いと思うけれど)文学作品について、原文に厳密・厳正であることと、翻訳者のセンスを生かして、時に感動や共感、理解の側面を生かしたりするというようなことがゆるされないのか、などと少々考えてしまう。というのか、翻訳者自身の感性やセンスというものが、他言語翻訳に際して、どの程度生かされるのか、そうではないのか、そもそもわからない。
もちろん、翻訳者のセンス自体が、読む側の感性に合う合わないということはあるにしても……。ただ、個人的には、翻訳としての正確さよりも、文芸としての味わいや豊かさを少しでも印象深く感じさせてくれるもののほうが、断然うれしい。
「負けるが、勝ち」誰かさんも言っていたけれど、森友に関わる赤木さんの裁判、国側は非を認めて、全額賠償金を税金で支払って、結審をはかる。これで、この裁判は終了。裁判を通じて、赤木氏の死の真相に迫ろうとした奥様の思いは、この姑息なやり方で扉を閉ざされた。直接・間接の加害者たちは、自らの懐を痛めることもなく、なんの処罰もなく、これ以上事の真相が明らかにならずに済むことに、ほくそ笑んでいることだろう。今の日本とは、こんな国なのだな、と思う。ことが収束したとして、これを契機に赤木さんに対するゆがんだバッシングが強まらないことを祈る。
今は、雨。しかし、明日の遅くには、これが雪にかわりそうだ。本格的な冬が始まる。温暖化は、単に気温が高くなって暖まるというような単純なものではなく、気候の異常というのか、過剰な変化をもたらすらしい。「より暑く、より寒く、より強く」。なんとなく一回目の東京オリンピックの賛歌の歌詞みたいなことが、気象の世界に実現するとしたら、とても喜ばしいこととはいえないようだ。
ユーチューブで「海鳴りのとき」という自主製作の怪獣映画を見た。熱海の大会で優勝したそうだけれど、その完成度に本当にびっくりした。これが、自主製作映画、しかも手間暇のかかるだろう「怪獣」映画とは。すごい若者たちがいるものだと思った。新しいものだけではなく、実写やアニメの作品のエッセンスのようなものを広く取り込んで、作品化しているような印象を持つ。すごい!
ふたご座流星群がほどなく極大日を迎えようというのに、地元は無情にも冷たい雨。今晩は、降り続きそうだ。極大の日は明日の夕方らしいけれど、なんとか天気の回復を期待したい。今夜は、やむなくテレビの大画面にユーチューブのライブ画像を流して、鑑賞。ハワイのマウナケア山頂部のスバル天文台からのライブ配信を見る。ほぼ快晴の星空に時折流れる星の輝きに、なんとなく胸をときめかせてしまう。時間をおかずの出現に、たしかに今年最終最大の天文ショーを実感する。
明日深夜の天候回復を期待したい。やはり、眼前に星の流れさまを見てみたいものだ。
鼻の下に二筋の傷跡。飼い犬の牙がかすったのだけれど、出血が止まらなくて、病院にまでいくことになる。犬がお気に入りのおもちゃをしっかりとくわえ込み過ぎて、とれなくなってしまった。馬鹿だなと言いながら、甥と二人でかなり強引におもちゃを取ろうとしたはずみで、犬の体を支えていた私の顔を、口を開けたままの犬の牙がかすめたのだ。さいわい、おもちゃは無事取れて、犬のあごも歯も問題はなかったのだけれど、牙がかすめたところが二筋、出血。水道水で洗い、ガーゼでおさえつつ、病院へ。こちらも幸い裂けるというほどの状態ではなくて、消毒をして、ガーゼでカバーし、ばんそうこうで固定して、それで治療は終了。その状態で、がーざ交換しつつ清潔にしておけば大丈夫とのこと。鼻の下に、ガーゼーがちょび髭のようだ。やむなく、マスクの下に隠す。
帰宅して、犬と対面。こちらの顔を見上げつつ、なんとも申し訳なさそうな表情を浮かべているので、大丈夫だと頭をなでてやる。
明日は、人間ドックの日。少々鬱陶しい。けれど、ドックで大きな病気が見つかり、命拾いをしたり、生活習慣を意識するようになったりしたので、毎年律儀に受診している。帰郷後は、近所の係りつけ医で受診できるので、その点は心安くもある。あれこれ病気持ちであることは、もう仕方のないことなので、現状維持であれば良し、と考える。ちょっと改善していれば、それに越したことはないけれども……。それにしても、胃の内視鏡検査は困る。口を通す方式から、鼻を通す方式に変わって、ずいぶん楽にはなったけれど。軽い麻酔をかけて、うつらうつら状態で検査を行うところもあるらしいが、さすがにそこまではしなくても、と思う。
などと書いているうちに、当日になってしまった。朝食抜きで水二杯をのんで病院へ。一番に受け付けられたせいか、検査はとんとん進み、内視鏡検査が終わったのは、例年にくらべ1時間も早い。ちゃんとした結果は後日郵送とのこと。ただ、胃腸の状態がいまひとつで、しばらく薬を飲むはめになった。その程度であれば、良しとする。ついでに、インフルエンザの予防注射もうっておく。今年は流行するかもしれない、とのことなので、念のため。
なにはともあれ、今年の大きな行事はこれで終了。あとは、静かに年末をむかえようという体制になる。
今冬は、豪雪のおそれありということなので、スノータイヤへの交換は急いですませねば、と思う。
なにはともあれ、穏やかな一日となりそうだ。
和室にこたつを出す。例年の冬を迎える準備の一つ。和机サイズのこたつなので、ひとりで入るにはずいぶんと大きくはあるのだが、やがて座面にいろいろ必要物がならぶことになるだろうから、その広さは気にならない。ちょっとお試しに電源を入れて、座椅子に身をいれると、もうしばらくは出たくはない、という気分になる。我が家の暖房の主力はエアコンなのだが、唯一和室はエアコンとこたつの二つが、冬の間常備されることになるので、ほぼ最強に近い状態となる。冬の準備完了、と心強いけれど、ただ一点、停電になったときだけは悲惨なことになりそうではある(今年は、ラニーニャ現象で、降雪が多いらしいし、数年前のように大雪のため近所の送電鉄塔が倒壊するなどという惨事が起これば打つ手はない。小さな石油ストーブも準備したほうが良いのだろうか……。)。
本日は、午後からちょっと小春日和風の陽気。遅い時間になって寒くなる前に、昨日トリミングして毛が短くなって、一回りも小さくなった犬を連れて散歩に出かけた方が良いかも、と思う。
コロナの変異種が取りざたされ始めているけれど、日常は不思議に平穏な感じで推移しているようだ。地元も感染者ゼロとい日が続き、習慣的にマスクをしていはいるけれど、それほど切迫した思いでマスクを着けているわけではない。今年の年末は、それなりに落ち着いた日々を過ごせるのだろうか、などとばくぜんと思ったりもしている。第六波の襲来など、実感に乏しいような……。などと書き付けてみて、さて実際のところはどう推移するのだろうか、という点について、はっきりとした予想も想像もどこか抜け落ちているような内心の感触。先の見通しが曖昧模糊、という感じ。漠然とした危機感や危惧の思いが、薄い霧のように流れ漂っているような……。それよりも、ここ数日頻繁に起こる太平洋側の各地の地震の方が気がかり、などとも。和歌山の進度5弱の地震は、1分ほどの時間差で地元にもあきらかな揺れとして伝わってきたりしたことだし。南海プレートがらみの巨大地震の方が、本当に大丈夫なのだろうかと気になってしまったりする。
昨日は歌のレッスン。ひと月に一度、個別指導をしていただく。発声の基礎の部分からみっちり教えていただく。もともと声帯がバス向きではなく、テノール向きのものらしくて(知らなかった!)、当然声質もバスではない、ということが、なかなか悩ましい。今から再訓練をしても、テノールに変わることは困難で、バリトンとしても声質が薄い、という中途半端な地点で、さてどこいら辺りに着地点を設定するのか、ということのようだ。もちろんアマチュアなので、適当に歌を楽しめばそれでよいのだろうけれど、合唱したり、一人で歌ったりして音楽を楽しむにしても、自分の立ち位置を確かめつつ、歌につながる方が、ずっと楽しいことは明らかなので。
間もなく、時間になる。本日は、実家の犬のトリミングの日。わざわざ来ていただいてのことになるのだが、犬をなだめつ、すかしつの作業は、犬にとっても、人間にとっても一仕事。その手助けとして、出かけることになる。
山に降った雪が、もう融けなくなっているようだ。このまま、降り積もっていくことになるのだろう。下界は、冷たい雨が降っている。12月に入った。日差す瞬間はまだ温かいけれど、曇ると寒い。風が吹くと、震えるほどの寒さになる。
喪中欠礼の葉書が、今年も届き始めている。さすがに、友人・知人の訃報は届かないけれど、歳が詰まっていく実感はある。歳が詰まるというだけではなく、自分自身の時間もまたこんなふうにしてじわじわと押し詰められていくことになるのかも、などと感慨にふける。
知人が、俳誌を創刊させた。その「創刊号」を送っていただく。小冊子という体裁ではあるけれど、俳句作品、鑑賞、エッセイなどが掲載されてある。結社誌とは別に、自分自身の活動の場をこうやって作っていかれようとしているのだと思う。誌名は『像』という。
葉書俳句を送ってくださる方もある。二人で協力して、俳句一枚にひとり五句ずつの作品が掲載されてある。Mさんの一句。「家を売るはなしの途中焼芋屋」。Tさんの一句。「嫋やかや焼芋入の紙袋」。「焼芋」が共通の課題。なお、「嫋やか」は「たおやか」と読む。面白い。