日々録
日記のようなものを書いてみようかな、と思いました。             
備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、という事です。
独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さい。

         
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【22年4月29日】
春疾風というには、ずいぶんな強風と強雨だ。せっかくのツツジやハナミズキを散らせる、「花散らし」の天候となってしまった。ツツジについては、病害虫の被害があっての今年の開花で、思った以上の花数に、ツツジも頑張っているとおもうので、この無情の雨風は、実に腹立たしい。
今日は、終日この天気で、外出もままならないので、一日家籠り生活となる。ぽかっと間が空いたような一日なので、どうしたものかと思う。
陽気が良くなったら、山にも行きたいものだと思っていたせいか、今朝の夢には登山が出てきた。大学時代のサークル仲間たちと山にでかけるということで、出発前、駅でうろうろしているような夢。夢であることにまかせて、大きなザックをふたつも、背負ったり、抱えたりしてコンコースをうろつく自分の姿が、目覚めてみるとそれなりに懐かしい(現実の場面では一度もそんなことはなかったけれども……)。
北海道の海難事故の記者会見をテレビで見つつ、ずいぶん昔の「ホテルニュージャパン」の大火災で、蝶ネクタイ姿(のような印象が残るが)の社長の記者会見の姿をふと思い出したりしたのはなぜだろうか……。


【22年4月28日】
依然としてコロナ禍の下とはいえ、このところ会合に出たり、人と合ったり、という機会が急に増えたようで、毎日があわただしい。気が付けば、もう28日だったりする。今日も、午前中に1件、午後に1件と用事がつながっている。その間に、犬を散歩につれていったり、実家の用事を済ましたり、ということで、なかなかせわしい。コロナ感染には十分注意しつつも、動きのある毎日は、悪くないなと思う。
依頼されていた文章はしばらく前に書き終え、追加部分は、文字通り「蛇足」として、校正段階で処理することとなった。予定になかったことだけれど、もう1回、「蛇足」ではなく、書いてみないかと言われ、思案の最中。期間は、数か月の余裕があるとのことなので、どうしたものかと迷う。ちょうど、西脇順三郎の『詩学』を読んでいるところで、あるいは使えるかもしれない、などとも思いつつあるが。書くことは楽しいけれど、それなりのプレッシャーはある。ちょうど、季刊の小冊子の次の予定も、重なる部分があるし、どうしたものかと思う。
今日は、快晴。ただし、黄砂のせいで、空は薄絹がかかっているよう。風も強い。庭のつつじが、徐々に満開に近づきつつある。ラインで写真などを流したりもしつつ、満開の時を待つ。咲き終われば、今年は大胆な剪定を実行しよう(と思いつつ、毎年なかなか実行しきれないのだが……)。
居間に、観葉植物が1種類増えた。玄関にも、ひとつ置きたいが、ある程度丈高い植物が欲しいけれど、適当なものが見つからないことと、採光がちょっと悪くて、それも問題。


【22年4月22日】
牛丼の「吉野家」ってのは、カタギの職場ではなくて、ヤクザのシノギの場なのか、と一瞬思ってしまった。「生娘シャブ漬」発言。裏版「流行語大賞」みたいなものがあれば、今年度の大賞候補かも。日本は、本当に後進国なのだな、としみじみ思う。
縄文時代の東北地方に、文化的社会的な豊かさをみた司馬遼太郎。明治天皇の玄孫の文筆家は、日本は神代の時代から、話し合いによって権力移譲を成し遂げた、進んだ国と講演したとか。国譲り神話では、話し合いの末、大国主は天孫系の神に支配権を委譲したけれど、その後彼は殺されて(自害かもしれないが……)、祟り封じに神として祭られたのではなかったか?話し合いの末、本人納得の上の死であったかもしれないけれど。しかし、現代におけるひとつの権力移譲の形態としては、とうてい認められないもののようにも思われるのだけれど。もちろん、一方的な武力の行使によって、ひとつの国家の主権を簒奪しようとする狂王など、問題外ではあるけれど。
ドイツのある動物園に人気者の猪がいたそうだ。名前を「プーチン」と言う。最近、ドイツ風の名前に改名されたそうだ。巨大な侵略戦争の、小さな余波のひとつ。


【22年4月15日】
こたつをしまわなくて正解。今日は、肌寒いくらい。上着を一枚、重ね着する。読書も、こたつにもぐりこんで。つい、うとうとしたりもしたけれど。
本日は、月1の歌唱レッスン。11時から2時過ぎまで。歌ったり、話したり、ちょっとお茶をのんだり、というスローペースなレッスンとなる。「第九」の申し込みが迫っているので、バースパートで申し込みをすることにする。喉は大切に、と改めて助言を受ける。
居間に観葉植物を置いた。初心者向きというポトス。樹丈は80センチくらい。斑が結構きれいだ。室内に、緑があることが、ずいぶん落ち着いた雰囲気をつくるということに改めて気づかされる。出窓には、「金のなる木」と、「楊梅」で種から育てたものを並べ置く。「楊梅」は、庭で幹が腐って倒れる寸前のものから、かろうじて結実した実から種を取り、育てたもの。2年目。1年目は、植木鉢に植えたものと、庭の地面に直接植えたものとの2種類。植木鉢の方は、半分失敗して、2本だけ残ったものが、今春になって、枝葉を伸ばし始めた。庭の3本は、こちらもなんとか葉をつける。いずれも冬の間は、1本の棒のようであったものが、あたたかくなって、緑の葉をつけ始めた時は、新鮮な驚きがあった。このまま、棒状に枯れてしまうかとも、半分ぐらいの割合で思っていたので。植物は、タフだと思う。2階の出窓にも、「金のなる木」と「楊梅」を同じように並べ置く。昼過ぎまで、小雨がち。夕方、天気が落ち着いたようなので、トイレに犬を連れだす。走って出かけ、走って帰る。脚が汚れたので、そこだけシャワーする。夕食は、がつがつ食べる犬。
レッスンの関係で、昼食が遅くなり、人間の方は、浅酌のみの夕食となる。一休みして、こたつで読書の続き。


【22年4月12日】
うかうかと日を過ごしているせいであろうか。気が付けば、もう12日ではないか。
ここ数日、暑い。最高気温は夏日に近い、そんな日が続く。日中は、長袖から半袖へと着衣を着替える(夕方になると、長袖へ)。こたつも、そろそろ片付ける頃か。「春炬燵」という季語はあるが、さすがにもう春寒の日もあるまい。とはいえ、こたつへ「もぐりこむ」「くるまれる」という感覚は、なかなか捨てがたい。中に入って、暑いと感じる時期まで、もう少しこのままにしておこうか、などと思う。机としても重宝で、いろいろ積み置くにも便利ではあるし……。

「街騒を遠くへだてて春炬燵」などという呑気な気分には、さすがにならないとしても、個々人の思いではとうてい解決のつかない問題の多さと大きさとを思ってしまうことだ。


【22年4月7日】
久しぶりに、5キロのジョギング。3〜4キロがいつのも距離なので、ちょっと頑張ったかな、というところ。気温がさほど高くなくて、体調もそこそこで、結構楽々で走ることができてよかった。昔は、坂道を選んで走ったり、平日10キロ走、休日は20キロ走などしていたこともあったので、それはもう無理としても、この先もう少し走る距離を延ばす、という可能性も思ったりしたものだ。突然の心筋梗塞などには、注意しなければならないけれど……。
昨夜は、ふと思い立って、昨年購入した登山靴に合うように、雪山用のアイゼンを調整してみる。今年はもう無理だけれど、来年あたり、地元の山の残雪期の登山に挑戦してみたいものだと思ったりしている。とはいえ、地元の山はしばらく前に、滑落事故で登山者が2名転落死したりしているので、呑気に登れる山でもないということを、改めて肝に銘じたところではあるのだけれど。滑落した場所は、剥き出しの急斜面で、春とはいえ、快晴による放射冷却でアイスバーンになっていれば、冬山装備であっても、滑落する可能性はあり、不幸にして北側斜面に落ちると、一気に数百メートルは墜落するような場所なので、一層恐ろしい。遭難された二人も、もちろん初心者などではなく、きちんと装備も身に着けた上での事故であったようだ。そういえば、昔々、冬季、一人で登山に出かけ、下り斜面でついアイゼンの爪をスパッツにひっかけて、雪の中に一回転したことがあった。樹林帯だったので、こけたという程度で済んだけれど、場所によってはヤバかったかもしれない、と思う。
文章。一応、書き終えた。問題はこれからで、毎日読み直しつつ、少しずつ手直しをしてゆかなければならない。それが、作業の分量の割には疲れる。午前中を、その作業にあてることにしているのだけれど、ちょっと直しては、わずかばかりの芝生の手入れをしたり、ちょっと直しては、実家に行って犬と戯れたり、ともかく神経が疲れる。
アマゾンに注文していた『イタリア歌曲集2』が届く。その中の1曲が、今後のレッスンの練習曲となる。ろくに歌詞は読めないし、自宅には音を出せるものはなにもないので、どんな曲なのかも細かい部分はよくわからない。ユーチューブで、歌唱された動画を見たりもするのだけれど、なんともおぼつかない。

【22年4月6日】
うかうかしていると、時間はどんどん過ぎていく。さほどかわりばえしない毎日であるだけに、つい時間の経過に対して、無頓着になってしまうのだろうか。
とはいえ、少しずつ毎日の動きに変化は生まれているわけで、ちょっとばたついたり、行動したり、という機会が増えているのもまた確か。コロナは第七派的な様相をみせつつあるけれど、それはそれとして、動けるときには動いておこうという気分が醸成されているようには思う。
4月締め切りの文章は、毎日少しずつ書き足すという形で進んでる。書いているうちに、ちょっと方向がおかしなことになってきてはいるけれど、とりあえず、行くところまで行ってみようと思う。
ネット歌仙の方も、準備は終わり、まもなく再開することになる。季刊の小冊子へ掲載するつもりということで、こちらも一定の速度感で、進めていく必要がありそうだ。
それにしても、日中、眠くて仕方ない時がある。春眠なんとかというけれど、朝が早くなってきて、その分起床時間も早まってきているせいなのだろうか。外が明るくなってくると、もう寝る気がしなくなってくるので、やむを得ないことなのかもしれないけれど……。
今朝の夢。ホラーやファンタジー要素満載の夢。もしかすると、今まで見てきた夢の中で、記憶に残るものとして一番だったかもしれない、と目を覚ましてから思う。まあ、とにかく、映画ならもう一度見てみたいと思えるような、豪勢な夢だった。現実よりも、寝ていて見る夢の方が面白い、などというのは、あまり健全な事ではないかもしれないが。

【22年4月2日】
新年度、という感覚は、いまだに自分の中に残っているようだ。新年とは別に、また新たな時が始まる、という感触が、自分の中に生まれてくるのを感じる。
依然として、先の見通しのたたないコロナ禍の渦中とはいえ、今年度の合唱の取り組みがはじまった。年末に向けての「第九」の準備。今回も、実行委員会のメンバーの一人として活動することになるのだろうと、思う。というのか、すでに実務は始まっていて、今日も午前中は事務所に詰めて、郵送物の準備作業などにあたったりしていた。コロナ禍以前に、外部と接触することがずいぶん少なくなっている我が身としては、このような機会も気分転換として、有効であることを改めて実感する。感染に注意しつつも、外部的な活動を少しずつ再開する必要性を感じてもいる。とはいえ、世の中は、再び感染が拡大しつつあるような気配もあって、気がかりではあるが。
関西の某同人誌に連続して載せていただいている文章も、今回で第4回目。4月末日を締め切りとして、その分の原稿を書く必要がある。そちらの方の準備と原稿書きとが、とりあえず4月の活動の中心になるということでもある。さて、期限を守ってちゃんと書き上げられるのだろうか、という気がかりも自分に負いかぶさってくる。落ち着かない四月である(楽しい、といえば、楽しいのではあるが……)。
先日は、小さな催しの余興的な感じで、初めて独唱する機会を得た。合唱の経験は数十年分あるのだけれど、独唱は初めてで、さすがに緊張していたようで、一瞬イタリア語の歌詞が飛んだりするハプニングもあった。とはいえ、なかなか刺激的な経験ではあった。本格的な歌唱指導を個人的に受けるようになって、最初の経験で、ともかく「歌ってみた」というところであろうか。合唱のために個人的に歌唱力のレベルアップを、ということがスタートにあったけれど、さてどうなっていくことだろうか、と思う。
いろいろ始まりそうな四月であることだ。