日々録
日記のようなものを書いてみようかな、と思いました。             
備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、という事です。
独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さい。

         
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【22年5月31日】
郷里にUターンする少し前から、家計簿をきっちりとつけ始めた。手軽で操作性の良い家計簿ソフトのおかげでもあるけれど、その結果、現在に至るまで、金銭出納に関しては、きっちりと管理ができていると思う。そのうえでのことだけれど、最近よく言われているように、諸物価高騰で、日々の買い物についても、以前の感覚では齟齬をきたすような現実を、買い物のたびごとに感じるようになっている。その結果、年度当初、食費はこの程度という例年の予算額を前提とした想定金額を毎月超過することになってしまい、そもそもの予算設定を変更するはめになっている。あまり愉快ではない。とはいえ、食生活は、健康管理と直結する問題なので、修正を余儀なくされているという状態だ。
それにしても、たとえば某メーカーの6ピーチーズ。価格据え置きで、その分明らかに1ピースの大きさが目に見えて小さくなっていたのが、気のせいか、数十円の値上げの後、その大きさが以前の大きさに近いものに戻ったような気がする。食べ応えという点からは、数十円の値上げを気分的にカバーするような変化だったりするような気がするのだ。なんとなく、どこかで上手にごまかされているような気がしないでもないけれど、それなりに満足感を感じてしまうところが、微妙なところだったりする……。
ただ、少なくとも平時とは違う状況の中に、自分自身も間接的には置かれているのだ、という思いがどこかにある。「欲しがりません、勝つまでは」的な感覚は、御免蒙りたいけれど、この状況を腹立ちとともに、しかしやむなく受け止める必要があるのだろう、という思いもある。腹立たしいけれど……。
5月も、今日で終わりだ。


【22年5月27日】
昨日の昼前のこと。部屋で、本を読んでいると、突然の来訪者。玄関に出て応対すると、作業員風の中年の男。前を通りかかったとき、お宅の屋根の苔がひどい状態なので、お邪魔しました、という。屋根の苔がひどい……? この男、何を言っているのかと思ったが、すぐにこれが訪問詐欺だと気が付いた。屋根に苔がひどい、ということがいかにも大嘘であることが即座に判断できたからだ。こちらは、自宅のメンテなど含めて結構細かに注意を払っているのだ。うちは結構です、とやんわりと断ると、男は不満そうな表情を一瞬浮かべたけれど、どうもと言って帰っていった。どうやら、近所を訪問して歩いているような気配なので、とりあえず、数軒先の実家へと注意をしに行く。その時は、母がひとりだったので、先ほどのことを知らせて、絶対対応に出ないようにと伝えておく。外にでて、自宅に帰ろうとすると、例の男が遠くの四つ角を曲がって、こちらの方にやってくるのを見つけた。やはり、近所を歩いて回っているようだ。一度、急いで自宅に帰り、少し間をおいて、近所の区長の家へ、先ほどの事や、うろついている男のことを、とりあえず連絡に行く。区長のところに行くと、在宅だったので、話す。すると区長が、その男らしい者が、1週間ほど前に自分のところにもやって来た、という。軒下のモルタル部分が、剥げていると言って、修理の事を口にしたらしい。区長は、まだ修繕するほどではない、と言って男を返したそうだ。この地域は、昔の新興住宅地で、現在まで長く住んでいる人が大半で、その分年齢的にも高齢者の割合が高く、その在宅の高齢者を狙っての詐欺行為と思われて、注意した方がいい、などと話をして、区長は念のため近所を自転車で見てまわると、外に出て準備を始めた。こちらは、そのまま自宅へ引き返すことにした。すると、近所の公演脇の道路を、例の男が歩いている姿をまた見つけて、そしらぬふりをして自宅へ向かった。
近所は、時季的にも梅雨を前にしてなのか、自宅の修繕をしている家が何軒かあり、そんな様子も見て、在宅の家にあたりをつけて歩きまわっているようだ。実際に犯罪的な行為が行われているわけではないので、個人的に警察に連絡するわけにもいかず、そのままになってしまっているけれど、なんとも鬱陶しいことだ。


【22年5月24日】
昨夜は、「第九」バスパートのレッスン。現在総勢5名ということで、なかなか厳しい状況。「第九」という大曲を、全体60名足らずで、オケ付きで歌うということは、専門的な訓練を受けた合唱団でもなければ、とても厳しい条件ではある。でもまあ、やるしかないので、再度コロナ禍が猛威をふるうことでもなければ、11月には本番の舞台に立つことになる。自分的には、月一で個人レッスンを受けて以来、高音のファ音(バスとしてはずいぶん高い音だけれど)が喉に負荷をかけることが少ない状態で出るようになっているので、練習も楽しいものになりつつある。現在までの「第九」遍歴の中で、最悪口パク状態(歌っているふりだけ)の時もあったことを思えば、進歩だなあと思う。合唱全体は、15分程度の長さで、バスパートの5人はいずれも経験者ということで、どんどん練習は進んでいる。3回の練習で、全体のおさらいを終了する予定のようだ。アルト、テノールには、全く初めての人も含まれているので、このペースは厳しいだろうなと思う。
誤って振り込まれた4000万円超の使い込み事件は、結局大半を取り戻すことができたらしい。すべて使ってしまったという容疑者の発言の信ぴょう性も、あらためて怪しいものになってしまったようだ。ただ、主にワイドショーが連日面白ネタとして、微に入り細に渡り報道する中で、かなりの不快感をともなう最初のインパクトが薄れるにつれて、実は世の中によくある横領事件の変種のひとつという風に、個人的には印象が変わっていってしまったみたいだった。間もなく、このネタもワイドショーから消えるだろうけれど、ずいぶん膨大な時間がこのネタのために消費されたことだろう。
吉本隆明の文言評論集『際限のない詩魂』を読み始める。その一編。高村光太郎について。西洋に留学し、西洋的な知識や教養を身につけ、自らの思想や生活を律する一つの指針・支えとして生きようとした光太郎が、結局は天皇制を礼賛し、戦争を賛美するという形で、それまで自身に築きあげてきた西洋的なものを崩壊させていく。その過程の中で、単に冷徹な時代状況が光太郎にその崩壊をもたらしたというだけでなく、そもそもの日本人の精神的風土とでもいうものがその崩壊の根底にあった、妙な言い方をすると、後天的に身につけたものが、先天的に内部に存在したものと、その対立・葛藤の過程の果てに、先天的なものに飲み込まれ、ある種の自己崩壊現象を起こしたという風に、吉本自身は考えているように私には思われた。「そもそもの日本人の精神的風土」というものが、どのようなものであるのかについては、吉本も直接触れてはいないし、私自身もわからない。ただ、遠藤周作などを読んでいて、その「精神的風土」というものは、たとえばすべてを相対化して呑み込み、混とん状態をもたらす中で、先を見通せない、いいかえると現在の現状のみでしか物事を判断しないし、できない、その結果として基本的に変化を嫌う、あるいは今あるもの今ある状況を全面的に肯定する「現状維持」を無難で最良のものとする心性のようなものが、ありはしまいか、などと思ってしまうことだ。


【22年5月21日】
昨日から今日にかけて、本当に久々に超結社の一泊吟行会。コロナ禍の関係もあって、3〜4年ぶりのことか。山岳霊場の古い旅館に宿泊。宿のバスで移動しつつ、吟行。その後、夕方まで宿で句会。夕食後は、日にちを跨またいで宴会という内容。ワクチン接種証明と保険証を持参するということで、県の補助事業対象となって、格安で宿泊できた。本当に、ひさびさにたらふくお酒を飲んで、白熱の議論を交わして(いる人を横に見て)、ずいぶん楽しい時間を過ごすことができた。皆、元気満々、発熱状態の人もいなかったことだし、後日コロナ感染集団出現、ということにはなるまいと思う。
良い機会だったので、その日の夕方、句会終了後、夕食までの間に、ひとりでちょっと山登り。とはいえ、時間も時間、普段着状態だったので、登山道を2合目まで、ブナの原生林の中を歩いてきた。夕景が迫る中で、周囲から鳥のさえずりが止まず、時折遠くでキツツキのドラミングがかすかに聞こえたりもした。腰痛が続いていたので、歩けるかなと少々気がかりだったけれど、痛いのは最初だけで、あとは普通に歩けた。近日中に、改めて頂上まで登ってこようと思う。大変いい気分で歩けたけれど、下りで道を間違えて、ずいぶん違ったところへ降りてきて、少々慌てる。
本日は、朝食後、速やかに解散。私は宿まで車できていたので、同じ方向に変える人を乗せて帰宅。思ったより早く、帰着できたので、あとは昼までごろごろ休憩する。今回は県内の移動だったけれど、いずれ他府県に出かけてみたいものだ、という思いを強くする。
それにしても、眠い。


【22年5月18日】
朝方の夢は面白い。今朝は、いじめの夢を見た。正確には、いじめられている夢、なのだろう。時期的には、高校時代。唐突に始まるのは、学期が始まって間もない頃なのだろう。どうやら遅刻常習の私は、その日も朝礼に遅刻して、朝の例会が終わるまで、廊下で、隣のクラスの同じように遅刻してた生徒と、めんどくさいなみたいな不貞腐れた表情で立ちぼうけ。やがて、朝礼は終わり、教室に入ると、自分の席がない。というよりは、自分の席がどこなのか、分っていない。なんとなくぼっと突っ立っていると、ちょうど1時間目は解体講座らしく、窓際の席が空いたので、そこと見当をつけて座る。生物の時間らしく、やがて教師がやってきて、授業が始まる。水につけた梅の枝を、一人の女子が切り口に口をつけて強く吹くと、枝についた花のあたりから、水がぴゅっと吹き出てきて、皆がびっくりする。どうだ、という教師の顔。「梅に春雨ですね」などと、調子づいて私が口を挟むと、その瞬間、しらっとした雰囲気があたりに広がる。まあいいやと、勝手におもって席についていると、皆が教室の後方のほうに集まっていて、教師が何か朗読しているらしい文章を皆で聞いて、大笑いをしているらしい。なにをやっているのだろうと、そちらの方に注意を向けると、教師がやってきて、さきほど読んでいた文章をこちらに渡してくれる。読んでみると、どうやらそれは遅行常習者の私の姿を、面白可笑しくまとめた、下手糞な文章の作文らしい。皆は、こんなものを読み聞かされて、おもしろがっているのか、と不思議な、奇妙な気分に陥る。そんな風な、夢。
現実の高校生活の中では、もちろん私は遅行常習者でなかったし、一度もいじめにあった経験はなかった。というより、ずいぶん楽しい3年間を送ることができたと思う。ありがたい。とはいえ、この時期の高校生らしく、鬱屈した気分に苛まれる時もたまにはあったのだろう。とはいえ、、それは対他的な関係性の中でのことではなく、対自の関係、過剰な自意識に関係するものだったのだろうと、今では了解できる。今朝の夢も、そんな自意識の世界の物語が、あんな形と姿をとったものなのであろう。しかし、今ごろになって、なぜまた、そんな大昔のことを、夢の形とはいえ、自らに再現させねならないのか、などと思う。


【22年5月16日】
『狭衣物語』読了。『源氏物語』並みというわけではないけれど、物語として高い評価を受けている作品ということであったけれど、読後感はいまひとつ。主人公の狭が、神に愛された人物という設定の様だったけれど、印象が今一つ乏しかった。登場人物の一人一人の魅力も源氏に比べると、ちょっと今一つ。全体として、物語としての面白みに欠けている(こちらの読解力不足という点もあるのだろうけれど……)ように思われた。『源氏物語』のなぞり的な部分も、ちょっと作品の印象を弱めることになったような気もする(当時の人たちにとっては、それもまた作品の魅力のひとつであったのかもしれないけれど)。続いて、古文作品は『義経紀』を読むことにした。NHKでは、ちょうど「鎌倉殿の13人」をやっていることだし、その13人のひとり、源義経を主人公とした歴史物語。最初の方を少しだけ読んでみたが、まさに「読み物」としての面白さを感じて、期待十分。大河の方では、義経は間もなく兄頼朝に殺されることになるのだろうけれど、それはそれとして、ゆっくり楽しんで読みたいと思う。
河盛好蔵著『パリの憂愁』を読み始める。副題は「ボードレールとその時代」。詩人ボードレールと彼を取り巻く人物たち、そして時代とを丹念に調べ、まとめあげた労作。西脇順三郎からのつながりで。せっかくなので、同時に新潮社の『ボードレール詩集』も読んでいる。堀口大学による文語調の翻訳のためか、格調は高いのかもしれないけれど、かなり読みづらい。
ここしばらく、庭のツツジの手入れにエネルギーを取られる。きれいに咲くことは、ツツジ自身の力ではあるけれど(今年は例年に増してきれいに咲き誇った状態だった、良かった……)、その後のいろいろな後始末や手入れについては、こちらの役割となる、ということなのだろう。たくさんに咲いた花を、完全にしおれきる前に落として、その後枝に絡んでいる花びらを主に手作業できれいにして、それから枝の剪定を行う。ここ数日をかけて、それらの作業を行い、大型のビニール袋に三つ分の花びらと枝の回収を終える。これはまとめて、市の施設の方に持ち込む予定。その後、肥料をやり、さらに昨年苦労させられた葉ダニの予防策を講じる必要もあると思われる。続いて、高垣風に隣家との境になっている山茶花の剪定作業が控えているし、まだしばらくは庭の整理整頓をおこなわなければならない。労力がかなり必要だ。嫌じゃないけれど……。


【22年5月11日】
吉本隆明『源実朝』読了。実朝は、なぜ暗殺されたのか、という点についての考察。「制度としての実朝」とう発想が面白い(一般的に言えばと、制度としての鎌倉幕府将軍ということになるのだろうけれど、実朝の特殊性が主眼)。特に、実朝の和歌の特殊性が、実朝における将軍制度の特異性に反映している、というところが、歴史的考察でありながら、文学論でもあるという吉本隆明らしい視野の広さであった。和歌についての吉本の見識の一端(景と情の分離や統合について)が、すでにこの論考の中でうかがえるという点も面白かった。
西脇順三郎の『詩学』読了。難解すぎて、読んでいる最中は内容についていけない、脳内過飽和状態という有様であったけれど、「私の詩論」の最後の一行を読んで、妙に得心がいった。『ポエジイは無限とか絶対との関係において成立する』。詩性とはなにか、を中心テーマとしての考察。個人的には、平畑静塔の「不実」を考えていく過程で、派生する形で出てきた神田秀夫の「俳句イロニー論」という評論について、原文に触れることができぬまま、そこで触れられているらしい「イロニー」というものの内容について、ずっと気になっている中で、たまたま本棚に読まずにおかれた『詩学』の中に、「イロニー」について触れられている部分があり、とりあえず参考までに一度読んでみようということで、読んで混乱状態に陥った、ということ。ここでいう「イロニー」とは、いわゆる「皮肉」的な意味ではなく、相矛盾したものの関係性を問題としているらしく(矛盾したものを強引に一つの論拠として主張する中で、嫌味や皮肉の効果をもたらすということもあるのだろうけれど……)、ポエジーは「無限とか絶対」というものと、「有限とか相対」というものとが、いわば反発しつつ惹かれ合うというそれ自体矛盾した関係性の中でもたらされる何か、のことを表しているらしい。ただ、その何かについて、肝心の「何か」の部分が説明されていないような印象を西脇のまとめの一文に感じて、彼自身も「ポエジー」について、ちょっと困っているのではないか、などとふと思ってしまったということだ。
ポエジーの成立条件については触れられているけれど、ではその結果としてのポエジーの本体ってのは、何?という点がよくわからない……。本文全体も、空白の中心部分「何」を残して、その周囲をぐるぐるとまわっているような印象(同じことを手を変え品を変え語ろうとしている、という印象)を感じていたのは、そのせいか?。


【22年5月7日】
連休も終盤。二けた台に落ち着いていたコロナ感染者数が、ここにきて再び三けた台をつける。東部地域の観光地は、コロナ禍前に近い人出を記録したとか。西部地区も、隣接する市の有名観光地は、この期間すっかり賑わいを回復したらしい。そんな中で、コロナの感染者数を押し上げたのは、わが市だったりして、恩恵とリスクのバランスの悪さが、少々残念。今朝は、ひさしぶりに短時間雨が降ったみたいだけれど、日が高くなるにつれて、天気は回復。ちょっと遅い時間に、犬を散歩に連れて行ったら、犬も人間も暑さにげんなりして帰宅するはめになった。蒸し暑い。
ツツジの開花もピークを過ぎ、暑さのせいもあってか、徐々にしおれつつある。今年は、思いの他たくさんの花をつけたけれど(これは、ご近所さんも同様らしい)、本当にミツバチや蝶の飛来が少ないように思われる。せっかく花にため込まれた蜜も、花がしおれるままに無駄になってゆくようで、もったいないなと思う。昆虫の動きが今一つ活発でないのは、やはり天候のせいなのだろうか、と思う。
そういえば、近所の林に毎年この時期に、日本ミツバチの養蜂に来られているのが、今年は養蜂箱の数が一つしか置かれていないのに気が付いている。例年は、巣箱を木陰に四、五箱据えて、花の蜜の採取を行っていたはずなのだが。ミツバチの出入りも、少し離れたところから観察できていたのだが……。何かの事情があったのだろうか、と思う。


【22年5月4日】
別に理想論をがなり立てるつもりもないけれど、近隣諸国に対してすら、ろくに外交的力量を発揮できない国家が、やたらに軍事力の増強ばかりを強調することは、近隣諸国に対しても、予断を与えることにもなりかねない、と個人的に思う。核武装とまでは言わないけれど、必要な防衛力が求められるとするならば、それを満たす必要はあるのかもしれないけれど(GDP2%程度の軍費で武装を強化すれば、我が国は世界第3位の軍事強国になるとか、ならないとか)。外交は、背後に武器を含む色々な要素(それこそ、思想から経済から人情まで)を控えさせているとはいえ、言葉による調整機能なので、とりあえずそれによって人が死に、財産が焼尽され、国土が荒廃することはあるまい。しかし、一旦武器と武器とによる対応が始まれば、言葉などほとんど無力に近いものにまでその力を減じさせることは、ロシアのやり口を見るまでもなく、誰が見ても明らかなことだろう。命と財産と国土を守るぎりぎりの一線であり最後の砦は、武力にあると考える人はたくさんいることだろうけれど、実は武力ではなく、言葉であるということは明らかなことだ。武力が持ち出された瞬間に、一線は越えられ、フェーズが一変することは、ウクライナの荒廃を見ても明らかなことだろう。武力による応接が始まれば、何を言っても仕方ない、という事態に移ってしまう。言葉が再び、かろうじて意味を持ち始めるまでには、相当数の人命が奪われ、財産は消失し(もっとも一部の人々は、莫大な資産を手に入れることになるだろうけれど……)、国土は痛めつけられた後のことであるのは、素人考えでも明らかなことだろう。
「戦争放棄(少なくとも、力によって一方的に現状変更を求めるやりかたを否定する、という)」を憲法の条文に持ち、国是としている国家としては、もうちょっと自国の立脚点とか、足腰をしっかり保ったうえで、ことを発してほしいな、と個人的には願っている。昨日は、「憲法記念日」だった。
昔、5月15日の東京で、「話せばわかる」という某首相の言葉を、幽冥界に送り込んだのは、一発の弾丸ではなかったか。