日記のようなものを書いてみようかな、と思いました。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、という事です。 独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さい。 |
22.2「日々録」 | 22.3「日々録」 | 22.4「日々録」 | 22.5「日々録」 | 22.6「日々録」 |
【22年7月29日】 【22年7月21日】 【22年7月21日】 【22年7月19日】 【22年7月14日】 【22年7月13日】 【22年7月8日】 【22年7月5日】 【22年7月1日】
今日は、月に一度の歌唱の個人レッスン。実家のピアノ教室の方を借りて、歌のレッスン。月一で、一年余りにもなるか。元々は、合唱の補助として、少し楽に歌えるようになればという気楽な気持ちで始めたのだけれど、かなり専門的な指導になってきていて、なかなか難しい。レッスンの中心は、発声指導。バリトンとして練習をしているのだけれど、高音域はまだダメダメということで、繰り返し指導を受ける。個人指導の良さや、自分の出す声が正しい発声に基づいているか、そうではないかをその都度指摘してもらえることだ。自分では、それなりにと思っていることが、専門家の耳によってきっちり駄目出しの判断をしてもらえることが大きい。ただ、ダメ出ししてもらったら、すぐに修正できるわけではなく、繰り返し発声する中で、良しとされたその声が出た体の状態を、感覚的につかみ、その状態の再現を繰り返し試みる中で、まさに良い声がでた際の自分の体の状態を感覚的に把握して、覚え込むというなんとも遅々たる歩みがそのレッスンの内実になる。だから、結構大変である。ほとんど、スポーツか、という感覚ですらあることだ(ほとんど、筋肉の使い方の問題、という点では、スポーツ的であるのも当然かも)。歌曲の指導の方は、終わりに短時間という時間配分で、イタリアの古い歌を1曲練習する。レッスンが始まって以来、これが3曲目ということになる。休憩を途中に挟んで、全体は3時間ほどのレッスン。その成果か、合唱の方は、だいぶ余裕をもって歌うことはできるようになった。ただし、その歌い方には色々問題のあることも分かりはじめている。
合唱との付き合いは、もうずいぶん長いものになるけれど、個人レッスンを受けようという気になるとは、思ってもみなかったことだ。
コロナ感染は、第七波に入って、今までにないような状況になりつつあるようだ。とはいっても、治療薬がない状況では、ともかくコロナに感染しないように個々人が注意する以外に、根本的な対応策はないようだ。そんな中で、一部で、コロナ感染の注意喚起として、感染者数の数値を毎日発表する必要はない、病床使用率とか重症化率の数値のみの広報で事足りるという主張があるようだ。確かに、それまでに比べて、現在のコロナは重症に陥るひとは明らかに少ないようだ。だから、それに直接関わる数値が最も意味を持ち、重要であるということなのだろう。逆に、毎日、感染者数を律儀に発表することは、余計な不安感を国民の間に煽り立て、結果として経済を停滞に追い込むことにも繋がる。だから、そのような数値を国民に知らせることは、百害あって一利もない、という判断が、背後で働き、感染者数のいちいちの発表はやめよう、という発言にもつながっているのだろうか。ただ、個人的な素朴な感覚として、人々が律儀に三密を回避し、マスクを着用し、コロナ感染を一人一人が注意する素朴な誘引・動因としては、病床使用率とか重症化率という分かったような分からないような数値を言われるのではなく、それはそれとして、何人の人が一日にこれだけ感染した、というその実数のほうが、よりインパクトを持ち、コロナにかかるまいとする思いを強める数字ではないか、と思われる。これだけの人数が増え、これだけの人数になってしまった、というその数値の方が、より直接的で具体的な恐怖としても、感染予防の思いを強める有効な要因となっているのではないか、という気がするということだ。個々人の意識や、判断が問われるということであろうし。今現在のように、コロナ感染者の頂上が見通せない状態の中では、一番強い抑止力は実数公表というところにありそうな気が素人目にはする。それ以上の感染拡大防止の有効な手立てが、今現在打ち出されていないのであってみれば、一般国民の素朴な心情に刺さるのは感染者実数公表を引き続き行うことのように思われる。
それに、経済の停滞を防ぐためには行動制限をしない、ということであれば、これはもう行くところまで行くしかない、というある意味行政の「覚悟」の表明なのだから、個々人として、ともかく気を付ける以外に手はないな、と思うばかりだ。それに、感染者が増えるということは、いわば既定の路線なのだから、それにともなう悪印象を少しでも薄めようとするために感染者の実数公表を差しひかえるようなことであれば、それは行政の小手先の取り繕いのように個人的には思われるし……。あるいは実数値を非公開とすることで、なんとなく気分としての安心感を醸成しようとするのなら、それはかえって罪作りでもあろうし。それにしても、究極の自己責任?
「高浜虚子の世界」の企画の中の俳人アンケートで、数十人の俳人の解答の中に、ひとりだけ自分は特に「虚子」には興味を感じない、という内容のものがあって、逆に興味を感じた。その俳人は、若手俳人の一人と言ってよいと思うけれど、論・作ともに面白いものを書かれる人だった。別に現在の俳壇の状況に対して斜に構えるというような姿勢ではなく、ごく自然体として発せられたことばだな、と個人的には受け取ったことだ。虚子の俳論は、ちょっと措くとして、その作品はずいぶん多彩多様で多面体的特質を持っているようで、面白いと個人的には思っている。ひとつの俳句結社の中で、一番自由自在に俳句創作を行っているのは、実はその結社の主宰本人なのではないか、などと勝手に思ってみてはいるのだけれど(そうでない結社って、結局はどこかで硬直化や停滞状態を来したりするのではないか、などとも思うが……)。虚子の唱えた「花鳥諷詠」にしても、虚子の作品全体から照らし直してみることも必要なのではないか、などと思ったりもすることだ。
安倍元総理の「国葬」について。個人的には、一国民としてそのような体裁で故人を悼むつもりはない。どこかのテレビ番組が「国葬」実施の賛否のアンケートを取っていて、その数値も公表していたけれど、ほぼ賛否は七三の割合だったらしい。全体としては賛成の意見が多いけれど、少なからず反対や危惧、疑問の思いを抱く国民もいるということは事実なのだろう。それをどこかの政府のお偉いさんのように、国民の中に「国葬」をためらうような意識はない、そのように認識すること自体が国民の思いの現状と乖離したもの、などという発言の空々しさにはあきれるけれど、「国葬」に対する反発や危惧の思いをないものとしてスルーして、国儀を行うことは、「国葬」それ自体を汚すものではないかな、などと思ったりはすることだ。一内閣の閣議決定をすべてとする、亡くなった総理の内閣が常用していた手法を、ここに持ち出すことも、あまり印象は良くないように思われる。一部の国民にとってみれば、「何でも反対する」と不愉快を感じるかもしれないけれど、国民の税金を使うものであり、しかも野党から疑義の出ている事柄であってみれば、結果は結果として、どこかで一度きちんと議論の場にのせるのは、当たりまえの民主的手続きではないのか、とも思うのだが。この「国葬」に民主的国家としての日本の姿をアピールするというのであれば、その前提となる手続き的部分から民主的であったほうが、筋が通っているようにおもうのだが……。それに、「国葬」という形をとらなくても、多くの国民により余計なストレスなく弔意発現の場を提供する形は、あるのだろうけれど。
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の十三人』やっと、本来のスタート地点に立った、という感じ。奇抜なストーリー展開で引き付けるというより、集団劇の面白さ、人間関係のややこしさで魅せるドラマの本領がいよいよ発揮されるのかな、などと期待する。『曽我物語』の方は、頼朝を支える武将たちの助命嘆願を、しぶしぶ頼朝が受け入れる形で、命の危機を当面脱することはできたけれど、しかしそこには次の危機をもたらす要素が内包されているみたいで、面白い。少年の一徹、というものなどが、生かされる環境があったりもするのだろう。成人年齢の、18歳どころではない、そんな時代ではあったけれど。
『俳句』編集部編の「高浜虚子の世界」を読んでいる。いろいろ興味深い話が、多くの俳人たちによって語られている(ただ、あまりに「大虚子」すぎて、読んでいて少々疲れてきたりもするのだけれど)。その中で、虚子が「句会」を大変重視したという話で、筑紫磐井の語る「俳句は句会の場で評価されてこそ俳句となる(正確には、大衆に評価、ということらしいが)。句会で(大衆に)評価されない作は、詩ではあっても俳句ではない」という趣旨の発言は、一方ではうなづける部分がありつつも、一方ではそうとばかりは言えまい、という思いを持つ。少なくとも、ここでいう「句会」とは、虚子のような見識や観賞眼を持つ人物を交えた、あるいはその薫陶を直接・間接に受けた参加者による、相当に高いレベルでの「句会」という前提とか限定条件を添えなければ、手ばなしには賛成しかねる意見である、ということだ。もちろん、そんなややこしいことは措いといてもいいのかもしれないけれど……。ここでいう、「詩ではあっても俳句ではない」という評価の仕方も、ある意味含みの多い発言ではあると思うけれど。虚子自身も俳句は「花鳥諷詠詩」(筑紫自身が本文中でこの言葉を使ってもいたけれど)と言っていたのではないか、と思うけれど。虚子のいう「詩」と筑紫の言う「詩」との間の、距離感はどんなものなのだろうか、と思ったりすることだ。西洋の「詩」とは異なる、日本独自の「詩」、さらに言えば虚子独自のもたらした西洋の詩の範疇には属さない何か、という事なのかもしれないけれど。
外は、ひどい雨が降っている。この辺りは、豪雨で水がでるというような地形ではないけれど、それにしても、すでに家の前の道路は全面が雨水の膜で覆われている状況だ。昨日は終日、遠雷が鳴り続いている状態だったけれど、今日も時折、雷の音が聞こえる。
どうやら、うちの庭も野良の立ち入る場所の一つになっているらしい。さきほどは、しばらく前に降った雨が敷レンガの上にうっすらと残っているそれをぺろぺろ舐めていた。わずかばかりの水を飲んでいたようだ。ふと室内から眺めている私に気づいたのか、犬はそのまま飲む(というより舐める)のをやめて、玄関の方へとゆらりと歩いて行ってしまった。こちらも、それをただ見ているだけだった。
『曽我物語』が、めっぽう面白い。NHKの大河ドラマでは、曽我兄弟はあっさり誅殺されてしまうけれど、こちらの方はけっこう大部の物語で、しかも主人公たちということで、じっくりとお話が進んでいる。いまは、幼い曽我兄弟が頼朝の怒りをかって、由比ガ浜で斬首という場面で、なかなか緊迫したハラハラドキドキの物語となっている。もちろん、ここで二人が殺されてしまってはお話も終わりということになってしまうのだが、どのような展開でどのように武士たちの物語が進むのか、一度で、決着まで読むのは勿体ないので、本日は途中で中断、とした。
近所に野良犬が出没する。以前は、3匹。1匹は捕獲されて、今では2匹。連れ立ったり、単独だったりして、この住宅地域を徘徊している。三日前は、早朝犬の散歩の途中で遭遇。相手は中型犬なので、かなり緊張したけれど、吠えられもせず、静かにスルーされた。二日前は、夜の合唱レッスンを終えて、帰宅時、自宅の近くで車中から目撃。その時は2匹で住宅内の車道を歩いていた。昨日は、甥が仕事からの帰り、同じく自宅付近で見た、という。ご近所さんは、庭に入られて、突っ掛けを持っていかれたとのこと。本日、朝の歩きの折、近所でスリッポンが片足分、道路に放置してあった。きれいな状態で、おそらく女性か、子供のもの。かわいいアクセサリーがつけられてあった。ご近所さんに伝えるが、うちのものではない、との返事。
近所には、捕獲用の檻が据え付けれれてある。しかし、いつみても、中におかれたジャーキーみたいな囮の餌はそのままになっている。人間に慣れているのだなあ、と思う。
可哀そうである。
子どもの頃、近所に雑種の赤犬の野良がいた。仔犬が2匹。夕方になると、残飯を持って外に出て、「アカ」と名前を呼ぶと、夕闇の中を子犬を連れてやってきて、粗末な餌を静かに食べていた。ある時、学校から帰ってみると、「アカ」と仔犬が、保健所から派遣された犬採りの人に捕獲されたと聞いた。捕獲の際、「アカ」は口から血を流していたという。仔犬もやすやすと捕獲されたらしい。
本日、安倍晋三元総理大臣が、奈良市内において参議院議員選挙応援演説中に、40代の元海上自衛官によって、殺害される。殺害の真相は、おそらく明らかにされないのではないか、と個人的には思う。政治的信条とは無関係(公的な憤りとは無関係の)の、個人的怨恨によって、あらかじめ用意されてあった手製の散弾銃で殺害という、異様な事件それ自体が、なにがしかの闇の部分、公表しがたい闇の部分を含んでいるように、個人的に思うからだ。それは陰謀論、とかいう類のものではなく、犯人自身の中にある深い闇のようなものの存在のことだ。
はっきりした理由もなく、一般人が一般人を殺傷するという出来事は、これまでも繰り返し起こってきたけれど、一般人が公的存在(この場合は元総理大臣)をはっきりした脈絡もなく、短絡的に、しかも暴虐な手段で抹殺しようとする(それは、その人物を個人的存在としてだけではなく、社会的存在としても、意図的に二重に抹消しようとする、ある意味「垣根」を越えた異様なふるまいのようだけれど)、日本もまた、別のステージに移行したという、その象徴的なできごとのように思われる。この先、なにが起こるのだろうか。なんとも薄気味悪い。
NHK朝の連続テレビドラマは結構好きで、ここしばらくずっと見てきた。今回も、BS放送7時15分からの「いもたこなんきん」から、7時30分の「ちむどんどん」までは、定番という状態だった。けれど、「ちむどんどん」の方は、見ているうちにだんだん辛いような感じになってしまって、いまではもう見ない。「いもたこ」の方は、最初はいまひとつという印象だったけれど、どんどん面白くなっていった。けれど、「ちむどんどん」はそれに反比例するように、なんかなあ……という感じとなる。脚本を書いたのが、あの「フラ・ガール」の人ということで、とても期待していたのだけれど、なんだかなあ……、という感じ。主題歌は、いい曲だな、とそれだけは聞きたい気がするけれど、本編の方は、ちょっとなあと思う。個人的には、登場人物の誰にも共感が持てないという極端な話。共感が持てないので、見ていても面白くないということ。7時30分から45分までの時間が空白になってしまったのが、本当に残念。
いつか読みたいと思っていた河出書房の世界文学全集26のロマン・ロラン作『ジャン・クリストフ』を読み始める。読み始めて、もっともっと前によむべきだった、ととても後悔する。古い文学全集(私の小学生の頃から自宅にあった)で、二段組・二巻本。その一巻が600ページ弱。活字が小さすぎて、なかなかすらすらと読み進めない。なんとか頑張って、一日八〜十ページというスピードなので、二巻1200ページを平均九ページずつ毎日読むとして、読了まで140日弱かかることになる。先は長い、と思う。目の負荷も大きいし……。
そういえば、今河盛好蔵著「パリの憂愁 ボードレールとその時代」という、これも書棚に積ん読状態だった本も読んでいる。その中に、「指輪遊び」という遊びに触れた部分がある。フランス第二帝政の時期、ナポレオンの妻メッテルニヒ夫人が考え出した貴族のお遊びで、皿に小麦粉を盛り、その上に指輪を置いて、小麦粉に鼻を触れさせず唇だけで置かれた指輪をつまみ取る、というものだ。実は、この遊びが「ジャン・クストフ」の中で、彼の初恋の女性のミンナとクリストフが、二人でこっそり楽しむ遊びとして描かれてあった。お話の中では、ミンナが思いついた遊びとして言われてあったけれど、本家本元はナポレオン婦人であった、ということだ。それにしても、「指輪あそび」、我が国の運動会においても、似たような競技があったなあ、と思う。
六月末日。朝、犬を散歩に連れて行こうとして、庭先で蛇を見つける。体長30センチほどのシマヘビらしき姿。向こうも、こちらの姿を見つけて、慌てふためく様子で、庭の境の門から、隣家の方へ逃げていった。住宅地ではあるけれど、やはり、蛇はいるのだと再確認。自宅の方では、転居して早々、床下から30センチくらいの蛇のぬけがら(俳句では「蛇の衣・蛇のきぬ」と優雅に呼ぶけれど)を見つけたことがあったので、いるらしいなとは思っていたけれど。
そういえば、数日前の事。これも、犬を散歩に連れ出しての帰路、犬がしきりに道路に沿った溝の辺りをしきりに嗅ぐので、どうしたのかと思ってそばに近づくと、突然犬が横跳びして溝から離れた。こちらも驚いて先ほど犬が覗き込んで臭いを嗅いでいた溝蓋の手をかけて持ち上げる部分(楕円を半分にした形の切れ込みが蓋につけられてあるのだが、それがちょうど向かい合わせに置かれた結果、楕円形の穴となっていたのだ)から除くと、何かの動物の黒目勝ちの両目とすっと鼻筋の通った(面長の貌というのか)顔が見えて再度驚く。犬や猫の顔ではない。なんとなくアナグマとか、アライグマ的な顔立ちだった。溝は、ほぼ全域がコンクリートの蓋でとじられてあり、容易に中に入り込むことは難しいように思う。ただ、ここから100メートルほど先に、一か所砂山からこの溝へと流水を流し込む口が空いているので、そこからなら動物が入ることは可能かもしれない。何かの動物が、そこから溝の中に入り込み、蓋の置かれた溝をちょうどいい移動場所として使っているのではないか、と真面目に考えた。そういえば、さらにしばらく前に、散歩の途中、犬がしきりに溝蓋の穴を丹念に嗅いでいることが一度ならずあったけれど、あれもそうだったのか、などと思う。
人や犬に害をなしたりはしないだろうと思うけれど、少々気味が悪い。