日々録
日記のようなものを書いてみようかな、と思いました。             
備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、という事です。
独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さい。

         
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【22年8月26日】
いまさら国葬を変更するわけにはいかないのだろう。国の威信がかかっている、ということでもあろうし。とはいえ、葬儀費用が2億5千万というのは、誰が考えてもそんなはずはなかろう、と思うばかりだ。いつもの、お家芸の数字マジックなのだろう。警備費用だけでもその何倍もかかりそうな気がするけれど、別会計からの支出なので、税金で負担するということは同じであるにもかかわらず、葬儀費用とはみなさないらしい。はたして、どれほどの別枠費用が必要なのか、政府はそれをきちんと国民に提示するのか、わからない。統一教会問題同様、正確な事は「わかりません」で済ますのだろうか。安倍晋三以降、自民党政府はそんなことばかりを平然と繰り返してきたから、政府発表の客観的なはずの数字すら、信用できないという状態に陥っているようだ。安倍遺産には、ろくなものがない……。
さすがに、国葬反対が国民の5割から7割という割合で存在する現状から、「弔意」をお願いするという事実上の弔意強制は、いまのところ、棚上げ状態。ただし、直前になってころりと手の平返しがおこなわれてもおかしくはない状況ではあろう。それに、公的機関の忖度行動は、あちらこちらで起こり得るだろうし。すでに、いくつかの自治体で先走る委員会や思い入れの強い首長の独断などはあるようだし。
国葬に力を入れるよりも、コロナ対応をしっかりやって欲しいと思う。同じ病気で、一日に200人も300人も死者が出る状況は、やはり普通じゃないと思われる。コロナ治療薬の薬の管理・配分とか、それが全国にわたってスムースになされる制度の構築とか、市販薬の鎮痛解熱剤や咳止め薬をきちんと流通させてほしいとか、やることは山ほどあるだろうに……。薬がないとか、あっても必要な人の手に渡らない、とか。とても気がかりなことだ。先進国のひとつと言われる国歌としてしての姿ではないように思う。国民の我慢や努力をもっときちんと生かす体制や制度を急いで作り上げてほしい。本当に、もっときちんとしてほしいものだ。



【22年8月22日】
岸田首相、夏休み期間中にコロナに感染。なんか、泣くに泣けない、笑うに笑えない出来事。一国の総理でもコロナに感染するほどだから、どれほど厳重に防疫に務めていても、その隙をかいくぐって感染するという現実があるのだろう、と改めて思う。国民の一人としては、貴重な「他山の石」とすべきか。
平畑静塔の「不実」論について、その補遺の文章の第一稿をまとめる。元々、原稿用紙6枚程度の予定が、結局20枚ほどになってしまった。とりあえず、初稿として投函。さて、どうなることか……。
本日、久々に合唱練習。所用のため、ちょっと遅れて練習会場着。そのまま合唱に加わるが、全く声がでなくて焦る。結局、レッスン前半はその調子で、個人的にはぼろぼろ状態。中間の休憩時間に、屋外に出て、しっかり柔軟体操をして、気分的にもリラックスするように努めてから、どうにか声が出るようになる。歌は、スポーツだ、と改めて実感する。
東京の知人と、久しぶりに音声通話。昨夜の地元の花火大会の写真数枚を送ったお礼。四方山話。最後は、お互いコロナに気をつけよう、で結ぶ。


【22年8月19日】
コロナ感染。地元でも、今までにないちょっと怖いくらいの数字があがる時がある。ご近所さんや知人の身の廻りでも、コロナに感染した人の話を聞くことがある。コロナ第一波の時、それまで感染者0人を続けていた県内で、初めてコロナに感染した人の一家が、周囲の非難の目に耐えられず引っ越しをしてしまった、などといううわさ話がまことしやかに流布されたりしていた状況から、ずいぶん遠くまで、コロナ禍はやってきたものだと思う。
数字と言えば、ネット上では、コロナ関連死について、感染者の数が増えれば、死亡者の数が増えるのも当たり前、と平然と口にする人の姿を見かける。コロナに関する数字に一喜一憂するな、という態度の延長にある姿の様であって、しかし、人の死というものもしょせん数値の一つでしかない、というような冷めた受け止め方をそこに感じて、個人的にはちょっと薄ら寒い思いになる。これもコロナの長期化がもたらした、他人の身の上に対する想像力の枯渇化なのだろうか……。


【22年8月14日】
先日、2年ぶりで、高校時代の同級生4人で昼食会。これも、コロナの行動制限なしの余波であろうか。3人はワクチン4回目を接種済み。ひとりは、3回目の接種後、心筋炎を発症して1か月ほど休養。副作用かと、4回目は怖くて受けられない、という。会場は、地元の町のスパ。その食堂。私は、会食の前に2時間ほど墓の草取り(以前に除草剤を散布しておいたのだけれど、どうやらそれが効かない種類の草が、猛烈に繁茂。)をしていたので、食事の前に、ゆっくりと汗を流すことができて、気持ちがよかった。2時間程、色々と四方山話をする。気楽な集まりだった。
村上春樹の『アンダーグランド』を読み始める。オウム真理教によるサリン事件の被害者たちへのインタビューをまとめたもの。川の向こう側とこちら側の喩えを用いながら、筆者はオウム事件がこの日本社会の中で起こったその根幹の部分に考察を進める方法として、このような手法を採用したという。この場合、「川の向こう側」とは、サリン事件の当事者の側(特に、被害者とその関係者)を意味し、「こちら側」とは当事者以外の一般の人々を指すようだ。当事者と当事者以外の人々の間に横たわる断絶というものを、被害者の声を誠実に汲み上げる中で、サリン事件の対する新たな視点として追求しようとしているようである。全体として、勧善懲悪的な善対悪(カルト宗教)の理不尽な対立というような構図での捉え方というよりは、日本社会の基底に横たわるものごとに対する根本的な「無関心」という病巣の部分を問いかけようとしているのだろうか、とそんな印象の中で本文を読み始めている。


【22年8月7日】
昨日、今日と山沿い地方で午後にかけて雷雨。地元は、ちょうど積乱雲の端が延びきったあたりにあたっていたので、厚い雲と青空とのきわに位置していたようだ。それにしても、山の方を眺めやると、おどろおどろしい雲が幾重にも重なって空を埋め尽くし、時に雷鳴が聞こえ、さらに雷光が雲の表面を薄く輝かせているのが見えたりもした。蒸し暑いので、いっそ一雨降って欲しいとも思ったけれど、結局一滴も雨は降らず。ただ、遠くの雲の重なりの上に、虹の断片が浮かんでいたりするのが見えたりもした。
久しぶりに、村上春樹の小説を読む。『アフターダーク』という中編小説。虚実が錯綜する小説、というより、小説のテーマを際立たせるには、虚の世界がとてもリアルな感じで(言葉が矛盾しているみたいだけれど)描出されてあって、まさに春樹ワールドと作品を堪能する。『アフターダーク』は、新聞の文芸欄に取り上げられてあった作品で、それは村上春樹の世界をちょっと面白い角度から語っているエッセイで、今回は「ローファット牛乳」が、その話題のひとつで、それが出てくるのがこのお話だったのだ。それぞれに自分というものの実体を見失っていたり、探し求めていたりする登場人物たちのお話で、村上春樹流の青春小説で、とても面白かった。最近は一つの読み物でも、少しずつ日にちをかけて読むことが(目の具合もあって)普通になっているのだけれど、これは昨夜と今朝とをつなげて、わりと一気に読み終わった作品であった。村上春樹はかなりの作品を読んできたのだけれど、まだ読まないままに本棚に積ん読状態のものを、引き続き読んでみたくなる。


【22年8月6日】
統一教会の名称変更について。某番組で、コメンテーターの一人H氏は、当時の文部官僚であったM氏が申請のあった名称変更を却下した点について、あたかも鬼の首でもとったかのように(どうも、H氏の発言は、M氏の官僚としての出過ぎた姿勢を非難することに主眼をおいたものである、という印象が強かったので)、それは官僚が絶対してはいけないこと、その判断は官僚ではなく、政治家がなすべきことであって、M氏の行動は官僚としての領分を大きく逸脱するもの、として強く非難していた。ところが、その年に名称変更はM氏の申請却下という態度に反し、すんなりと決まってしまった。16年間だったか、18年間だったかにわたり、申請が却下され続けてきたものが(その点でいえば、M氏はいかにも官僚らしく前例を踏襲したということであろうが)、それがやすやすと通過したということは、H氏の発言通り、そこに官僚ではない別の力、政治家の判断が関係しているということの証左である、ということなのだろう。H氏は、もと高級官僚であったM氏の否を指摘しつつ、いみじくも同時に政治家の関与を示唆した、ということになるのだろう、と素人なりに思ったことであった。政治家の関与、という点でいえば、直接にはあの人ぐらいしか頭に浮かばないけれども。
今日は、本当に嫌な空模様である。先ほども、外に干していた洗濯物を、ぱらぱらと降り出した大粒の雨に、慌てて取り込み、しばらくたって雨が止んだので、ふたたび外にだしたら、今またなんともどす黒い雲が、ゆっくりと西の空から上空に浸入を開始している。とはいえ、雲の切れ目からは、強烈な日差しが差し込んできていて、天気がこのまま晴れ、あるいは曇りで、せめて洗濯物が乾くまで保ってくれるか、それとも降り出すか、予断を許さない状態になっている。今のうちに、さっさと洗濯物が乾いてくれることを願うばかりだ、全く!


【22年8月5日】
ご近所さんの燕たちが、早朝群れを作っては電線にとまっている。いずれ、南に向かって集団で移動する準備を進めているのだろうと思いながら、そんな様子を眺める。その群れの中の6羽は、うちのところの燕であろうかと思う。親燕2羽と小燕4羽の計6羽だ。本当は、小燕は5羽いたのだけれど、その中の1羽だけが巣から落ちて、行方不明となってしまった。今では、巣の方にはほとんど近寄ることもないけれど、ごくたまに1羽2羽と巣をかけた玄関ホールほ方にごく短時間やって来ることがあるようだ。
いそひよどりは、小燕と卵にとっては天敵だったようだけれど、成鳥になってからも、ひよどりが集まって電線や屋根にとまっているときは、燕たちは敬遠しているようだ。からすや、キジバトなども燕の天敵のようだけれど、燕と同じ生息範囲にいるので、成長するまでは、ちょっと気がかりなところはあった。特に、うちの燕たちは、巣作りや子育てが、他の燕たちより1〜2週間ほど遅かったようで、その分天敵に目をつけられて狙われるのではないか、と心配ではあったのだ。
もうしばらくで、南帰行(こんな言葉があるかどうか、知らないけれど……)ということになるようだ。


【22年8月1日】
連句で利用していた掲示板が、本日定時をもって運営終了。書き込み数が2800ほどになっていた。そのデーターをどうしようかともちょっと考えてはいたのだけれど、付け句や選句評を含めるとかなり膨大な量のデーターをいちいちコピー&ペーストで別のところに残しておく手間も大変なので、それまで巻き上げた歌仙数編以外は、そのまま消えるに任せることにした。すでに新しい掲示板で、現在行っている歌仙の続きを仕上げていくことにする。新しい掲示板への書き込みが手間取っているメンバーもいるようで、その点が気にはなるのだけれど、時間的余裕はあるので、ゆっくり再スタートできれば良い、と思う。
外は異様に暑い。今夏最高の気温になりそうだ。外に出ると、熱風が吹き付けてくる。住宅街とはいえ、人通りは全く途絶えている。一雨来てほしいけれど、その気配はまるでない。かなわんなあ、と思う。
「国葬」。直近の某新聞社のアンケートでは、反対が賛成を越え、しばらく前とは反対の結果になっているようだ。個人的には、「国葬」という形式は反対(自民と政府の合同葬とか、そこに国民有志が絡んだ国民葬で十分ではないかと思う)。とはいえ、やっぱり、いくつかの教育委員会が、どこからの指示か、あるいは独自の忖度判断(弔意を強制しないとのお上のお達しはすでにありながらのことなので、何のつもりなのか……)によって、学校に半旗を掲揚するよう「お願い」しているらしい。教育委員会から「お願い」されたら、学校は断りにくいのはいつものことなのだけれど。生徒には、どう説明するつもりなのか。教職員の中にも、保護者の中にもいろいろな考えがあるだろうに。管理職が、委員会の相変わらずの現場丸投げ主義のとばっちりを受けて、またまた辛い立場に置かれることになりそうだ。