日々録
日記のようなものを書いてみようかな、と思いました。             
備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、という事です。
独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さい。

         
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【22年9月30日】
三遊亭円楽さんが亡くなられた。肺がんだったようだ。脳梗塞からなんとか回復されて、舞台への復帰も見通されるかという時の、突然の訃報に、本当に驚いた。落語家としての技量と、大人としての広く深い見識を持っておられることが印象に残っている。
9月も本日で終わる。今日は、終日雲一つない快晴で、朝夕は涼しく、昼は少し暑いかな、というちょうど季節が夏から秋へと移ろうとしている時期の典型的な一日のように思われた。オリオン座の流星群が、1日あたりから出現を始めるらしく、この好天は観察にチャンスになりそうだ。
俳句関係のお仕事が、だいたい終了。年に一度のきちんと依頼された仕事なので、それなりに緊張しつつ取り組んできて、めどが立ったことがうれしい。シンドクも楽しい仕事。同時に、俳句について、いろいろと考えさせられる仕事でもあった。
ネットの「週刊俳句」の、杉田久女関係の論文に興味を引かれる。現俳協関係のものらしい。久女の俳句作品の評価の問題として、虚子を頂点とする男性の価値観や男性の視点からなされることの多かった作品評価が、久女の作品評価として定着している状況について、そのような固定化された教条化されたものではない、別の視点による評価の必要性を求めるものという内容。ただし、その別の視点と言うのは、男性的でもなく女性的でもない、いわば中性的なより普遍的なものに基づく評価基準を設定するというよりは、(この部分が私の誤読につながるものかもしれないけれど)良い意味で、というよりより正しい形で「女性」的な立場や「女性」固有の視点でなされる女流作品の再評価という判断の在り方を提言しているように読み取ったのだが、どうだろうか。男も女も関係ない、より普遍的な評価というものに最も高い価値を置くのも理解できるのだけれど、より個別的でしかも従来問題にもされてこなかった(というより、ジェンダーの視点からいえば、それを強調することは差別につながるとして忌避されてきた)立場から、改めてたとえば久女の作品の検証をし直す、ということの重要性を語っているように思われたということでもある。女性自身が、従来の男性たちによる男性的な判断やその結果としても評価にひきずられることなく、純粋に女性としての作品鑑賞と判断・評価を下す、ということも、女流の作に限らず、作品の気づかれない側面に光を当てることにつながるのではないか、ということでもある。どうなのだろうか……。


【22年9月27日】
もう、9月も27日か、と思ってしまう。毎日が日曜日生活ではありながら、一日一日が結構忙しく、待っている予定や日々すべきことが詰まっているのを改めて実感する。それは、きっと良いことであろうと思うけれども……。
村上春樹『神の子どもはみな踊る』読了。読み進みながら、以前一度読んでいたことを思い出した。通読二度目。『アンダーグラウンド』が、サリン事件をテーマとしたルポ作品であったのに対して、『神の子ども』の方は、阪神淡路大震災を共通の背景に持った短編小説集。サリンと大震災は、同じ年の近接した時期に発生した事件で、人災と天災をひとつの合わせ鏡としてその時代を反映させた出来事であり、村上春樹もそのことを常に意識の中に置きながら、この小説集も書き上げたことだろうな、と思いながら読む。お話は、大震災の直接、間接(間接などという言い方は通用しないほどに、日本人一人一人が自らのこととして受けとめた出来事だとおもうけれど)の影響を受けそれに触発され、自らの生きる意味や他者との関わりを内心問いかけながら生活を続ける何人かの人たちの姿を描いたものだ。サリン禍によって逃れ難く傷ついた人たちの姿がインタビュー記事という形で生々しく示されたのに対して、『神の』の方は、より登場人物たちの内面に分け入りながら、巨大地震という巨大な災禍に対して、それぞれに傷つき、自らの存在を強く、あるいは静かに揺さぶられ続ける苦悩と、さらにそこからの再生の一筋の光を見出す姿などが描き出されてある。『アンダーグラウンド』と『神の子どもはみな踊る』は、それ自体が、ひとつの時代に対して合わせ鏡的に複雑に時代を映し出したふたつの作品のように思われる。
そういえば、今日は「国葬」の日。その行事もまた、今と言う時代をかなり強烈に映し出す一枚の平板な鏡のようだが……。


【22年9月19日】
村上春樹『アンダーグランウンド』読了。最後に筆者自身の本書執筆の思いが語られてあった。その内容はいろいろに読み取ることができるように思われるけれど、特に印象的だったのは、誤読や深読みがあるかもしれないけれど自分なりの理解を含めてまとめてみると、我々は自己というものを自認する際に、自分なりに作り上げた自身の「物語」を各自の根底に持っている。ところが、その自分固有の「物語」は、時に強力な権威者や権力者の出現によって、彼らが作り上げたとても魅力的と思われる「物語」に、容易に共感し置き換えが行われることがある。その結果、他人の作った「物語」を自らの「物語」と自認して(それは、新たな「物語」創作者の意志と、それを受け止める側の希求・願望の相互作用によって)、新たな自己として生きてゆく、という姿を取る。その際、権威者・権力者と目される者の創造するあらたな「物語」が、邪悪な要素を含んでいれば(それは、権威者・権力者の邪悪さの反映でもあろうが)、自らが選び取った新たな「物語」の体現者としての自己は、必然的な破滅の方向へと、あたかもそれが自らの意志に基づくものとしての迷いのなさで、突き進んでいくことにも繋がる。それが、「カルト」というものに、自らの創造性も意志も判断も乗っ取られた(あるいは、自ら進んでささげた)者の姿ということになるようだ。それは、オウムの信者たち、あるいはいま話題になっている統一教会の人々の姿、というものもそうなのかもしれない。ただし、そのような、自らの「物語」を別の何者かの作り上げた「物語」(たとえば、「理想的な私」とか「幸福な私」とか)に置きなおして、それをあらたな自身の生きる方向性として定めて、一歩を踏み出す、というのは、それ自体「カルト」にはまる、特殊な心性の持ち主などと想定された人間像ではなくて、われわれ一般の中に普通に存在する心理的傾向ではないか、と作者はみなしているようだ。すると、「カルト」的なものにとらわれる危険性は、なにも特殊な人たちではない、我々一人一人の中に、誰かの手によって作り上げられた「理想の私」「幸福な私」の方向性へ惹かれる心性が存在するのではないか、ということだ。だからこそ、われわれは「カルト」のもたらす残虐さや無残さに対して、日々の日常生活の延長線の上で(地下鉄サリン事件は、毎日繰り返される通勤途上でのできごとだった)巻き込まれてしまった方たちの生の声に触れつつ、われわれの足元に真っ黒な穴を空けているかもしれない「アンダーグラウンド」な世界に落ち込まないように注意を怠るべきではない、という作者の打ち鳴らす警鐘に耳を傾ける必要があるのではないか、ということだ(村上春樹はこんなお説教じみた調子で語っているわけではないけれど……)。


【22年9月17日】
政治の世界における老害と口害は、一部目に余るところがあるようだ。自らの考えに沿わない者は、日本人ではない、などと公然と口にするような末期的症状を呈する重鎮まで存在するくらいなのだから。彼らの脳内では、どのような日本人観がイメージとして描かれているのか、もちろんあまりに陳腐でおぞましくて、見てみたいとは到底思えないものだろう。しかし、それが実際に政治を動かし、施策を通じて濃密に社会に反映されていくとすれば、日本はますますドロ舟化していくことになるのかも、と思う。
大きな台風が、進行中。前回の12号と異なり、今回は地元も直撃コースに含まれている。どうなることだろうか。
今日は、実家の犬のトリミングの日。なじみのトリマーさんに来ていただいて、やっていただく。普段は、そんなことはないのだが、トリミングについては、猛烈に反抗的(というのか、嫌がっていて)で、なかなか大変だ。特に、顔周辺は絶対拒否みたいな態度で、それをあれこれ手を尽くしてしこなして、結果として犬も人間も疲労困憊状態となる。終わってお茶を一服しているテーブルの下で、犬は眠りこけている有様。しかし、仕上がりはなかなかに精悍。目力の強い雄犬が一頭出来上がる。
年に1度の俳句の仕事が、送られてくる。締め切りには、まだ一月弱の余裕があるけれど、その間に他にいろいろとしなければならないことが重なっていて、気を引き締めてゆかねば、と思う。熱帯夜の延長で、夜しっかりと眠れなくて、昼間睡魔に襲われそうになるのが、鬱陶しいけれど……。
村上春樹の『アンダーグラウンド』も、まもなく読了となる。オウムのサリンテロの被害を向けた方々のインタビューの最後に、直接は声を聞くことのできない人たち、サリンで亡くなった方たちの遺族のインタビューが載せられてある。理不尽な死を身内の方に経験した遺族の方たちの声は、本当に怒りと無念とその辛さから自ら立ち上がろうとする祈りに近い思いが籠っていて、胸が重くなる。カルト教団のもたらす悪の底深さを改めて思う。


【22年9月7日】
午前中、人間ドック。近所の個人病院で毎年検査を受けている。係り付け医院でもあるので、軽口を交わしながらの検査となる。検査そのものは、少々気が重いので、そういう気楽さがありがたい。眼科以外、一通りの検査を受けて、昼前には終了。総合判断は後日とのこと。一仕事、終えた気分で病院を出る。外は、台風一過で、快晴。ただ、からりと暑い。
果たして、読み続けられるだろうかと思っていた、ロマンロランの「ジャン・クリストフ」。毎日、十ページほどを読み継いでいるうちに、まもなく前半の先が見えてきた。なんとも狷介な主人公クリストフに、時折は苛立ちながら、それでもつい読み進めてしまう。当時の芸術家や評論家、あるいは一般の人々に対する作者のかなり強烈な批判意識が、クリストフを通じて生々しく語られてあるようで、ずいぶん刺激的だ。はたして、主人公はこの先どうなってゆくのか、時代を超越した天才的な作曲家としての資質を持つクリストフの、その先がまるで見えないところが面白いのかもしれないけれど……。
円安の歯止めが効かないらしい。しかも、それに対する打つ手はないらしい(注視するだけ?悪く言えば、見殺し?)。そんな内容の記事を読むと、日本は土台の部分から全体として崩壊しつつあるのか、と思ってしまう。輸出系の大企業や、ドル高で資産を積み上げる一部投資家にとっては、とても好ましい状況なのかもしれないけれど。「一将功なりて万骨枯る」という有名な言葉があるけれど、今の日本の状態は、ある特定の人物や集団の利益の上に、多くの一般人の生活や財産や生命までもが犠牲に供されている、という状況のような気分になる。
ひっくるめて言えば、「安倍時代」の旧悪・巨悪が、ぼろぼろその姿を現してくるようでもあって……。とても国葬どころではない、ということ。


【22年9月4日】
某俳句冊子に4回+1回補遺という形で、連載をさせていただいた。最後の原稿を書き終え、冊子の発行責任者の方と連絡をとり、印刷所の方へ原稿をメール添付で送り終え、改めてちょっと思うことがあった。それは、今回の原稿は、誰のために書いたのか、ということだった。俳句のため、などと言えば格好良いかもしれないけれど、残念ながらそうではない、と思う。では、その冊子を読んでいる方に向けて、というわけでもないようだ。私自身は、その冊子がどのような方に送られているのか、十分には知らないでいる。おそらく、俳人が中心であろうなとは思うけれど、確信はない。ならば、広く俳人の方たちのために、という事かと言えば、必ずしもそうではない。発行責任者の方からは、今回の一連の文章について、「あなたが理解して、当たり前のことと前提する知識や立場を元にして、書いているようだ」という感想を得た。「つまりそれは、あなたの手になる啓蒙の文章なのですね。」と。啓蒙とは、文字通り「蒙を啓く」ということで、自分より知識や認識の度合いが低い人に対して、教育的配慮からその劣っていると思われる部分、足りないと思われる部分を教え示すふるまい、とでもいうことになろうか。完全に、上から目線の、なんとも人を見下したような態度の現れそのものであろうか。ただ、その言葉を聞いて、こちらはそうかとうなずくところがあった。この文章の対象は(全部の内容ではもちろんないが)、地元の句会のひとたちへの腹立ちや、恨み言の反映のようなものが実はあったのではないのか、ということだ。地元に帰って7年余り、句会に加わって6年近く、今にいたるまでみごとなほどにその句会で私の句は黙視、時にあからさまな批判の対象になる時もたまにはあったけれど、黙殺されてきたわけだ。変な句が多いので、たしかにそれもまあやむを得ないことかもしれないけれど。とはいえ、そのストレスはかなりなものがあったのであろう。その腹立ちや、怒りや恨みつらみの鬱積が、言語認識論的な立場から俳句を見直すという、静塔の『不実論』をひとつの弾み台として、結構長い文章を書かせる原動力のひとつともなったようなのだ。原稿内容を確認する発行責任者の方との、長い電話のやり取りの中で、ふっとそんなことを話題にした。すると、その人は、涼しげな声で、「あなたは、句会に対して初心(うぶ)なんだな。」と、さらりと口にされたものだ。『初心?』と、その言葉の意味をつかみかねていると、その人はさらに続けた。「そもそも、句会とはそんなものではないのかな。あなたは、これまで関西にいてそれとは少し違う句会にもっぱら参加していた結果、ごく一般的な普通の句会のありようというものに不慣れなままで過ごしてきたのだ。初心とはそういう意味です。」「……?!」と私。「ところで、その句会。最近もあいかわらず『黙殺』状態ですか。」とさらに尋ねられる。「いえ、実は最近はそうでもないようなのですが……」としどろもどろのこちらの返事に、「それは、あなたの句が句会に受け入れられ始めた兆候なのかもしれない。この変な句はあなたの句だという了解の部分も含めて。」その最後の言葉を聞いて、こちらはさらに考え込んでしまうところもあった。けれど、同時に、「もういいや。こちらはこちらで、好きなようにやっていこう。」との思いを強めることにもなった。なんとなく、言い難い内心のこだわりのようなものが、すっと解けたような気分になる。
改めて、思う。今回の文章は、自分のために書いたもの(全部ではないけれど、内容の中心につながるところで)である。言い換えると、自らの内心の整理のために書かれたものということだ。私のために、ずいぶん誌面を犠牲にしてしまったものだ……。それゆえに、内容自体は、俳句というものをきちんと考えてゆこうとされる人たちにとっては、ずいぶん物足りない生煮えなものに終わってしまった。悔やまれるところである。


【22年9月2日】
『曽我物語』読了。曽我兄弟の仇討ち物語。NHK大河ドラマの『鎌倉殿……』で描かれる、関東武士たちの姿を、より生々しいものとして堪能できる一冊。その前に読んでいた『義経記』もなかなか面白かったけれど、こちらの方はさらに野蛮で血なまぐさい部分が描かれてあるようだ。と同時に、中国の様々な文献内容が引用されて一章を作っていたり、最期は仏教信仰のお話風で終了したりと、内容的にも変化に富んでいて、その点もおもしろかっ。曽我兄弟の五郎、十郎のうち、弟の五郎が囚われのうえに最後は処刑される場面で、わざと切れ味の鈍い刀で打ち首としたので、ほとんどのこぎりで首を牽ききるような処刑になった、など、その血生臭さの極点であろうか。また、季語としても有名な「虎が雨」の背景をじっくり鑑賞出来たのもよかった。ちなみに「虎」は遊女で、十郎の想い人であった。
強烈な台風が、ややこしい動きをしているようだ。いずれ、こちらの方にも影響が現れるのだろうけれど、移動が高温の海水域を経由するということで、上陸後一気に勢力が衰えるという通常のありかたとは様子が異なっているようで、ずいぶん気がかりではある。念のため、実家の庭の木の、伸び気味の枝を数本、切り落としておく。電線の引き込み部分に、風のせいで触れそうなところがあったため。今も、そとは降雨。日中の犬の散歩は、雨が降りやんでいる時をねらって、連れて行く。
国葬にしろ、統一教会にしろ、その対応策が、なんともことなかれで済まそうとする姿勢が露骨すぎて、呆れる。それで、国民をごまかせると思っている政治家の知性と品性を疑ってしまう。そこまで舐められている国民も国民なのかもしれないけれど。どっちも、どっち?