日記のようなものを書いてみようかな、と思いました。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、という事です。 独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さい。 |
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「第九」の本番、本日終了。ほとんど一日仕事で、かなり疲れる。しかし、入場人数を含め、コンサートの出来は上々であったように思う。オケ、合唱ともにプロは一人も混じらない純然たる素人集団。指揮者とソリスト4人はプロ。特に、ソリストは二期会で活躍しているメンバーを招聘して歌っていただいた。普通なら、合唱団はソリストと同じ、第三楽章からステージに乗るのだけれど、今回は第一楽章から舞台上にスタンバイして、「第九」を最初から聞く体制となる。指揮者の考え通り、「第九」の合唱は第一楽章〜第三楽章の主題をすべて第四楽章当初で否定したうえで、あらたに歌によって提示された「第九」の中心テーマを担っているものだ。合唱団自身が、第一楽章から「第九」に耳をすますことで、より合唱の重要性を感受できるだろう、という配慮がそこにある。とはいいながら、第一〜第三楽章のオケの演奏は、称賛に値する内容と質の高さを感じさせるものだった。最初から聞いていてよかった、と改めて思うほどの出来上がりだった。指揮者自身が、今までで最高の出来と称賛するほどであったが、確かにきっとそうなのだろうと感じさせられた演奏だった。コロナ禍の「第九」。第八波の襲来を実感させる状況の中で、演奏会が実現できたことはなによりだった。それにしても、かなり疲れたけれど……。
ドイツに勝利した日本は、コスタリカに敗退してしまった。決勝リーグの出場チーム、ややこしいことになったようだ。サッカーの異様な熱狂は、かなり辟易するものはあるけれど、しかし結果はちょっと気にはなるものだった。
犬を病院へ連れて行く。毎月の定期健診のようなもの。主に、ノミ・ダニの薬。自分でやってもよいのだけれど、行ったついでにいろいろ細かいことを尋ねたりもしておける。三代目が、とにかく病院に縁があったということで、その危惧が四代目にも反映しているようだ。ただ、すでに健康面で注意しなければならない点がいくつかあるので、そこからも病院との定期的なやりとりはしておいた方がよいかも、とは思う。キャリーバックに入れられ、車に乗せられた犬は、外出をちょっと喜んでいる風情だ。車による外出を嫌がらないのはありがたい。病院の診察台では、すっかり上機嫌な様子であった。能天気?
『渡辺白泉』がらみで、同じく新興俳句系の俳人高屋窓秋の『高屋窓秋俳句集成』を読み始める。白泉は窓秋の初期作品の、いかにも「馬酔木」系統の作品にまず心惹かれたようである。窓秋自身は、自らの俳句観やおそらく俳句の傾向が「馬酔木」とは異なることにやがて気づいて、別の新興俳句系の雑誌に移ったようだけれど、しかし個人的には「馬酔木」風の諸作にもずいぶん心惹かれるものがあった。句としては「白い夏野」としてまとめられてあるようだけれど、都会的な叙情味の感じられる作柄は若い白泉が心ひかれたのもわかるような気がする。その後の、窓秋の作風の大きな変化には驚いたけれども……。
統一教会関係の被害者救済法の政府案は、いろいろ穴のある内容らしい。会期末も近づき、とりあえず出せばよい、成立させればよい、という「やってる感優先」のザル法にならないことを願う。政府は、野党案の中の「マインドコントロール」という言葉の定義が困難であることを問題にしているようだけれど、しかし政府案の中にある「霊感」、それによって人々が惑わされ、恐怖や救済の願望の中で、多額の献金へとつながっていく主要な要素である「霊感」というものも、また「マインドコントロール」以上に定義困難な内容(なにしろ「霊感」なのだから。それが特殊な詐欺用語として頭から否定されたものとしての扱いであれば、事情は違うだろうけれど)のようにも個人的には思われたのだが……。
二日連続の「第九」のレッスン。かなり煮詰まった練習になったように思われる。さて、やがてくる本番は、どうなることだろうか。
朝はさすがに寒くなった。犬の散歩も、時間帯をややずらして、日差しを受けながら近所を歩く。犬も、毛皮をまとっているとはいえ、さすがに寒いだろうと、散歩の前にセーターを着せてから出かける。セーターを着ると散歩だと、犬の方でも了解しているみたいで、行く気満々で、すんなりセーターも着させてくれる。散歩を終えて、ブラッシングのために着ているものを脱がせる時も、自分から手(脚?)をすっと抜いて、協力してくれる。うちの犬は頭が良い! などとと思わず感心してしまう……。
『渡辺白泉全句集』を読む。『富澤赤黄色男全句集』を読み終えて、その流れで読んでいる、二人ともに、新興俳句の旗手といってよい人物。富澤の方は、詩人的な気質濃厚の人物で、難解な俳句以上に、詩的散文の方をつい楽しませてもらった。渡辺の句を読みながら、そのいわゆる戦火想望俳句の諸作に興味を引かれた。実際に戦場に出たこともない俳人の想像の句だと、変に軽く見られているところがあったようだが、彼とは対照的に、実際に一兵卒として船上で戦った長谷川素逝の『砲車』の実体験に裏付けられた戦場俳句とはまた別の感銘を受けたことだ。その後、素逝が花鳥諷詠の世界にすっぽりと収まってしまったことなども、あわせて興味をひかれたりもした。直接体験したこと以外を詠むことに価値を見出さないみたいな偏狭な作句観は、さすがに現在においてはあまり取沙汰されないとは思うけれども……。
自賠責保険の運用益をかってに一般財源化して使い、その後ろくに返済もせず(国民の拠出した金を運用して、その運用益は当然国民に属するものであろうに、勝手に使っているので、それは明らかに国民に対する勝手な借財のようにも思えるけれど。その返済に100年かかるとか、かからないとか。たしかに、相当悪質な借金踏み倒しのようであり、ひどい話だと思ってしまう。その他いろいろ金がらみの妙な話があるようだけれど)、それどころか自賠責の徴収額をあげることで、その借金の埋め合わせをはかろうとしているとか、いないとか。よくわからない、この国のあり様の一端だ。
(追加)白泉は、昭和19年6月に召集され、1年余りの軍隊経験があったようだ。その間、戦場に赴いたことはなかったようだけれど、米軍の飛行機の機銃掃射に見舞われた経験や、戦死した兵、あるいは米軍捕虜を目撃した経験などはあったようで、その間の経験を相当数句として詠っているようだ。戦火想望の句のみではない、ということを追加しておきたい。
何十年ぶりかで、短冊に墨で句を書く。句会場に使っている施設の文化祭に、協力を依頼されたと世話役の人から頼まれて、やむなく書くことになった。書はまるでダメ。短冊などとも無縁の暮らしを続けてきたので、困惑する。仕方ないので、なぜか手元にあった書の道具を引っ張り出して、練習。1時間ほど手慣らしをしてみて、あとは「えい!」と、短冊二枚に墨書。なんともぐにゃぐにゃな文字が出来上がったけれど、内容が犬俳句なので、犬がぬいぐるみを枕に昼寝しているの2L版サイズのカラー写真を添え、犬を詠ったミニ句集を同時に展示してもらうことで、お茶を濁すこととした。
「死刑ハンコ大臣」が結局辞任。本名よりも、「死刑ハンコ」の方が流布していきそう。本当に、「ハナシ、話にならない」大臣であった、ということか……。そのまま、続任していて、仮に死刑執行の許諾をすることになれば、自分の人気取りのために人一人死刑を許可するのか、などとおちゃらかしとも皮肉とも思われる書き込みが、ネット上にあふれ出たことだろうと個人的には思う。日本の死刑制度におけるその執行は、担当大臣の人気のバロメーターみたいなことになれば、法の保証する尊厳もなにもなくなることだろう。速やかに更迭すれば、まだ傷は浅かったかもしれないのに、安倍以降、無理押しをして、その後一切の批判的意見に耳をかさなければ、事はいずれ収束するという歪んだ認識が政府の中にいまだに安倍の「負の遺産」として残っているような気がする。国民を舐めているというのか、そんなふうに舐められる国民が今の状態を作ったというのか、「鶏と卵」の関係そのもののようだ。
『愚管抄』も、残り五分の一ほどとなった。本文が漢字カタカナまじりの文体で、よみずらいことはなはだしい。「『愚管抄』モ残リ五分ノ一ホドトナツタ。本文ガ漢字カタカナマヂリノ文体デヨミヅライコトハナハダシイ。」と、本文を変換してみると、その読みづらさの一端がご理解いただけようか。こんな調子が、四〜五ページも続くと、目が痛くなって、視力の限界、という状態になる。『ジャン・クリストフ』、後編もようやく半分ほど。主人公が決闘騒ぎに巻き込まれたり、母国ドイツと逃避行中のフランスが危うい関係に落ち込んだり、一方では次第にクリストフの作曲家としての力量が世の中に認められ始めたり、となかなか変化に富んだ内容。面白い。
久次ぶりに遠出して、城下町での吟行句会。紅葉は終わりに近かったけれど、銀杏の黄葉がみごとだった。城内各所のみごとな松の立ち姿も見どころのひとつだった。天守閣は、確かに立派だけれど、それ単体で見ると、巨大なおもちゃのような印象であった。あまり、城について、興味を感じていない証拠なのだろう。かえって、城壁を背後にずらりと並べられた菊花展の花々が絢爛豪華な感じで面白かった。文部大臣賞とか、各新聞社賞とかが、出品作に褒章が付されてあったけれど、確かに見ごたえは十分であった。ただ、その見栄えのために、薬品(などと言えば大げさな気がしたけれど、肥料のことなのだろうか……)などが使われる、と出品者からこそっと教わったのも、興味深いことではあった。純粋に自然な力だけではなく、大輪の菊の鉢植えは自然と人力との合作ということになるのだろう。とはいえ、とても美しかった。。
最近の政治の動きをみていると、我が国もそろそろ第三次世界大戦に備えて、本格的に軍備の増強に邁進しようとする意志と方向を否応なく感じてしまう。こんなこと言うと、平和ボケしたお花畑的人間に見られようが、報道されるウクライナの惨状を目の当たりにしていると、戦争という事態をどこかで是認(売られたけんかとか、やむを得ないとか、巻き込まれとか、いろいろ理由はあろうけれど)、その方向を目指して進もうとする力学に直接・間接に加担している方たちのほうが、よっぽど「平和ボケ」した「お花畑」的存在のように思われてくるのは、なぜだろうか。戦禍の惨状の当事者に自らが立つという事に対する、想像力の欠如を思ってしまう(ビビりなので……)。何の力も持たない一般人でも、せめてこの破滅に対する想像力を鋭くしておくことは必要なように思う。
小冊子を送る。愛犬を詠うミニ句集と、短編小説について感想をいただく。ありがたいことである。日本文芸家協会から、「全国同人雑誌」に小冊子掲載の意向確認の書簡をいただく。
「Jアラート」が、また鳴った。後程、訂正が入った。情報の信ぴょう性が疑われるようなことでは、ほとんどお騒がせ以外の何物でもないようだ。「狼が出た」と大騒ぎしているうちに、本当の緊急事態が生じた時に、正確な対処が可能なのだろうか、と個人的に思う。それと、「アラート」のメッセイジの中で、ミサイルの「飛来」は事実を正確には語っていないように思う。煽情的な表現は、抑えた方が良いように思う。「Jアラート」を出すようなケースの場合は、(交戦時でもない限り)ネット上で「ホリエモン」も語っているように、列島上空を通過、であり、そのうえで落下物等注意、ということになるように思う。ほとんど、自虐的ギャグの対象になっているような「地下室」等々の一連の避難指示は、都市部を除いて、日本列島全土にわたり全く実情に沿わない対応策。見ててむなしい。「言っているだけ」、という印象で、本気度をほぼ全く感じない。
第五回目のコロナワクチン接種の通知が来る。こんなに頻繁に接種してて、身体に大丈夫なのだろうか、という危惧を感じつつも、高齢者と病気持ちは受けておいた方がいいだろうな、と思う。インフルのワクチンは、先日接種済。
「小春日和」は、11月7日の「立冬」以降に用いられる季語なのだろうけれど、つい使ってみたい気分になるほどに、穏やかな日和だ。青い空とふわりと浮かぶ雲を見ていると、のどかな気分になってくる。コロナや物価高騰やカルトやタガの緩んだ政治や、核戦争の危機をはらむウクライナの「紛争(実質は戦争)」などから、ちょっと隔たった気分……。