日々録
日記のようなものを書いてみようかな、と思いました。             
備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、という事です。
独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さい。

         
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【23年1月27日】
本日は、定期通院の日。一通り検査を受けて、やがて診療室への呼び出し。着席すると、若い先生が検査結果を見ながら、何か考えている風で、やがてこちらに顔を向けて、ちょっと確認したいことがあります、と言われる。特定の検査値の値が、異常に高いという。従来の数値の3倍近い、急な上昇率。訳もわかなないまま、こちらもちょっと身構えて先生の質問を聞く。先生が言われるには、ここ数日相当激しく体を動かしたことはないか、とのこと。質問の意味がよくわからなかったので、答えかねていると、例えば、と話を続けられる。たとえば、ここ数日、頑張って雪下ろしなどの作業をしなかったか、との意味らしい。雪下ろし、雪かきとここ二日、我ながら猛烈に近い状態で雪と奮闘したことはたしかだったので、がんばりました、と返答する。すると、お医者さんは、やっぱり、と納得した表情で、特定の数値が異常に高い値がでたのは、それが原因だという。場合によっては、服薬の副作用で似たような状態になることがあるという。それが心配だったようだ。今まで、一度もそのような状態に陥ったことはなかったので、今回の突然の異常値の原因はそれだと判断されたようだ。筋肉痛とかは、ありませんか、と追加の質問。特にありません、と答えて、この件は終了となる。
ことほど左様に、今回の10年に一度の異常寒波とそれにともなう大雪は、こちらの身体状況にまで大きな影響をもたらした、ということのようだ。
ともかく、数年前の豪雪越えの今回の大雪には、ちょっと甘く見ていたこちらの予想を大きく覆すもので、かなり大変だった。記憶の中で、もっとも強烈な「猛吹雪」を目撃したのも今回だった。高齢の母も、あんな吹雪を経験したのは、初めてのことと言っていたので、相当にすさまじい「吹雪」だったと改めて思う。
本日になって、寒波の峠を越えた実感はあったけれど、明日はまた、終日雪の予報である。明日予定された行事が二つ、キャンセルになった。異常寒波の余波はまだ続いているようだ……。

【23年1月23日】
静かで、穏やかな夕暮れ。犬を散歩に連れ出しながら、明日の夕方には、この冬枯れた草原がどんな情景に変わっているのかと思う。10年に一度の寒気団が、徐々に南下しているらしい。明日は、強風と降雪にみまわれるのかもしれない。すっかり変わってしまった景色など、あまり見たくはないな、というのが正直な気持ち。断水や停電は嫌だな、と数年前の状態を思い出して、つくづくと思う。
中井久夫の著作を読み進める。中井久夫は、戦争と平和に対して、政治的な価値意識は一切持ち込まない形で、話を進める。言い換えると、戦争と平和の実像について、ずいぶんクールに話を進めているのだ。戦争とは、このようなもの。そして、平和とは。そんな冷静な分析と論述が続く。その内容に対して、どのような意見や感慨を持つかは、それこそ読者自身にまかされているようだ。ただ、それゆえに、希望的観測よりは、暗鬱な未来像がこちらの胸奥に浮かび上がってくるようで、落ち着かない気分になる、ということなのかもしれない。それにしても、戦争それ自体が、学問や考察の対象になるという発想が、こちらには薄いということを、知らされた思いではある。


【23年1月20日】
中井久夫『戦争と平和 ある観察』を、図書館で予約をとって、昨日から読み始めた。『ある観察』とあるように、筆者自身の体験を踏まえた「戦争」と「平和」論である。正直言って、今のところ、読んで気持ちが沈みこむような内容だった。ここにかかれたような状況が、このまま現在の世界や日本で進行するとしたら(したら、という仮定表現よりはもっと生々しい現実味をもった内容であるように思われるのが)、ここ数年の間に日本も、自らそうなることを招いたようにして、戦争状態に突入するのではないか、などとつい思わせられてしまう内容だったからだ。日本が自ら起こす戦争ではもちろんない。台湾情勢を巡って、米国と中国との間いに生じる紛争に、巻き込まれる形で日本も参戦するという形でのことだ。まちがっても、ロシアが、北方領土簒奪のために日本の北海道辺りに進軍するということではない。ロシアには、そんな余力はないだろうと思われるので。もちろん、北朝鮮と日本との直接戦争ということも起こり得ないように思う。
戦争反対を主張する人々に対して、「お花畑」に生きる人と嘲弄する声が上がる。それはお決まりの常套句ですらあるようだ。ただ、その嘲笑の声をあげる人が、実はまさに「お花畑」に生きる人たちと、個人的には改めて思ってしまう。かれらの主張するのは、実は「平和」のための「戦争」ということであろう。平和を維持あるいは、回復するための正義の戦争こそが、内心戦争を肯定し、戦争を待望すらする、自らの主張の大きな根拠となるものである。戦争を担保としての平和、ということだ。しかし、中井氏の主張を読めば、「戦争」と「平和」とは、双方向的にその延長上あるものではなく、「戦争」と「平和」は全く別物である、とする。ゆえに、「平和」のための「戦争」など、ありえないということになるようだ。「平和」という「花園」を維持するためには、あくまで「平和」な状態を維持する以外にないということでもあるようだ。今の平和を維持するために、軍事費をかさ上げし、軍備の増強を図るというのは、それは「平和」のための備えではない。あくまで「戦争」のために、ということになるようだ。
コップにため込まれた水は、いずれある瞬間にコップのふちをこぼれあふれ出す。あふれ出した以上、そのまま放置することはゆるされないことだろう。しかし、では誰がどのような手段・方法を用いて、流れ落ちる水をとめるために蛇口をしめる術を本当に知っているのだろうか。戦争は、始めることはある意味簡単ではありが、それをやめることは至難なこととは、プーチンなどは今現在身に染みて感じていることなのだろう。さらに戦争のドツボへと転がり落ちていくほかはないのかもしれない。
中井久夫の著作。今のところ、なんとも気が滅入る内容であったりすることだ……。

【23年1月13日】
『ボヴァリー夫人』を読み始める。第一部終了、第二部へ。翻訳ということはあるにしろ、今まで読んできた日本の小説とは、妙に異なった感触を強く感じる。物語の細部のリアリティの追求の、その度合いと言うのか、密度というのがとても濃い、そんな感じ。物語の筋の展開からいえば、そんな細部はバッサリ切り捨てて、本筋を中心に話を進めたら、お話そのものはずいぶんスムースに進んで行きそうなきがするけれど、それがない、という感じ。とはいえ、だからといって話全体がもたもたもさもさ進んでいるわけでは全くない。作品世界の輪郭な内部構造がきっちり、それこそ過不足なく、的確・簡潔に描き出されている、その精度がとても緻密、という印象を読むものにもたらす。これは何なのだろう、と思う。
 
大阪湾に迷い込んだマッコウクジラが死んでしまったらしい。こんな沿岸に迷い込んだ時点で、生き延びることは難しかったのかもしれない。たくさんの見学者やマスコミの記事や画面を通じて、多くのひとに看取られながらの死、ということになるのだろうか。

コロナ関連の死亡者が急増しているらしい。一月で一万人の死亡、などと聞くと、本当に恐ろしいと思う。潜在的なコロナ患者数の多さが、その背後にあるらしいと専門家が分析しているけれど、そこでこの現状をどうすべきかについて、ワクチンを打てとか高齢者に注意しろとか、従前の方針意外に新たな具体的な提言はないようだ。医療従事者の方々の一刻一刻の苦労に、感謝の思いが強い。それにしても、ネットの書き込みをみていると、罹患者が多いから、死者が増えるのは当然、的な発言をごく普通に見かける。事実はそうなのかもしれない。ただ、コロナによる死者は、あの一頭の鯨のように、社会的に看取られているのか、どうか……。

【23年1月9日】
22年の7月5日から読み始めた、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』を本日夕方読了した。ほぼ6か月あまり、上下2段組み2巻本の大部の小説を、毎日ほぼ10ページずつ読み進めて、読み終えた。感無量。読んでいる際は、日常の時間の流れとは明らかに異質な小説内時間を堪能できた。一人の強烈な個性の持ち主の作曲家を主人公とした、その誕生から死の瞬間までを描いたスケールの大きな成長物語。舞台も、ドイツに始まり、フランス、イタリア、スイス、そして再びのフランスへと展開する。主人公の人間的成長を長いスパンで描き出した、とても読み応えのある作品でした。大げさではなく、本を読んでいる間は、主人公の人生に身近に立ち会う感覚があって、それもまた感動を深めるものとなった。やっと読み終えて、満足。本日は、『ジャン・クリストフ』読了記念日とでも命名したい思い。
  次は、何を読もうかと思案中。トルストイの『戦争と平和』も読み残している一冊ではあるけれど、こちらは読み始めたら1年以上はかかりそうな気がして、ちょっとためらいがある。とりあえず、同じく読み残しのフローベル『ボヴァリー夫人』など、どうかなとも思う。


【23年1月5日】
年末の大掃除の際、不調だった2階の和室の電動シャッターが、完全に壊れたようだ。元々、あっても使うつもりはなかったけれど、ついちょっと動かしてみたら、半ばでシャッターが停止し、そのまま動かなくなった。このままにしておいても、特に差しさわりはなかったけれど、ちょっと鬱陶しくもあったので、住宅メーカーに連絡。今日、様子を見にきてもらう。全く動く様子もないので、業者に確認しますと、帰っていかれた。中古で購入した物件だけれど、不必要な設備の処置は面倒くさい。この電動シャッター、寝室にも備え付けられてあったけれど、初めて稼働したさい、小鳥の古巣がシャッターの降下とともに出てきて、びっくりした。普段は全く使わなかったけれど、台風の時、試しに使ってみたら、風にあおられるのか、ガンガンガシャガシャ鳴って、規模以上に猛烈な台風のような印象が不気味で、即使用を中止したことがあったけれど。
  朝は小雨混じりだったが、日が高くなるにつれて、天気は回復。暖かい日中となる。遅ればせながら、犬の散歩にも出かける。暖かく、地面が乾いている方が、犬にとっても大いに気分がよさそうだった。帰宅後は、母が練習するピアノを聴きながら、いつもの通り昼寝をしていた。

少子化対策。「異次元の」などと宣っているけれど、国民はすでに先行した「異次元の○○」が、大企業とお金持ちを除いて、たいした成果もあげぬままに、結果として国民を困窮生活に追い込んでいることを知っている。「異次元」のメッキはもう剥がれているのに、そのことに気づきもしないのだろうか。政策の一貫性、みたいな政治家のご都合主義的文言は、いらないな、とつくづく思う。ネット上で、多くの一般の人たちが指摘もしているように、場当たり的な給付金対応より、もっと根本的な部分に手を突っ込んでほしい、と内心思う。
それにしても、少子化に対する諸策が、安定的で豊かで幸福な未来とは真逆な、いずれ来るかもしれない戦時の人員補充と、戦費調達のための富国強兵策の準備としてなされる、などという悪夢みたな未来に繋がったりはしないよね、などとちょっと妄想的に思ったりもすることだ……。何かの番組で、タモリさんは来るべき未来像に対し、「新たな戦前の始まり」的な趣旨の発言をされたとか。いつか言われた「産めよ、増やせよ」が、新時代の新たなスローガンなどにならないことを、密かに願っている。

【23年1月1日】
新年、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
  元旦は、高曇りの一日。気温は10度くらいまで上昇する。とはいえ、朝夕は寒い。ただ、日の暮れる時間が少し遅くなったという実感あり。犬の散歩も、5時過ぎると一気に暗くなっていたのが、最近は少し余裕がある。小型のの懐中電灯を用意してはいるのだけれど、それを使う必要はないくらいの明るさの内に帰宅できる。
実家は初詣に出かけたようだけれど、こちらは一日ほぼ家籠り。朝の犬の散歩と夕方の軽いウオーキング以外は、ほぼ自宅。「スパイ・フェミリー」というアニメを、この三が日に集中してやるらしく、それを見たり、本を読んだり、とサンドイッチ風に時間を使いながら過ごす。「スパイ・ファミリー」なかなか面白い。
年賀状は、今日は40枚くらい来る。81枚出しているので、追々また届くのだろう。来なくなったものを年賀状ソフトのデータから削除て整理しつつ、細々と続けている。内容のいちいちというより、賀状が届くことで元気でいるらしいことが手ごたえとして確認できるのが良い。ラインやSNS経由のものも少々。もうしばらくは、賀状による新年のあいさつは続けるつもり。