日記のようなものを書いてみようかな、と思いました。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、という事です。 独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さい。 |
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【23年2月25日】 【23年2月18日】 【23年2月13日】 【23年2月8日】 【23年2月4日】
ふと気が付くと、今日はもう2月25日。前に書き込みをしてから、すでに1週間が経過している。1月は「行く月」、2月は「逃げる月」、3月は「去る月」などと、ダジャレ交じりに言ったりもするけれど、シャレでなく、毎日が過ぎていくことのなんと早いこと、と思ってしまう。変化に乏しいなりに、それなり規則正しい生活を送っている、その結果であろうか、などとも思ったりするけれど。
この簡を含めて、3人の俳人の全句集を読了する。一人は右城墓石、一人は阿部完市、一人は三好潤子。いずれの俳人も面白かったけれど、印象鮮烈だったのは、阿部完市。この人は、昔は敬遠気味だったけれど、改めて読んでみると、面白い。面白い、というよりは、内容はよくわからない(というより、理解不能に近い)けれど、にもかかわらず作品全体がとても清潔感があって、純粋で美しい、という印象を強く持つ。俳句が内に抱え込む、様々な夾雑物がほとんど存在しない、作者独自の不純物の混じらない個性的な世界が静かにそこに存在している、という感じであった。三好順子はその逆で、作品内に一人の三好潤子という強烈な逞しい、そして繊細な個性が横溢しているようで、その迫真力に感銘を受けたことだ。今現在は、以前種田山頭火の全句集を読み終えたその続きとして、自由律の尾崎放哉を、これも全句集をまもなく読了の予定。自由律とはいいながら、作者らしい自然なリズム感、あるいは息遣いの生かされた作品群で、何気ない日常の生活のさまざまに、作者自身の個人的で密かな詩心が詠われていて、心惹かれることだ。
政府のお偉いさんが、子供の出生率が増えれば、その結果としておのずと必要な予算は倍増する、と堂々と語り、官房長官も全体としては政府の主張と齟齬はない、と堂々と弁護しているようだ。出生率倍増にともなって、倍増していく予算であるのなら、何のための事前の少子化「対策」予算なのか、意味がわからないことになる。わざわざ予算を審議したり、予算を着けたりするまでもなく、ただただ国民が頑張って「産めよ、増やせよ」とやってもらえれば、ことは足りるということなのか。詭弁ですらないな、と思ってしまう。
朝から雨。今日は終日こんな天気らしく、犬の散歩もウオーキングもなし。外に出る機会がないので、家籠りを決め込む。読書は、なし。午前中から、昼食を挟んで午後にかけて、投句用の俳句を20句ほど作る。たっぷりの時間をとって、まとまった句作をしたのは、今月はこれが初めて。いくつかは、さっそく投句用紙に記入して、雨の中近所のポストへと投函。小さな小売店の前にあるポスト。行ってみると、駐車場にミニパトがとまっていて、ショウウインド越しに、警察官が店の主人と何か話をしている姿が見えた。何かあったのだろうか、とちょっと野次馬根性が刺激されるが、そのまま自宅へ帰る。
ここ数日、時計型の健康器具によると睡眠の質が「悪い」と警告が繰り返されているので、帰宅後、昼寝をすることとした。夜の睡眠状態とさほどの関係はないのかもしれないけれど、ベットにもぐりこんで、寝る。寝たか、寝なかったか、はっきりとはしなかったけれど、一瞬、犬を連れて散歩していて、向こうから自転車が突っ込んできて、慌てて犬のリードを引っ張って、ということではっと目をさました時があったので、少しは眠っていたらしい。最近は、夢の中に犬がしばしば登場するようになったことだ。
買い物に行く。買うのは、生鮮食品が中心であるが、全般に2割前後の値上がりを感じる。牛乳やヨーグルトは必需品なのだけれど、これらはまだまだ値上げしそうで、うんざりしてしまう。卵類はなぜか一時期よりは10円前後値下がりしているみたいだけれど、以前に比べると20円くらいは高いようだ。魚肉ソーセージなどは、値段据え置きで、しかしあきらかに分量が少なく(本体の長さが短く)なっているのがわかって、なんとなくさみしい気分になる。いりごまなどは、小さな1パックが30円ぐらいぽんと値上がりしている。腹立たしい……。だいたい、買う品目がさほどかわっているわけではないので、その値段の変化がより明らかにわかってしまうことだ。
雨は、しょぼしょぼ降り続いている。さほど寒くないことが、ありがたい。
マスクの着脱は、基本的に各個人の判断にまかせるとのこと。3月13日を期に、政府としては一定の目安的なものは示す格好をとっているけれど、それはごく無難で常識的な範囲のものであって、そんなことをいまさら示されても、という程度の内容。それにしても、インフルとコロナの根本的な違いは、誰でも知っているように、有効な治療薬がいまだ開発されていない、ということ。ワクチンも万全ではないということ。高齢者を中心に、相当数の死亡者が毎日生じていることなど。言い換えると、コロナ禍はいまだ収束状態ではない、ということ。ただ、経済や人情、国際的なメンツの問題で、行動制限の象徴でもある「マスク」というものを黙認できないという事情から、国民の安全と健康を守ることが大きな存在理由のひとつである政治にとってすら、一番痛手の少ない国民の自己責任という形で、事を収めようとしているという、いつものその場限りの場当たり的なあなたまかせの対応を、コロナに関してもとっている、というのが日本国の実情みたいだ。少なくとも、マスク自由化の対価として、医療体制の本気の整備などというような医療と衛生の根本にかかわるような部分が、強く打ち出されれば、また違った局面が見えてくるのかもしれないけれど、喉元すぎればみたいなことを繰り返しつつ、結局はそうならないのがどうやら我が国の国情、民情みたいだ。
仕方ないので、マスクの着脱については個人的に、自らの状況判断でつけたり外したはするだろうと思うけれど(マスクが、我が身の安全を自ら進んで守るひとつの道具であることはかなり確かなことなのだろうし)。全面開放などということは、やはり怖くてできないな、と思う。自らコロナにかかることはもちろん御免こうむりたいし、自らがコロナを誰かに感染させるなどということも、今までもこれからも同様に御免こうむりたい。
俳句結社『運河』の俳人、右城暮石の『全句集』読了。京都で暮らしていた時、一時期当時の主宰の茨木和生さんの許諾を得て、運河句会に参加させていただいていたことがあり、運河俳句の源流ともいえる右城暮石氏の作品は、懐かしさをともなって、とても興味深く読ませていただいた。現主宰の茨木さんとの作品の相通じる部分や違っているところなどが作品を通じて生に感じられるようで、それも良かった。
モーパッサン『女の一生』半ばまで。フローベルが『ボヴァリー夫人』で女性を主人公としたように、モーパッサンもまた、女性をその一生を通じて描き出そうとしたようだ。既成概念化された女性像ではなく、当時の時代相を背景において、より本質的なというのか、より生な女性の姿を描き出そうとする姿勢のようなものが強く感じられる。とはいえ、それでもやはり、男性から見た、あるいは見えた女性の姿を、分析的に描き出そうとする点で、女性の心情や情動までをより深く追究しようとする姿勢は感じられるけれど、やはり膜のようなものを越えがたい部分を感じたりもする。とはいえ、自己破滅型のボヴァリーの最後は、そんな小理屈なしで一気に読まされたような気もするが。それに、男性連中に対する皮肉なフローベルの視点は、面白いものだった。
今日は、立春。暦の上では春。昨日は、節分で、豆まきに恵方巻という、恒例の行事。福豆は、各部屋ごとに、二粒ずつ豆をまく(偶数は陽の数、鬼は陰の存在。豆二粒と
鬼との関係で、陰陽中和されるのかも、など。それにしても、たくさん撒くと、やっぱり後始末が面倒なので最小限とする)。玄関から、庭に向けては盛大にばらまいたけれども。その後、福豆の残りは、おいしいお酒のおつまみとして、数日いただくことになっている。「恵方巻」は、土用のウナギ同様に、もっぱら商業面で跡付けふうに定着した風習ではあるけれど、太巻きで夕食がカバーできてお手軽という面もあって、活用させていただく。とは言え、さすがに一本丸ごと一食は無理なので、半分ずつ夕食と、翌日に朝食に分けていただく。その意味でも、簡便な食事としてありがたく、美味しくいただく。
さすがに、大雪の影響も、ほとんど解消された状態。ただ、道路上には、除雪後の雪が、まだ小山となって残っているのが、少々邪魔。犬の散歩も、主な散歩コースは雪がどけられてあるのだけれど、それでも、まだ下が濡れていたりするところは、ちょっと厄介ではある。結局、抱き上げて移動することになるのだが、うちの犬は照準を越えて大型体型なので、重い。一回りして帰ってくると、心拍数が上がっているのが自分でも分かってしまうほどだ。トレーニングの一環として考えてはいるのだけれど……。
総理秘書官の差別発言。結局、解任ということになったようだけれど、そもそも総理自身が、LGBTを認めると、社会の基盤が変質するみたいな認識を持っていること自体が、認識上の誤り、大きな偏見・差別の根であると思ってしまう。与党の「産めよ増やせよ、家族第一主義」(トランプの「アメリカ第一主義」みたいな、歪んだ思想と政策みたいな)とでもいう、古臭い認識が、そもそもの問題の根底にあるのに、その部分を改めることなく、表面的な部分だけを改変しても、お得意のその場しのぎの給付金的政策に終わってしまうように、個人的にも思われる。しょせん、日本は古い体質から脱皮できないままに、世界のすう勢の中で、押し流され、埋没する運命にあるのだろうか、などと個人的に危惧する。