日記のようなものを書いてみようかな、と思いました。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、という事です。 独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さい。 |
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金曜日、ピアノ教室の発表会で、ソロで歌う場を許されて、ステージに立つ。とはいえ、その前日まで、どうしても高音部の歌唱が不安定で(突然、高音が出なくなるという状態)、もうこれならば、出たとこ勝負でいくしかないと、半ばあきらめの心境でいた。ところが、本番当日、午前中の練習の際、同じ合唱団で歌唱指導をしている人の個人練習の風景をふと思い出して、あっと気が付くことがあった。そこで、それをもとにして声出しの練習をしてみると、文字通りうそのように高音部が出るようになった。と同時に、いままで合唱で繰り返し声出しのために練習してきた、「裏声」練習(声を出す場合のポジションの確認作業)の自分にとっての意味が初めて実感できた(今までは、形だけの練習だったということだろう)。特に、喉だけを使う歌い方から、背部・下半身を重視する歌い方に変えてから、心身ともに混乱して、どう声を出していいかわからない状態にまでなって、合唱練習に行くこと事自体が苦痛になりつつあったのが、ちょっと先が見えたような気になって、気分的にも楽になったように思われた。普通、本番では練習以上のものを発揮することは(素人では)難しいと言われるけれど、ステージでは今までで一番納得のいく歌唱ができたように思う。前日までの、もやもや状態が解消されたようで、気分よく歌い終えることができたようだ。京都時代、同じ合唱団で親しくしていた人が、個人レッスンを受け、発表会でソロで歌うということを聞いて、すごいなとただただ感心していたのが、今ごろになってそれに似たような機会を得て、なかなか歌うことも楽しいものだと改めて思ったことだった。
読書。古文は『紫式部日記』を読み終え、あらためて清少納言『枕草子』を読み始める。それにしても、紫式部は面白い人物だと、その日記を読みながら思う。平安時代の女官とは言いながら、その時代や社会を飛び越えて(実際には、当然規範や習俗、それにともなう見識や発想の縛りはずいぶんあるのだろうけれど)、現代に生きる一女性の姿がそこにあってもおかしくないと感じさせるような、精神的に自立した女性の視点や発想をふと感じてしまう。『源氏物語』の現代人にとっての面白さの中身は、作者自身のあり様の面白さの反映なのだろうな、と『日記』を通じて思う。紫式部は清少納言をかなり手厳しく批判というか、その『日記』の中でほとんどこき下ろしているようだけれど、式部が時代や社会に対してどこか超然とした部分があるのに対し、清少納言は時代や社会と(一見自己主張をしているようだけれど)、自らを抑えて融和的な姿勢を保っているようで、実はその部分が式部にとって「なんとも鼻持ちならない女」のように、清少納言のことを感じさせたのかもしれない、などと思う。
漢文は『楚辞』、文学はモーパッサンの幾つかの作品を読み終えて、ゲーテの『ファウスト』に入る。ゲーテは、その詩作品とか『ウエルテル』は読んだが、『ファウスト』はちょっと敬遠気味であったけれど、いざ読んでみると、面白い。
合唱の練習が、そうとうつらい。あらたに、歌い方を変更して(今のままでは、いずれ喉に限界がきて、歌えなくなると指摘された)、喉に負担のかからない本来の発声法を身につけることとなったが、すると気楽に声をだすことが難しくなってきた。いままでのようには、発声ができなくなってきた。たしかに高音部を含めて、のどにたいする負担はほとんど感じなくなっている。しかし、声が出ない、という奇妙な矛盾状態に落ち込んでいる。特に、弱音がでない。へたすると、その部分が喉だけの発声となって、合唱練習の時、つらいことになる。変ないいかただけれど、今のところ、かなり強音で歌うときは、のどの負担をほとんど感じない。しかし、弱音で歌うことができない、ということだ、息のコントロールが、ほぼできていないということなのだろう。どうしても、声が大きくなり、合唱練習の際の声出しがかなりの抵抗感を感じざるを得ない。うるさいだろうな、と思った瞬間、無理に声を落として、その結果、喉越えで歌わざるを寝ない状態となってしまう。自身の、息コントロールができない、その結果ということだ。合唱の方の指導者に相談すると、そんな状態は自身にも経験があることで、相当つらい、という。ただ、その状態から、脱出できるのは個人差があり、いつになるのかはわからない、という。いまが辛くて苦しいのに、その答えはかなり応えるものだ。次の段階へ進もうと思ったら、その状態を耐えるしかないといわれても、辛いことにはかわりはない。こんな状態で、明日には舞台に立って、一人で歌わなければならない。ちょっと楽しみ、という点はあるにしても、やっぱりつらいことだ。
WBCは、なかなかエキサイトな試合が続いたようだ。ただ、個人的には、一番面白いと思われる場面や、試合が、色々な不都合によってライブでみることができなかったことが重なったことが悲しい。ニュースでの断片的ないいとこどりの放映では、臨場感やそれに伴う感興や興奮など、ほとんど感じられない。特に、決勝戦はまるまる見ることができなかった。ライブで見ていたら、きっとちょっとは野球に興味を感じるようになったかもしれないと思う……、などと。選挙目当てで、ウクライナまで出張した総理大臣の行動が、かなり色あせるほどの、エキサイティングなWBCの試合だったのだろうな、と悔やみつつ思う。
犬の散歩をして(早朝の雨で地面が濡れていたので、乾くのを待って)、せっかくなので軽くジョギングをし、その勢いで、久しぶりに昼風呂にはいる。シャワーではなくて、湯船につかるというのは、また気分のよいものだ。外がまだ明るくて、隣の家の庭でさえずる雀の声を聞くのも、なかなか良い。雀は絶滅の恐れがある生き物に含まれていたような気がするけれど、戸外では群れを作って、結構飛んでいたりするので、絶滅の気配は感じないでいたりする。ちょうど繁殖シーズンのせいなのかもしれないけれど。
午後は、これまた久しぶりに昼寝などをしてみようかとも思う。毎土曜日は、自由行動の日と決めているので、通常の日程にはこだわらない。スマートウォッチの機能の中に、睡眠の質の測定などもあるのだけれど、かならずしも良好な状態でもないので、昼寝でカバーしてみるのもよいことかもしれない。夕方からは、合唱の練習が市内で予定されているので、ひと眠りして、その後別の事をちょっとしこなして、雨が降らなければ犬に散歩をさせ、雨になれば別のことをして、それから出かけることにしようかと思う。夕食は、全部が終わってから。土曜日の過ごし方としては、割と良いのではないか、と思う。
選挙を前にして、総理があれこれ行動したり、予算の裏付けも不明確なままに、少子化対策などに景気のよさそうなことを壮語しているようだ。社会を変える前に、自身と所属政党の少々古臭い思考と体質を、まずなんとかしてもらったら良いのにな、と思う。「古い革袋」と「新しい酒(ワインかな?)」の箴言(古い革袋にあたらしい酒を入れても、革袋が破れてせっかくの美酒が台無しになってしまうとか……)などもあることだし、「まず槐より始めよ。」(言い出しっぺからまずなんとかしろ的な)という言葉もあるし。
WBC、16日はイタリア戦だったはずだが、テレビのどのチャンネルも夜の7時からの放送の予定はなくて、うろうろしてしまう。事情はわからないけれど、黄金番組をテレビ放映しないのはどういうことなのか、と思ってしまう。普段は、野球中継などみたことはないけれど、たまたま第一戦を見て、その選手層の厚さと豪華さに興味をひかれて、ついつい見ることとなり、中国・韓国(別に嫌中、嫌韓人間ではないけれど)に勝利して、次はイタリア戦だなと結構楽しみにしていたらこんなことになっていて、がっかりだった。あるいは、日にちを間違えたのかとも思ったのだけれど、夜の遅い番組でイタリア戦の結果などを知らせていたので、さらにガッカリということになってしまったのだ。どこかの有料チャンネルが、独占的に放映でもしていたのだろうか……。試合結果や、ダイジェスト的な内容を見て、ライブで見られなかったことが、さらに残念に思われたことだ。
今日は、指導の先生を招いて、月一の歌唱レッスン。雑談を交えながら、二時間ほど歌の指導を受ける。先生は、イタリア留学の経験を持ち、現在地元で活動をしている、ソプラノの歌い手。こちらは、バリトンということで、発声指導から、歌曲の指導までを受ける。歌うことが、ほとんどスポーツに近いことを、指導を通じて身に染みて、筋肉痛とともに感じている。歌うこと(特に、喉を下げて歌うことや、息の力の調整)に大きく関係する横隔膜は、筋肉の一種ではあるけれど、手足や腹部の筋肉のように鍛えることが容易ではなく、歌える状態にまで筋力が鍛え上げられるには数年レベルの訓練と時間が必要だということ。大変だ、と思いつつ、レッスンに励む。今月末には、人前で舞台に立つことになっている。大丈夫だろうか……。
モーパッサンの中編小説、『ピエールとジャン』。作者の解説付きの珍しい体裁のお話だったけれど、解説はさておき、内容は思いがけなくとても面白いものだった。モーパッサンに対して辛口評価であったかの文豪夏目漱石が、この一作だけは「傑作」と認めた作品であったらしい。たしかに、良かった。特に、中盤から後半にかけての意外な展開と、しみじみと、ある種の苦みをともなう終わり方に、胸打たれるところがあったりもした。当時の中産階級に対する皮肉一杯の短編『脂肪のかたまり』が、その終わり方に腹立たしいような切なさがともなっていたのと趣向的に似通ったところはあったけれど、印象の深さは『ピエール』の方が、ずいぶんまさっていることだった。
墓掃除に行く。ずいぶん草が茂っているということで、気合を入れて、掃除をするつもり。車で1時間足らず、海に近い共同墓地。はるか向こうに、かすみに曇る(黄砂ではないかと疑うけれど)残雪の山が眺められる。三畳ほどの墓地は、確かに草がまんべんなく生えそろっている様子。除草剤を撒いて、とも思ったけれど、とにかく今生えているものは、抜いてしまおうと地道に手作業で抜いていく。雑草の根の強さを改めて思いつつ、1時間半ほどかけて、なんとか全体の草を抜く。けっこうな重作業。その後、除草剤をまんべんなく散布して、お盆が終わるくらいまでは何とかなるのではないかと目算しつつ、終了。ついでに、高校の後輩で、大学時代に事故で亡くなった子の墓にも参っておく。
せっかくここまで来たので、少し足を延ばして、元の実家のあるところまで行く。海岸沿いの町営住宅で、改築に改築を加えた家が、人手に渡ったなりに、そのままの姿で残っている。その様子をちょっと見て、そのまま海岸に出て、海を見ながらコンビニ弁当を昼食に食べようと算段する。天気は快晴で、ちょっと暑いくらい。砂浜に出て、草の生えている辺りに腰を下ろして、買ってきたのり弁を食べる。海岸から沖合に、ウインドサーフィンが海面を滑走しているのが遠く眺められる。見ているだけでも、爽快な気分になる情景だった。帰りに、そんなサーファーの一人と、ちょっと話をする。今日のコンディションはいまひとつ、とのこと。風がない、という。傍目に見れば、風もあって、しかも海に波は立っていないので、軽快にサーフィンを楽しめそうだというと、ここから見て、白波が立つくらいの風でなければサーフィンは走らないという。県境の山々をこえてやって来たその人は、ちょっと残念そうな表情だった。
「ねつ造」ではなく、「不正確」な記述。だから、自分は、大臣の職を辞すことはない。この記述が「正確」であるとするなら、それはそう主張する人間こそがその証明を、すべきだ、そうだ。政治家にとって、言葉は命だと聞いたことがあるが、その命の重さは、なんとも軽々しいものとなっているようだ。「不正確」なら、どのような点でそういえるのか、というのは、その発言の責任者である当事者本人に対する一般人の素朴な思いではないかと個人的には思うけれど、当事者はその説明の代わりに論点をずらして、それを水掛け論にもっていこうとする、らしい。
自らの立場を守るためには、公的な文章の信頼性や価値や、その重みを犠牲にしてもかまわない、ということなのだろう。それが、公人の代表格の一員である政治家のやることなのだから……。
犬の知能は、人間の二、三歳児相当ぐらいあるらしいけれど、たしかにそうだなあと思う。自分からの意思表示も結構あるようだし、こちらの話す言葉も、単語ならいくらかは理解して行動しているな、とも実感する。「雨」という言葉は、「散歩」との関係で了解しているし、この冬を経て「雪」という言葉も分かるようになってきた。散歩の途中で、雲行きが怪しくなり、降り出しそうだと思われる時、「雨」だけでなく、「雪」という呼びかけからも、自分から散歩を中断して自宅の方へ引き返すようになった。おかげで、本降りになる前に自宅へ帰りつき、事なきを得る(濡れると大変なので)ことが結構あったりすることだ。
『増鏡』『神皇正統記』と、ここしばら古文関係の読書ということで読んできた。神代を含め、歴代の天皇を経歴とエピソードなどを、一方は物語風に、一方は記録風に語っていて、それどれ興味深かかった。特に、『神皇正統記』は天孫から人皇までの流れが一気にかたられているようで面白くもあった。ただ、天孫から人皇への移り行きの部分では、神としての存在が人に継承される部分が、人知を超えたところがあるとしてなんとなく言葉を濁しているような、不問にふしているような面もあったりして、ふと第二次大戦後の天皇の「人間宣言」などのことを同時に思ったりもしたことだ。特に、関連はなくて『嘆異抄』なども同時に読んでいたりしたけれど、こちらは人は煩悩に満ち満ちた生身の存在、仏は人知を超越した救済力を持つ存在としての明確な切り分けがなされてあって、それゆえに信仰の対象としての存在性を一層強く感じさせられたことだ。
子どもを出産したら、奨学金を減額?そんなことを話題とする政府・与党の方たちがいるらしい。奨学金問題と少子化問題の一石二鳥を考えているみたいだけれど、そんなことが実現するようなら、二兎を追うもの一兎をも得ず、の結果になり、そのうえ日本の保守系政治家は「愚か者」との評価が世界中に広がりそうな、そんな気がする。人の命や人生と金とを同列に考える発想の貧弱さや浅ましさのことも思う。なにより、国民を軽視し、馬鹿にしているのではないか。補助金や一時金のような目先の餌さえぶらさげれば、ことは解決するとでも考えているような、政治家としてのあまりの見識のなさにも、あきれる。最近、そんな例(特に、一時しのぎのその場の思い付きとしか思えない提言とか)が多いようだ。政治家の劣化(それは、そんな政治家を選択する国民自身の劣化の現れかもしれないけれど……)ということを思う。
モーパッサン、『女の一生』読了。読了するまで、ずいぶんストレスを感じる内容。それは、主人公の女性だけではなく、登場人物全体に対して感じたものか……。時代相や社会の相違ということも大きかったと思うけれど、もう一歩踏み出せたら、もう少し気持ちの発散のしようもあったように(やきもきされっぱなしの読者にとって特に、ということかもしれないけれど)思われた。それにしても、何度目かの浮気を続ける主人公の夫が、最期には密会の場を浮気相手の旦那さんに見つかり、強風の吹く中、巨体の旦那さんの怪力と暴風の合力によって、密会の二人が身を潜めていた掘立小屋ごと長大な斜面を吹き転げ落とされて、無残な死にざまを見せるというのは、さすがに驚いたけれども……。その当の旦那自身は、一切の罪に問われない、というかそもそも罪が発覚しなかった、というのも、時代のなせる業か。
もう三月。今日は、午前中曇り、午後は雨。寒の戻りらしい天気。昨日までの二日間。快晴が続いていて、朝夕の犬のさんぽも、まさに散歩日和という陽気だっただけに、今日の天気は、おそらく犬にとっても不本意なものであったろうと思う。実家に行って、犬と少し遊んだけれど、途中から私の腕の中でふて寝状態。いびきをかきながらねむりこけていた。この犬、「雨」という言葉は、確かに覚えているように思われる。