日記のようなものを書いてみようかな、と思いました。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、という事です。 独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さい。 |
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今日は、久しぶりに本格的な降雨。梅雨の走りなのか、南方の台風の遠い影響なのか。終日、この調子でかなり強い雨が降り続くことになるのだろう。雨の中、実家の方に顔出しをしたら、犬が所在なさそうな表情で、ごろごろしていた。母のスマホが、調子が悪くて、電源が入らなくなったということで、パソコンで情報検索をしながら、なにやかやしていたら、急に回復。滞りなく使えるようになった。なぜ、治ったのか、その理由はわからない(治ってないのかもしれないが……)。
雨の中、郵便局へ。出来上がった冊子を郵送するために。そこで、郵送料金が1冊につき20円値上がりしていることに気づいた。それにしても、諸物価高騰とは言え、郵便料金の値上げまであったろうか、と思う……。なにはさておき、発送し終えて、一息つくという気分。
今日、外出したのは、実家と郵便局。それ以外の時間は、家籠りで、ずっとレコードをかけながらの読書。『枕草子』は、読了。『古事記』を読み始める。句会の若い子が読んでいるということが刺激になったのだろうか。漢文の『楚辞』は、読むことそれ自体が、修行のような感じ。辛い。ゲーテはこれも読み終えて、今は『風と共に去りぬ』を読み始めている。全二巻。なかなか長い。それらの合間に、図書館から借りてきた詩集や句集・歌集など短いものを読んでいる。1冊の本を長時間かけて読む気力に欠けてきているようだ。目の疲れもひどくなってきているので、ひとつの読書の時間を短縮して、あれこれ少しづつ読むようになってしまった。
それにしても、よく降る雨だ。
台湾でも、中国の台湾併合のことが一般の間でも問題になりつつあるらしい。書店には、それ関係の書籍などが並ぶことが増えているとのこと。ただ、それらの読み物の執筆者は現地の人たちではなく、日本人らしい。日本人のそれ方面のジャーナリストやいわゆる専門家が、中国の台湾進攻について、台湾内部に危機感を喚起するような前のめりの内容の書籍を出版している、ということらしい。需要があるから、本が出される、売れる、ということはもちろんあるのだろうけれど……。これは、現地のジャーナリストの報告として、本日の某新聞にとりあげられてある話題だった。日本人にとって、中国の台湾進攻は、日本が対中国との戦争関係に入る最も可能性の高い状況ということは、素人なりにでも判断できることだろう。領土問題等あるにしても、日本と中国とが直接宣戦を布告しあうという可能性はほとんどあるまい。しかし、中国が、軍事力によって台湾の併合をはかるならば、それはほぼ一直線に中国対米国の軍事衝突の可能性に結びつき、それはとりもなおさず、日本の参戦という可能性にもつながっていることなのだろう。台湾の人たちが、中国との緊張関係を軍事力によって解消することを唯一の解決策として望んでいるかどうか、それはわからない。ただ、文磁力による解決には、相当の人命と財産とが犠牲に供されるだろうことはあきらかであり、それがただ一つの解決策であるなら、膨大な犠牲を台湾の人たちはあらかじめ覚悟することになるのだろう。その戦線が拡大していけば、やがて日本も他人事のようにして平穏にすましておくわけにはいかなくなるのだろう、きっと。なんというか、そんな風なことをいろいろ妄想的に考えていると、少々気分は滅入ってくる。それこそ、馬鹿な妄想であれば、あるいは妄想のままであればよいのだろうけれど。
緊迫した状況の中でも、皆が皆、一様に戦争を望んでいるわけでもないとしても、戦争は一度始めてしまえばもうおしまいだ。行き着くところまでいかなければ、その終焉をみることはない、などと言われる。その通りだろうな、と普通に考えてそう思われる。そして、その行き着く先、その着地点がどのあたりになるのかは、おそらく破壊と殺戮のかぎりをつくす一、二歩手前辺りまでいかなければ、わからないようにも思われる。そして、その行き着く先が、最悪の場合、核兵器の使用ということであれば、それこそ、戦争の終息は、国家や国民の終焉に繋がっているということにもなるのだろう。おそろしいことだ。
数日前、ブルーインパルスの見事な航空ショーを見物して、その卓越した飛行技能に感嘆の思いを感じたりしながら、空に描かれる巨大な円などを眺めつつ、ふと、それがこのようなアトラクションとしての飛行ではなく、実戦の一場面であったりしたらどうだろう、などと思って、ちょっと心にひやりとするものを感じたのも、事実ではあるのだ。
随分時間がかかったけれど、ようやく小冊子プラスおまけのミニ句集の編集が終了し、いつものネット印刷・製本会社の方へ、データーを送る。春の内に作る予定が、ついつい夏の初めにずれこんでしまった。季刊の予定が、季節をすっとばしてしまったのは、残念。製本されたものが送られてきたら、すぐにも発送作業にかからなければ、と思う。とは言え、そのための封筒の準備は、送付先のシールも貼り終えて、すでに1か月以上まえには整ってはいたのだが……。今月中には、二度の句会と、それとは関係ない句作作業が今月末締め切りで、まだ終了しないで残っている。もうひと頑張りしなければならないな、と思う。
咲き終えたツツジの手入れをしていたら、その茂りの中に、ミノムシを見つけた。昔なら、どこにでもいたようなミノムシだけれど、地元に帰って以来、その姿を見たのは、今回で二度目。しかも、こんなところに……、とちょっと驚いてしまった。雀や燕もやがて絶滅危惧種に、などという話を聞いたことがあるけれど、地元では幸いまだ元気いっぱいの雀や燕の姿を見かけるのはうれしい。ただ、実家の燕が、カラスに目をつけられてしまったらしく、巣を残して姿を隠してしまったのは、とても腹が立つ。
政治家の「詭弁」、というより、もう「愚弁」。「税金」はあげないが、「社会保険料」をその代替措置として上げる。取られる側としては、実入りが減るのは同じこと。とはいえ、子育て世代には、一方では保険料を徴収されつつも、それ以上の補助を得られて、それなりに納得、ということもあるのかもしれないけれど。「詭弁」が「愚弁」でないとすれば、そんなあたりか。とはいえ、「朝三暮四」という故事があって、王様が配下の猿に餌を「朝は三つ、夜は四つやろう」と提案したら、猿たちは不満たらたらだったけれど、「それなら朝は四つ、夜は三つならどうだ」という提案に、猿たちは大喜び。それによく似た語り口。ただ、やり方としてはさらに酷くて、「江戸の仇を長崎で討つ」みたいに、「増税ダメを保険料増で」みたいなところか。
幼少期、海岸近くの町営住宅に住んでいたのだが、そこは以前は海水浴場として有名なところで、近県からわざわざ臨海学校でやってくるようなところだった。ところが、海流の変化かなにかで、みるみる砂浜が削られ、やがて、松林一つをへだてて、住宅から続く砂浜がえぐり取られて、砂の断崖のようになってしまった。海が荒れる時には、その断崖に波が容赦なく打ち付けて、さらに砂が削られるという状態になった。幸い、やがて立派な防波堤が作られて、松林もろとも自宅が海にのみ込まれるという危険はなくなったけれど、その時期の恐怖感は、しっかりと無意識世界の中に定着してしまったのか、現在に至るまで、毎年一二度、自宅が海に呑み込まれて跡形もなくなるという類の夢として現れることとなった。そのバリエーションも様々あったけれど、昨夜はとうとう巨大なゴリラ(キングコングなのだろうか、しかしなぜ?)が、近未来的に模様替えをした住宅街を一気に破壊して、そのあとがすっかり海へ沈没してしまうという、初めての壊滅パターンで、さすがにその奇想天外ぶりに、目が覚めて恥じらう思いになってしまった。
市川猿之助の事件、驚く。事情が何なのかは、全くわからないけれど、飛ぶ鳥を落とす勢いの人の突然の失墜。ただただ、おどろくばかりだ。ウクライナのゼレンスキー氏の突然の来日。驚く。総理は、サプライズなどと、してやったり顔をするかもしれないけれど。日本の警備体制は本当に大丈夫だろうか、と心配。各国の首脳級とは、あきらかに基本的意味合いの違う時代を象徴する人の来日。さすがにロシアが何かしでかすとは思えないけれど……。何かあったら、警察の警備の失態どころでは済まないだろうし。「LGBT法」法案提出。何でも、出せばいいというものでもあるまいに。話題になった「不当な差別」という文言。「差別は不当」なら多くの人の理解を普通に得るだろうけれど、誰が考えても珍妙な表現としか思えない。それが法律の条文として堂々と提示されるとは。まさに、その条文にかかわって、男が自らを女と称して、女子トイレに侵入的な下世話な話題はさておき、今後様々な混乱が生じたりすることになるのではないか、と心配。
ドナルド・キーンの『正岡子規』読了。先行の評論を意識して、同じ資料は極力使わないという配慮のもとにかかれた評論らしい。そのせいか、内容的にちょっと説明不足のところがあったりしたようにも思うけれど、同時にそれまであまり触れられていない事実の指摘などあって、読み応えのある一冊となった。同一資料は使わないようにとはいえ、一人の人物の評伝であるから、おのずと肝になる出来事には触れられてあって、やはり筆者に強く印象付けられた出来事のひとつは、長い間病気に苦しんだ子規が、一度自殺を試みようとした晩年のある時のエピソードだった。鎮痛剤の効果的な処方によって、カリエスの痛みを散らすということがまだ十分には行えなかった子規にとっては、闘病とはカリエスにともなう激痛との戦いであったようだ。その挙句、ある瞬間にそれまで意識の底に潜んでいた自殺念慮が表面化して、妹の留守、母を使いに出しての家人の不在の中での自殺衝動の発露。しかし、その時は死への恐怖というより、自殺を失敗した時のさらに倍加する肉体的苦痛にたいする忌避感と、今死ななくても間もなく確実な死の時が来るという思いから、自殺を取りやめたらしい。そんな心の移り行きが、随筆『仰臥漫録』に淡々とした筆致で描かれてあるという。
客人の長い逗留が終わってから、数日。いつもの一人暮らしが始まったけれど、客人の気配のようなものが、まだ自分の中に残っているらしく、夜目を覚ました時など、階下に誰かいるような気分にふっと導かれるような時がある。今のところ、ちょっとぜいたくだった食生活の改善、具体的には増えた体重を再び落とすことに意を用いているけれど、そちらの方もなかなか難しいようだ。
固定資産税の請求が来る。高いなあ、と思う。自分が汗水流して働いて、購入した不動産に対して、なぜ国に金を払わなければならないのか、と素朴に思う。その土地と動産に対する権利の保障を国が行っているので、その代償として税金という謝礼を国に対して支払っている、ということなのだろうか。その日々の安寧の代償として、国に金銭を支払っている、という理屈なのだろうか。最近の税金の使われ方をちょっと振り返ってみると、いろいろ疑問を感じる。さらに、なんとなく国民は国から施しを受けている哀れな人々みたいなイメージをふと持ったりする。色々とひねくれているのかもしれない……。それにしても、税金が高い!
昨日、今日と雨模様の日。GW終盤は、水をさされたような状態なのだろう。今年は、ちょうどこの期間来客があって、例年になく、あちこちに出かけたりなどして、ちょっと連休気分を味わうことができて、この二日は文字通り休息期間になったようだ。そんな中で、庭のツツジは、満開状態も終わりにちかく、風に吹かれ、雨に打たれてちりしおれつつある。ツツジの花は、とてもきれいなのだけれど、その手入れは満開以後の方が結構厄介だ。花屑はゴミではない、とは言うけれど、やはり風に吹き散らされて花びらが路上に広がることはできるだけ避けるようにはしたい。そのための清掃とか、さらにはあらかじめがくを離れて散り落ちそうな花弁は下に落ちる前に取り除いておきたいので、手摘みで除いたりもする。やっかいだけれど、結局その方が後々の手入れがしやすかったりもするので、こまめに作業したりもすることになる。手摘み作業をしながら、間近にツツジの花びらを見て、その透明感のあるつややかさに改めて目をみはったりもするけれど。しおれた花の間引き?は、密生た花びらのために、その陰になってまだつぼみのままのものがそのまま開かないでしおれてしまうことを防ぐことにもなるような気がする。できるだけ、すべての蕾を花として開いてほしいような思いもある。もっとも、そのようなことが、本当にツツジにとって必要なことなのかどうかは、わからないけれど。
連休中には、憲法記念日とか、子供の日とか、現在の日本にとって、大切な課題を象徴的に表現する記念日が含まれている。何となく毎年一過性の話題として、ろくに継続して取りざたされているような様子を感じない。もちろん、実際にはどこかで、日々の検討や、対策、対応策が練られ、実現化に向って進んでいるのだろうけれど、私たちの日常生活に密着したかたちでの流れも動きも、ろくに感じられないような気がするのは、こちらの感性や情報認知能力の衰弱や欠如によるものなのだろうか、などと思う。あるいは、本当に肝心で大切で重要なことは、どこかに秘されていて、さしさわりのない表面的なところだけが初夏の薫風に紛れて吹き流されてくる、という情報秘匿管理社会が深く進行、浸透しつつあるのだろうか、などと妄想めいたことをふと思ったりもすることだ。
そういえば、今日の新聞の小さなコラムの中で、開戦間近な時期、街からタクシーが消えていたということを、後々になって思い当たった、などという話が載っていた。日常的に利用されるタクシーが、いつの間にか消えていた。それは、戦争に向けてのガソリン不足、あるいはガソリン備蓄の影響だったのだろうと、そのコラムの筆者は回想してしているのだけれど、それがその時には特に気にもされず(タクシーを利用する人にとってだけは、不便だなという実感はあっただろうけれど)「回想」として思い返されるところに、日常の微妙な変化が、気づかれることの少ない現実が、実は社会や時代そのものの微妙で大きな変化の前兆、兆しであったというお話は、かなり恐ろしい意味合いを含んでいると思われたことだ。
ゴールデンウイーク中日。個人的には、毎日が日曜日ではあるけれど、快晴のもと、来客中の人と出かけることにした。実は、これで連日外出が続くこと三日で、家籠りが基本の生活としては珍しいことだった。車を走らせて、新緑の某寺院へ出かける。吟行で出かけたこともあるところで、地方の寺としては、なかなか寺域も広くて、立派なところであった。山域全体の雰囲気も良く、立派な塔は、山の中腹、壮大な石組みの上に建てられたもので、まるで城郭の天守閣を思わせるような立派なもので、最上部まで登ることができて、広く周辺の山々や麓の地勢、さらに遠くにかすむ海まで見通せて、爽快な気分を味わうことができた。週前半は引き続き良い天気が続くようなので、もう一日どこかへ近場へでも出かけてみたいようなうかれた気分になる。
そんな浮かれ気分のあおりを受けて、読書のほうは滞り気味。ただ、ドナルド・キーン関係の評論を読んで、興味を感じ、図書館で彼の執筆した評伝『正岡子規』を読み始める。けっこう大部な一冊ではあるけれど、読み始めると面白い。筆者の子規に対する共感が、その人物像の描出に生き生きとした感じをもたらしていて、それが魅力的だ。
庭のつつじが、今年は例年以上に「咲き誇る」という状態だ。町中のツツジ類も、はっと目をひかれるほどに盛大に美しい。気候の関係なのかもしれないけれど、ちょっと異様な感じを持つ瞬間もあるほどだ。あまりに美しすぎるということは、どこか異常な感じをこちらにもたらすようだ。気楽に、ああきれいだ、きれいだ、と浮かれているばかりでは、なにかしら済まないようなところを感じている。これは一体何なんだろうか……。