日記のようなものを書いてみようかな、と思いました。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、という事です。 独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さい。 |
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【23年9月30日】 【23年9月27日】 【23年9月19日】 【23年9月16日】 【23年9月13日】 【23年9月9日】 【23年9月2日】
中秋の名月だった月は、早朝犬の散歩に出かける時も、まだ西の空低くに残っていた。白っぽい銀板の月が、かすかにたなびく薄雲の向こうに、人工物かなにかのような姿で浮かんでいて、ひどく印象的だった。今日で、9月も終わる。午後には、本格的に雨が降り出して、そのわりには蒸し暑さが感じられて、あまり秋らしい状態ではなかった。昨日は、「らんまん」が、そして今日は「あまちゃん」が(再放送だったけれど)終了。NHKの朝ドラとしては、どちらもずいぶん楽しめた作品だった。終了したのが、ちょっと残念。
年に一度の俳句のお仕事が、今年も送られてきた。切りよく、10月に入る明日から始めることにした。今年は、どんな作品が送られてきたのか、楽しみである。
中村草田男の全集中、メルヘンと散文関係がまとめられた10巻・11巻を読み進めている。紀行文、身辺随筆、随想、弔意文、俳論等々、多方面にわたる文章が、2冊にまとめられてあり、なかなか面白い。ただ、肝心のメルヘン関係の作品ではなく、論的な文がいまのところ全くないので、困ってしまう(俳人として著名な草田男のメルヘン作品について書くことになっているので)。作品の鑑賞文であるなら、すでに作品自体は読み終えているので書けなくはないけれど、評論的な内容としてまとめるには、材料が少なすぎる。散文の中に点在する使えそうな内容を拾い上げるという作業を進めている。草田男のメルヘン論については、山本健吉をはじめとして、すでに何人かの論者が良い評論を書いているので、その二番煎じ、三番煎じにならないことを思うばかりだ。
みるみる時間が過ぎていくようだ(前回も書いたけれど……)。気が付くと、1週間がもう過ぎている、という感じ。困ったものだ。毎日日曜日で、暇で時間を持て余すという状態でないことは好ましいことだと思うけれど、毎日日曜日でありながら、すべきことに追われているみたいな状況は、あまりうれしいものでもないようだ。
目の状態が、あまりよくない。眼科で診察を受けて、病的状態ではないと診断を受けてはいるのだけれど、するとこれは老眼ということであろうか。とにかく、本がずいぶん読みづらくなっていて(端的に、細かい文字が読みづらい)、本を読むこと自体が少々きつくなっている。ルテインを呑んだり、目の滋養強壮の薬を飲んだりもして、なんとかやっているけれど、本当にかなわんなーと思ってしまう。こんな状態になってしまうものなのだな、と思う。草田男のメルヘンについて、なにか書くことになっていて、関係する全集本の数冊をネットで購入して、手元において読みつつあるのだが、遅々として進まない。果たして、間に合うか、などとふと不安な思いになる時もある。誰に愚痴をいっても仕方ないのだけれど、かなわんなーと思う。……眼鏡かえたらいいのかな、とも思うけれど。
うかうかしているうちに、どんどん一日が過ぎていくような感じ。急がしいというわけでもないのだろうけれど、逆に同じようなことの繰り返しの中で、時間が着実に進んでいるような感触。とはいえ、完全にフリーな時間があるのは、今週は本日だけ。あとは、来週にかけてこまごま、ちまちまと連日予定が入り込んでいる。新聞の占いでは、そろそろ生活全体の体制に変化が生じるらしい、などと、意味が分かるようで良くわからない一文が載っていたりもするのだが……。すべきことを、ちょこちょこ忘れていて、昨日も某誌の『年鑑』の俳誌紹介の一文を送り忘れていて、10日ほど締め切りを過ぎていたけれど、担当の方がFAXを送ってくださって、大急ぎでお送りすることとなった。ほかにも、何か忘れているような気がして、少々不安ではある。
コロナの関係で、ずいぶん長い期間行かなかった飲み会を計画して、昨日実行。参加者は、うんと減ってしまったけれど、少人数で飲む。久しぶりの対面ということもあって、とても楽しい時間を過ごすことができた。コロナそのものは、再び感染が広がりつつあるようだけれど、十分注意しつつ、こんな機会をまた持ちたいなと思う。参加者のひとりは、遠来の客で、5年ぶりくらいの再会。皆で地元のおいしい魚をふんだんに食する。
昨夕、甥が久しぶりに犬を散歩に連れて行った。用事があったので、実家に寄ってみると、すでに犬は散歩を終えて、リビングの方で休んでいた。もう帰ったのかと思い、様子をみると、なにかしらいつもと違う印象を持つ。床にべったりとはらばっているのは、散歩後のいつもの熱取りの姿勢なのだろうけれど、見た目にもひどくぐったりしている様子で、息遣いもひどく早く、細かく、荒い。日没後の散歩で、気温もそれなりに下がっていたように思うけれど、外は蒸し暑さが残っているような状態。室内も、冷房をいれたばかりで、やや暑いかなという感じ。犬の全体の様子と、特に息遣いのいつにない荒さからちょっと普通ではないなと思い、とりあえず水を飲ませる。犬は、はらばったままで、それでもこくこくと水を飲む。少し外から体を冷やした方が良いかもと思い、濡れタオルをしっかり絞って、体全体にかける。犬は、嫌がるしぐさをみせるけれど、しばらくそのままの状態にさせて、様子をみることにする。舌の色などは大丈夫そうだった。やがて、呼吸も少し落ち着いてきて、腹ばいの場所を移動したりするようになる。近場の散歩のようだったので、その夕方の気候条件から、あるいは一時的な軽い熱中症的状態にでもなったのかと思う。落ち着いてきたようなので、帰宅。夕食はちゃんと食べたようだ。
今朝、散歩。いつもより時間を遅めにして出かける。特に変わった様子もなかったので、安心する。
どうやら、残暑らしい。蒸し暑い。朝夕の過ごしやすさに比べ、昼間の蒸し暑さはちょっと体にこたえる。今朝は、きれいな朝焼けで、秋らしいきれいな筋雲が、茜に染まってとてもきれいだったけれど、いまはもう高層雲らしき雲が、上空をべったりと覆い隠している。今日の新聞のコラム欄に、「ゆきあいの空」という話題が掲載されてあった。ちょど、夏の雲と秋の雲とが空に同居する状態のことを意味するらしく、今朝の空模様はまさにその「ゆきあいの空」だったなと、改めて思う。とてもきれいで、さわやかでした。
「チェンソーマン」とかいう、頭がチェンソーに変形して、悪の異人たちをなぎ倒すみたいなアニメがあったけれど、そんな妖怪じみた存在が。我が国の内閣にも復活したらしい。世の中のひとが名付けて、「ドリル娘」とでもいうらしい。頭が「ドリル」になっているかどうかは知らないけれど、自分に不都合なデーターが記録されてHDを復元困難なように、完膚なきまでにドリルで粉砕してしまう、そんな怪人らしい。魑魅魍魎が跳梁跋扈するとも言われる政治の世界に、あらたなダーク・ヒーロの復活であろうか……。
図書館に、ちょっと調べものに出かける。コピーを取ったら、1枚10円だった。コンビニ並みの安さだな、と思う。また、利用しようと思う。。
今日は、9月9日。陽の数字「9」が二つ重なる「重陽の節句」。菊の節句とも言って、菊花を浮かべた酒を飲み、健康を祝う日。ただし、実際は陰暦で行われるので、「菊」の時期には、まだまだ早い。菊の花は浮かべなかったけれど、晩酌はいただく。登高と言って、高いところに登って、菊花の酒を飲めば、最高なのだけれど……。
朝晩、犬を散歩に連れて行く際、季節の移り変わりというものを、実感として感じることができる。朝は次第に遅くなり、夕方は涼しい風が吹き始める。とは言え、夕方はまだ犬にとっては暑さを感じるようだ。人間より基本的な体温が高い上に、毛皮を一枚まとっているので、犬にとっては、まだまだ散歩日和とは言えないようだ。とは言え、歩く距離は少し長くなってきてはいるけれど。
俳人中村草田男は、俳句だけではなく、評論やメルヘンなども書いている。そのうち、メルヘン関係について、少し文章を書くことになった。締め切りが12月末日なので、まだまだ時間はあるようだけれど、そろそろ準備にかからなければならない。資料を求めて、いつもの読書に上乗せして、読んでいく必要がある。
「汚染処理水」を「処理水」と言わず、「汚染水」とうっかり口をすべらしたせいで、辞任までいわれた高齢の大臣がいたけれど、風評被害に苦しむ人たちに対する配慮として為政者たちが言葉に配慮することはもっともなことだろうけれど、しかし、その実態は文字通り「汚染処理水」の排出であることはかわらない、と個人的には思う。地元の人たちが苦しんでいることのひとつは、「風評被害」によって生業である漁業に大きな支障がきたすことにあるということがあるのだろうけれど、しかし同時にその流された水がやはり一度は放射能に汚染された鵙であり、それを魚たちがくらす環境の中に希釈して科学的には無害であると言われているとはいえ流し出すことが、頭での理解と、感覚・感情面での受容との間に齟齬をもたらしているということが、排水反対の声や「風評被害」の解決を難しくしている大きな要因のように思われる。その背景にあるものは、ネット上で「ドラえもん」によくにた呼称のひとが、「汚染処理水」排出を反対する者は左翼であると決めつけたり、科学的知見を理解・了解できない馬鹿者あつかいをする姿勢であり、それは問題解決をややこしくするもののように思われる。そのやり方は、上から目線の押し付けであり、政府がおこなっている慇懃無礼なやりかたと同質なものなのだろう。あるテレビ番組で報道していたけれど、おなじような「汚染水」の処理について、処理する側と受け止める側とが10年近く、腹を割った話し合いを続け、その結果汚染物質の空中放散を決めたというようなことがいわれてあった。もちろん、熱処理をして空中に散らそうが、薄めて海水に拡散しようが、放射能それ自体が消えるわけではなく、根本的な問題解決にはなっていないという点では、両者ともに大きな違いはきっとないのだろう。ただし、当事者同士が、「丁寧な説明」的な一方通行のやりかたではなく(一方通行だから、それを理解しないのは馬鹿だ、という傲慢な考えも生まれるのだろうが)、双方向的な議論のやり取りが根本的な解決には結びつかなかったけれど、両者の覚悟とそれなりの信頼関係をもたらし、それがより双方納得づくのよりスムーズな問題処理につながったようにも思われる。「急がば回れ」という言葉があるけれど、それは一つの智慧を語っているようで、今回の「汚染処理水」問題についても、「急がば回る」ための数年間の時間的猶予はそれなりにあったのではないか、などと思う。少なくとも、相手の理解の上に立って処理作業をを行いますなどと言いつつ、厳然と反対の声が上がる中で、「汚染処理水」の排出をおこない、そのうえで引き続き理解を求めるという本末転倒的なやり方をおこなうのは、相手の信頼を損なったうえで、マイナスの地点から再スタートをきるという、より厄介な状況をもたらしてしまったように個人的には思われる。一度排出を始めた以上は、よっぽど大事故が起こりでもしない限りは絶対にそれをストップしないのが、伝統的な日本の行政のやり方であるし、そうなると例えば漁業者の人たちは、現状を追認するほかに取るべき道はなく、そのために補助金という「金目」での解決に進んで行くしか、この先の見通しもない、ということになるのだろう。しっかり働き、その労働に見合う収入を得て、生きがいとやりがいと日々の暮らしを保つ家業としての漁業について、漁師の方が口にしておられた、将来の後継者の育成につながる家業についての見通しを立てることが、おぼつかなくなる、そんな危惧の思いがつのるということが、とても気になることだった
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当事者からはほど遠いところに立つ者の、勝手な言い草なのかもしれないけれど。人の心や思いを踏み倒して進む、そんな政治のやりかたや、それを手ばなしに称賛する姿勢などを、個人的には嫌だな、と思う。
余計なことだけれど、国会討論の中で、「仮定の質問にはお答えできない」という発言をしばしば聞く。確かに政治は現実に起こっている諸問題についてどう見通し、どう解決・処理していくかということが肝要なのだろうとは思うけれど、その過程のなかで、いくつか想定できそうな重要な課題や危惧と、それが現実化した場合の対応や対処法について、まったく何の検討も準備していない、ということは常識的にないだろうと思う。でなければ、問題の処理は常に起こった事柄に対するその場しのぎの対応で終わってしまいかねない。そんな知見や見識に欠けるような人物は、きっと官僚にも政治家にもいないことだろう。とすると、言質をとられることを危惧するあまりなのか、「仮定には答えられない」というにべもない発言は、それを聴くものにとっては、その話者が有能なのか、あるいは想像力や構想力に欠ける残念な人なのか、ほとんど判断がつかないことになる。結果、中国がこんな対応に出るとは想定外だった、みたいな発言がぽろっと出たりもすることになるのだろうか、などと思ったりする。ともかく、何かの問題に対して、それを解決に導こうとする時、「何とかします」的な政治向きな発言だけではなく、想定部分も含めてより具体的に詳細に対応策を知らせてほしいような気がすることだ。これもまた、勝手な言い草であるかもしれないけれど……。