日記のようなものを書いてみようかな、と思いました。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、という事です。 独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さい。 |
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【24年9月18日】 【24年9月12日】 【24年9月2日】 【24年9月1日】
兄が来ていたこともあって、3連休にルアーフィッシングをやってみる。海浜公園の一部に釣りのエリアがあるので、そこで実践。格安の用具をひと通り購入して、兄の手ほどきで初フィッシング。1日目は残暑のきつい日差しの下で、釣り。15センチほどのカマスの子を一匹釣り上げる。ビギナーズラックか。二日目は日差しと風と波のせいで、全くダメ。早々に帰る。三日目は、曇りがちで、風・波ともに穏やか。釣初めてしばらくの後、強い引きがあった。もともと鯵の小さいのをねらっていたので、ちょっと驚く。しばらく、左右に振られながらも、釣り上げる。30センチに近いサイズのイサキがかかっていた。これにもびっくり。その後、まわりでも次々にイサキを吊り上げる人がでて、兄も1度はハリスをきられるけれども、同じサイズのイサキを吊り上げる。三日目は上々の首尾で釣りは終了。魚用のまな板と出刃包丁を途中で買って、帰宅。初めて魚を三枚にさばく。けっこう上手くできた、と思う。
ほとんど唯一の俳句でのお仕事。今年も依頼があって、快諾。まもなく作品が送られてくる。少し、忙しくなるな、と思う。10月には、ちょっと大きな俳句大会の選者に選ばれた(とはいえ、緊急事態の代打なのではあるけれど)。
暑さでうだっていたせいもあるのか、冊子の発行が滞っていた。今年中にせめてもう一冊だしたいと思う。やっぱり、この先少し忙しくなるか……。
暦上の季節は秋と言い、残暑の候とはいいながら、空に広がる雲の様子は、まさに盛夏そのもののよう。その分、雲の壮麗で多彩な様子が眺められて、面白くも思うけれど(異常気象のたまものとも言えようが……)。
それにしても、暑い。朝夕は涼しいとはいわれるけれど、実のところはここ数日、朝から蒸し暑くて、犬のさんぽもなかなかシンドイ。太陽が昇る姿を眺めるのは、ちょっと荘重な感じもして悪くはないけれど、日が昇ってしまうと、とたんに暑さがます。風が吹いていれば、汗をかける人間にとってみては、多少の涼感を感じることもできるけれど、汗もかかず、毛皮につつまれた犬にとってみれば、正味の気温と湿度のなかの散歩なので、数日前にトリミングを終えて、夏バージョンの毛並みになっているとはいえ、蒸し暑さがこたえることだろうと、思ってしまう。
兵庫県も大変、というよりは、なるべくしてそうなったようなところがあるのかもしれない、などと思ってしまう。一人の知事がおかしなひずみや歪みをもたらしたというよりは、県政自体のひずみや歪みが、結果として奇妙な人物を知事に押し上げたというようなところがありはしないな、などとつい思ってしまう。それは、あるいは日本の現在の政情のありがちな典型のひとつの姿なのかもしれないけれど……。
「見る」「見られる」という関係性の中で、そのおのおのの主体についての認識を深める大切さ、というような内容の文章を読み、確かにと思えた。この場合、俳句と俳句を作る自身との関係性について、「俳句を見る」ということと「俳句に見られる」さらには「俳句に求められる」と意味合いを広げた形での関係性として考えられているらしい。「俳句を見る」側とは、俳句を作る側、俳人自身のことを意味し、「俳句に見られる」の主体は、「俳句」それ自身のことを意味するようだ。さらに「俳句に求められる」とは、俳人自身が俳句に求めているもの(それこそ、俳人ひとりひとりにとって、俳句に求めるものは様々であろう)とは別に、「俳句」という一つの文芸形式が、俳句作家自身に求めているものをさすものであろう。自身が俳句に求めるものは、比較的容易に認識は可能かもしれない。創作動機などを含めて自分自身を振り返ってみればそれなりに答えをつかむことは可能だろうから。しかし、俳句が作者に求めるものとは、俳句それ自体に対する作者の認識の程度にとどまらず、俳句それ自体をより本質的に把握する度合いによって、それが本当に俳句自身が求めているものなのか、それとも作者自身の願望や希望や理想やさらには思い込みの反映がそれらしい姿をとって、作者自身にもはっきりとしたものとしてに意識されないような状態で、そこにおかれてあるという体裁のものであることが多いのかもしれないということだ。その意味で、後者の問題については、ひどく曖昧なふうであり、その判断や認識が本当に俳句という文芸様式の真実に触れるものであるかは判断し辛いもののように思われる。ただ、少なくとも、俳句が求めている者は、たとえば「有季定型」とか、「客観写生」などという、俳人の側から俳句に着せかけている理論や理念とは、あるいは異なったものであるのかもしれない、などと思う。
興味深い句集を送っていただいて、それを読んだり、さらには(先の内容は、『翔臨』という俳誌に掲載された加田由美さんの文章によるものなのだが)同じく送っていただいた冊子の一文から刺激を受けたものである。外から、さまざまに刺激や示唆を受けることはありがたいことだ。
迷走台風は、まだまだ和歌山あたりを徘徊しているらしい。当地は、雨風もおさまり、暑い一日が始まりそうだ。今後の狂った気象を象徴するような、今回の台風だと思う。近隣のスーパーを回ってみても、いまだにお米がないような状態が続いている。いずれ新米が出回ると農水相は語っていたけれど、去年の猛暑の反動というような目先の判断だけではなく、こんな状況が再三発生し、さらに継続することが起こるとしたら怖いことだと思う。我が家は、今のところお米パックや冷凍食品でカバーしているけれど……。
そういえば、以前にも一度不作から、米不足が起こったことがあった。あの時は、タイ米を輸入して不足にあてたけれど、米の管理などが不備であったのか、長粒種というコメの種類がなじめなかったせいか、輸入米は不興だったおぼえがある。自宅でも、タイ米を買ってきてたべたけれど、短粒種の日本米とは炊事の仕方がそもそもことなっていたせいもあってか、ぱさついて美味しいとは思えなかった、という記憶がある。カレーライスなどにして食べると良いとかいわれていたようだけれど……。今は、状況も違うようだけれど。
面白い句集を二冊送っていただいた。橋本小たか氏の句集『鋏』と、岡田耕治氏の『父に』の二作。どちらも句集も、季語について考えさせられるものだった。小たか氏は、季語を取り合わせの手法に取り込んだ句作を、岡田氏の場合は、そもそもの季語の働きに潰ついてどう考えてよいのか、ちょっと読む側が困惑した感じ。ただ、岡田氏の作品は、季語を含めてより複雑で微妙な作品の読み取りを求められているようで、その分とても刺激的に感じられた。和漢の古典作品ばかりを読んでいるので、久々の読み応えのある句集は楽しかった。