日々録
日記のようなものを書いてみようかな、と思いました。
備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、という事です。
一人言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さい。
2月分「日々録」
3月分「日々録」
4月分「日々録」
5月分「日々録」
6月分「日々録」
【7月30日】
三者面談、終了。ほっとするが、ともかく疲れた。一仕事やり終えた、という実感あり。用意していた一山の資料を職員室へ引き上げる。教室の片付けは明日に回すことにする。
角川『俳句』読んでいる。今月号の特集は、「豊饒の70歳代」と題された70代俳人145名の句8句を一挙掲載したもの。総合俳句雑誌のあちらこちらで名前を見る俳人達の作品が載せられていて、最初から少しずつ読んでみている。それにしても、ここ1週間面談のために神経をすり減らして(普段使わないような神経を使っているので・・・)いるせいなのか、「豊饒」というわりにはその作品世界の豊かさというものが、こちらの胸に響いてこないような気がする。疲れていて、感受性が鈍ってしまっているせいか、とも思うのだけれど、どの作品も今ひとつ感動しないのだ。現在の俳壇を事実上支えている人たちの大特集であるはずなのに、何故なのだろう、と思う。来月号の「合評鼎談」では、恐らく今月号の特集についての鼎談が展開されることだろうから、その場で三人の論者たちがどのような評を述べられるのかを待ちたいような気持ちになる。僕自身は、今それについて考える気力に欠けているので。
「現代俳句時評」の中で。言葉尻を捉えるようで(問題の本質部分ではない地点での話になりそうなので)困ったな、という思いもあるのだが、「批評の品性」というサブタイトルで述べられた『船団』座談会を評した文章の最後に、「他者の作品は先ずは『拝読』するものであろう」という一節に、えっ?と思ってしまったのだ。もちろん一般的に言えば、それは間違っていないだろう。しかし、「時評」という論評をなす場においては、それはまた別の意味をもつのではないか、と思ったからだ。それは、片山由美子という俳人の句に対して、『船団』座談会参加者の「ゆにえす」(俳号なのだろうか)という人の発言「こーゆーの(「朝ざくら家族の数の卵割り」という片山氏の句に対して)、ちょっとムカつく、ってカンジ(笑)。清く正しくつまらない)という発言について、「いかにも品性を欠く軽薄な発言」という論者の言葉に続く一節である。結論から言えば、「拝読」の「拝」は必要ないのではないか、ということだ。句を論評する場合、論者は作品を「読めば」よいのであって、「拝する」などという姿勢は、捨象すべきということだ。ついでにいえば、こんな思いになったのは、「ゆにえす」という人の発言は、言葉は今風な「軽い」ものであるにしても、その示す内容は実は片山氏の句の本質的な部分に触れているのではないか、と思ったからだ。「清く正しくつまらない」、それは片山氏の句を雑誌などで読んだ時に感じる「上手いけれど、面白くない」という「カンジ」を端的に表しているように思うからだ。論者は表面的な言葉使いに惑わされて、「ゆにえす」氏の発言の肝心の部分を読み落としていないか、と思ったのだ。そして、その読み落としは「作品は先ずは『拝読』するもの」との余計な先入観がもたらしたものではなかろうか、などと思ってしまったわけだ。
ついでに言えば、論者の片山氏の作品鑑賞についても、恐らくそのような「鑑賞」の仕方であれば、「ゆにえす」氏のような作品鑑賞の仕方とは、永遠に(とは極端だけれど)切り結ぶことはないのかもしれないな、などとも思った。是非、一度角川『俳句』8月号を皆さんも読んでみて下さい、などと言いたくなってくるものだ。
【7月27日】
急な用事の為、午後の予定を変更する。奈良での「短詩型文学の会」は、欠席する。お世話役の堀本さんに電話を入れ、岩城先生にも留守電を入れる。
午前中は、三者面談の為、出勤。すでに何人かの先生が、三面のために出てきておられる。吹奏楽部の生徒達の練習する音も聞こえる。この1週間は、補習と面談とそれらの準備に明け暮れた。帰宅すると、ぐったり疲れて、シャワーを浴び、お酒を飲んで(そう言えば、この1週間は、夕食にお米を食べた覚えがほとんどない)、ぼやっとして、寝るだけ、という生活であった。
ともかく、疲れた1週間であった。暑さとの消耗戦であった。
明日も面談が1件と、クラブ当番で、一日出勤である。今月の角川『俳句』を読みながら、あれ?と思ったことを書こうかな、と思ったのだけれど、日を改めて。なんとなく、愚痴っぽい内容で終わってしまった。
【7月23日】
日曜日、「いさなご句会」で丹後へ行く。いつもの通り、当日の投句は当日に作る、ということで、京都駅のプラットホームで3句、「はしだて1号」の車中で5句作る。亀岡盆地の水田の景色がとても美しかった。その後は、CDを聞きながら眠りこけてしまう。気が付いたら、綾部の手前であった。
橋立駅で下車。「丹後ディスカバリー」に乗り換えて、車中で岩城先生と合流。先生から松村健一氏の『玻璃冬焉』を頂く。松村氏は、峰山時代の岩城先生の同僚の方で、書道の専門家である。今回、岩城先生の句集『冬焉』の中から二十句を選んで、ガラス絵という技法で岩城先生の句を作品化された。大変美しいものである。可能であれば、HPで紹介したいと思う。
今日の句会では、岩城先生から投句5句全句を選された。かなり保留条件はあったものの、これは初めてのこと。すっかり恐縮してしまう。
月曜日、火曜日と、就職補講・三者面談・翌日の面談の準備、ということで一日が過ぎる。全身汗まみれの二日間であった。このままでは、自律神経がおかしくなりそうな予感がある。(なにしろ、猛暑の教室と冷房の効いた職員室を出たり、入ったりの繰り返しだったので。ついには、教室にいるときは、汗が止まって、職員室に帰ったとたん、どどっと汗が噴き出すような、訳のわからん状態になってしまったりした・・・)
【7月20日】
また『燕巣』への投句が遅れてしまった。完全な遅刻常習者である。直前になって、もうそろそろ送らねば、と思いつつ、目先のことについ注意を奪われて、こんな結果になってしまう。しかし、その繰り返しなのだから、実は全く反省をしていない、ということなのであろうか。俳句における基本的生活習慣が出来ていないのだ。
昨日は、終業式。実は夜中の3時くらいに目を覚ましてから一睡も出来なかった。クラスの文化祭の取り組みについて、今日のうちに一応の目処をつけねば、とあれこれ考えているうちに、夜が明けてしまった。もう全然眠くはなかった。終業式・大掃除を終え、いよいよLHR。40分間の勝負、であった。LHR終了。一応の目処はつき第二ラウンドは、2学期に移る。生徒達は、放課。教師達は不振者指導へと移る。午後は、一学期最後の職員会議。クーラーのない会議室は、炎暑状態。三台の扇風機が熱風を送っているが、なんともおぼつかない。会議後、同僚の人と一件家庭訪問。学校に引き返し、残務整理。日のあるうちに帰宅。疲れる。
今日は、午前中、休養。午後は、月曜日からの三者面談の準備で出勤。今日も、誰かが面談をしていることだろう。
明日は、「いさなご句会」。丹後は京都より、暑さはゆるやかであろうか。
【7月18日】
ひさびさにおかしな夢を見た。内容は、ここには書けないので略すが、目を覚まして後も、ひどく胸に応えるものだった。なぜ、こんな夢をみたのだろうか、としばらく自問するような、そんな中身の夢だった。夜明け方に見る夢、というのは、今の自分の有り様をかなり強く反映するようなものになりやすいのだろうか。ともかく、少々重たく、鬱陶しくもあるものだった。
最後のテスト返却授業。その後、ホームルーム。生徒は、それで放課後。教師の方は、色々の仕事が控えている。就職保護者説明会が終わったのが、8時過ぎ。小雨の降る中を退勤。結構疲れる。明日は、終業式。その後は、生徒達にとっては、待ちに待った(であろう)夏休みに入る。教師は、夏期補習と三者面談の日々が始まることになる。
復本一郎氏の著作、読了。日野草城の『ホトトギス』除名問題について、反論の具体的確証は持たないけれど、そうなのかなー、などと思いながら読む。いずれ日野草城について、まとまった著作がでる(もう出ているのかもしれないけれど)のだろうが、是非読んでみたいものだ、と思う。
『俳句研究』今月号を読む。大石悦子さんの108句(煩悩の数と関係するのだろうか)が、とても面白かった。硬質の叙情というものを改めて実感させてもらった。三ヶ月競詠の友岡子郷氏の句もとても良かった。
【7月16日】
台風のことが気になって、夜中に何度か目を覚ます。6時前に起床。外は、もの凄い勢いで雨が降っている。出勤の時までには、何とかなるまいか、場合によっては、格好悪いけれど、長靴を履いていこうか、などと考えながらトーストを焼く。7時過ぎには、雨が止む。今のうちに、と出勤。
テスト返しと、文化祭に向けてのクラスの「揺さぶり」と、午後一杯の成績処理作業とで一日が終わる。神経が疲れる。最近胃の調子が今ひとつなのは、お酒の飲み過ぎ、という訳でもないと思う。
今日は、祇園祭の宵山。近鉄電車の中にも、浴衣姿の女性達を見かける。でも、浴衣に茶髪はどうかな、とも思う。余計なお世話だけれど。ついでに言えば、スキンヘッドにだぶだぶのズボン、ランニング風のシャツから見える両腕に幾何学模様風の入れ墨をした肥満体型の10代のお兄ちゃん。その姿に、思わず目を瞠り、まじまじと後ろ姿を観察してしまった。よけいなお世話なんだろうけどね。
復本一郎の『現代俳句への問いかけ』という本を読んでいる。あちらこちらに発表した文章を一冊にまとめたもの。でも、一つ一つが読み応えがあって面白い。車中と帰宅後、読み続けて間もなく読了。
【7月14日】
「モツレク」終了。今回ほど、本番がどうなるか、どきどきの合唱はなかったような気がする。出来は、どうであったか。テープを注文してあるので、いずれゆっくり聞くことにしよう、と思う。
終演後、「あじさい」へ。知り合いの新婚披露を兼ねての宴会となる。久しぶりに出会う人もいて、楽しい集まりとなる。岩城先生は、前日飲みすぎがたたったとかで、飲み会には来られなかった。
竹中宏さんから『翔臨』を送って頂く。今号では、中田剛さんの俳句について、永末恵子さんと山西雅子さんが文章を書いておられた。気合いを入れて読む。「且翔且臨」での竹中さんの句評も、中田さんの「おむすびの芯つめたくて桃の花」についてで、中田剛さんの句世界について、多角的に眺めることが出来た。
遅い朝食を食べて、ぼんやりしている。ちょっと虚脱状態、なのだろうか。二日酔い、だな、これは・・・。
【7月11日】
昨日、井上弘美さんから、第2句集『あをぞら』を送っていただく。読み始める。句作りの上手さでは、抜群のものを持っている井上さんの最新句集。こちらも気合いを入れて読もう、と思う。いずれ句集紹介にもアップしたい。
たとえば、「精霊船波に繋がれてをりしかな」 読んだ瞬間、私には波にたゆたう精霊船の情景がくっきりと浮かんだ。「波に繋がれ」は奇抜な言い回しとは根本的に違うものだ。「精霊船」の有り様、その儚さや懐かしさそのものが凝縮されて詠い込まれているように思う。それが素晴らしい。私には到底詠えないようなそんな世界が、ここにはあるように思われる。
今日は、進路部の歓送迎会。時間が取れないまま延び延びになり、この時期の歓送迎会(私は、送られる方だが)となった。ボーリングを3ゲームして後、夕方からボーリング場の近くの居酒屋で宴会。とにかく矢継ぎ早に料理が出てきて、飲んだり、食べたり、騒いだりと忙しい。十分堪能してお開きとなる。タクシーで帰宅する。
明日は、夕方から京都市交響楽団の練習場で、本番直前のオケ合わせ。明後日は、「レクイエム」本番である。良い演奏会にしたい、と思う。
【7月8日】
にゃんきちさんから、掲示板に書き込みがあった。お願いしていた「猫仏」の進捗状況をHPにアップされた、とのこと。早速おじゃまする。にゃんきちさんに「猫仏」をお願いしたのは、今年の3月、北野天満宮に花見の宴に行った折りのことだった。にゃんきちさんは、仏像修理の専門家で、ご自身も仏像を作っておられる方。岩城先生の知人で、北野の花見も、実は岩城先生が演出されたこと。「ユーモラスでダークな」というコンセプトがとても気に入っている。早く出来上がることを楽しみにしている。
昨夜、随分遅い時間になって一気に11通ほどのメールが入った。一体何なのだろうか、と思って開いてみると、伊藤園の「おーい、お茶大賞」の選考結果を知らせるもの。生徒達が投句したのだけれど、11人ほどがメールアドレスを私の所にしておいたので、まとめて送られてきたのだ。結果は、同じ文面で「選考通過ならず」というもの。残念だった。念のため、伊藤園のHPで今年の入選作を確認したが、駄目であった。中高生については京都からの入選者は一人もいなかったのではないか。ちょっと、くやしい。
昨日は、『運河』城陽句会。第一句会で、本当に久々に茨木先生から1句特選に取って頂いた。門外漢の私を、勉強のためにということで受け入れてくださった茨木先生と「運河」の会員の方たちに改めて感謝したい気持ちだ。「運河」の句会に参加することで、自分の触れる世界が大きく広がったことは確かなので、頂くばかりで何一つお返ししていない点がちょっと心苦しい気がする。
甥っ子からTEL。句を作ったとのこと。掲載する。「かき氷調子乗りすぎ腹こわす」「一年生プール開きで楽しいな」ちなみに、先日、中学生になって2回目のテスト(期末テスト)が終わったとのこと。結果は、中間考査に比べて随分良かったようだ。何はともあれ、目出度い。
【7月5日】
七夕笹を飾ろう、と思い立ったのが昨日の放課後。早速、短冊と笹を買いに近所のスーパーへ。短冊は手に入ったが、笹の方は隣接する花屋さんが休みで、仕方なく20分ほど歩いて大型店へ探しに行く。店舗内の花屋さんで、めでたく笹竹一本購入。130円也。乾燥を防ぐ為、根本の方を保水効果のあるジェリーでくるむ。
暑い日差しの下を、笹竹を肩に担いで、帰校。とりあえず職員室に置いておく。
翌朝、教室に持って行き、空いている椅子に竹を固定しておいて、朝のショートホームルームの時、慌ただしい中、短冊を配る。今日は、6時間目のホームルームまで教室には行かない。さて、どうなっていることか。
空き時間は、降って湧いたようなごたごたを処理したり、来週から始まる期末考査に向けて試験問題を作ったりしているうちに、早6時間目。教室に行くと、笹の葉の良い匂いがして、短冊の重さで撓った笹竹が、窓から吹き込む涼風にさわさわと音をたてていた。なかなか素敵な風景であった。
【7月3日】
7月に入り、暑さがぶり返して来る。職員室にクーラーが入った。感謝。
来週からは試験週間。今は、ひたすら忙しい。
『俳句文芸』7月号が届く。今月号から、とりあえず1年間購読予約をしていたのだ。これも、神島吟行の出会いの一つかもしれない。
同7月号の「現代俳句覆面時評XYZ」に岩城先生の句に対する評が載っていた。その中で、「縊死の木を伐らずにあれば芽吹きをり」について、「Z:首つりなんて木には関係ないことですから、芽吹くのは当たり前です。切らずに置いていたけれど芽吹かなかったというのなら、何かありそうに思いますが」との評について、そうかな、と思った。「死と再生」の事を季節の流れの中に位置付けて詠っているように思うのだが、それを木は芽吹くのは当たり前の一言で片づけようとする所に、批評の欠如を感じてしまった。当たり前の地点から句を評するとすれば、その評言にどのような意味があるのか、と思ってしまう。「切らずに置いていたけれど芽吹かなかったというのなら、何かありそう」と言うに至っては、逆に怪奇趣味的な「月並み」な評というものを感じてもしまう。元々俳句に乗りにくい内容を、俳句形式の中に詠い込んでいる点にこそ評言は向かうべきではなかったかと思う。それが、俳句が季題趣味的世界から一歩文芸の世界へ踏み込む契機にもなるかも、と思ったりもしたものだ。