日々録
日記のようなものを書いてみようかな、と思いました。             
備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、という事です。             
一人言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さい。

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【9月30日】
今日で、9月も終わる。
快晴の一日、先日順延となった体育祭が行われた。午前中は、Tシャツ・短パンでは少々寒いくらいであった。午前中は、個人種目中心、午後は団体種目が行われた。なかなか盛り上がった行事となった。
ここ数日、ウイルスメールが繰り返し送られて来て(幸い、プロバイダーのメールチェックのお陰で直接こちらのメールボックスにまでは達しないのだが)、かなわんな、と思っていたら、ようやく「誰かさん」が感染に気がつかれたらしく、送られて来なくなった。ありがたいことだ。
立花隆『脳を鍛える』を読んでいる。東大で行われた講義の記録に加筆したものとのこと。知的刺激に満ちていて大変面白い。神田順治『子規とベースボール』を読み始める。どんな内容なのか、楽しみである。数冊の本を、同時進行的に読んでいる。いつ頃から、こんな読書法になったのだろうか。
丹後の山本さんからTRLあり。来月4日(といっても、今週末だが)の「いさなご句会」の確認電話。もちろん参加します、と返事。『俳句文芸』の勢力氏から数日前に来信あり。旧作16句を送れ、とのこと。その返事の葉書を本日投函する。作品の掲載依頼をされるなんて、初めての事である。何となく緊張する。

【9月28日】
昨日午後、「辻田克巳俳句研究会」に参加。面白い会合となった。講師の岩城先生からは、丹後時代の辻田先生に関する論評2編と、昭和36年の角川『俳句』の「第七回角川俳句賞」の発表記事が提供された。「俳句賞」については、辻田先生は「にぶい脳天」で予選を通過。本選においては、選者の一人石田波郷の推薦を得ている。研究会では、「俳句賞」に応募された作品のいずれが、句集『明眸』の中に残され、また落とされたのか、あるいは一部変更した形で句集に収められた添削の経緯などについて、各自の意見交流がなされた。また、辻田俳句のリズム・意味性の重視・造語と用語・仮名遣い・時代背景との関わり等、『明眸』の諸作を元に、多面的な話が出された。今後、今日提出された諸問題、さらに今後新たに提示されるであろう話題等含め、議論が深まっていくと思う。次回は、第2句集『オペ記』で、レポーターは私が担当することになった。帰宅後は、早速作品をデータベース化するために入力作業を始める。
それにしても、岩城先生が持参された昭和36年10月号の角川『俳句』(現在の半分くらいの厚さの雑誌であった)を、その場でお借りして読んでみたが、当時の息吹のようなものが感じられて、大変面白かった。



【9月27日】
4時過ぎに目をさます。辻田先生の『明眸』を読み返す。今日は、第1回目の『辻田克巳俳句研究会(仮称)』が京大会館で開かれる。メンバーは、『幡』の会員さん達だけれど、講師の岩城先生の伝手で参加出来ることになった。辻田先生の句集については、醍醐会で句集『昼寝』のレポートをしたことと、同じく醍醐会で最新句集『焦螟』を読んだことがある。どのような話し合いになっていくのか、楽しみである。
5時過ぎに洗濯機を回し始める。音は小さいので近所迷惑にはならないだろう、と思う。ベランダに出ると、夜明け前の淡い水色がかった空が広がっている。よく見ると、消え残った星が、ぽつんぽつんと眺められる。
洗濯物を干し終えて、7時前に、ジョギング。最近、休日はこの時間帯に走ることが多くなった。涼しくて、人通りが少ないことが良い。今日は、大きくコースを変えて、鴨川に新しく架けられた橋を渡ってみることにした。つい最近架橋されたか、と思っていたのだが、平成12年12月には出来ていたらしい。鴨川を渡り、隣の細い橋を渡り返す。50分ほど走る。
今月号の角川『俳句』「季節と俳人たち」は、岩城先生と出口善子氏。写真撮影は、井上さん達の俳句賞授賞祝賀会の日であった、とのこと。紹介記事の中に「また氏が主宰を務める『参』は、雑誌休刊のまま活動する珍しい結社」とある。思わず、笑ってしまった。

【9月25日】
秋分の日。午後、久しぶりに鴨川河畔を歩く。三条から出町までと思って、ぶらぶら歩くが、気分が良くて、結局2時間ほど散歩する。日差しはまだ、暑さを残しているが、対岸から吹き寄せる風は涼しく、気持ちが良い。植物園まで歩き、そこから出町柳に引き返して、京阪電車で帰宅。
その後、二日間は雨。体育祭も来週へと順延になる。今日の夕方になって、やっと雨はやんだ。涼しくなるかと思ったら、ちょっと蒸し暑い。ライトアップされた伏見城が、遠くに眺められる。
明日返さねばならないビデオがあるので、観る。山田洋次監督の「たそがれ清兵衛」。山田洋次監督の映画は、大人の童話としての本質を持っていると思うが、それがこの映画にも良く生かされたと思う。

【9月23日】
秋分の日。4時過ぎに起床。目崎徳衛『紀貫之』読了。読みやすい評伝。7時前にジョギングに出る。雲が厚い。肌寒いくらいの中を走る。ようやく残暑の時期を過ぎたようだ。
数日間をかけて、XPへのバージョンアップに再挑戦。ばたばたした揚げ句に、なんとか完了。ちょっと不具合がありそうな気配がするが、気にしないことにする。ただ、ネットへの接続速度が、半減してしまったのは何故なのだろうか・・・? わからない。
久しぶりに、エアコンを使わず、ベランダ側のガラス戸を全開にして、過ごす。街の音が、部屋の中まで届く。今日は、辻田先生の『明眸』を読み終えるつもり。

【9月20日】
ひさしぶりに、ちゃんと雨が降っている。おかげで、連日の蒸し暑さからは解放されたようだ。
今日は、午前中クラブ当番で出勤。2時間あまり、生徒と同じメニューで練習に参加する。途中、一度隣の教員室に引っ込んで、流し台で着ているTシャツを絞る。着替えを持ってくるべきだった。汗かきは、こんな時本当に面倒である。
足腰がガタガタになって、練習終了。生徒たちは、明日も練習あり。雨の中を退勤する。高架下の美味しいラーメン屋で、いつもの味噌ラーメンを食べる。帰りの電車の中では、酷く眠かった。『近江蕉門俳句の鑑賞』もう少しで読了。丈草(実は近江蕉門とはややずれているのだが)の句と人となりに興味を感じる。

【9月18日】
俳句とは、何だろうとつくづく思う時がある。そんな時は、決まって自分自身が作ってきたものが、全く意味を持たないものかもしれない、などと思って落ち込んでいるときだ。鬱陶しいことである。
波多野爽波の句は危険だな、と思う。波多野爽波バリの句は、下手をすると多くただ事の句で終わってしまう虞があるように思う。それは、もちろん、波多野爽波の責任ではない。詩人の魂を生き生きと保ちつつ、市井に生きることの困難さをただただ感じるばかりである。波多野爽波は、本当にただ者ではない、と改めて思う。

【9月16日】
波多野爽波を読む。面白い。日常生活の中に潜んでいる、奇妙な?情感を、俳句形式によってふわっと掬いとっている。その絶妙な言語感覚が、むずかゆいような面白さをもたらす。すごいな、と感心しながら読み進めている。これもまた、詩人としての質の一つなのであろうか、と思う。
三連休は、句会で丹後に行ったり、じっくりと本の続きを読んだり、MEをXPにアップグレードしようとして四苦八苦の上、失敗(今の周辺機器環境をそのままXPに移行するには、数万円の投資が必要と判明)したり、職場からの留守電にあたふたしたり、久しぶりに鴨川河畔を延々と走ったりとか、色々しているうちに終わってしまった。
久しぶりに長距離を走って、足腰が痛いにもかかわらず、これまた久しぶりにクラブに顔を出し、練習に参加する。基礎練習は、何とかクリアし、さらにダブルス1試合、シングルス1試合に挑戦。結果は1勝1敗。でも、僕に負けるようでは、まだまだ練習不足である。夕方は、何となく蒸し暑い。汗が乾かぬままに退勤。


【9月10日】
日曜午後、「三月書房」から、噂?の「アスタルテ書房」と廻り、10冊ほど本を買い込んで帰る。「アスタルテ書房」は、とあるマンションの2階にある古書肆。スリッパに履き替えて、書肆内に入る。店番は、長髪の20代くらいの男性が一人。本は、芸術関係・幻想文学関係のものが多いようだ。本物の四谷シモンの人形が、飾ってあったりする。
本日(水曜日)までに、『赤尾兜子』和田悟朗・編著と『俳句芸術論』復本一郎・著を読了。『近江蕉門俳句の鑑賞』関森勝夫を読み始める。
水野さんから手紙。岩城先生を講師とし、水野さんが世話人として、『辻田克巳俳句研究会』が発足するとのこと。私も参加を許されることとなった。第1回目の研究会の案内状に添えて、辻田先生の第一句集『明眸』の書写版が同封してあった。あるいは、水野さんが書き写されたのだろうか、と思う。最初の方を少し読む。
今日は、文化祭第一日目であった。1年生の教室劇の審査員として、一日。劇の審査は結構面白かったが、扇風機すらない密閉された教室での審査のため、如何せん、暑い。

【9月7日】
土曜日。午前中は、『燕巣』投句用の句を10句作る。月勘定を勘違いしていて、1月分足りなかったのだ。ここ1週間ほどの間に、35句作って『燕巣』へ送ったことになる。粗製乱造、ではあるまいか・・・。「MINORU句」の方に掲載しておきます。良かったら、一度ご覧下さい。
午後は、春秋社の『昭和秀句T』を読む。本来は、石田波郷が単独で執筆するはずだったものが、筆者の体調不良により楠本憲吉との共著となっている。昭和10年くらいまでの俳壇状況を紹介した上で、その期の代表的俳人の句を数句選んで、鑑賞を行っている。波郷の気合いの籠もった鑑賞文が良い。特に印象に残ったのは、「『馬酔木』の中で窓秋(高屋窓秋)ただ一人がほんとうに新しかった」という言葉であり、「連作という新しい詩形がほんとうに必要なのは、結局は窓秋ただ一人だった」との言葉である。
夕方には読了。散歩に出るつもりが、意外と読み終わるのに時間がかかり、中止。久しぶりに焼き肉と焼酎。早寝する。
日曜日。昨日に続き、4時過ぎには目が覚める。仕方ないので起き出す。

【9月6日】
洗濯物を干し終えて、7時前にジョギング。まだ人通りのほとんどないいつもの通勤路を、とことこと走るのは気持ちが良い。大通りに出ると、さすがに車は結構走っているが、普段に比べると道路はまだ空いている。駅に向かう通勤らしい人が歩道を一人二人と歩いている。
路地と路地を繋いで走り、疎水の端へ抜ける。水門の管理人が竹箒を手に、水門の周辺を綺麗に掃いている姿に出会う。疎水横の遊歩道をゆっくり散歩する人たちと行き違う。犬を連れた人の横をすり抜けて走る。犬は好きだが、こんな場面ではちょっと緊張する。やがて、疎水を離れ、また路地と路地を繋いで引き返す。京都市内の路地は、ちんまりと取り澄ました雰囲気があるが、このあたりは生活感が濃い。狭い庭や、壁に沿わせたプランターに季節の草花を栽培している家が多く、走りながら、そんな草花を眺めるのが楽しい。
40分ほど走る。マンション前の小さな公園で柔軟体操をして、部屋へ引きあげる。こんな風にして、一日が始まる。


【9月5日】
2学期第1週。残暑の中で行う授業は、少々「修行」じみた様相を呈する。持参したタオルが、ぐっしょりと濡れて(元々汗かきではあるのだが)、1時間が終了、という有様である。ただ、来週後半の文化祭の準備のため、授業自体は午前中のみ。午後は、校舎のあちらこちらで、パフォーマンスや演劇の練習、大道具・小道具作り、大きな絵看板作りをする生徒達の姿が見受けられる。
昼間は残暑が厳しいけれど、夕方になると涼しい風が吹き始める。夕空に浮かぶ雲は、すでに秋の様相を見せている。帰りの電車の中で、ドアにもたれるようにして、影になった西山の方を眺めると、日没後の深い藍色の空に、幾筋もの雲が茜色に輝いて尾根越しの一点に収束するように流れていく様が、大変美しい。
最近、夜が早くて困ってしまう。10時過ぎくらいには、もう眠くなってしまい、本を読みながらいつの間にか眠りこけていたりする。夢の中で、その本の続きを読んでいて、目が覚めて読み直すと全く別の内容(当たり前だけれど)で、何となく困惑したりもする。その代わり、朝は早い。5時過ぎには目を覚まし、しばらくテレビの早朝ニュース番組を見たり、ゆっくり髭を剃ったり(安物の電気カミソリなので、丹念に髭の部分にあたらなければ、剃り残しが出来てしまうのだ)してから、本格的に起床、ということになる。


【9月2日】
『醍醐会』。終わった日は、高揚した気分。しかし、翌日は自身の力不足が改めて思われて、やや落ち込み状態となる。毎回のことではあるが・・・。
竹中さんの『アナモルフォーズ』の句集評。水野さん、岩城先生、そしてゲストレポーターとして永末恵子さん。レポートはいずれも面白かったが、時に永末さんの、「なぜ『アナモルフォーズ』は難解であるのか」という問題意識に基づく分析は、大変面白かった。思い返してみれば、このような問題の立て方でレポートがなされたのは、今回が初めてであった。これは、大きな意味と意義を持っていると考える(その点については、二次会で竹中さんと少し話あったりもした)。
話し合いは、竹中さんの「季語」の扱いの特殊性、という点を中心にして展開した。幾つかの意見がでたけれど、一番納得出来た意見は、中田剛さんの「引用をするように季語を用いている」というもの。
4時間近い時間が、短く感じられた討論であった。岩城先生も言っておられたように、竹中さんの『アナモルフォーズ』は1句1句読みつつ検討していく、という形で考察されるべき句集と思われる。その過程で、「俳句」それ自体についての再検討がなされて行くようにも思われる。私自身は、『アナモルフォーズ』を読む際、まず困ったことは、「どのようにこの句を読んでいけばよいのか」ということであった。「読みの方法」、から考え始めねばならない句集は、これが初めてであった。