日々録
日記のようなものを書いてみようかな、と思いました。             
備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、という事です。             
一人言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さい。

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【12月22日】
午後、年休を取って、「参」の本句会に参加する。何ヶ月ぶりだろうか。3句投句5句選。皆、かなり自由に句を作っておられる。オーソドックスな作品から、なんとも自在な作品まで、幅広い。これで、今年の句会はおしまい。来年は、5日の「月曜句会(新年会を兼ねる)」が初句会となる予定。「いさなご句会」が中止となった後なので、「参」の本句会で今年が締めくくられて良かった。
句会の席上、『参』第43号「特集・X氏に聞く会」が配られる。出ない事で有名だったので、いざ出てみると、感慨しきり。「編集後記」を紹介する。「・小誌通巻42号のあと、号外(「参」通信)第6号を平成10年4月に出して、以後何も刊せず。結社活動・句会指導は今日まで怠りなくしているが、結社誌『参』は一向に出ない。その間、「X氏に聞く会」を催し、講師を招聘、講演と俳句の選を依頼して会員の視座を広くすることに努めた。今号はその特集である。・小誌は上掲「謹告」の通り第2期の発足をしたが、右記のごとく頓挫していた。そのまま第2期終焉の期限が迫って来たが、さてどのようになるか、どのようにするか、この特集号を機に考えてみたい。・小誌がひさびさに出るらしいと聞いて、期待を裏切られた、という方もあった。『歌のない歌謡曲』『結社誌のない俳句結社』もあってよいというのも魅力であった。人材派遣結社などと嘯いて、愉しんできた。・『やっぱり出さはるのですか。もうやめとーきやす。』悪魔のささやきである。・ほんとうはなぜ結社誌が必要であるのか、ということを考察すべきであった。」
遠藤周作『侍』を読み継ぐ。現在、半ばあたり。
明日は、クラブ引率。

【12月20日】
起床後、台所と居間の明かりを点け、エアコンをつけ、閉めきっていたカーテンを開けると、外は雪景色であった。初雪の翌日は、積雪という、なんとも気ぜわしい季節の移りゆきである。
7時過ぎ、丹後の山本さんから電話が来る。降雪のため、本日の「いさなご句会」は中止、とのこと。残念ではあるが、やむを得ない。外を見ると、降りしきる雪の為に景色が完全に消されている。
一日空いてしまった。少しずつ部屋の整理でも進めていこうか。明日、部屋で忘年会をするので、本格的な掃除はそれ以降になるけれど。今年もあと十日あまりで終わる。早いものだ、と思う。
『燕巣』へ投句。さらに、8句と文章を送らねばならない。少し違った傾向の句を送ろうか、と思っている。顰蹙を買うかもね、などと思う。時には、枠をはみ出しても良いではないか、などとも思う。「醍醐会」で話題にして頂く「近作百句」の選も済まさねば。辻田先生の『オペ記』のレポートの下準備も進めねば、などと考えると、頑張ってみようか、という気になってくる。

【12月19日】
大型店二店を含め、四、五店の書店を回ったけれど、結局、遠藤周作の『侍』を見つける事は出来なかった。単行本だけでなく、新潮文庫の一冊として納められてあるようだが、それも見つけることは出来なかった。書店に注文して取り寄せなければならないか、と一時考え、そう言えば「アマゾン」があることに思い至った。一度も利用したことがなかったので、この際試してみようと考え、「アマゾン」のHPで書籍検索をかけると幸いな事に『侍』は在庫ありであった。ついでにと、以前から欲しかった昔懐かしい某TV番組のDVDも2枚注文する。
それが、16日の夜のこと。先ほど注文の品が届く。自宅に居ながらにして本やDVDが手にはいるとは。この先、しばしば利用しそうな予感がある。ただ、宅配時に電話連絡が入ることになっているのだが、結構不在のことが多いから、そこが問題ではあるが・・・。
京都市内に、今日初雪が降ったらしい。夕方、帰宅する時には一時霙が降ったりもした。ずいぶん冷え込んでいる。明日は、さらに冬型が強まるらしいが、今年最後の「いさなご句会」が明日である。丹後は、雪であろう。積もっているかもしれない。楽しみである。
『俳句文芸』12月号が送られてくる。「精選16句」と題されて私の作品が掲載されてある。何となく不思議な気分である。大変面白い本を読んでいる。揖斐高著『江戸の詩壇ジャーナリズム』。漢詩と俳句の違いこそあれ、俳壇に通じる状況が語られてある。それが、とても面白い。

【12月14日】
邑書林から『セレクション俳人 対馬康子集』が送られてくる。読む。言葉派と即物具象派に分けると、明確に「言葉派」の俳人なのだろうが、句は言葉の抽象度とか、句のイメージ化の度合いにずいぶんなばらつきがあって、面白いような面白くないようなちぐはぐな印象であった。
土曜日、午後。ゆりかもめを見に行く。ずいぶんたくさん来ている。数句出来る。ちょっと気がかりだったこと。何人かの人が、餌やりに来ていたが、ゆりかもめが土手の芝生の上にまで来て餌を食べている様子を見て、あまりに人間に慣れすぎることに危惧を感じた。人間に対する警戒心が薄れるとともに、人間の方でイタズラを仕掛けたりする者が出てくるということは、しばしばあることだからだ。餌を与える人の周りにゆりかもめが群舞する様は、とても美しく微笑ましいものなのだが。
出町柳まで来たとき、時雨が降り出した。しばらく雨止みを待ち、その後地下鉄今出川駅まで御所の北側を歩く。地下鉄で京都駅へ。指定席の券を買いに行き、ついでに行列の出来る宝くじ売り場で、年末ジャンボを購入。さらに、近鉄下の書店に行く。遠藤周作の『侍』を買いにいったのだが、単行本の棚に遠藤氏の本が1冊もないことに少なからずショックを受ける。念のために文庫本を確かめると、『沈黙』や『海と毒薬』など数冊あるのみ。何も買わずに店を出る。
日曜日。朝、ジョギング。その後、洗濯。良い天気になっている。

【12月13日】
昨夜は忘年会。参加者がやや少なかったのは残念だけれど、良い雰囲気に盛り上がった2時間だったので、良かったと思う。ちなみに、幹事の一人であった。これで、今年の「お仕事」の一つが終了。帰り、同じ幹事の人の車で送ってもらう(もちろん運転手はお酒は一滴も飲んでおられません。飲めないので、ビンゴゲームの荷物運搬係として車を提供して貰った人)。車中で、遠藤周作の話をする。カトリシズムとプロテスタンティズムについて。遠藤周作の思いとは別に、氏のイエス像はプロテスタント的な要素があるという評価が一部にあるようで。ちなみに、送って下さった人は、プロテスタントの信者さん。
帰宅後は、すぐ寝る。お酒を飲んだ夜は、どうしても眠りが浅くなる。夜中の3時頃にも目を覚まして、仕方なくテレビをつけると、NHKで黄河周辺の紀行番組をやっていた。その中で、ある一家の夕食場面が印象に残った。小麦粉かトウモロコシの粉かなにかを薄く焼いて作ったパンをくるくると巻いて、長ネギをおかずに囓って、愉しそうにお喋りをしながら食べている様子。ああ、おいしそうだ、と思わず見入ってしまう。葱1本が、あんなに美味しそうに見えたのは初めてのことであった。おかげで、眠れなくなる。
朝、いつもの通り、洗濯。ベランダは寒い。比叡山が雲に隠れて見えない。ただ、まだ雪が来るほどの寒さではないな、と思う。


【12月11日】
故郷の山大山の「北壁」のライブカメラを毎日一度は見ている。二三日前の画面に、一面雪の斜面が映し出されてあった。大山にもいよいよ雪が来たのだな、とちょっと感激した。寒い日が続いているが、京都北山には、まだ雪の到来はないようだ。
夕方、退勤するときも冷たい雨が降っていた。期末考査も今日で二日目。頑張って1年生の採点を終える。一つずつ、今年の仕事を終えていく、というところ。
年鑑を少しずつ読んでいる。評論を読んだり、各作家の自選5句を、感心したり、首を傾げたりしながら読んでもいる。今年一年の俳壇は、概ね「平穏に」過ぎゆくと言う事のようだ。「水中花」の類句・類想問題は、年鑑にも取り上げられてあったが、目にしてきた以上の進展はないようだ。ネット上で、島田牙城氏が類句・類想ではなく「剽窃」の問題だ、というような事を書いておられたようだが。


【12月8日】
「kawade夢ムック」の『総特集 遠藤周作』を読む。未発表の日記が掲載されてあるのだ。。数年前に『深い河』を読んで以来のことだ。懐かしい思いで読み始めた日記だったが、その後半部は胸の痛む内容であった。遠藤氏の最晩年は、寝たままの状態で創作活動も不可能な状態であったように仄聞するが、20年近くに渡る長い闘病生活のその初期にあたるのが、今回掲載された日記の後半部分であったのだ。最近では滅多にないことだが、12時過ぎまで読み、その後眠られぬままに、生き死にのことについて考える。
遠藤周作氏の作品は、ある時期まではほぼすべての作品と、目に止まった遠藤氏関係の論文などをずっと読んできた。遠藤文学の第1期と言われた時期の作品だ。歴史上の人物を通じてのさらなるテーマの追求へと、遠藤氏の小説世界が移行していく時期に、読む事をやめた。しかし、今回の日記を読み、さらに同誌に掲載された文章を読む中で、『侍』、そして『スキャンダル』という作品を読む必要を感じた。是非、読んでみようと思う。
土曜日は「辻田克巳俳句研究会」、日曜日は「運河城陽句会」。両日とも参加する。最近、何故か体調の変化に大きな波があって、調子の悪いときはせっかくの句会を休んだりもしていたのだが、どちらにも参加出来てよかった。「研究会」の方は、当面の会の方向性が見えてきた。次回は、第二句集『オペ記』。私が、レポートすることになっている。その後は、同時代の作家との比較研究、という形になるであろう。「運河城陽句会」。こちらも、体調不良と仕事とで、ここ数回欠席をしており、久しぶりの参加。申し訳ないような気持ちである。第一句会は、数句とって頂くが、第二句会は7句投句のはずが時間内に4句しか作句出来ず、情けないような結果となる。すっかり鈍っているのだと思う。
句会の帰り、書店で『俳句研究』と『俳句』の年鑑を買ってくる。しばらく、この二冊を読むことになるだろう。二冊で、『参』の扱いが違っているのが面白かった(面白がっていてはいけないのだが)。結社紹介の中で、岩城先生に句を紹介して頂く。「夏の水父の吐血を受けし手に」という句。「いさなご句会」で出した句。自分としては珍しい境涯句。

【12月6日】
昨夜、坂本宮尾の『杉田久女』を読了。今年読んだ本の中でも、深い感銘を受けた1冊。時代と境遇というものと俳句作家として有りようの相克の中で、俳句に魂を奪われ、俳句に殉じた、苛烈な運命というものを思わせられた。さらに、久女という強烈な光源に照らし出された高浜虚子の姿にも、ある意味で胸に応えるものがあった。筆者の久女に対する深い感応、ということも思ったりした。
昨日は、午後出張。仕事を終えて、夕景の御所を歩く。すでに、東山の上高くに月が昇っていて、水気の多い空にやや歪な姿を浮かべていた。寒くはなかった。犬をつれた散歩者の姿が、広い御所内に点景のように眺められた。枯れた桃林、梅林と歩いていくと、夕闇が水のように辺りを浸していくのが感じられた。久しぶりに、夕暮れというものを身にしみて感じられたように思う。
土曜日。洗濯。今日は雨になるとのことで、やむなく部屋干し。40分ほど走る。寒くない。寒いのは苦手だが、寒くないのは何となく物足りないような気もする。
今日は午後から「辻田克巳俳句研究会」の第2回目。今回も、前回に続き、第1句集『明眸』を読む。水野さんから頂いた、『明眸』の序文(秋元不死男)・跋文(鷹羽狩行)・あとがきを読む。

【12月4日】
坂本宮尾の『杉田久女』を読んでいる。胸に迫るものがある。
夕方走る。12月に入って、あちこちで、クリスマスの電飾が飾られてあるのが目を引く。走りつつ、つい電飾巡りのようになってしまう。綺麗に飾られた家の前を走るコースに選んでしまうので。
杉浦さんから「quatre」NO18を送って頂く。今号のテーマは「電話」。個性的で面白い作品が、並んでいる。「羅針盤より秋の燕の飛んでゆく」中田美子、「灯台に電話番号ありて雷」杉浦圭祐、「糸電話淋しいときは花野まで」金山桜子、「伝言請う烏瓜から烏瓜」上森敦代。そういえば、金山さんは、今月の角川『俳句』に作品8句を発表しておられた。少し型通りかな、という印象あり。
岩井英雅さんから、著書の『近代俳人群像』を本校の図書館に寄贈していただく。感謝します。