日々録
日記のようなものを書いてみようかな、と思いました。             
備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、という事です。             
一人言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さい。

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【2月26日】
木曜日。夜、お酒を飲むことも控えて、日曜日の「翔の会」に向けて、資料の読み直しを行っている。辻田先生について、作品ではなく、評論を中心に据えて作家論を組み立てていく、という方向で進んできた「翔の会」であるが、そろそろ議論も終盤を迎え、自分なりの作家像を構築すべき段階に入っている、という事になるのだろうが、それがなかなか苦しい。改めて、対象の大きさや背景の広がりを感じるばかりだ。遅ればせながら、平畑静塔の『月下の俘虜』を読み直し、秋元不死男の『新編俳句入門』が角川書店から出ている事を知り、在庫ありと言う「楽天ブックス」に申し込んだりしている。が、果たして間に合うか。
資料を読む合間に、納戸にしまっておいた昔の文書類などを詰め込んだ段ボールを引きずり出し、眺めたりしている。大学時代のクラス新聞や同人誌・日記類、教師になりたての頃の授業記録や断片的な原稿類、日記のノートなどが出てくる。さすがに、懐かしい。その中に、俳句らしい作品が交じっているのに気が付く。これは、岩城先生に出会う以前のものだから、そんな時期にすでに俳句についても関心を持っていたのか、と思う。納戸には、まだ段ボールが幾つか残っているので、暇をみて引っ張り出してみようか、と思う。
金曜日。2年生の進路ガイダンスが終わる。担当者として、一日気を遣っていたらしく、終わったらぐったりしてしまう。短大の説明も担当したが、生徒の感想はこちらの意図していたものをきちんと受け取ってくれたものが多くて、安心する。夕方、走る。昼が長くなったな、と思いつつ走る。結構、汗をかく。走り終え、ガイダンスの感想文を整理して、各担任の先生の方にまわす。今日は、ミューズの練習の日だったけれど、時間的に遅くなってしまったので、中止する。帰宅後、今日もお酒は飲まず、資料の続きを読む。
土曜日。5時過ぎに起床。ベランダに出ると、すでに朝の気配が感じられる。今日は、京都市内も雪が降るかもしれない、と天気予報は言っていたが、外はさほど寒さを感じない。

【2月20日】
本日、アクセス数が3万件を越えました。1996年にホームページを開設して以来、10年近くかかって、このアクセス数となりました。途中からは、ほとんど『日々録』の更新のみという、先細り的な状態になりましたが、こんなホームページを見捨てることなく、見に来て下さった皆様のお力でここまで至ることが出来ました。本当に御礼を申し上げます。この先も、細々と続く事になると思いますが、今後ともよろしくお願いします。
日曜日、久しぶりに早朝に走る。天気は良いが、風があって寒い。車がほとんど通らないので、道の真ん中をどんどん走る。鴨川まで出て、堤防の上をしばらく走り、引き返す。今日は、風防をすっぽり頭に被って走ったが、ほとんど汗が出なかった。
ふと思い立って、あらたにホームページを立ち上げることにする。先週、大学時代のサークル『山歩会』のOB・OG総会に出て以来、せっかく新たな繋がりが出来たので、この機会に何か出来ないかと考えていたのだが、サークルの先輩からメールで当日の集合写真を送って貰い、それを眺めながら、在学当時の山行の写真がアルバムに残っているのを思い出し、それを展示する「GALLERY」のようなホームページが出来ないか、と思ったのだ。思い出にもなり、当時の活動を知らせることにもなると考え、早速アルバムを探してきて、午前中かかって写真の選択と、スキャナーを使って画像データに変換する作業を行う。ホームページは、まさか『参』を使うわけにいかないので、yahooのジオシティーの無料ホームページを利用することにする。午後、2時間ほどかけて、スタートページと75年の夏合宿のページを作る。合宿のページは、タイトルと写真7枚と簡単な紹介だけの簡素なものだった。画像中心のページで、やや重いのが気になるが、一応まずは出来上がりとして、『山歩会』のホームページの掲示板に、「GALLERY」を作った旨を書き込み、ちょうど同期の人が掲示板に書き込んでいるのに気付き、メールを送る。総会の時、こちらが早めに帰るという事があって、顔を見ただけで、話一つ出来なかったので、気になっていたのだ。
近所の大型雑貨店に、細々したものを買いに行く。買い物袋二袋ほどの買い物をしてきて、部屋にそれらを置き、とって返して今度は近所の大型スーパーに夕食の買い物に行く。買い物を終え、夕方2時間ほど来週の「翔の会」の準備のために、秋元不死男の資料と辻田先生の評論を読み、メモなどを取る。

【2月19日】
金曜日。午前中は、校内ロードレースの路上指導。朝はそうでもなかったのに、天気が下り坂になるにつれ、次第に寒くなる。走る分には、寒いくらいの方が、体温が上がりにくく体に対する負担が軽くなって、悪くはないのだが、立ち指導の方はかなり辛い。いっそ一緒に走れたらと思うのだが、人員の関係でそれも出来ないのは「残念」である。男子17キロ、女子14キロ。コースは、かなりアップダウンがあり、楽ではない。特に、男子の走り出しのきつい上り坂と、ゴール前の長い上り坂はつらい。その中でも、ゴール前の運動公園ゲートに入って100メートルほどの急坂は、ここまで頑張って走って来た子も、思わず歩こうか、と思うくらいきつい。そんな中でも、トップクラスの生徒は1時間足らずで、コースを走りきってしまうのがすごい。今回のロードレース、参加者は全員制限時間にかなり余裕を残して、完走したのではないか、と思う。生徒の流れが途切れた時、北の方を眺めやると、比叡山の右側に曇天を背景に雪を頂いた比良連山がうっすらと浮かびあがって見える。ちょっと崇高な感じがするのが、良い。
午後になって、雨になる。夕方には、かなり強い降りになる。一度帰宅してから、ミューズの練習に行く。夏のモーツアルト「レクイエム」の為の練習だ。団員募集は、すでに1月から始まっていて、来週が募集の締め切りになっている。会場に着き、入団申し込みの手続きをしていると、ロビーで男性の練習が始まる。早速参加する。いつものメンバーの中に、初めて顔を見る人が何人か交じっている。団員は、250名を目標に募っているが、すでに200名を越える人が入団しているらしい。練習は、9時過ぎまであるが、少し早めに切り上げる。帰り支度をしながらステージ上での合唱をしばらく聴く。まだまだ緩い感じ。年末の「第9」が、力は籠もっていて迫力はあったのだが、個人の声が出すぎていたりテンポが不安定だったりとやや雑な部分があったので、そんな所が大幅に改善されたら良いな、などと思う。会場の外は、酷い降りで、急いで駅の方に向かう。
『枯木灘』は佳境に入っている。盆の15日の夜の、懐かしさを感じさせる精霊送りの景を描きながら、秋幸の身の上に大きな出来事が起こる。それまでに語られてきたことが、すでに起こった出来事の回想であったのに対して、秋幸の物語の本当の出発がここから始まるように思う。それにしても、「蠅の王(悪魔の事か)」「蠅の糞の王」として描かれる秋幸の父親の邪悪な姿が、しかしその最後の場面をすでに知る者としては、深い怒りと悲しみ・祈りの層として見えてしまう。それは、秋幸自身の本質と深く繋がる部分でもあるように思うのだが。
邑書林から頂いたメールの返事を書く。何度も読み返してきたのに、数カ所間違いを指摘される。不注意ということではあるが、自分の作品ということで、思いこみなどによって逆に見えなくなっている部分があるのではないか、とも思う。表紙の絵については、何とかなりそうでとても嬉しい。すでに印刷所にまわし、校正原稿の1回目は3月に入って送られてくるらしい。

【2月15日】
中上健次の『枯木灘』を読み始める。単行本があったはずなのだが、どこかに紛れ込んでしまい、先日立ち寄った古本屋でみつけた文庫本を読み始めたのだ。読みながら、今まで読んできた一連の作品群の様々な切片が、輝くようにひらめいてくる。終わりから物語を読み始めるような作品の読み方になってしまったせいで、錯綜する時間、のようなものを感じつつ、しかし本当にどきどきしながら読んでいった。変な言い方なのだが、しばらくその作家の作品を読んでいなくても、読み始めた瞬間に、自分の中にぴたりとチャンネルが定まる作家の一人が、中上健次のように思う。切れているはずなのに、読み始めた瞬間、世界が繋がっている、そんな風な感じなのだ。それは、高校時代に、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を断続的に読んでいた(なにしろ、とても長かったものだから)時に味わった事のある経験でもあった。
話の中で、主人公の秋幸が土方仕事の肉体労働の中で、流す汗とともに自分が消え、四方の山々の自然と一体化する感覚を、とても鮮烈に描く場面が繰り返し出てくるのだが、あれは祈りであり禊ぎでもあるのだろうか、などと思いつつ、読んでいる。その場面に、とても心惹かれるものを感じるので。中上健次氏は、何故俳句というものに強い関心を示されたのだろうか、などとも思う。
『鼎座』第二号の原稿が送られて来る。編集作業を始める、といっても、基本的に誌面は大きくは変わらないので、手間はかからない。創刊号の反省で、若干割付を変更したりする。短いけれど、結構大変なのは「あとがき」。全く書けていない。ただ、こんな作業は、結構自分の「性」に合っているな、と改めて思う。一言で言えば、「楽しい」のだ。お気楽な思いではあるけれども。楽しく『鼎座』を出していきたいものだ、と思う。

【2月13日】
日曜日。大学時代のサークルのOB・OG総会に参加するため、草津まで。「山歩会」という、文字通り山歩きを楽しむサークルである。ワンゲルや山岳部のような厳しい山登りとは違う、初心者から熟練者までが一緒に山を楽しめるという考えで、創設された同好会である。さほど大きなサークルではなく、活動もそれほど派手ではなかったが、それが30年以上も続くとは、各時期の会員達の頑張りというものが、思われる。実際、「危機的状況」もあったようだが、その都度明るく切り抜けたようだ。現在、会員数は30名ほどいるようで、登山が中・高年の独壇場になっている現状を考えると、山歩会の基本精神「皆」で「山を楽しむ」は、若者達の心の琴線に触れるものがあるのか、と思う。
総会参加者は、各期に渡り、総勢60名ほどになった。創設者で初代会長の中村氏をはじめ、懐かしい先輩・後輩や、直接の面識はなかった後輩会員の人たちにも出会えて、楽しい総会となった。夕方、会場を辞する時、遥か向こうに銀色に輝く雪の比良連山が眺められ、ちょっと厳かな気分になる。そういえば、「山歩会」に入会し、比良山系もホームグランドの一つにして歩き回っていたある日、初めて比良山系を見たときはべったりとした一続きの塊のようであった山々が、尾根は尾根、谷は谷としてくっきりと三次元的に立ち上がって見えたのは、とても新鮮な経験であった。
夜、『平畑静塔対談集』を読む。今月末の「翔の会」の参考資料になるか、と思っていたが、資料としては今一つであった。その続きで、橋本多佳子の句集『紅絲』を読む。『醍醐会』からの預かりの句集である。表紙裏に、作者直筆の献呈署名が書かれてある。毛筆で、細い、ちょっと神経質そうな印象の文字である。

【2月10日】
先ほど、句集の原稿を邑書林に送った。ほっとしたような、気懸かりなような、なんとも言えない気持ちである。ここ数日、原稿を繰り返し声に出しては読み、小さな手直しを繰り返しながら、明日には送ろう、送ろう、と思いながら、一日延ばしに延ばしてきたのだ。表紙に使いたい、ある画家のエッチングについて、問題点があったことも、先延ばしの理由の一つではあったのだが。昨夜、岩城先生にお電話を入れ、踏ん切りをつけることにした。
それにしても、どなたか岡本久美子(旧姓かもしれない)という銅版画の作家の所在をご存じないだろうか。20年以上前に、京展に初入選を果たした新進の画家の方なのだが。
『醍醐会』の時、南うみをさんから頂いた『現代俳句新世紀』下巻を読む。中堅作家のアンソロジー。私より、やや年上の方達、ということになるのだろうか。多士済々という言葉がぴったりするほどに、個性的な方々の作品が並ぶ。特に印象に残った作家は、林桂氏と山崎十生両氏であった。かなり強烈な、印象と言った方が良いかもしれない。言語実験的な性格の強い(それでいてとても詩的だ)林氏の作、ちょっと反則技風な山崎氏の作、どちらも大変面白かった。

【2月6日】
『国文学解釈と鑑賞』別冊の「江戸川柳のからくり」読了。大変面白かった。それにしても、ちょっと厚手の雑誌だったけれど、2520円もするとは思わないで、レジで値段を聞き直してしまったのは、少々恥ずかしかった。
日曜日。『運河』城陽句会の日。玉水周辺を吟行の後、午後から城陽にて句会。JR玉水駅から井出の玉水沿いに歩く。河床の葦はすっかり刈られていて、水量の減った川が真ん中を流れているという、少々物寂しい情景であった。この吟行で、三光鳥と四十雀を憶える。名前は知っていたが、どの鳥と特定出来なかったけれど、今後は大丈夫であろう(と思う)。紅梅の枝に、目白のために蜜柑が半顆刺してあったりしたのも見た。果肉はすっかり食べられていて、薄い皮だけがきれいに残っていたのだが。そう言えば、昨秋、猪のぬた場とキツネノカミソリの現物を初めて見たのも、玉水吟行の時だった。


【2月3日】
各部屋毎に豆を撒き、最後は、ベランダから「鬼は外」。外は随分冷え込んでいる。その後、今年の恵方の西南西を向きつつ、巻き寿司にかぶりつく。明日はもう立春なのだ。
土曜日の「句会すき」は中止となる。大雪のせいである。丹後の水野さんに連絡をとると、今もまだ雪が降り続いている、という。すでに50センチくらいも積もっている、とのことだ。会員さん達には、中止連絡をしてくださったということで、御礼を言って電話を切る。残念、である。
藤さんから今月号の『運河』を送っていただく。矢田部美幸さんの追悼記事に続くように、梶和雄さんが亡くなられた事を報じる記事を見て、大変驚く。梶さんは、『運河城陽句会』で親しくして頂いた方だ。名のりの時、茨木主宰と同じ「かずお」というお名前なので、「カジ、カズオ」と大きな声で仰っておられる姿が印象的だった。しばらく、句会で姿をお見かけしないので、どうされたのかと思っていたのだが。
『国文学解釈と鑑賞』別冊の「江戸川柳のからくり」を読んでいる。幾つかの項目分けをした上で、作品とその解説・鑑賞が付されてある。それが、大変面白い。恐らく、川柳だけを読んでいたら、その面白さは10分の1も分からないかもしれないけれど、作品鑑賞の邪魔をしない程度の丁寧な鑑賞文が、江戸川柳の面白さを伝えてくれる。川柳も俳句同様、共通の文化的基盤、知識と教養があってこその面白さ、という事を知る。