日々録
日記のようなものを書いてみようかな、と思いました。
備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、という事です。
一人言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さい。
05.3「日々録」
05.4「日々録」
05.5「日々録」
05.6「日々録」
05.7「日々録」
【8月31日】
8月も今日で終わる。と言っても、学校はすでに9月を待たずに始まっているので、例年に比べ、感慨はちょっと薄い。残暑、という程には暑くもなく、かと言って、エアコン無しの授業は、さすがにたっぷり汗をかくほどの状態ではある。せめて、ネクタイなしのクールビズスタイルで乗り切る。
昨日、ミューズから7月のモーツアルト「レクイエム」の録音テープが送られて来た。すぐに聴きたかったけれど、まずやっておかなければならない用事があったために、随分夜遅くなってから聴く事になった。さすがに、周りの迷惑を考えてボリュームをうんと落として聴く(イヤホンはどうも苦手なので・・・)。細かい点をあげれば、山ほど傷はあるだろうけれど、しかし確かに胸を打つ演奏である、と聴き終わって思う。悪くないぞ、と思う。自画自賛めいているけれども、演奏全体を通じて、ある思いの深さや強さがそこには確かにあると思う。素人恐るべし・・・である(もちろん、過剰な思い入れゆえに、ヘタすると見事に転けてしまうこともあるのだが、それもまた別の意味で「シロウト恐るべし!」、という事になる)。
【8月29日】
夕暮れの空に、きれいに鰯雲が広がっている。駅へ向かって歩いていくと、涼気を含んだ風が気持ち良く吹きすぎていく。今年の秋を実感した一時であった。
昨日は、午後から本の買い出し。暑い中を市内へ。寺町通りの『三月書房』で、目に付いた本をまとめ買いする。先回の『醍醐会』で、岩井さんから勧められた長谷川櫂氏の『俳句的生活』も、その中の1冊。ちょっと思い込みの強い人なのかな、という印象を持ちつつも、書かれた内容は、思っていた以上に面白いものだった。相変わらず、芭蕉の「古池や」に関する解釈は、ちょっと疑問を感じたりはしたけれども(読みの恣意性みたいなものを感じるので)。そう言えば、『俳句研究』8月号に掲載された「松島52句」は、正直言ってびっくりするほど良くない作品群ではあったけれど、この本に載せられた作品は、格調があったり、諧謔味も含めて自在な世界が感じられたりして、いずれもとても面白く、本来はこのような句を詠む人なのか、と感心したものだった。
昨日は、吹奏楽コンクール中国大会の日。結果は、2チャンネルの掲示板で確認する。弟の指揮した団体は銅賞。弟の嫁さんの参加した団体は金賞を受賞した。どちらも大健闘したと思う。『鼎座』の第4号の作品10句を作り始めているが、楽器に関わるような内容の句でまとめようか、と思う。自分自身の小・中学校時代の経験を思い出したり、この夏の出来事を素材として、10句まとめてみよう。
7時前なのに、外はすでに薄暗い。昼が、短くなってきたな、と思う。帰宅したときは、30度を超えていた室温も、窓を開けておいたら、すでに30度を切っている。虫の声が、7階のここまで届いている。
【8月25日】
24日午後、年休を取って国会図書館へ行く。引き続き、岩城先生の評論の検索。併せて、面白そうな記事をメモしておく。岩城先生と言えば、「俳句型紙論」が有名なのだが、4年間に渡り、角川『俳句』に連載をしておられた。それがいつからだったのか、リアルタイムで読んだ記憶はあるのだが、はっきりしなかったのだが、今回平成5年の1月号からだったことがわかった。タイトルは、『俳句の素材』。俳句型紙論について、例句を豊富に紹介しつつ、2〜4頁で展開しておられた。第1回目は、「見るものから見られる者へ」。視点や立場のの移動を、「水盗む人の顔見て見られけり」上島清子・「松手入見上げてゐしが見下ろさる」渡辺昭を例句として、「季語+能動表現+受動表現」という基本形で捉え、さらにその応用形として14句ほど作品を紹介されている。今回読み返してみて、明確な方法論と、明晰な分析が改めてとても面白かった。
今回『俳句』を読み直していて、色々分かったことがあったけれど、例えばこんなことだってある。1989年版『角川俳句年鑑』の結社紹介の中で、『霜林』編集長として結社誌をを紹介される岩城先生の名前が「浦城久治」となっている事(誤植なのだろうが)なども、その一つだ。まったく、細かい話だけれども。
分かったと言えば、私が角川『俳句』の雑詠欄に投句を始めたのも、実は平成5年だったようだ。雑詠欄が『平成俳壇』として今の形になったのが平成4年の2月号からで、初めて私の投句が活字になったのが、『平成俳壇』平成5年7月号で、黒田杏子選に「春風に吹かれるままに百済仏」という句だった(これは、完全に忘れていた)。続いて、9月号に「ひとひらを風に乗せたる八重桜」が黒田杏子推薦(記憶の中では、これが初めて活字になった句だと思っていたのだが)に、「桜蕊含むごとくに風淀む」が深谷雄大秀逸に選せられていた。こんな事も、実際に雑誌にあたって確認しえたことだ。自分自身の小さな足跡もここに印せられてあることに、改めて気が付いた事だ。とても懐かしかった。そして、これらの投句が岩城先生の目に触れて、転勤によって一度切れていた縁が再び繋がる事にもなったのだ。
雑誌に目を通していると、2、3時間などすぐに過ぎてしまう。今回は、80枚ほどコピーを取ったりもしたので、それにも時間を取られ、平成5年分までしか検索が出来なかった。
【8月23日】
午後、休みを取って、京阪奈丘陵にある国立国会図書館関西館に行く。「翔の会」は、10月の集まりで辻田先生ついての討議を終え、続いて岩城先生について、その評論活動を通じて伺われる作句活動について考えていく事になる。その準備作業として、主な評論作品について用意をしておく必要があり、そのために国会図書館分館へ出かけたのだ。
事前にネットを通じて、蔵書確認をしたところ、関西館に角川『俳句』と富士見書房『俳句研究』がずいぶん揃っており、それらの雑誌に掲載された評論をまず集めておこうと思ったのだ。JRの新祝園駅からタクシーで10分ほどで、一見図書館とは思えない巨大でシンプルな建造物の国会図書館関西館に到着する。入館手続きを終え、荷物をロッカーに預け、ノート1冊だけを持って閲覧室に向かう。外観同様、内部も装飾性を廃して、すっきりしてちょっと無機質な印象を与えるデザインで、公開書架が二百メートルほどにわたり横一列にずらりと並んでいるのが壮観だった。
雑誌の殆どは、閉架式の書庫に保管されてあるので、60冊ずつ借り出して、目次を辿りながら、岩城先生の書かれた評論と掲載された作品を併せて探す。6時前までかけて、130冊ほど調べる。もっと短時間で出来る物と高をくくっていたのだが、角川『俳句』を予定の半分ほどしか調べる事が出来なかった。機械的に調べていけば、もう少し多くの雑誌に当たることが出来ただろうけれど、目次を辿る事自体が、現代俳句の歴史の一端をそのまま辿っているような手応えを感じながら、目に付いた記事をあちらこちら拾い読みしつつ調査を進めるので、作業が全く捗らないのだ。しかし、面白い。読むことの醍醐味を感じる。
閉館時間が迫ってきたので、やむなく作業を中断する。10月の集まりの時に、提供する資料の目処を立てておきたいので、もう数回ここに通うことになるだろうと思う。『俳句』を調べる中で、中上健次が連載や誌上対談をしていることなどを知ったのも収穫の一つであった。
【8月21日】
朝、5時過ぎに起床。6時前に歩きに出る。すでに日は昇っているけれど、空気はひんやりとして気持ちが良い。時折、新聞配達の人や散歩の人とすれ違うくらいで、ちょっと非日常的な世界を歩いている感覚を楽しむ。50分ほど歩き、ジョギングで帰ってくる。シャワーを浴び、コーヒーをのんで一休みする。
【8月20日】
夕方、甥っ子から電話。今日行われたコンクールの結果を知らせてきた。地区予選合格で、地区本選へと出場が決まったとのこと。本選は、10月下旬に岡山で開催されるとのこと。本選を通過すれば、東京での全国大会ということになるらしい。どこまでいけるか、是非頑張ってほしいと思う。
今日は、模擬試験の監督で出勤。幸い、今年からクーラーが教室に入ったので、快適に受験出来るようになった。いつだったか、この時期に外部会場が取れなくて、教室で一日模試を実施したときは、かなりつらいものとなった。職員室や準備室から扇風機を3台借りてきて、窓も戸も開け放した教室に設置し、夕方までの模擬試験を行ったが、汗を絞り出す苦行に近いものになった事があった。模試を終え、使った教室を掃除していたら、残っていた女生徒が「手伝います」と言って、一緒に掃除をしてくれた。こういう事は、なかなか嬉しいものである。帰宅後は、ビール。マンションの公開空地が賑やかなので、上から覗いてみると、地蔵盆代わりの子供祭をやっていた。幾つもの屋台店が出、遊び道具なども置かれて、子供達のはしゃいだ声が聞こえてくる。そう言えば、このマンションに入居して2年目に自治会の役員の一人として、うどんの屋台をやった事を思い出した。金券と引き替えで、きつねうどんを売ったけれど、これで商売してやろうか、と思うほど良く売れた。調子に乗って、翌年も役員外で参加して、うどんを売っていたものだ。
【8月4日】
昨夜、岩城先生ご夫妻から、句集上梓のお祝いをしていただいた。ワインと露西亜料理、そして生演奏と贅沢な時間を過ごさせていただいた。
愛宕山に沈む夕日を眺めながら、心からほっとした思いになる。記念に、扇子に句を書いていただく。「鶏肉の口をはみだす桜かな」という、扇子に書いていただくにはちょっとどうかな、とも思ったけれど、自分にとって開眼の1句かもしれない、という手応えのあった句なので、書いていただく。大変立派な字で見惚れてしまう。岩城先生ご自身会心の作だったらしくて、「あげるのがおしくなった。」との一言あり。
明日からしばらく『日々録』の書き込みを「参掲示板」の方に移します。
【8月1日】
日曜日、『醍醐会』。石動敬子句集『素描』の論評。3名がレポートを担当する。2ヶ月近く『素描』に関わってきたので、ほっと一息つく。議論を聞きつつ、自分が石動俳句の中心ではなく、結局周辺を2ヶ月かけて徘徊していた、との思いが残る。向日性の俳句、石動氏という個性がスタンプされた俳句、日常の些事とも思えることを、鋭敏な感覚と卓抜な言語感覚で軽やかに掬い取った句等、石動俳句の本質論議がなされたように思う。が、自分にとっては、難しい(難解という意味でなく)句集という印象が残る。
久しぶりに三田誠広の作品を読む。『犬との別れ』というエッセイ。作者とシベリアン・ハスキー「リュウノスケ」との出会いから別れまでを、自身と家族の日々と繋げて語ったもの。初代、二代のジェニビの事を思い出したりもしながら読む。作者の特徴である独白調文体の、ちょっと湿ったセンチメンタリズムが妙に懐かしかったりもする。
明日は、生まれて初めて「人間ドック」に行く。近所の病院で予約が取れたので、そこに行く。説明書を読むと、色々な検査をするようだ。オプションの中に「脳ドック」もあったので、受診をしてみようかと思ったけれど、予約が一杯で日程的に無理であった。ちょっと残念である。