日々録
日記のようなものを書いてみようかな、と思いました。
備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、という事です。
一人言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さい。
05.10「日々録」
05.11「日々録」
05.12「日々録」
06.1「日々録」
06.2「日々録」
【06年3月31日】
どうやら、軽いぎっくり腰になったようだ。昨日、故紙を倉庫に運ぶため、重いダンボールをキャスターに積んで移動する際、前屈みの姿勢が腰に負荷を与えたらしい。動かなければ、大丈夫なのだが、歩くと腰が痛い。そのためそろそろ歩くことになり、すると両足に負担がかかって、太ももが痛み出す。何とも、悪循環に陥っているような気がする。昨夕、冷たい風が吹きつけ、春の雪が降る中で、寒さに震えながら、いつもの駅から自宅までの距離がいかに長いか、身に沁みて感じつつ、そろそろ歩きで帰宅したものだった。
一晩たって、ほんの少しマシになったかもしれない、と思いつつ、出勤。のろのろ歩きである。午前中は、担任会向けの資料を作る。生徒向けに購入した『ドラゴン桜公式ガイドブック』なども見る。割と面白い。午後は、教材作り。動くより、座って居る方がまだましか、と思う。午前、午後と転勤の人が、席の片付けや挨拶に来られる。退職される人と数年ぶりにお会いしたりもする。
今日は、ミューズの練習日。ともかく、出かけようとは思う。
明日は、「すき句会」の日。丹後は、ずいぶん寒いのだろうか。京丹後市のライブカメラで見ると、丹後半島のスイス村では新雪が10センチくらい積もっているようだ。山の斜面に設置された風力発電の巨大な羽根が、夕景の中くるくると回っている。随分風が強いのかと思う。
【06年3月28日】
土曜日。岩城先生宅で連句の日。清水さんが、夕方までしか京都におられないので、早めの召集で、集中して句作。参加者は、岩城、大石、清水、そして私の4名。名残の裏の第5句目が、岩城先生の奥様の指定席。夕方までに、何とか「春場所の巻」が巻き上がる。豆乳の鍋が大変美味。ビール、お酒、焼酎も大変おいしかった。
日曜日。半日、クラブの引率。外は暖かいが、体育館の中は寒い。新ルールでチーム戦を競う。なんとなく、飛び抜けて強いチームがいない、という印象。対戦結果は、1勝1敗であった。帰宅後、読書。安東次男『風狂余韻』を読む。芭蕉の連句の解釈。共通の広く深い教養を前提とする座の意味の大きさを思う。芭蕉の俳句は、連句の座を基底に据えて考えるべきという山本健吉の主張を思う。安東氏の辛口の批評も面白い。
月曜日。図書館に籠もり、『三冊子』読了。『去来抄』に及ぶ。
火曜日。来年度の校務分掌が決まる。やっと地に足が着いた気分。一気に忙しくなる。会議を二つ終え、次年度の準備に取りかかる。邑書林『セレクション柳人 畑美樹集』を数日かけて読了。繊細で、ひたむきで、ユーモアがあって、読み応えのある一冊であった。これで、三人の川柳作家の句集を読んだけれど、川柳の多彩多様な世界に驚く。面白い。
【06年3月23日】
火曜日、午後。前任校で担任をしていた子が勤務している美術関係の学校の卒業展に出かける。毎年の年賀状のやりとりはあるのだけれど、出会うのは数年ぶりになる。美術館の一ホールを借り切っての展覧会で、なかなか面白かった。造形作品も良かったけれど、絵画、デザイン関係の作品が若々しくて新鮮であった。立ち話で、近況などを聞くが、すでに今月の20日に勤務先を退職をしたという。26日までの展示会の期間中は、教え子達の事が気懸かりでボランティアで受付を引き受けているとのこと。びっくりする。勤務条件が厳しくて、そのうえ本人が本当に頑張り屋なので、無理をしすぎて体調を崩したりしたということもあったので、気になっていたのだが、ついに決断して退職し、韓国で絵画関係の塾を開くとのことだ。すでに、塾開設の見通しも立ち、28日には韓国に向け出発するという。びっくりする。併せて、美術関係で日本への留学を希望する韓国の学生達の手助けもするつもりであるともいう。びっくりする。と、同時に、気懸かりよりも、頑張れと応援したい気持ちになる。
夜、高橋睦郎著『私自身のための俳句入門』読了。難しかった。一部、よく分からない部分などもあり、(たとえば、「恋」と「季」の関係とか・・・)かなり混乱状態となるが、しかし、なぜかこれは是非『三冊子』を読み直してみなければ、という気持ちになる。分からないなりに、とても刺激的な書物であった、ということなのだろう。翌日、図書館に1時間ほど籠もり、『三冊子』中「白冊子」をまず読む。主に俳諧の式目の説明で、『鼎座』でかなり自由に歌仙を巻いている事もあり、大変面白かった。
昨日、帰り道で立ち寄った手作りのパン屋さんからもらったある雑誌からのコピープリントを、何というつもりもなく読んでみたら、食パンについて、ちょっと気になる事が書いてあった。発ガン性物質を添加しているある大手メーカーの食パンのこと。最後の(注)の部分に製品名が具体的に書いてあったので、それも目を通してみると、どこかで見たことのある名前が載っていた。それは、実家でなんども食べていた食パンではなかったか。あまり気持ちが良い事ではなかったので、早速自宅に電話を入れ、記事の内容を知らせておく。きっと、日々有害無害取り混ぜて様々な添加物を体内に取り込んでいる事だろうけれど、知ってしまうと、さすがに気分は良くない。
樋口さんのお世話で、柳人の畑美樹さんから、邑書林『セレクション柳人 畑美樹集』を贈っていただく。最初の方を少し読むが、なんて繊細な世界なのだろうか、と思う。「トーストが静かに焦げてゆく痒み」の「痒み」など絶品だ、と思ってしまう。石田氏とも広瀬氏とも全く違う感触の作品世界である。どんな世界が展開していくのか、楽しみである。
【06年3月21日】
日曜日。古本屋で手に入れた友岡子郷氏の第2句集『日の径』を読む。平明で日常生活の機微のようなものを静かに詠われる、という印象。実は、最初はちょっと物足りない、という感じを持ったりもしたのだが、有る瞬間ふっとこちらのスイッチが切り替わる感触があって、それからは心地良く作品世界を読み進められたような気がする。
『里』NO、36が届く。今号は、企画物がなくて、ちょっと軽めの印象。作品は、多士済々という感じ。宮崎氏の回文俳句、毎回どうやって作られるのだろう、とその都度感心する。
月曜日。長い長い会議に、疲れる。
本日。春分の日。朝から、高曇り。6時から「歩き+走り」。今日は、丘陵地コースを選ぶ。鶯は鳴き方がすっかり上手になっている。小鳥の囀りが、耳に心地良い。息は白いけれども、さほど寒さを感じない。途中、一輪車で散歩をしているおじさんに追い抜かれる。時速6キロくらいで走っているようだ。下りはどうされるのだろうか、と思う。
高橋睦郎著『私自身のための俳句入門』を読み始める。
【06年3月18日】
川柳句集『石田柊馬集』を読む。『広瀬ちえみ集』が短詩の風情が濃厚だったのに対し、『石田柊馬集』は、よりこちらの抱く「川柳」というイメージに近いものだった。しかし、なんと精錬されたもの、という印象を持つ。熱く、強靱な川柳魂(解説文で、渡辺隆夫氏は「スピリッツ」と表現しておられたが)で、焼成されたような作、という印象を持つ。川柳というのは、なかなか面白い、と思う。和歌、俳句、詩、小説、哲学から卑近な日常、稚気から大人の成熟と悲哀まで、なんとも様々な要素が散りばめられ、その中心に川柳「スピリッツ」が「垂直」に(ちなみち、柊馬氏は「垂直」という言葉や有り様がお好きなのだろうか)立ち上がっているように思われる。ちなみに、「胆管紅葉」の章を読みつつ、江国滋氏の句集『癌め』を思い出したりもした。共通の話題というだけでなく、共通の精神をふと感じたりしたものだ。
土曜日。6時になると、外はもうすっかり明るい。空の半面をきれいな鱗雲が覆っている。悪天の兆しの雲である。コーヒーをいれておいて、いつもの「歩き+走り」に出かける。ちょっと疲れているので、いつもの坂道コースはやめて、平地コースを1時間強「歩き」「走る」。
急に大阪に行く用事が出来たので、取り急ぎ洗濯物を室内干しにして、出かける。すでに小雨が降り始めている。昼前には、用事は終了。心斎橋の商店街を地下鉄駅に向かう。大阪は本当に活気に溢れる街だと、来るたびに思うのだけれど、今日商店街を歩いていて、その活気の元に、色々な層(早い話が老若男女)の人がこの時間帯に歩いているという事があるのではないか、とふと思った。例えば、京都の新京極あたりだったら、この時間歩いているのはほぼ若者という状態なのではないのか。大阪の方が人の動きが多層なのではないか、などと思ったりしたのだ。どうなのだろうか。
せっかく大阪まで来ているので、阪急3番街の「古本屋街」に行く。以前ここに来たときに、一軒の店に長谷川素逝の句集『砲車』が置いてあったのを憶えていて、その店に行ってみたのだ。店の奥まった棚の上の段の辺りにあったはずだが、見あたらない。店の人に確認してみたが、やはり売れたということであった。残念である。
【06年3月12日】
日曜日、半日かけて筒井康隆の新作『銀齢を越えて』を読む。筒井氏らしい、毒に満ちた作品で、一気に読み終える。発想は、やはり『バトルロワイヤル』と同じ生き残りゲームを基にしているけれど、作品世界は全く違う。狂騒的で露悪的で、ちょっと湿度があって、ヒロイックで。さすがに昔ほどの破壊力はないけれど、そのぶん捩くれているのが面白い。筒井風老人文学の一成果だと思う。
土曜日は、丹後の「すき句会」。丹後半島の山々にはまだ遠く残雪が眺められたが、大宮の町はいかにも春らしい穏やかな日和であった。当日は、宿題2句(「このこ」と「御題香」)と持ち寄り5句の計7句。思わぬところで話題が広がって、しばらく談笑状態となったりしつつも、全句講評で4時半に終了。俳句らしい俳句から実験的な作まで多彩な句が出されるので、なかなか面白い。
帰りの車中では、ビールを飲みつつ、『参』のことなど話に出る。
朝からずっと雨が降っている。夕方にかけて冷え込んでくるらしい。居間は、部屋干しの洗濯物で一杯である。部屋にドライをかけていると、結構乾くようだ。午後は、引き続き読書。樋口さんから送っていただいた川柳の句集を読むつもり。
【06年3月8日】
月曜日。ちょうど高校入試の日で、採点業務を終えて後、他の仕事が入っていなかったので、3ヶ月ぶりに辻田先生の月曜句会に参加する。某キリスト教会の集会所をお借りしての句会。石動敬子さんや名村早智子さんと久しぶりにお会いする。席題は、「啓蟄」「芽」「春の雨」。6時40分締め切りで、8句投句。各自披講が終わり、辻田先生の選と講評。月曜会の楽しみは、辻田先生の講評をまとめてお聞きできる点。熱の籠もったお話に、しっかりメモを取る。辻田先生には2句選していただく。ほぼ全没ということが普通なので、本当に珍しいことだ。写生ということと絡めて講評をいただく。
講談社文芸文庫の『俳句の世界』山本健吉著を読んでいる。面白い。芭蕉の俳諧と発句を中心に据えて、話題は俳句の本質論から現代俳句に対する鋭い批判並びに提言と広く深い。時に、ちょっと疑問に感じる発言などもあるけれど、全体としては俳句に対して目を開かれる思いがする。今頃、山本氏の著作を読んで感心しているなんて、基本的に勉強不足という事になるのであろうが。
昨日で、『鼎座』第5号の発送作業をほぼ終了する。日曜日、100円ショップで宅配便用のパッキンケースというのを見つけて購入しておいた。まとまった冊数を送るときに、入れる箱に困っていたので、これは有り難かった。今までは、家の中を探し回ったり、アマゾンの配送用の箱をリサイクルしていたりしたので。早速清水さんへの発送用に使ったりしたものだ。使い勝手が良い。
3月4日の『日々録』の書き込みの中で、「切れ」に関して「俳句に慣れない人にとって」などと偉そうに書いてしまった事を少々後悔する。自戒の意味を込め、そのまま残しておくつもりではあるが。
【06年3月4日】
金曜日。『鼎座』第5号が出来上がる。ミューズのレッスンを終え、帰宅後、発送の準備。明日の朝、近所のコンビニからメール便で送るつもり。部数が多い訳ではないが、数回に分けて発送しなければコンビニに迷惑がかかるだろうから、発送完了までに数日かかるだろう。
『バックストローク』第13号を半分ほど読了。同人雑詠欄の「アクアノーツ」並びに講評欄「アクアノーツを読む」。作品も面白かったけれど、石田柊馬氏の「アクアノーツを読む」欄が読み応えがあり、大変面白かった。同人作品についての丹念な読みは、そのまま川柳の読み方、その多面的な切り込み方についての指南書のように読めた。俳句に俳句の読み方があるように、川柳にも川柳の読み方があるように思う。もちろんそれは、読みの固定、ひいては鑑賞の固定化に繋がるようなものではなく、川柳という文学形式に対する無知さから、誤った読み取りによって作品の価値を見誤ることないようにするために、という程度の意味合いであるが。
たとえば、俳句において「切れ」をどのように受け止めるかによって、作品の鑑賞に微妙にブレが生じるということはあるからだ。特に、俳句に慣れない人にとって、「切れ」の受け止め一つで作品の理解が大きく狂うことがある。同じように、川柳に対して慣れない者は、同様に恣意的な読みの中で川柳作品自体を歪めて理解するという事はあり得るとおもうのだ。3月1日の「MANO」の感銘句についての書き込みも、川柳人から見れば、随分身勝手で的はずれな読み取りとの危惧を持つ。
土曜日。霧が深い。6時過ぎ、「歩き+走り」に出る。寒い。丘陵地の緩斜面に生えている常緑樹がうっすらと霜のベールを被っているように見える。霧が氷ったのだろうか、と思う。丘陵の上の方に出ると、霧は晴れたが、寒さは厳しい。登りを速歩で歩いているのだが、全く汗をかかない。それどころか、フードを被っていないと、頭が寒くて仕方がないほどだ。頂稜部から、下りは「走り」に移る。ちょうど霧の海に潜り込んでいく風情である。標高が下がるにつれ、霧が濃くなる。振り返ると、霧の向こうに切り抜きの太陽が宙づりになっている風情である。面白い情景だと思う。
【06年3月1日】
『MANO』第十一号。川柳とは、自在な表現形式だな、と改めて思う。五七五の形式が、逆にその自在さを保証するような気がするのだ。「着信アリS字フックに空の穴」加藤久子、「廃品をくくる毛糸をもっている」小池正博、「日本語に訳して欲しい『ヤスクニジンジャ』」樋口由紀子、「腐らないように時々うつぶせに」佐藤みさ子、「かさぶたを剥がしてみれば曲馬団」石部明。好きなように読み取れば良いのかな、などと乱暴に思う。
情報という空間に宙吊りの感覚とか、そこはかとない毛糸の優しさとか、意味の再確認とか、存在の薄気味悪さとか、痛覚の極みの愉悦みたいな感じとか。随分、身勝手な読み方なのだろうな、と思う。
今日から3月。強い雨の降る中での卒業式であった。こんなに生徒の泣く卒業式は、久しぶりのことであった。なんともほのぼのとする。式後すぐ、出張で京都市内へ。その後の生徒諸君の様子はどうだったのだろうか。