日々録
日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし た。             
備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。             
一人言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。

      
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【12年3月25日】

土曜日。丹後「すき句会」。2月の句会が、大雪のために中止となり、1月の間が空いてしまった。
京都を発つ時は、曇り。亀岡盆地は雨。丹波高原に入って、天気が回復し、福知山では青空が見える。岩城先生からの車中メールで知った、随分な赤字路線になっているらしい第三セクターKTRに入り、丹波から山を抜けて丹後へ出る頃には、再び天気はややミゾレがちの雨となる。
宮津で乗り換え、阿蘇の海越しに見える丹後半島は、谷を残雪が埋め、冬の様相のままである。
加悦谷から大宮へ越える小さな峠には、鉄路の両側にまだ雪がべったりと残っていた。
丹後は雪国、と改めて思う。
大宮も冷たい雨の中であった。いつもの食堂で、海鮮ブイヤベースを食べる。ここでこれを食べるのも、丹後行きの楽しみの一つとして定着した。岩城先生は、奥様のリクエストで、さらに二人前注文、夕方取りに来ると言うことで、京都へのお土産とされる。
句会は1時から。兼題は「ふきのたう」。席題は「雛荒らし」。今回から投句数を4句減らす。帰りの時間が決まっているので、時間的に厳しく、投句を10句から6句とする。
4時過ぎまでの句会。時間に追われるような句会から、岩城先生の講評も増え、ちょっと余裕のあるものとなる。
帰京は、いつものごとく、ビールを飲みつつの俳句談義。句会後、1缶、駅舎で1缶、車中で2缶という、350ミリリットルとはいえ近来まれなビールの飲酒量であった。
その影響は、翌日曜日まで及ぶことになる。
9時過ぎに帰宅。甥は卒業式後の宴会参加で、甥の母だけが帰って来ていた。卒業式会場に終始クラシックの生演奏が流れる、華やかな卒業式であったとのこと。
すぐ、就寝。夜中に甥も帰宅したらしい。
日曜日。ともかく眠い。本日は、弟の指導するクラブの定期演奏会があるため、朝早く甥の母は帰郷。甥は、部屋で半日寝る。こちらは、散髪に行っただけで、午前中ぼっと過ごす。


【12年3月22日】

春一番が吹かないまま、今年は春が深まっていくことになりそうだ。
それでもようやく、町中のあちこちで紅梅に続き、白梅が咲き始めている。
桜は、まだ固い蕾のままである。京都は、4月1日が桜の開花予想日であるらしい。
出勤の途中、開けたところから北を眺めると、比叡山のその奥に、まだ雪を頂いた比良連山の一部が眺められる。あれは、蓬莱山辺りなのだろうか、と思う。
今日は、春季講習が一コマのみで、あとは大掃除に時間を使う。一年で、ずいぶんたくさんのものが溜まる。特に、紙類が多いことに改めて気づく。パソコンを使って教材を作ったり、データ処理をするといっても、やはりその結果は紙類にプリントアウトすることになるのだ。
プリントアウトしたものを、さらに印刷する際、きっちり必要枚数にというよりは、用心のため若干多めに印刷することになる。その数枚ずつが、「塵も積もれば……」ということになるのだ。特に、私はどちらかというと授業などのプリント類はたくさん用意するほうだと思うので(印刷物の元原稿は、1年間でだいたい10〜15センチくらいの厚さになる)、どうしても嵩が増すことになる。裏面をリサイクルとして使用することもあるが、教材としては使いにくい。結局、シュレッダーにかけることになるのだが、その時間が、ずいぶんかかることになるのだ。シュレッダーがお粗末なものということもあるのだが……。
生徒の提出物は、基本的に評価を付して返却するのだが、単純な作業の結果プリントは年度末まで手元に残し、まとめて処分する。それらのプリントを初めとして、生徒の名前が書かれたものも、座席表なども含めて、すべてシュレッダーで粉砕する。
夕方、退勤、帰宅。
今週の土曜日が、甥の大学の卒業式で、郷里からは甥の母が前日から来ることになっている。そこで、夕食後は、掃除。迎える準備をする。
明日の夕食は、甥が知っている店へ食べに行く予定とか。弟や祖母は仕事や体調の関係で来られないのが残念である。


【12年3月20日】

春分の日。時折吹く風は寒かったけれど、日射しは暖かく、その陽気にひかれて、「歩き」に出かける。
鴨川沿いの人と自転車の専用道をたどって歩き、淀まで足を延ばす。一度、淀城趾を見学したかったのが、今回実現する。
石垣と堀の一部を遺す城跡は、遊具なども置かれた小さな公園として整備されてあった。中をぐるりと一周し、途中こんな場所には珍しい測量用の三等三角点が設置されているのに気づく。三角点といえば、多くは山頂に据えられてあるものなのに、こんな平地に何故こんなものがあるのだろうか。ちなみに標高は、17.53メートルであった。どこかの山岳会の「登頂」記念票が側の手すりに結びつけてあった。
帰りは、京阪電車を使う。
昼食は、買ってきた行楽弁当。彼岸の中日で、おはぎや赤飯なども平台に並べてあったが、そちらは遠慮する。
せっかく弁当を買って帰ったのに、甥は大学へ行ってしまったらしい。
午後、一休みしてから、読む本を仕入れに市内まで。大きな本屋で文庫本を数冊買い、さらに別の古書肆で写真集を2冊購入。写真集は、廃墟写真と道の写真である。
帰宅。ベランダに干しておいた洗濯物が、半日では乾かなかったようだ。取り入れて、室内干しする。
c++の簡単なプログラムの勉強を始める。昔、C言語や引き続いてのc++の勉強をしたことがあったけれど、その時は、全くちんぷんかんぷんだったけれど、今回は以前に比べて少し理解できそうな気がする。と言っても、マイクロソフトの「Visualc++」の30日試用版をダウンロードして、ちょこちょこいじくっている程度のことだが。頭の体操のようである


【12年3月18日】

明石にお住まいのHさんから、今年も「いかなごの釘煮」を送っていただく。
季節にふさわしからぬ寒さの続く毎日の中で、春の到来を感じさせていただいた贈り物であった。
それにしても、今年は30キロ近くの「いかなご」を釘煮にされるとのこと。その量の膨大さは、ちょっと想像できない。大量の砂糖で煮染める「釘煮」を作っている間は、キッチン中に魚臭が籠もって大変とのこと。ありがたくいただきたいと思います。
土曜日。午前中は雨。午後になって、上がる。
『宗長日記』を読む。最晩年2年間の日記へと移る。作品は和歌と発句だが、和歌においては老いと死を詠うものが多い。
日曜日。『週刊俳句』が更新された。盛りだくさんな内容の今週号であるが、その中で一番読み応えのあったのは、「シンポジウム『俳句にとって〈写生〉とは」の記事であった。「写生」というものが、妙な前提を取り払って、このように深く語られることはなかなかないことではないか、とう。
さらに、二部・三部をレポートされた久留島元氏の、シンポを受けての意見・感想の部分も面白かった。特に、氏が指摘される、子規の「写生」の継承者である碧梧桐の「無中心論」による俳句が、結果として俳句史の傍流という位置に置かれる事になったという点については、色々の問題をそこに含み込んでいるように思われる。ただ、「碧梧桐のいう『中心点』が、俳句の核となる『発見』であり『感動』であり、竹中氏の場合は『ノイズ』であり」という点については、はたしてそうなのか、とちょっと疑問に思えた。いわゆる「発見・感動」と「ノイズ」とが同列に置かれ得るものか、という点で。
さらに、「いつ『写生』なのか 私的感想として」を書かれた彌榮浩樹氏の、俳句において「写生」が「写生」として顕現するのはどの段階か、という視点による一文は、シンポの内容を手際よくまとめた上で、自己の作家としての問題意識を明確に打ち出されたものとして、とても読み応えがあったし、考えさせられた一文であった。我が師である岩城久治の立ち位置を、「写生」を無化させる立場として捉えるという点も(結果としてそうなのであって、実のところ「リアル」のありどころの違いという事の反映なのかもしれないけれど)、岩城久治という「変な」作家の姿を妙な手応えとともに感じさせていただいたりもした。
今日は、午後からミューズの臨時レッスンがある。ともかく、本番までに最低16回の練習参加がステージに立つ条件のひとつなので、かなり厳しい条件なのだけれどそれをクリアしなければならない。早めに昼食を終えて、出かけようと思う。
どんよりした天気で、雨にならなければよいが、と思う。


【12年3月17日】

木曜日。三月半ばであるにもかかわらず、本当に寒い。寒の戻りということらしいけれど、いまだ通勤にはダウンジャケットを着込み、毛糸帽という姿である。
今日は、生徒は家庭学習の日で、クラブに来ている生徒以外の姿は校内にない。時折、4階の音楽室から、定期演奏会を控えたブラバンの練習する音が聞こえる。
卒業式から半月たつけれど、最後まで残っていた就職関係の子の進路がやっと決まる。他分掌の先生の助力も得て、紆余曲折の末の決定だったので、安堵の思いがある。
金曜日。合格発表の日。掲示を見に来る受験生たちの姿を、集団の後から眺める。すでに卒業式を終え、中学の制服を着るのも、これが最後になるのであろうかと思う。
午後は、会議。年度末を控えるということで、長い会議となる。疲れる。
夕方、退勤。いつものように、一度帰宅して後、レクイエムの練習へ。
今日は、4パートに別れてのレッスン。2曲目の「キリエ」。細かい音のうねるような流れを歌うのは大変だ。その雰囲気だけを伝えるなら、
に時折が混じる上に、メロディーの上下があって、本当に腹筋が痛くなってきそうである。
9時過ぎ、帰宅。ちょっとだけ、持ち時間の組み合わせ作業をしておこうと始めたら、つい夢中になってしまって、気がついたら12時近くなっていた。第2案まで作ってみる。が、基礎資料にちょっと問題を発見して、ここで中断。気がつけば、いつもの就寝時間をずいぶん過ぎていたことになる。
途中、卒業演奏会を聞きに行っていた甥が帰宅。大学専攻科の金管男子は自分一人とのことだった。あとは、声楽・ピアノ・弦楽の女子だけということか。まあ、1年間、頑張ってほしいと思う。
土曜日。5時過ぎ、起床。天気予報では一日雨と言うことだけれど、この辺りはまだ雨は降っていない。
洗濯、そして朝食。ミネストローフというのを作ってみる。簡単で、結構おいしい。
『宗長日記』。時代が室町ということで、時に小さな合戦の記事などもある。宗長の知る武将で討ち死にした人物の記事や追悼の思いなどが語られることもある。また、地元に人との軋轢のようなことが触れられる部分もある。また、さすがに齢八十になると、体に変調が生じることもあるようだ。かっけの為に、歩行が困難になって、床を這いつくばっているなどと書き留めている部分もある。もっともその直後に、良くなれば旅に出たいとも語るのが、宗長らしくもある。気力は、一向に衰えていないようである。


【12年3月14日】

一日半、寝込む。風邪だったのだろう。まだ、のどががらがらするが、出勤。
半日かけて、一年間の取り組みを文書としてまとめる。
午後は、教材作り。そして、会議。夕方、早々に退勤。
まだ微熱が残っているようだ。近くの駅まで、車に便乗させていただく。転勤の話などする。私はまだしばらくはここにいることだろうけれども。
『宗長日記』を読み継ぐ。遅々たる歩みという感じで少しずつ読み進んでいるが、なかなか面白い。文章の細部までは分からないけれど、宗長の生き様のようなものが、本文のあちらこちらから立ち上がってくるようで、それが面白い。
分からないと言えば、現在寝る前に読んでいる今井美恵著『パウル・ツェラン新論』は、ほぼ全くその内容がわからない。「ツェラン」という詩人の作品を緻密に精密に読み込みつつ、その詩人の世界をある言葉の意味するところを深く探っては鋭い針先のようなものにしなして、探深機のように作品に深く突き立てては描き挙げようというそんな営為としての評論のように思われるのだけれど、ともかくその読み込みの深さがおそらくもの凄いのだと思う。と同時に、その読みに関わる周辺的な知識の膨大さというものが何もわからないなりにどんとこちらに伝わってくる。研究者というのは、ほんとうに凄い生き物だという思いはずっと抱いてきたのだが、その持続する知的探求心の息の長さに圧倒されつつ、結果として分からぬなりに読み続けさせられるということになるようだ。読むということが、どのようなことなのかを生々しく体験させられているようなそんな気持ちにすらなってくる。読んで何かを理解するということが読む、ということではなくて、得体の知れない力に引きずられてそこに書き記された言葉をたどらされているということが、読むという行為そのものではないかと思われてくる。単に、こちらの能力が理解に達しなくて、言葉に翻弄されているというだけにすぎないのかもしれないけれど。
本日、甥が帰京する。もう一年、京都で暮らすことになるわけだ。


【12年3月10日】

今日は、俳句を10句ほど。

春寒の爪の刻みし痕ならむ」
「糞尿のまだ温かし春の地震」
「二指を握りて子の歩みゆく春汀」
「つぶやきを海風返し春寒し」
「長地震を顧客と語る春の午後」
「春昼のテレビに呑まれゆく町が」
「金振り込んで梅の白きを見て帰る」
「麦青みたり被災地をかく隔て」
「仏国のイラストにある春の地震」
「少年の日の春雨に放射能」

風邪が抜けず、体調がいまひとつである。売薬を飲み、横になっていようと思う。


【12年3月10日】

『燕巣』主宰の羽田岳水師が亡くなられたのを知ったのは、最新の「俳句文学館」においてであった。93歳ということであった。主宰誌『燕巣』も、主宰の死とともに終刊を迎えたということだ。私もある時期『燕巣』に所属し、羽田師の選を仰いだこともあった。『燕巣』は台湾在住の俳人の方達とのつながりも深く、地元の方による台湾歳時記なども誌上に発表されるというように、俳誌として貴重なスタンスを俳壇において占めておられる点もあった。主宰ご自身はお元気な方であっただけに、突然の訃報という印象を強く持つ。ご冥福をお祈り申し上げる。
金曜日。風邪気味のようだ。手足が少々だるい。などと思いつつ、駅からは歩いて通勤。
川沿いに行く道は、水の流れがまだ寒々とした印象を与える。
学年末試験最終日。当面のやるべきことは全部終わっているので、次年度の教材作りに時間を使う。パワーポイントで、和歌の修辞上の技巧をまとめる。パワーポイントは、なかなか面白いソフトである。今年度の収穫の一つである。
夕方、退勤。一度自宅に立ち寄ってから、ミューズの練習に行く。出かける前に呑んだ風邪薬が、異常に効いて、なんとなくふらふらする。
練習を早めに切り上げて、帰る。帰宅後は、すぐに就寝。
土曜日。『汀』第3号を送っていただく。主宰井上弘美氏の句。「なやらひ」十句より。「夕月の青まさり来る鬼やらひ」「厄落唐十郎の来てゐたる」「冴え返るすめらみことの馬上像」「鹿塚に盛り足さるるも春の土」。「厄落」と「唐十郎」の関わり合いが面白い。ある時期の時代精神の体現者の一人であり、祝祭空間の演出家であり演者でもあった「唐」が、「厄落」というこれもある種の伝統的祝祭空間にぽそんと参加している姿が面白かった。


【12年3月8日】

『宗長日記』を読み進める。日記執筆時の宗長の年齢がすでに七十を相当過ぎているということを注で読んで、大変驚く。時代背景は室町時代ということで、当時としては相当の高齢者でありながら、特に病気に悩まされる訳でもなく、思い立てば京を離れ、駿府辺りまで旅をし、行く先々の恐らくその土地の名士であろう連歌愛好者の自宅や寺院で宿泊の世話を受けつつ、連歌を巻き、歌の応酬を行っている。酒も相当強そうである。体力、気力、知力いずれも充溢した老連歌師のそのパワーに、つくづく感心する。
のどが痛くて、ちょっと微熱気味なので、早めに帰宅。ちょうど、試験期間中で、午前中で生徒は皆下校するので、年休も取りやすい。当面やるべきことは、ほぼし終えているし。
5時前に帰宅し、すぐに夕食をとる。今日は、洗濯のみで、入浴もなし。日々録を更新しおえたら、もう休むつもり。
そういえば、今朝の夢見がそもそも変であった。いつも見るテレビの占いも、今日は最悪ということで、ともかく速やかに休む方が良さそうである。


【12年3月6日】

2時過ぎくらいにふっと目が覚めて、その後眠れなくなる。次年度の教科の授業の持ち(担当者なので)の組み方などをふと考え始めたら、頭が冴えてしまって、そのまま眠れなくなる。結局、いろいろ考えているうちに朝を迎え、起床。
さすがに少々、朝は眠かった。
とはいえ、今日は一日、入試業務に追われる。眠気に襲われる暇もない状態であった。
その分、帰りのバスと電車の中では、眠くて本を読むどころではなかったが。と言いつつも、『宗長日記』など、ぼそぼそと読み始めてはいたのだが。宗長は連歌師として有名な宗祇の弟子で、その人の手記と日記を収めたのがこの一冊。岩波文庫版である。貴人との和歌のやり取り、請われての俳諧、そして旅先での連歌等、簡単な日録的な内容が添えられて書きとめられる。優雅な和歌の世界と俳諧にみる諧謔の世界とが共存する連歌師のありようが面白い。
日曜日、午後。京都国際マンガミュージアムに「マグニチュードゼロ」展を見に行く。「ゼロ」展は、昨年の3・11東日本大震災に際し、フランスを中心とする海外と日本の漫画家やイラストレーターが震災をテーマに描いた作品120点(ただし、複製ということであるが)を展示したものである。海外の作家達が、日本の大震災をどれほど切実なな体験して受け止めているのかが胸に迫ってくる作品が多く展示されている。
その中で、特に胸に強く迫って来たのは日本の作家しりあがり寿氏の作品であった。氏の作品は、震災と言うより、それによって引き起こされた福島第一原子力発電所事故を主題としたものだった。どのような作品であるのか、それを言葉で説明する気にはなれない。とても痛切で、そしてとても美しい作品であると思う。
最近になって、毎日の精進の結果か、増えていた体重が減り始めた。そのために、夜も歩いているのである。その際、最近は繰り返し、昨年夏に歌った『創生記』を聞いている。その曲の後半、特にバリトンのソロから合唱、そしてオケ、さらに合唱へと続く一連の楽曲は、3・11の震災を強く思い起こさせるものである。すべてが破壊し尽くされ、無へと収束されるかのような世界と、そんな混沌からの再起と祈りの歌として。たくさんの人に是非聞いて欲しいなと思いつつも、それがままならないことがとても残念である。


【12年3月4日】

掃除ロボットのaimeは、有名なルンバほどの高機能・高価格ではないけれど、一通りの清掃機能は備えたロボットである。充電に7時間くらいかかり、稼働時間が60分設定まであるけれど、実際には40分くらいでへたばってしまうという問題点はあるけれど、居間から廊下、さらに廊下から奥の部屋へと入り込んでは、律儀に清掃活動を行っている。前面にセンサー部分があって、それが障害物に当たっては移動方向を変えて別の場所をきれいにし始める、ということになるのだが、実際には同じ所をしばらくうろうろしていて、そのもたつく姿がちょっとまだるっこしくも滑稽である。
何となく、小さな生き物ように感情移入して眺めているようである。犬や猫のペットロボットがあるけれど、それを「飼って」いる人も、こんな気分なのだろうかと思う。
充電が切れそうになると、うろうろしながら自分で勝手に充電器へと帰っていく。面白いものだ。
土曜日。早めに昼食を終え、「歩き」に出かける。市内まで行こうかと思ったけれど、ちょっと腸の状態が不安定なので、遠出はやめて、近所を歩くことにする。風が結構寒いので、セーターにダウンジャケットという姿で歩き出すが、途中で暑くなってセーターを脱いで、Tシャツにジャケットとなる。
疎水の端を歩いていると、背中にゼッケンのようなものを貼り付けた一団と合流する。「京都ツーデイハイク」と銘打たれたウオーキングに参加されている人達のようだ。いずれも中高年の人ばかりで、話などしながらどんどん歩いていかれる。歩きなれている様子である。やがて、中継地点があって、そこでチェックを受けたり、一休みしたりする。20キロと30キロの二つのコースがあるらしい。二日で、40キロから60キロ歩く計算になるので、これはなかなか大変だと思いながら、その一団から離れてさらに「歩き」を続ける。一度鴨川に出て、しばらく河畔を歩き、自宅の方へと方向転換をする。それにしても、鴨川は冬から早春の時期、水量が増える。琵琶湖からの水を普段は疎水の方に流す分を、流量の減る時期には疎水をとめて鴨川の方に流し入れるからだ。
豊かな水量の水面が、春らしい日射しにきらきら輝いて気持ちが良い。そろそろゆりかもめは北へ帰っていくことだろうと思ったりもする。
2時間足らずの「歩き」で帰宅。汗をかいたので、風呂を沸かして入る。日のあるうちに入る風呂は気分が良い。久しぶりに、SF小説を湯船に持ち込んで読む。ハインラインの『宇宙の戦士』。ヒューゴー賞を受賞した作である。長いお話で、時折思い出しては続きを読むという風で読んでいる1冊。やっと半分くらいまで読み進んだ。間をおいて読んでも、何となく自分の中で内容が繋がっているので、そんな読み方が可能な珍しい1冊である。それにしても、『夏への扉』にしても、この作にしても、古き(良き)アメリカという印象を何となく感じさせる作である。
日曜日。5時前に起床。休みの日ほど、早く目が覚め、起き出す時間も早い。仕方ないので、洗濯機を動かし、珈琲を入れて、テレビを見る。早朝から、夫婦漫才や落語を見るのもどうかな、と思いながら「三枝の演芸図鑑」など見る。
今日は、午前中は天気が保ちそうなので、洗濯物はベランダ干し。6時過ぎには朝日が昇ってくる。しばらくは日が当たりそうなので、かなり洗濯物が乾くことだろう。


【12年3月3日】

金曜日。本日で、今年度の授業はすべて終了。あとは、学年末試験を残すのみである。
朝、職場に行くと、机上に二つ折りにされた緑の画用紙が置いてある。開いてみると、美術部の卒業生達が、イラストの寄せ書きをプレゼントしてくれていた。さすが卒業生、上手いものである。犬、猫、ウサギ、そして武士。面白い取り合わせでもある。
夕方、早々に退勤。一度自宅に寄り、その後ミューズの練習に市内まで。京都駅近くの会場が、しばらくは練習場所となるのでありがたい。
先週、申し込みに行ったときは、ちょうど痛風発作真っ最中で、申し込みのみで帰ったのだが、その時は団員がまだ200名に満たない状態であった。1週間締め切りを延長してどうやら200名は越えたらしい。
男性陣も、「「第九」並みの人数は集まっているようだ。
練習は、すでに3曲ほど終わっているようだ。結構早いペースである。楽譜は、ジェスマイヤー版ではなくて、レヴィン版の方であった。ジェスマイヤー版の不備を補正したのがレヴィン版とか聞いたことがあるけれど、確かにこちらの版の方が、ちょっと面白い。
『碧梧桐句集』2000句読了。さまざまな試みに満ちた作品集で、思った以上に面白かった。最後の方は長律・短律の句(20文字前後、あるいは15文字)や、ルビ俳句なども掲載されてあった。さすがに、ルビ俳句は違和感が強かったけれど。俳句の短さとそれにともなう容量の問題(もちろんそれは、何をいかに表現するのかということと深くつながるのだろうが)との格闘の痕が刻まれたような作品群であった。しかし個人的には、虚子よりも膚にあうかもしれない。
「他者の生とわたしの生は置き換え可能という発想でしょうか」という点について、違和感を感じていたのは、それが「想像力」の問題であるのに、論者の「発想」として受け止め、それを前提として非難めいた言辞に繋げていることでした。恐らく、そのように「発想」の問題として規定する限り、生者が被災者の「死」を受け止めることは困難になるのではないかと思われる。上田氏が触れる「それは祈りではない」ということに繋がる問題のように思われる。そして、「想像力」の質を問う中で、「ゲスな」という発言も意味を持ってくるように思われる。もちろんここでいう「ゲスな」とは単純な非難の言葉ではない。それどころか、文学に携わる者はそのような「ゲス」な、あるいは「非人情」な部分を抱え込んでいる種族のようにも思う。『週刊俳句』のHPを読んでいないと、何の事やら分からない事を書き留めているが、震災をどのように受け止めるのかということにも深く繋がる問題のようだ。
土曜日。曇り空である。ベランダに出ると、さすがに肌寒いけれど、とりあえず洗濯物を外干しにする。日が差さないし、とても乾かないだろうな、と思う。
「参」の会の会員さんの重鎮、川勝好女さんから第二句集『逐日』を送っていただく。角川から刊行されたものだ。第一句集『雪月花』から16年をへて上木された一書である。早速読ませていただこうと思う。


【12年3月1日】

3月に入る。今日は、卒業式。保護者の琴線を刺激するなかなか感動的な式となる。
式後の某クラスに呼ばれる。何かと思って出かけてみると、クラス全員の寄せ書きをプレゼントされる。現代文の授業を担当したクラスである。文面には、しきりに「面白い授業」「面白い授業」という表現が目についたが、何となく授業本来の意味での「面白い」とはややずれた地点で楽しんでもらったのではあるまいか、と思う。
とはいえ、こちらも1年間楽しませてもらったクラスだったので、感謝して色紙をいただく。
年休を取って、早めに帰宅する。甥が帰省しているので、この機会に一気に部屋を掃除する。元々、私の書斎であった部屋にベットを持ち込んで居室としたものなので、二列重ねの本箱が壁の一面を占めている狭い部屋である。そもそも甥はほとんど掃除をしない人間なので、たまにこちらが何とかしないと室内がひどい状態になるのだ。
1時間以上かけて整理整頓をして、掃除機をかけ、疲れて終了。
幸い午後になっても天気が保っているので、ベランダに布団一式を並べ干す。
3月半ばまで、甥は帰省するので、しばらくは気楽な一人暮らし状態となる。
碧梧桐の句集を読み進める。明治43年頃から、難解な句が混じり始める。言葉が極端に省略してあったり、造語が混じっていたり、難しい漢語がつかわれていたり、屈折した構文であったりと、少々読むのがきつい時がある。社会的な視線が感じられる句が見受けられたりもする。碧梧桐の句材への興味の広がりや俳句的叙法に対する意欲的な試みの姿勢がひしひしと感じられてくる。そんな中に叙情性に富んだ句や純朴で滋味豊かな句が点在していることにほっとしたりもする。
西原天気氏と笠井亞子氏のおふたりによる「はがきハイク」第5号を送っていただく。しゃれた装丁(というのか)の素敵な葉書一枚による俳誌(といってよいのか)である。媒体としての斬新さと面白さがある。1句ずつ紹介。西原氏、「春なれや手にもてあそぶ竹定規」(「春ゆふべ首の回転する少女」という古いホラー映画を素材にした句もある。筒井康隆の小説には首の回転する作家が登場したと思うが……)。笠井氏、「春の世の全国的な生返事」(「オルゴール音符は突起水温む」という句もある。なるほど、面白い視点である!)。
『週刊俳句』。上田信治氏の文章に対する匿名さんの「他者の生とわたしの生は置き換え可能という発想でしょうか。置き換え不可能な個が多く奪われたのです」というコメントが気になる。