日々録
日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし た。             
備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。             
一人言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。

      
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【12年5月31日】
木曜日。夕食を終えて、一休みして後、歩きに出る。
疲労感が抜けきれないのは、睡眠不足のせいなのだろうが、すでに1日のノルマの1万歩はこなしていても、時には夜気の中を歩いてみたい気分になるときがあるものだ。
最近のこととして、「創生記」の録音を聞きながら、涼しい夜気の中をぐるりと近所を歩く。半月を過ぎた頃の月が朧に中天に浮かんでいる。
「創生記」を最初に歌った頃、この曲の原詩者である小川英晴について、すでに彼の詩は解釈し尽くされたものとして、価値を認めないという風なことを書いた文章にであったことがあった。
おそらくその文章を書いたひとには、その小川氏の詩がオラトリオとして曲を付され、繰り返し歌われ続けるなどということは、全く想像だに出来なかったことであろうと思う。
岩波文庫の『加藤楸邨句集』を読み始めている。自分としては珍しく、作品を読んで思い浮かんだことを、時折その句の脇に書き付けたりもしている。
楸邨句9400句から選ばれた3000句が掲載された、文庫本のとしてはかなり厚めの1冊である。
自分としては不思議なくらい、詠われた世界がすっすっと自分の中に入り込んでくるように感じられるのはなぜだろうか、と奇妙な気分にすらなるほどである。
あるいは、と思う。3000句へと厳選される過程で、なんとなく楸邨の作品世界の再構築が選者森澄雄と矢島房利両氏によってなされている面があるのではないか、ということだ。
誤解を招きそうな気もするけれど、言わば夾雑物が丁寧に排除されて、楸邨俳句のある側面のより純化された作品世界が再構築された、とでもいうようなことだ。
読者としては、おそらく楸邨俳句の最良の部分を読む機会を与えられるということになるのだろうが、同時に小さなこだわりが澱のように残る。
読者の身勝手な物言いである。
日曜日。久しぶりに「姫路」在のHさんと、夕方出会ってお酒を飲む。
毎年、「いかなごの釘煮」を送って下さる方である。そのことを日々録に書いた際、住所をうっかり「明石」と書いていたらしい。最近は、このうっかりとぼんやりが本当に多くなっている。困ったことである。
初めて行った店ではあったが、雰囲気も料理もなかなか良くて、楽しく時間を過ごす事ができた。
忌憚なく話の出来る方というのは、数少ないけれど、この人もそんな方の一人である。ありがたいことだ。
二人の共通の友人でもあった、亡くなったSさんも、その年齢差を越えてそんな関係であった方の一人であったが。
毎年のように、そのSさんと一緒に挑戦し続けたK俳句賞に、今年もぎりぎり本日応募作品を郵送。
予選を通過することもなかなか難しい俳句賞だけれど、二人が一緒に予選通過したことが一度だけあり、今年度の予選委員はどうしたのだろうか、などと話し合ったりしたことがあったものだ。私が、入院手術を受け、退院して間もない頃のことだったと、つい思い出したりもする次第である。


【12年5月26日】
いかにも、朝方の夢らしい夢。大きな旅館での5泊の宿泊。
母と二人で泊まっているらしい。和風の旅館で、障子で仕切られたいくつもの部屋があるようだ。
細部はもう忘れてしまっているけれど、ずいぶん楽しい印象が残っている。あちらこちら、複雑に構築された旅館内を走り廻っていたような印象がある。
はっきり思い出すのは、二人が5泊して、その料金が20万95円ということ。一人一泊2万円の旅館らしいけれど、最後の95円は一体何だったのだろうか。
5時前に起床。7時前から、昨日の仕事の続き。データの処理作業を行う。朝は、頭がすっきりしているので、この時間帯には、色々考え事をしたり、仕事を処理したりすることが、かえって良いように思う。
一仕事終えて、レクイエムの練習に出かける。醍醐の方まで行く。
パート練習のみの午前中の練習に参加し、出席数を1回稼ぐ。商業施設なども含む、巨大な複合施設内の練習場で、ちょっとびっくりするぐらいに、設備の整った場所であった。
そのまま帰宅。途中、昼食を「K寿司」で食べる。一昨年だったか就職関係で大きな問題を起こした「K寿司」だったので、ちょっと入るのに抵抗はあったけれど、食べてみると意外と美味しい100円寿司であった。
夕食の食材を買って、帰宅。午後は、のんびり過ごす。
夕食は、ぶりのあら炊きと八宝菜。そして、浅酌。
お酒がはいると、とたんに眠くなる。困ったことだ。


【12年5月25日】
中間考査、三日目。午後、休日出勤の振り替えを取って退勤。
とはいえ、自宅で本日返ってきたテストの採点をするということなのだが。
洗濯物が少し溜まっているので、それも済ませて、目の前にずらっと部屋干にされた洗い物を見ながらの採点。
それも、夕方には終了。まあまあの出来であろうか。
夜は、レクイエムの練習。明日もレッスンが予定されていて、そちらは一日参加すれば、練習2回分参加した計算になるという。
ステージに立つ最低条件である16回の練習参加に、この時期にして大きく近づくこととなる。
明日も参加した方がよいか、と考える。
昨日は、風邪の薬を飲んでいたせいか、異常に眠くて、午後の出張では、出張先への乗換駅をうっかり寝過ごしてしまう(正確にいえば、目を覚ましたまさにその瞬間に、電車のドアが閉まってしまったということなのだが)。仕方がないので、そのまま京都駅まで出て、そこから地下鉄に乗り換えることになる。おかげで、すっかり目は覚めてしまったのだが、余計な距離を歩く羽目となる。歩くのは、別に悪いことではないのだけれど。
出張先へは、余裕で着くはずが、ぎりぎりセーフという有様であった。
草間彌生の『無限の網』を読み継ぐ。ベトナム戦争を背景とした、アメリカのヒッピー文化を牽引したその一人が、東洋人であるこの草間彌生であることを知る。
人間性の開放を目指して、ずいぶん過激なパフォーマンスを演じ続けたらしい。現在の草間彌生に対する世界レベルでの評価の一端は、その時期のアメリカを中心とした先進的、先端的な活動によるものがあるのかと思う。


【12年5月23日】
武蔵野美大、原ゼミの卒業制作をまとめた『半熟』が、とても面白かった。学生諸君の柔軟な発想と、意外と(?)生活に密着した観察から生まれた様々な作品の一つ一つが、とても納得できて面白かったのだ。現代芸術は、発想(それを支える思想)と意匠との究極の合体という気がするのだが、それがここにおいて(たとえそれが「半熟」状態であるにしても)なされているのではという感動がある。
某美術の先生に言わせると、現代芸術の大半は「がらくた」、とのこと。それは或る意味、現代芸術の有り様を言い当てているのかもしれないとも思われるけれども、しかし、そう言い切ることで見失われる多くのものもあるだろうな、と思う。
ちょっと俳句のことなども思う。
ネットから完全撤退をした御中虫氏のことなども考える。。
中間試験期間に入る。
ここ数日、風邪気味で、鼻ずるずる状態鬱陶しい。そんな有様のなかで、授業から離れる数日間は、思いの外開放感があるものだ。
金環日食は、普段は上がれない屋上で、生徒有志諸君達と眺める。時折、太陽表面を雲がかすめる状態であったけれど、日食の前後はしっかりとまなうらにとどめることが出来た。おそらく、私にとってライブで見る最初で最後の金環日食の情景であろうと思う。
とても印象的であった。
それにしても、この瞬間に数百万、あるいは数千万の人の視線の向こうに収まる太陽が、ふと月を巨大な黒目とする隻眼と見えた時は、ちょっと異様な感覚を得た。見つめる者が、いつのまにか見つめられるものに逆転する構図は、生と死の生々しい関係のようにも思われたからだ。


【12年5月20日】
土曜日、午後。本購入を兼ねて「歩き」に出かける。
京都御所から寺町を歩き、「三月書房」、さらに三条京阪上の「ブック・オフ」へ、という予定。
新緑の御所は、緑の氾濫状態であった。生い茂った木々の葉が、御所周縁の石垣から烏丸通りまで、あふれ出そうな印象であった。
玉石を敷き詰めた通路は歩きにくいので、下草のはえた木々の下を選んで歩く。涼しくて、気持ちが良い。
草の上に寝転ぶ人、シートをひいてハイキング気分でお菓子など食べている人、幹に寄りかかって本を読む人、木陰にはたくさんの人が憩っている。
乾御門から入り、御所を斜め気味に横断して、富小路口から丸太町通りへ抜け、そこから東行して、寺町通りへ入るといういつもの径路。
今日は下御霊神社の祭礼の日なのか、境内とその前の寺町通り沿いに屋台がずらりと店開きをしている。
境内の舞台では、二台並べた御輿の組み立てを数人の男達が行っている。
御輿本体と担ぎ棒を繋ぐ工程なのか、黒い太い綱を絡み合わせるようにして本体と棒を結びつけている。木槌で叩いて、綱を締めたりもしている。
面白いので、しばらく見学する。
通り沿いの屋台をぶらぶら眺めながら、「三月書房」へ。面白い本はないか、と棚を眺めていくと、目に入ったのが、沖積舎の『俳苑叢刊』。新装復刻版。28俳人の句集1冊ずつをおさめたもの。著名な俳人もいれば、始めて名前を聞く人の句集も収められてある。三橋敏雄の「解説」の辞によると、「その時代のいわゆる保守・革新両派の新鋭・中堅に及ぶ有力俳人の分布状態がよく示されてある。」とある。
恐らく、普通なら読むことも難しい俳人の句集が何冊も収められてあり、即買となる。定価35000円を70パーセントオフの10500円で手に入れる。その他、数冊購入して、ザックが満杯になってしまったので、「ブック・オフ」は省略して、地下鉄まで歩く。
日射しはあるが、空気が乾燥していて気持ちが良い。
途中の某能楽堂から、謡の練習の声が漏れ聞こえる。
二階家の民家の並びの背後に大きなマンションが何棟も見える。
京都市の中心部の風景は、なんともちぐはぐな印象をもたらすものだ。
帰宅。車中では、「三月書房」で買った草間彌生の自叙伝『無限の網』を読む。
昼はこちらがカレーライスを作ったので、夕食は甥が準備。
ボリュームのある夕餐となる。
食事の際の浅酌で、眠くなる。早めに就寝。


【12年5月19日】
どうやら、右肘が軽い腱鞘炎のようだ。
我慢できる程度に痛む。
そもそも金釘流の文字で、筆圧が高く、板書なども、後で消す人が困惑するくらいに強く書き付けているようで、そんなことが影響しているのかも知れない。
単なる老化現象の、またぞろの現れかもしれないけれど。
尾崎放哉の書簡を読み継ぐ。
放哉の俳句作品は好きだ。そもそも、俳句の核心は、その短さにあり、たとえば放哉の自由律俳句は、その核心部分に触れていると思われるので、そこに強い魅力を感じる。
書簡を読むと、一人の生活(性格?)破綻者が、ただ俳句の一筋でこの世界に繋がっている姿が、ありありと見えてくるような気がする。芭蕉の「ついに無能無才にして、この一筋につながる」という言葉を思い浮かべたりもする。
大正15年のある書簡では、彼の命をついに奪うことになる結核の再発を知ることになる。それまでの手紙の中にも、「早く死にたい」という類の言葉が散見するのだが、自らの死と、翻っての生を、内心思わざるを得ない心境であろうと思う。
手紙の文言は、そのような点には触れず、書き方もいつも通りのやや軽躁な印象を与える文体ではあるけれども。
金曜日。腕も足も腰も痛いという有様で、疲労困憊だなどと思いつつ、「レクイエム」の練習に参加。
歌い終わってみると、不思議なことには何やら元気になっている。足腰の痛みも、軽減したような気にすらなる。
練習会場の9階から、一気に地下1階まで階段を下り、さらに京都駅まで気分的には鼻歌交じり状態で歩く。
疲労感の中身が、多分に停滞した生命エネルギーによるもので、結滞した気の循環の回復が、疲労からの回復ということに繋がるのか、などと軽薄に思ってみたりもする。
とは言え、帰宅後は即就寝状態ではあったが。
甥は、このところ忙しいのか、まだ帰って来てはいない。
土曜日。4時過ぎ、起床。5時過ぎに朝食を取り、6時から持ち帰り仕事を始める。
2時間ほど、仕事して、「「歩き」に出る。最近は、自宅で歩くときは、昨年度のミューズ「創生記」のテープを聴きながら1時間ほど歩く。
自画自賛というわけではなく、何度聞いても良い曲だと思う。ミューズ合唱団の到達点の一つがこの演奏であろう、とも思う。
帰宅後、昼前まで仕事。なんとか、メドがつく。
甥も、今日は自宅で演奏会のプログラム作りだそうだ。


【12年5月16日】
ここ2週間ばかり、思い出そうとして、どうしても思い出せなかった人の名前を、ふっと思い出した。
その人が、私にとって何か特別な意味を持つ、というわけではない。昔の同僚で、ある夜の夢の中に出て来て、目が覚めてから、その人の名前が何であったかと思ったとき、まるで思い出せなくて、それならば何とかして思い出してみようと、なんということもなく考えた事が、名前をたどるきっかけとなったのだ。
それから本日まで、折に触れてその人の名前を思い出してみようと努めたり、思いつく名前を次々と記憶の秤にかけるように、その人の思い出と照らし合わせてみたり、ある時は「歩き」の最中に、通り過ぎる家々の表札から記憶の糸をたぐろうとしたり。ほとんど、遊びのようにして、記憶の底に沈んでいるであろう一人の人の名前を、浮かび上がらせようとしていたのだ。
それが、今日の昼過ぎ、食事を終え、歯を磨きながら、外の景色を眺めているとき、ふっとその人の名前が浮かび上がってきた。
それは、間違いなくその人の名前であった。
それで、特に何がどうなったというわけではないけれど、しばらくは愉快な気分を味わうことが出来たのは確かなことだった。
今の職場の、同僚の亡父が執筆された中編小説を読んでいる。若い頃、予科練に入隊されたときの事を書かれた作品である。
そこに描かれた予科練生活は、知識として知っているものと大きく異なるものではなかったけれど、瑞々しい文体で書かれたその作品は、静かに胸に浸みてくるような味わいを持つものであった。
その生活は知識と異なるものではないと書いたけれど、この作者が、そして多くの人がそのようにしか描きえなかったほどに、ぎりぎり差し迫った軍隊生活ということであったのだろう。朝の車中で、没頭してその作品を読んでいて、あやうく下車駅を乗り越してしまいそうであった。


【12年5月14日】
土曜日。丹後行。
丹後は、ひどく寒い。防寒着を、重ね着する。
句会は、1時から始まる。宿題は、「八十八夜」。席題は、「松の花」。「松の花」は、岩城先生宅の庭からの取材。
4時過ぎで句会終了。いつもなら、ここで解散になるのだが、本日はこのあと、夕食会と夜の交流会が待っているので、皆さん残られる。
こちらは、日帰りなので、思いを後に残しつつも駅へと送っていただく。
車中では、一人宴会となる。福知山を過ぎるまで、車窓外は明るい。
帰宅後、すぐに就寝。
日曜日。4時過ぎに起床。朝食を取り、5時過ぎにタクシーで京都駅まで。大阪始発の新幹線に乗車。自由席は、すでに満員に近い乗車状況であった。
良い天気で、琵琶湖の向こうに比良連山を眺め、やがて眼前に新緑の伊吹山。
その後、しばらくは『尾崎放哉随筆集』を読み、やがて車窓から残雪の富士山の姿を眺める。雪の量が多いように思う。
その後は、東京駅まで読書を続ける。
山手線のプラットフォームで、同じ新幹線で葬儀の参加するために従姉妹達と合流。山手線、西武鉄道、タクシー乗り継ぎで斎場まで。
そこで、足の悪い母が郷里から来ているのに出会し、吃驚する。まさか来るとは思っていなかったので。
葬儀は、10時過ぎから始まり、昼前には出棺。霊柩車を弟と一緒に見送る。
弟とは駅まで同行し、そこで別れる。
帰りの新幹線は、大阪止まりを選んだので、2列並びの窓側の席に座ることができた。
天気は下り気味のようで、帰りの車窓に、すでに富士山は厚い雲の向こうに隠れていた。名古屋まで来て、天気が回復。濃尾平野の奥、里山の向こうにうっすらと残雪の山(乗鞍だろうか)が望める。
京都帰着。さすがに、少々疲れる。
車中の読書。放哉の随筆は、その作品ほどには面白くない。かえって、書簡の方が放哉の生活や生の思いなどが読み取れて面白いと思う。
月曜日。疲労に堪えつつ、夜まで仕事。


【12年5月10日】
早めに帰宅。
土曜日は、丹後へ。
日曜日は、東京へ行く事となる。葬儀のため。丹後泊は中止となる。
持ち帰り仕事をひとつ片づける。土日が使えないため、ともかく集中して作業。終える。
甥、帰宅。夕食を頼む。シチューと豚肉のソテーとなりそうだ。ちょっとカロリーが恐い。
少し、お酒飲む。芋焼酎。焼酎は、芋が一番美味しい。今飲んでいるのは、芋の雑味が抜けて、すっきりした飲み口。それが、ちょっと不満と言えば不満。
吉本隆明『共同幻想論』。難渋しつつも、放棄しないで読み続けている。何というか、面白い。
漱石と鴎外の作品比較。『道草』と『半日』。恐らく、厄介なのは、実は理知的に処理された鴎外の作品の方かも知れない。
共同幻想と対幻想というものを筆者がどのようなものとして想定しているのか、読書半ばを過ぎてようやく分かってきたような気がする。
名前を思い出しては、その人にまつわる思い出を楽しむ、それは筒井康隆の小説の影響のようなものがあるのだろうと思う。
膨大な名前を列挙する筒井の小説。随分前に読んだものだけれど、その名前の背後には様々な逸話が潜んでいることだろうと思う。逸話の部分に一切触れず、名前のみを書き連ねた小説。それもまた、小説家が小説をものする強力な背景として存在する物だろうし、その意味ではその作自体が、メタ小説としての性格を強く持つものとなるのだろうと、あらためて思う。面白い。


【12年5月8日】
吉井長三著『銀座画廊物語』読了。吉井画廊創建者のエッセイ集。梅原龍三郎や小林秀雄、武者小路実篤などとの交流が語られる。
同氏が企画し、開村させた清春芸術村へ一度出かけてみたいような気持ちにさせられる。桜の頃は、きっと大変美しいことだろう。
夢の中に出て来た人(実在の人である)の名前が、どうしても思い出せなくて、しかしその面影ははっきりと記憶に残っているので、なんとかして思い出そうと、ここ数日、いろいろと腐心している。
その余波で、歩いているときとか、通勤の車中で、色々な人の名前を思い出しては、懐かしんだりしている状態である。
妙な心理状態ではあると思う。
今日も一日、忙しくて、かなりバテバテ状態で帰宅。夕食を取る気にもならず、軽くお酒を飲んで、バナナを1本食べて夕食は終わり。
とは言え、教材的にちょっと面白いものが出来たので、試しに明日以降の授業で使ってみようか、などと思っている。
甥は、今日は帰りが遅い日で、まだ帰ってきていない。
今週末は、泊付きで丹後「すき句会」が予定されてある。丹後で句会が始まって以来、初めての事である。打ち合わせ連絡の電話が入ったりして、その日が迫っていることを実感する。楽しみである。
6月上旬には、BBQの集まりなどの予定もあり、行事的にはなかなか充実した一月になりそうである。


【12年5月7日】
連休明け。竜巻の被害に驚く。
ここ、1、2年、テレビの臨時気象情報の中に竜巻の注意を促すものが時折見られるようになったけれど、竜巻予報の当たる確率が非常に低いらしい現状で、しかし竜巻注意報をだすということは、気象予報の精度がそれなりに上がってきたせいなのか、竜巻が発生しやすい状態が以前に比べて多くなっている、ということなのであろうか。
午前中は、通院。連休前に受けた検査の結果を聞くことと、別の持病の検査のため。
半年ごとに5年間繰り返してきたCTと血液検査は、幸い今回も異常は見られないと言うことで、次回が最後の検査ということになった。
長かったな、と思う。
血液検査で、肝臓の数値が異常に高くなっており、他に原因が考えられないということで、痛風の薬を中断することになった。服薬は、やはり肝臓に大きな負担を加えるらしい。
バスの時間に追われながら、5分で昼食を終え、職場へ。
午後からは、2時間の授業。パワーポイントを使った自主教材による授業。折りたたみ式のスクリーンやプロジェクター、パソコンなどを1階から4階まで持って上がるのは、正直大変であった。しかも、それが2往復というのは、腰痛に悩む身にはつらい。その間に、自習課題やGW中の宿題の処理や、授業の教材や明日の就職ガイダンスの資料作りなどをこなすが、目の回るような慌ただしさであった。
帰宅。甥が夕食を買っておいてくれたので、それを食べる。
疲れたので、もう休むつもり。