日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし
た。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。 一人言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。 |
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【13年3月28日】
雲間から、大きな赤い月がのぞいている。満月なのだろうか。
職場に置きっぱなしにしていた古いノートパソコンを持って帰る。
システムを再インストールして、中に入っていたデータをすべて消去する。ソフトも必要最小限を残して、すべて削除。
ずいぶん軽いものになる。とは言え、古いパソコンで、そもそも動作はずいぶんと遅い。しかし、何かに使えそうである。
ネットに繋ぎ、重宝しているフリーソフトを幾つかダウンロードして、コンディションを整える。
何やかやで、3時間ほど時間をかけて、作業終了となる。
所用のため、数日帰省の予定。ちいさなスーツケースを買ってくる。コロコロ式のものである。
甥は、アルバイト先が決まったらしい。明日からは、下宿探しも始まるようだ。
5年間の居候生活も間もなく終わりということになる。
長いような、短いような5年間であった。
『川柳カード』2を送っていただく。今号は、亡くなった石部明氏の特集号であった。関悦史氏の評論が読み応えがあった。石部氏の作品50句を改めて読み直してみる。
面白い句を数句だけあげておく。「琵琶湖などもってのほかと却下する」「間違って僧のひとりを食う始末」「梯子にも轢死体にもなれる春」「水掻きのある手がふっと春の空」「鏡から花粉まみれの父帰る」
【13年3月24日】
かつて、『醍醐会』のメンバーのひとりで、論客の一人としてならしていたM氏が、数年ぶりにブログを復活されていることを、『週刊俳句』の検索で知る。
自作1句と、俳句作品に対する鑑賞というスタイルも変わらない内容で、早速一通り読む。
俳句愛と辛口の論評は変わらなかった。
昨日は、丹後の「すき句会」の日。3月16日の時刻表改訂で、丹後行きにも少し影響があった。
蟹シーズンが終了したにもかかわらず、「はしだて1号」指定席はほぼ満席状態であった。春の観光シーズンに入っているせいなのであろう。めでたいことである。
車中では、とりあえず投句用の句作り。結果としては、岩城選には、車中吟が3句中3句ということであった。
準備して置いた句よりも、当日作の方が選ばれるあたり、なんとなくいかにも俳句という気がしないでもない。準備不足の言い訳めいてもいるが。
つなぎの関係で、終点の橋立駅まで乗車し、普通列車に乗り換える。これが、今回の改訂での変更点。以前は、宮津で特急に乗り換えていたのが、その特急がなくなったわけだ。
丹後大宮下車。本日は、一人でいつものレストランに。いつもの海鮮煮込みを食べていると、そこに句会メンバーのTさんが来店。以前、岩城先生と煮込みが美味しいと宣伝していたのだが、食べにきてみたとのこと。
ついでに句作もされるということなので、先に店を出て、良い天気なので少し回り道をしながら岩城先生宅へ向かう。
句会は、兼題が「ゥ葛菜」で、当日句は「蛤鍋(はまなべ)」。本日は、参加者が少ないので、投句数を急遽1句増やして、7句投句7句選となる。
今回も面白い句が多かった。ともかく色々な句柄の方が参加した句会なので、実にさまざまな作品が投句されることになるのだ。
レストランで出会ったTさんの1句、個人的には作品ファンのHさんの句を特選3句の中に選ぶ。
4時過ぎに句会は終了。いつものように、何人かの方が残られて、ビールをごちそうになりながら、しばらく俳句談義。今日は珍しく、本日の句会作品が話題となる。
時間になったので、Mさんに駅まで送っていただく。
車中では、日の暮れが遅くなってきた車外の景色をながめつつ、独酌。車中に、乗客はぽつりぽつりという様子であった。
寝る前には、『正法眼蔵随聞記』を読む。人生は限りがあり、個人の能力には限界があるので、ただひとつのことを一途に励め(具体的には、一事とは座禅のことを指すのだが)ということを繰り返し語っているようだ。そんな話の中に、えっ?と首をひねるような内容が交じっていて、それもまた面白い。
たとえば、ある僧侶が病気療養のために肉食を求めてきたので、それを許可した。ところが、快復後もさらに肉食を続けるので、その僧侶の様子を見ると、その者の頭上に鬼がいて、その鬼が実は肉を食べていたという。ところが、当人ではなく鬼が肉を食べていると言うことで、当人の肉食をとがめなかったという、そんな内容。
確かに、当人と鬼とは別物であろうけれども……。
そういえば、消費税還元セールを政府が法的に禁止するらしいけれど、「消費税」という言葉を使わない通常のバーゲンセールはおとがめなしということらしい。これって、経済統制だけでなく、一種の思想統制でもあるまいか、などと思ってしまう。
【13年3月20日】
火曜日、夜。ちょっとお酒を飲んで、横になったらそのまま寝入ってしまった。夜中に目を覚まし、枕元にあった詩集をしばらく読んで、また寝る。
4時過ぎに目を覚まし、5時過ぎに起床。お腹が空いていたので、ずいぶん早かったけれど、朝食を食べる。
時間をかけて新聞を読み、7時過ぎに「歩き」に出る。
丘陵コース。負荷をかけるつもりで、大回りコースを歩く。
丘陵地帯に展開する山の手の住宅地には、おおきな邸宅が、ゆったりと敷地をとって建てられていて、見物がてら歩く。屋敷の裏手には、御陵の杜が続いていて、ところどころの空地には畑が残っていたりもする
背後の杜からは、時折うぐいすの声が聞こえる。来る途中の一邸の庭では、ほぼ満開状態のしだれ梅が眺められたけれど、この辺りは点々と満開の花をつけたはくれんが目を楽しませてくれる。
巨大なレプリカの城郭を眺め、立派な野球場に沿って歩き、いつもの小公園へ出て、帰宅の歩を進める。
午後、雨が降り始める。
近所に買い物に出て、夕食の食材を買って帰る。天ぷらは出来合いのもの、ブリ大根は簡単なので自分で作ることにして、大根と鰤のアラを買って帰る。
帰宅後、早速ブリ大根作り。大根は、まず茹でてから、ぶりと一緒にくつくつと煮る。煮上がったら、火を消してあとは放置。冷えていく過程で、大根に味がしみていくらしい。
送っていただいた同人誌『鳳』を読む。『運河』の衛星誌と言ってよいのだろうか。4人の方による季刊誌である。堀瞳子さん「春闌水に浮く灯のふくらみぬ」、高道章さん「父の手を一夜官女のはなさざる」、藤勢津子さん「大の字になりて受けたき花吹雪」、浅井陽子さん「草占のすぐに解けてあたたかし」。『運河』句会でお世話になった方達である。
【13年3月18日】
日曜日。午前中、安井浩司句集『山毛欅林と創造』を読む。かなりの違和感があって、読み進むのにずいぶんと難渋する。
どうしてもこちらは、句を通じてそこにこめられたその意味、あるいはイメージを読み取ったり、感じ取ったりしようとする、そんな定型的な読み方をするのだが、安井の作品はそもそも意味を伝達しようとして作られたものとは言い難く、そのような作品の読み方は、その時点でこちらに混乱をもたらしてしまうようなのだ。
安井はもともと詩から出発した作家ではなかったか。そこで、詩的な方法を俳句の中に大胆に導入して一句をなしているのではないかと思う。それは、例えば言語の持つ意味性の否定としての作のように。あるいは、イメージの重層性というものを無秩序な言葉の配置によって実現しようとするような。
いずれも既成の表現機能や表現様態の否定によって、「否定」という地点に一句の価値を設定しようとするようなやりかたのことだ。ちょっと紋切り型の分析だけれども。
関悦史の評論をちょっと読んでみると、既存の読みの否定とか、イメージの大きなねじくれなどということを、安井の作品の特質のいくつかとしてあげているように思ったのだけれど、、関自身の文章が難解で、一層混乱に拍車がかかってしまったような惨憺たる有様となってしまう。。
それにしても、混乱、混沌というほどには、表現の秩序が破壊されていないのは、それが俳句という器を借りてなされているせいなのかもしれない。
少なくとも、季語とか、切れ字とかいう有力な俳句の表現方法は、すでに採用されておらず、ほとんど俳句としてはその体を失っているような印象も持ったりはしたのだが。
なかなか、安井浩司の面白さ、というところには到達しきれなかったようだ……。
午後、気分転換に「歩き」に出かける。水流の戻った疎水伝いに伏見稲荷まで歩き、観光客や出店などを見物して、さらに近辺をうろうろ歩いて、2時間ほどして帰宅する。
お湯を入れ、早めの入浴をして、気分をすっきりさせてから、夕食。
ネットの無料動画サイトの「Gyao」で、映画『蟲師』をやっているのを見つけて、つい見てしまう。2時間ほどの作品だったが、結構面白かった。ただ、最後の場面の意味がよくわからなかったのは残念だったが。結局、主人公は消滅(浄化?)されてしまったのだろうか……。
今夜も早めに就寝。夜中に目を覚まして、しばらく本を読み、また寝る。
4時過ぎに目を覚まし、5時前に起床。あとはいつも通りの朝であった。
【13年3月16日】
土曜日。毎週のように、丘陵コースへの「歩き」。早朝は、まだ少し肌寒いけれど、日射しは暖かい。
丘陵コースは、住宅地を抜けると畑地に出て、さらに歩いて行くと竹林へと続くという道で、春や秋は歩くのに気持ちの良いところである。
特に、竹林に入ると、小鳥の囀りがあちらこちらから聞こえ、時折その中に鶯の声なども交じっていて、爽快な気分にさせてくれる。
それにしても、今日は山道を歩いている途中で、上の方から明らかにホラ貝の音が聞こえて来たのだが、誰か修行でもしているのであろうか……。
ともかく、1時間半ほど歩いてから帰宅。着ていたものをすべて洗濯機に放り込んで、洗濯する。
その後は、ちょっと文章を書いたりして、のんびり過ごす。
午後は、もう少し歩数をのばすつもりで、市内まで出る。良い天気で、暖かく、春の到来を実感する。
駅に向かう道路沿いの民家の庭の梅の木は、白梅も紅梅も満開状態である。
地下鉄を使って四条まで出て、そこからいびつな半円を描くようにして、三条まで歩く。途中、いつものS書房に立ち寄り、自由価格本で安井浩司の句集『山毛欅林と創造』を購入。6割引きであった。以前買った『空なる芭蕉』は、ひどく難解な句集であったが、ちょっと立ち読みした感触では今回の句集はもうすこし取っつきやすそうではある。
周りに安井浩司を面白いという人が何人かいて、その面白さを味わってみたいとは思うのだが、さてどうであろうか。
【13年3月14日】
ここ数日、気疲れがして、夕食の時ちょっとお酒飲んでは、8時過ぎくらいには床に入って、そのまま少し本を読んでは寝る、という緩い生活を送っている。
昨夜も、同じような調子で早めに床についたのだが、朝方に見た夢がひどく楽しいもので、気鬱状態がかなり解消したような気分となった。
以前住んでいた町が舞台になった夢で、ちょうどお祭りで町中が賑やかで華やかな雰囲気に包まれていて、どこからか聞こえる明るい音楽を楽しみながら、町の狭い通りを歩き回る。
途中、目についた民家の狭い入り口からその中に入ると、そこは飲食店街のようになっていて、通廊の両側に小さな店がずっと奥まで並んでいて、どの店にもぎゅうぎゅうに人が入り、頻りに色々なものを食べたり飲んだりしている。通路全体が湯気で霞んでいるようになっていて、ひどく賑やかである。ちょっと日本人離れした大陸系の顔立ちの人なども、その中に交じっていて、ぎょろりと大きな目玉で通り過ぎるこちらをねめつけたりする。長い廊を抜けると、森になっていて、こ暗い樹下をあるいていくと、道が切れ、清冽な流れが道を横断するように流れている。
どうやら川を含むこのあたり一帯は大きな神社の境内のようで、浴衣をきた若い女の子達とか、連れだって歩く人たちのすがたが、向こう岸に眺められる。そこにも、お祭りらしい楽しい感じの音楽が流れていて、浅い川を越えて、向こう岸に渡る。人の流れを横切るようにして先に進むと、また樹下の細い道となり、そこをしばらく歩いて行くと、急に展望が開けて、目の前に金色に輝く谷間が一望に見渡せる。
実った稲か麦の穂に、低い位置から差し込む日の光が反射して、谷全体が輝いて見えるのだ。
極彩色の景を眺めるうちに、目が覚める。
すごく印象的な夢であった。
今日は、午後の会議をのぞき、一日年度末の大掃除。
卒業生が遊びに来たので、ホワイトデーの余りのクッキーをあげると、喜んで一緒に写真を撮ってくれたりもする。
定時退勤。駅まで歩く。少々肌寒い。
車中では、コルタサルの『遊戯の終わり』を読む。短編小説集。奇妙な作品集である。ドアにまつわる怪談話めいた話とか、不死者の中に紛れ込んだ老人の悲哀とか、事件の本体の不明な書簡体の作品とか。ひとつひとつが面白い。
本当は、新田義弘の『現象学』を読むつもりであったのが、全く歯が立たず、コルタサルに切り替えた次第である。
現象学には興味があるのだが、ともかく難しい。
【13年3月10日】
土曜日、午後。引き続き、快晴で外に出ると暖かい。
黄砂のため、四囲に薄く紗がかかって、日射しが拡散され、風景全体がかすかに輝いているように見える。
「歩き」に頑張り過ぎたせいか、ちょっと腹痛状態。しかし、こんな陽気に外出しないのも残念で、京都駅まで展覧会を見にいく。
伊勢丹7階の美術館「えき」の『ミュシャ展』を見に行く。
大人900円。但し、和装の人は無料とのこと。来館者は意外と多くて、人の背越しに作品を見たりする状態であった。
アール・ヌーボーの代表的な作家の一人で、演劇関係のポスターなどで有名な人。繊細で精密で、とても綺麗な絵柄の作。
「少女漫画」と評しているおばさん達がいたけれど、まさにその通りという印象を持つ。もちろん、日本の少女漫画のレベルの高さを前提にした上での話だが。
ポスター以外に、新聞や雑誌の挿絵、商業デザイン関係の類、あるいはデッサン画なども展示してあった。
十分目を楽しませてもらったけれど、ちょっと退屈かもしれない。カタログは購入する。
「えき」を出て、ついでに屋上まで昇り、黄砂にかすむ比叡・北山を眺めて、大階段を下る。階段途中に、たくさんの人たちが憩うている。
帰宅後、夕食の準備。準備という程ではないが、各種野菜を切って、煮込んで、ミネストローフを作る。夕食は、それに豚肉のソテー、サラダ、「いかなごの釘煮」というもの。
夜、眠くてごろりと横になったら、目が覚めたのは12時前。いまさら起きるわけにもいかないので、勢いでそのまま寝る。起床は、4時過ぎであった。
朝が、早くなっている。
天気は昨日に比べ、高曇り状態。このまま下っていくらしい。とりあえず、洗濯をして、雨が来るまでベランダに干す。
『週間俳句』で「10句競作」の投句作品が全句紹介してある。65名、650句はさすがに多いと思う。。
【13年3月9日】
土曜日。朝食を終え、ちょっとハードな方の丘陵コースの「歩き」に出る。
裾地から一気に丘陵の頂上まで登る道だけれども、途中に立派な竹林が続いていて、なかなか良い雰囲気である。どうやら、筍なども採れるようで、道の両側は厳重に立入禁止になっているのが少々鬱陶しい。
朝から良い天気なので、布団類を外に干して出かける。2時間ほど歩いてから、帰宅。
蒲団を取り入れ、第2弾として甥の部屋の寝具一式もついでに干す。半日ほど外に出しておこう。黄砂とPM2.5が少々気にはなるけれども。
昨夜は、句集を2冊読む。
1冊は、伊藤敬子『山廬風韻』。第七句集になるのだろうか。山口誓子に師事したとのこと。たとえば、ぱっと開いたページの1句「えぞ鹿の角の光りて原野に消ゆ」など、対象の捉え方や素材の扱い方などにその片鱗が伺える。身についた手腕ということになるのだろう。いずれの句もそんな手堅さの上に構築された作品という印象を受ける。
もう1冊は、鳴戸奈菜『永遠が咲いて』。なんとも自在で面白い句集であった。恐らく「毒書の秋 乱読に耽りおり」という営みの上に作られた作品群であろうと思う。文芸的な背景が各作品の背後にありそうだ。50句ずつまとめて作ったものをほぼそのまま句集としてまとめたとのことで、それは読んでいる最中に感じた、これらの句は丹念に作り溜めたものから厳選したというより、力業で一気に作りなしたものという印象通りであったのは、我ながら驚いた。
先日、Hさんより『いかなごの釘煮』を送っていただく。早春の便りのような逸品。毎食、美味しくいただく。
お礼に、次回の飲み会はごちそうしますとメールを入れたら、「フランス料理など」と返って来た。フレンチ風居酒屋ということになるのであろうか……。
【13年3月7日】
黒田夏子の芥川賞受賞作『abさんご』を読む。
物語としては、たわいない内容だけれども、筋立てに還元して読むのは、鑑賞として間違っているのだろうと思う。
登場人物が、名前や人称ではなく、各章立ての状況の枠内での規定により表現されていて(適当にページを開いてそんな表現を拾い上げてみると「家事がかりがそのやといぬしを、好きになってしまった.きょうは手をにぎってしまったなどとやといぬしの子にむかって告げはじめて……」、家事がかりとは家政婦のこと、やといぬしはその雇用者で主人公の父親、やといぬしの子とは一応主人公らしい幼い女の子。状況的にはお昼過ぎのテレビドラマにでもありそうな、家政婦がその家の主人を好きになり、その思いをあろうことか?その主人の幼い娘に打ち明けている、というような内容となる。そこには、娘を自分に引きつけようとする家政婦の計算高さなども表現され、それを承知しているちょっと大人びた娘の姿などもほのめかされているようであるが)、固有名詞を持たない登場人物が、その置かれた状況の中で、演じる役割がその人物の呼称となっている。章が変われば、当然描かれる状況(その状況もまた、具体性にも具象性にも欠けてた説明的でその分抽象化された世界の描写で、)の変化に伴い、同一人物であってもその呼称は変わる。変化しながら、その人物達の関係はゆるくつながりつづける。置かれた状況にふさわしい(それが、社会的な適応ということの実体かもしれないけれど)断片的な役割分担をその都度演じ続けることで、人と人との関係はかろうじて保たれている、そんな儚いような感慨を催してしまう。さらに、物語の中の時間軸もひどく曖昧で、章ごとに幼児の世界だったり、青年期の話だったり、中年になってからの事だったり、その軸の中心点は揺れ動き、どの時間も小説内では、現在として、あるいは回想の過去として語られているようで、意図的に小説内の時間が解体されているのかもしれないと思ったりもする。また、語り手の精神年齢が、幼児的であったり、中年の分別のようであったりと、なんとなく精神的なありようとしてのネオトニーなどということを思ったりもする。小説的な様々な要素を意図的に解体する中で、ノスタルジックなある情感が、伏流水のように作品の底を流れているのを感じたりもして、この小説を読み続けた主たる要因は、実はその情感かなどとも思ったりと、とにかくなんとも奇妙で厄介な小説であった。
同時進行的に、往復の車中で読んでいるのが、幸田露伴の『風流仏』で、擬古的な文体がかなり読みづらいけれども、内容的なややこしさはほとんど全くない、そんなお話。
欧化主義的風潮に対する反動として、良かれ悪しかれ「こてこて」な日本人の心情と関係を描いているような印象である。その感触は、樋口一葉の中にも感じはしたのだけれど。
昨日は、一日、入試関係の仕事。疲れた。
本日は、本来の業務に戻り、学年末考査の2日目に当たる。すでに、初日にすべての試験とその採点を終え、少し余裕をもってその後の仕事に就く。
定時に帰宅。夕食前に寸酌。
ちょっと焼酎が濃かったのか、明らかに酔ってしまったようだ。
【13年3月4日】
土曜日。今日も又、丘陵コースへ「歩き」に出る。
ちょっと負荷をかけた方が、衰えつつある太股の筋肉などに良い効果をもたらすはず。春になったら、また比良に歩きにいくつもりである。
夕方までは自宅で読書。『折口信夫』を読み継ぐ。民俗学の部分。「常世」の話、「まれびと」の来訪の話など折口民俗学の核心に関わる内容、さらに、地方で民俗学に携わる人に対する自身の経験に基づく方法・心構えの話など、大変おもしろかった。
実は、本棚の一角には退職後読むつもりで、柳田国男全集が場を占めているのだが、折口民俗学にもとても興味を感じる。
夕方から、市内へ。H氏とお酒を飲む約束で。
待ち合わせの間、しきりに雪がちらついてくる。春の雪である。寒い。
地下鉄駅から歩いて5分ほどの小さな店。若い人たちに囲まれつつ、主に白・赤取り混ぜてワインを飲みつつ、四方山話。
2時間ほどそこにいて、さらに次の店に。今度はビールを飲みつつ、お喋り。
気の置けない楽しい時間であった。最後は、京都駅プラットホームでお見送りをして別れる。
ちょっと飲み過ぎで、帰宅後、へたばる。
日曜日は、一日家籠もり。回復するのに半日かかる。
引き続き、読書の一日。岩波文庫の復刊文庫の一冊で樋口一葉の『闇桜・うもれ木』。一葉の初期短編集である。『たけくらべ』などに比べると、なかなか読む機会がない。
全文ルビ付きで、句読点の打ち方が今とずいぶん違うので、読みづらいといえば読みづらいのだが、内容は面白い。今風にいえば、ハーレクインロマン(古いか)とか、ライトノベル風な味わいである。様々に趣向をこらした作品群で、一葉のストーリーテラーとしての力量を感じる。
復刊文庫はもう一冊、幸田露伴の『風流仏・一口剣』を買ってあるので、一葉読了後はそちらを読むつもり。
月曜日。最後の授業である。明日から、学年末考査。
【13年3月2日】
昨日は、卒業式。午前中は、なんとか天気が保ち、さほど寒くもない環境での式となった。
体育館での式が終わり、各教室に引き上げてそこでの最後のホームルームを終えて、三々五々進路室に顔を出す卒業生達と、話したり、写真に一緒におさまったりしているうちに、やがて校舎内の喧噪が次第におさまり、やがてしんと静まった。
進路室を出て、職員室へ用を済ませに行く際、途中の階段下に立つと、2階の三年生の教室の方から、まだ残っているらしい生徒達の声がかすかに聞こえて来る。
2時間ほど年休を取って、早めに退勤。外は、かなり強い雨が降っている。
帰宅後、ずっと気になっていた中村昭義氏の第一句集『神の意思』のお礼と感想を書く。
中村氏とは、舞鶴吟行会の時ご一緒させていただいて、その折句集をいただいたのだった。その際、感想を一言と云われていて、ついそれで返事が延び延びになっていたのだ。
いただいてすぐ通読して、気になっていた点や句などを中心にして、感想を書き、拙句集『遊歩』も同封の上、郵送する。
土曜日。朝から良い天気である。昨日は、全国各地で春一番が吹いたそうだが、近畿地方は昨日の荒天はそう認知されなかったらしい。ただ、春一番の後は冷え込むという通例通り、朝は結構寒い。
朝食を取り、一休みしてから、丘陵コースで「歩き」に出かける。今回は、マーラーの「夜の歌」を聴きながら歩く。
つくづく変な曲である。そして、面白い。
1時間ほど歩き、一汗かいて帰宅。
洗濯。室内干し、といういつものこと。そのうちに、甥が起き出す。いつもより早い。どうしたのか聞くと、今日が本番の日とのこと。ご飯を食べ、正装して、さっさと出かける。
市の施設の跡地がマンション用地となり、その基礎工事が始まっている。重機の音が、時折聞こえて来る。がんがんがたがたとうるさい。