日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし
た。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。 一人言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。 |
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【14年9月29日】
月曜日。天気は晴れ。
1泊で京都まで、人間ドックの受診に出かける。
健康保険の関係で、京都で受けることとなる。来年以降は、地元で受診するだろう。
半日ドックなので、今日は京都に行くだけ。市内に泊まって、明日検査施設へ、という段取りとなる。
京都は、やや暑くなりそうだ。
10月については、京都行きの予定はないけれど、11月には恐らく3回行くことになりそうだ。旅費やら宿泊費がかさむのは、ちょっと辛い。
もっともいずれも楽しい集まりではあるので、その点は楽しみである。
『鼎座』16号が刷り上がる。印刷所、というか営業担当の不手際で、校正無しで印刷ということになってしまう。
できあがったものは、細かい点で何カ所か気になるところはあったけれども、よしとする。
とりあえず、岩城先生の戸頃へ50部送る。
また、ちょうど地元の句会があったのでそこに何部か持参して希望されるひとに配布した。
京都から帰宅して後、発送作業にかかろうと思う。
この時期になって、庭木のうち2本がキンモクセイだと気づく。良い匂いが室内まで流れ込んでくる。
ただ、そのうちの1本は素人(私)による春先の枝の刈り込みのせいか、花の付きが悪い。花期が終わってから刈り込むべきだったのかもしれない、と思う。
外からの目隠しになっている植木のうち3本は二階のバルコニーに懸かってきているので、目隠しとしては働いていないし、駐車スペースを狭めるということもありで、そのうち伐らなければならないかも、とも思う。
秋元不死男の『俳句入門』を読み始める。これも、文章の参考資料のひとつ。「俳句もの説」を打ち出した1冊。
『汀』誌掲載評論で堀切実氏の「私小説性からの脱出」を読む。石田波郷の「俳句は私小説」という説する検討論文の第3部にあたるもの。今回は、藤田湘子の「私詩からの脱出」という評論をもとに、波郷の提唱する「私小説俳句」への批判と「私小説俳句」以後の俳句の進むべき方向性を示唆した内容を紹介しつつの文章。3部作全体を通じて、大変興味深い内容の評論であった。
【14年9月27日】
土曜日。朝から快晴。
本当に珍しいことには、昨晩は夜中に一度目を覚ましただけで、そのまま6時前まで睡眠。
普段は、夜中に何度か目を覚ましては、仕方なくテレビを見たり、最近は良い天気の日が続いたりしているので、2階の部屋からしばらく星空を眺めたりするのだが、昨夜はそれ無しの一晩であった。
一度目を覚ましたときは、ちょっと起きて星空見物。
京都では一度も見たことのない昴まで見えるほどに夜空が暗いので、満天の星空は眺める価値十分である。
朝、朝食後、「歩き」に出る。気温の割に日差しがきついので、帽子に長袖・長ズボンのスタイルで、海まで片道3キロ弱を歩く。
帰りは、途中に小学校に立ち寄ってみる。今日は、運動会が開催されることを知っていたので、見物がてら寄ってみた。
ちょうど、開会式が終わって、最初の競技が始まったあたりで、グランドをぐるりと囲む保護者と地域の人たちの注目の中、3年生が100メートルを走っていたりする。
まさに地域密着型の運動会、という印象であった。グランドの一角には、かき氷や蒸しパンなどを売る小テントまで出来ていて、ちょっとしたお祭り状態であった。
帰宅後、シャワーを浴び、一休みのつもりでテレビをつけると、NHKで「ビキニ環礁水爆実験」の特集番組をやっていた。ちょっとだけ見るつもりであったのが、その内容の重さに最後まで見てしまった。
内容は、第五福竜丸以外に実は多くの日本の漁船が数次の水爆実験の放射能による被爆を被っていたにもかかわらず、米国・日本ともにその事実を直接の被害者である漁師はもちろん、ごく最近に至るまで国民に秘匿していたという内容であった。結果として、被爆の事実が隠されることにより、多くの漁民たちが十分な治療や補償をうけることもなく、ましてや自らの苦しみの本当の原因を知ることもなく亡くなっていたというものであった。
番組の中で、印象的だったのは、その事実を秘匿し続けた当時の厚生省で審議官(であったか)を勤めていた人物の、淡々とその事実を語るその口振りであった。
あるいは、米国から当時の極秘資料が公開されるまで、当時の人体被爆にかかわる調査資料は存在しないと言い続けた厚生労働省が、資料公開を受けて初めて実は資料はあったと、それを公にしたことである。明らかに、あるものを無いと言い続け、米国資料が公開されなければ、おそらく虚偽を押し通し続けたであろう姿勢であった。
午後、地元の句会に正式に参加。30名近くの多数の参加人数や、清規用紙を回覧しつつ選をするというやり方が、ひさしぶりだったので、最初は少々とまどう。
句会終了時、了解を得て、昨日できたばかりの『鼎座』第16号を配布させていただく。
2年ぶりの『鼎座』である。亡くなった清水さんの作品や半歌仙なども掲載できた。
10月が清水さんのなくなった月であり、そのときに間に合ってよかったと思う。
【14年9月25日】
昨夜来の雨が、今日も引き続き降っている。
台風から変わった低気圧のせいで、ずるずると雨が降り続いているらしい。
雨雲の大きな塊は、すでに行き過ぎてしまったのだけれど、その余波が夕方まで影響を残すらしい。
今日は、俳句のカルチャー教室最後の日であった。色々な点で、所期の目的は達成できたので、その点では納得しての退会となる。他の受講生の人たちと少しなじんだかな、という状態で切り上げるのは、少々残念とも思うけれど、一部の方とは地元の句会で引き続き、俳席を同じくすることになるのだろうとも思う。
今週末には、さっそく地元の句会に参加することとなった。句柄等はずいぶん違うので、ちょっととまどう点もあるのだけれど、おそらく長いお付き合いになるだろうことなので、徐々になじんでいきたいとも思う。
来週早々には、1泊2日で京都まで。人間ドックの受診に出かける。
いつもの場所での最後の受診ということになる。
ここで、大きな病気が二つも見つかったので、それなりに感慨は(というのか、よくぞ人間ドックを受診した、と改めて思う。ずっとルーズを決め込んでいたら、今頃はこの世界に確実に存在しなかったであろうから。絶対に健康診断は定期的に受けるべきだと今では思っている)ある。
それで、9月も終わり。秋が次第に深まる、ということになるわけだ。
平畑静塔評論集は、まもなく読了の予定。30枚ほど書くはずの文章のヒントや材料になる内容が、あちらにもこちらにもあって、読むのがなかなか楽しい(時もある。総じて、難しくてこちらの処理能力を超えて頭がぼーとなる瞬間も多い。ただ、現代俳句を考えるいくつかの視点の提示もあったりして、それは刺激的である、難しいけれど)。
宗祇の「吾妻問答」は読了。引き続き、心敬の「ささめごと」を読む。内容的に「吾妻問答」とかぶる部分があったりもするが、文章はこちらの方がいまひとつややこしくて、読むのに難渋する。
【14年9月20日】
1週間たつのが早い。
ちょっと考え事があって、夜中の2時過ぎから5時前まで眠れず、その後いつの間にか眠り込んで、目が覚めたのは6時過ぎだった。
朝方の夢というのは、結構妙ちきりんなものが多いけれど、今回も奇妙な夢をみた。
ちょっとした小体育館ぐらいの大きさの天井の高いワンルームで、大きな布団が三つ敷きっぱなしになっており(真っ白のひどく清潔な布団カバーなどがかかっていたが)、その横には小さなユニットバスが置かれ、それに隣接してキッチンがあって調理台などが設えてある(もちろんしきり壁などはない)という、そんな部屋。そこに老若男女色々な人が出入りしては、喋ったり、入浴したり、布団に横になったりと、てんでに好き放題をやっている。
私はなぜか、そんな人達の中で、老人とその孫を相手にして、入浴やらその後のおふざけ遊びやらの相手をしている。
この部屋の主は、私が知っている人らしいのだが、現実世界でのその人とは似ても似つかぬ人物が、当人として私の相手をして話しかけてくれたりもしている。
人の出入りは頻繁に続くのだが、やがて時計が9時になったとたんに、なぜか皆がそそくさと帰り始める。
私も、ああもう9時だと思いつつ、老人と子供を促して帰ろうとするところで目が覚めた。
目を覚まして、その夢のとりとめなさにかえって感心してしまった。
そのせいか、すでにもう夕方になっているのに、朝方のその夢をなんとなく覚えているという顛末である。
土曜日。一日、良い天気であった。昨日も快晴で、気温が低くて少し肌寒いほどであったが、今日はそうでもない。
室内の湿度は60パーセントで、心地よい。
午前中は、ちょっと腰の辺りが痛むので「歩き」は中止して読書。平畑静塔の『京大俳句と天狼の時代』という評論集を読み始める。
昼食後、日差しがきつい中を庭の植え込みの剪定を少しして、その後は『京大』の続きを読む。俳句に対する見識の深さに感心してしまう。
3時過ぎに、一休みを兼ねて実家に顔出し。なにしろ、歩いて3分なので、楽だ。
帰宅後、二三日前から読み始めた宗祇の『吾妻問答』の続きを読む。
岩城先生を含めた何人かの人と、ネットを通じて歌仙を巻くことになったので、その準備を兼ねて、連歌の勉強を少々するつもりで読む。
細かい決まり事や心構えなどが問答形式で書いてあって、なかなか興味深い。
【14年9月14日】
土曜日。二ヶ月ぶりの丹後「すき句会」。
5時起きで、片道5時間かけての丹後行きも、これで数度目。何となく、慣れてしまった。
特に、車中で何もしない、ということに慣れた。以前なら、読書の時間とばかりに本を読むか、車窓の景色を見ながら句材を拾う、みたいな状態であったのだが。
今は、何をするでなく、外の景色を眺めたり、ちょっと居眠りしたり(眠れないけれど)、それもなしで、ぼんやりと時間の経過に身をゆだねるような感じで、2席を独占して足を伸ばしたまま(乗客はほんとうに少ないのだ)、とりとめないことを考えながら車中の時間を過ごすことが多い。
とはいえ、それも最後の乗換駅までのことで、丹後路にはいると、乗客の数も増え、そろそろ句会に出す句を作らねばという緊迫感もあって、車中や窓外の景色に眼を走らせつつ、句を捻出するということになる。
それにしても、今回はKTRの乗客が、いつになく多い。3連休の初日ということもあるのだろうが、満員状態となっている。座れなくて立っている乗客まででる始末である。もちろん第三セクターKTRの存続にとっては、祝福すべきことなのだろうけれども(あまりの満員状態で、帰りの列車はそのために7分も遅れてしまった。後で知ったことだが、この日は地元の催し物がいくつか重なっていたらしい。高校の吹奏楽部の定期演奏会だとか、100キロウルトラマラソンだとか……)。
そういえば、途中の「但馬三江駅」を出てほどなく、稲刈りの終わった田地に、こうのとりの姿を目撃した。白い姿に黒い翼は間違いなくこうのとりであった。初めてのことで、ちょっと感動する。ちなみに「但馬三江駅」の愛称は「コウノトリの郷」というものであったが。
丹後大宮着。いつもの食堂で岩城先生と合流し、いつもの海鮮煮込みを食べ、句会場の岩城先生宅まで歩く。
その日、お宅に到着すると、既に集まっているメンバーの方達が、なにやら色めき立っている様子であった。その原因は、お宅の敷地内に旺盛に繁茂している薄の中に、「なんばんぎせる(思い草ともいうらしい。薄に寄生する植物)」を発見したというのだ。ピンク色の茎の先にうす紫色の花をつけているそれは、なかなか見つけられないものらしい。私も、現物は初見であった。これは、次回の句会の宿題となった。
今回の句会の宿題は「穀象」、当日の席題は「二十日宵闇」であった。参加者がちょっと少なくて、投句数を1句増やしての句会。「穀象」の句に面白いものが多かった。
4時過ぎに句会は終了。句会後の談話は続いていたが、私は列車の関係で早めに辞去する。
間に合うように駅に到着すると、先にも書いたとおり、延着するとのこと。やがて、岩城先生も駅に着かれて、改めて駅でお別れすることとなる。
普通列車に3度乗り換え、最後は特急で一気に帰着。10時過ぎには帰宅する。
さすがに、少々疲れて、そのまま就寝。
日曜日。5時、起床。朝食後、7時過ぎに「歩き」に出かけ、今回は少し歩を延ばして海まで歩く。
数ヶ月ぶりに海を間近にして、砂浜にうち寄せる波の音が、なんとなくくぐもって聞こえるようで、ちょっと違和感を感じる。一体どうしたのだろうか。
それにしても、帰郷して5ヶ月目にして初めての郷里の浜の海鳴りである。
【14年9月8日】
日曜日。
近来まれにみるほどの快晴。朝から夕方まで、一日ほぼ雲一つ無い秋晴れ状態であった。
この期を逃さず、気になっていた壁面の苔掃除を行う。
北側の日当たりの良くない壁のあちこちに、緑の苔が薄く生えているのが気になっていたのだが、この際だからときれいにすることにした。
壁面用洗剤とデッキタワシを使って、苔の生えている部分を柔らかくこするのだが、場所が二階の壁ということもあって、窓から手の届く範囲をきれいにするという作業の繰り返しとなる。
苔は、洗剤の効力でけっこうきれいに取れる。洗ったあとは、下から延ばしたホースで水洗いをして終了、という手順。
全部の面はきれいにできなかったけれど、壁の三分の二くらいは思った以上にきれいになる。
洗い終わったあと、たまたま洗濯に出てこられたお隣さんと、塀越しにしばらく四方山話。
山好きの人らしく、山の話でひとしきり盛り上がる。ついでに、ご近所に百名山完登を目指しておられる人がいて、残すところあと数座、というようなお話も聞く。
せっかくホースを出したので、ついでに車を洗うことにする。
買って以来初めての洗車で、水で流したり、洗剤で洗ったりと、車の周りをぐるぐる廻りながら洗う。
日差しが強くて、洗ったそばから乾いていくような状態で、水気を拭きとるのがずいぶん楽であった。
一汗、二汗かいて、午前中は終了。
午後は、夕方まで読書。『白雙紙』を読み終え、気分を変えて『平畑静塔対談俳句史』を読む。文字通りの対談集(講演記録がひとつおまけについている)だが、静塔の対談相手が、西東三鬼、楠本憲吉、草間時彦、中村草田男、金子兜太というメンバーで、ざっくばらんな身辺雑記的内容から京大俳句事件の内部事情に至るまで、とても面白く、読み応えのある対談集である。
月曜日。夜中曇り、陽が登ってから雲が少しずつ切れて、昼には昨日同様の快晴状態となる。
朝食を終え、一休みして8時くらいから1時間半の「歩き」。畠地の中の農道を日に照らされながら歩く。ついでに、合唱曲の練習などもする。
かなり大きな声で歌っても、他人に聞かれる気遣いはない。
歩きながら歌うのは、腹筋で声を支える練習にもなるような気がする。
畑地のあちらこちらで、里芋の大きな葉が、露をたくわえながら、かたまってゆらりゆらりと揺れていたりする。鶏頭の横で、黄花のコスモスが風にそよいでいたりもする。
帰宅後は、シャワーを浴びて、昼まで読書。
その後、車でスーパーに食事の買い物。ついでに、二つあった電卓がふたつともに壊れてしまったので、まさかないよなー、などと思いながら100均の売り場をのぞいてみると、太陽電池で動く電卓が置いてあって吃驚! 早速購入。100均って、本当に何でもあるのではないか、と思ってしまう。とはいえ、ほしいなと思っている湿度計はさすがに置いてはなかったけれど(ちなみに、温度計は昔懐かしい棒状のものが置いてあった)。
そういえば、(なんでも)「あるよ。」というのは、テレビドラマ「ヒーロー」の定番ギャグであった、などと思う。
【14年9月4日】
土曜日。朝一番の高速バスで、京都まで。昼前に京都駅で知人と落ち合い、途中バーベキュー用の肉を買い込んで、京北町へと向かう。
その土地の知り合いの人の招待で、地元の川で鮎網の漁をして、その後取れた鮎を食べるという豪華なスケジュール。
ところが、いざ川に行ってみると不順な天候の余波で、水量が多い。ともかく、網を仕掛けに川へ入るが、太股を越える深さでは、水の圧力に押されて、流されそうになり、網を仕掛けるどころではない状態であった。河床を両足で踏みしめていても、両足ごと下流に流されそうであった。増水したところで川遊びをしていて、水に流されて溺れる人がでるのももっともだ、と思えるほどの水圧であった。
慌てて浅瀬に戻り、やむなく浅いところに網を張るが、数匹鮎の魚影は確認できたけれども、網にかからず、結局鮎は1匹も取れず。
水につかっただけで、引き上げる。
夜は、バーベキュー。こんなこともあろうかと、知人があらかじめ手をうってくれていて、立派な鮎を10匹、おとり鮎を扱う店から取り寄せてくれていて、それを焼いて食べる。
さすがは香魚。香りも味も堪能する。
屋敷裏には、北山杉の杉山が間近に迫っていて、その山の気がものすごく感じられる。夜闇の持つ迫力を肌に感じながらのバーベキュー。
庭が山の斜面に接する辺りに造られた池は、以前は大きな鯉をかっていたらしいけれど、夜山の方からくる動物に狩られてしまって、もう一匹もいない、などと言う話をその家の小学校1年生の女の子がこともなく話してくれたりもする。
日曜日。早めに、京都市内まで戻る。
「醍醐会」が始まるまでに、Hさんとお昼を一緒にということで、会場近くの小さなレストランで昼食。
1時間ほど、四方山話。邑書林のことなどをちらりと話として聞いたりもする。
1時から「醍醐会」。青木さんの『その眼、俳人につき』という評論集の講読会。
若いひとたちの特別参加もあって、にぎやかな会となる。
レポーターの発表と質疑、さらに青木さん自身も参加しておられて、討議に参加するという形式の話し合い。
個人的には、月並み宗匠に関する話が興味深かった。
多岐に渡る内容を4時間の討議では、少々無理な部分もあったかもしれない。私は参加できなかったけれど、会終了後の二次会、あるいは三次会ではどのように話は展開していっったことだろうかと思う。
夕方の高速バスで帰宅。11時前には帰着する。
月曜日。火曜日。普段通りの一日。『鼎座』第16号の編集準備にかかる。
水曜日。『鼎座』の編集作業終了。さっそく、歩いて10分の印刷所へデーターや冊子見本を持ち込む。
4月段階で、一度見積もりなどを出してもらっていたので、その線で話を進める。地元の印刷所とはいえ、全国的な賞をその出版物で受賞したこともある、そんな印刷所である。
9月中には『鼎座』第16号ができあがりそうだ。
木曜日。『去来抄』を読み始める。半分ほど読了。読み終わったら、その次ぎは『三冊子』へ、という予定。次ぎに書く文章のネタ探しというところであろうか。
昨日は、一日曇で蒸し暑かったけれど、今日は午前中半日雨で、昨日同様蒸し暑い。たまに吹き込む風は涼しいけれども。