日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし
た。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。 一人言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。 |
14.11「日々録」 | 14.12「日々録」 | 15.1「日々録」 | 15.2「日々録」 | 15.3「日々録」 | 15.4「日々録」 |
【15年5月30日】
昨日、「歩き」の途中の景です。1,2枚目はややピンぼけですが、朝靄のせいという理由も半分あります。3枚目は、古い廃屋。板が全部とれて、むき出しの土壁に朝日が照っている風景です。土壁は、ずいぶん頑丈なのだなと感心しました。
【15年5月28日】
「もち病」に感染した躑躅ですが、こちらの垣の方は、ごく軽い感染だったようで、なんとか花をつけたようです。
別の場所の躑躅は、こちらが気が付くのが遅くて、やはり昨年ほどの花の咲きようではありませんでした。
残念です。
今日は、定期検診で朝から病院へ。昼近くまでかかったけれど、特に大きな変化はなく、一安心というところでした。
病院を出て、そのまま近くの私立図書館に本を返却に行きました。遠藤周作の評伝を、病院の待合い時間にも読んでいましたが、最後までは読み切れず、図書館前の小公園の藤棚の下で、続きを読み、なんとか読了しました。最後の方は病気のために辛い毎日を送られたようですが、それでも、作家としては大きな仕事を成し遂げての一生だったと改めて思いました。
図書館で、本を返却し、あらたに遠藤周作の小説を借りようと思いましたが、書架に見あたらず、少々ショックを受けました。もう、読まれない作家の一人として扱われているのかと思いました。
時間がなかったので、本の探し方が雑だったのかもしれません。
午後、角川「俳句賞」の作品をまとめて、郵送。もう1編短編小説も別のコンクールに送りました。
退職後、やってみたいと思うことを、わがままにこなしているな、と我ながら思ってしまいます。
結社誌『H』に送った原稿は、記念号の寄稿評論の一つとして今月号に掲載していただきました。ありがたいことでした。岩城先生から、ずっとこだわっていたことに一つの形が与えられた、とお祝いの言葉もいただきました。ありがたいことです。
『汀』6月号には、エッセイが掲載される予定です。そして、いまのところ、それで今年度の活動は終わりかも……。次を開拓しなければなりませんが、いまのところ何の見通しも無しという状態です。
【15年5月27日】
暑い一日。
5時過ぎから「歩き」に出て後は、ほとんど自宅で過ごす。
『江藤淳1960』読了。いずれ、江藤淳の評論を読んでみようという思いになる。「私情」というものが、彼の評論活動の中心にあったのかもしれない、と思う。
遠藤周作の評伝。半分ぐらいまで読みすすむ。フランス留学時の新事実などを知る。
今年も角川『俳句賞』に応募するつもりで、4月以降書きためてきた句から抽出作業を行う。50句に絞り込む。ここ数年は予選通過すらおぼつかない状態。少し、作柄が変わったかもしれないと、我ながら思う。加齢現象であろうか。
明日は病院、一日おいて土曜から京都。久しぶりの連泊となる。
裏庭にある地下水の揚水用モーターを覆う屋根を修理する。といっても、半分壊れた波板をあたらしいものに交換するだけなのだが。ついでに古い波板も、側面に立てかけて雨よけに利用する。なんとなく、ブサイクな出来である。
【15年5月25日】
連日、晴天の日が続き、5月らしい爽やか(というには、やや暑いけれど)な日々を過ごしている。今年は、心なしか、降雨が少ないような気がする。
晴れの日を満喫するのは良いのだが、しかし庭の躑躅には異変が生じている。
庭の一部の躑躅が「もち病」にかかっていたのである。
「もち病」は、細菌性の病気である。躑躅の葉が異様に変形して枯れ落ちてしまうという病気である。雨の少ない5、6月頃に発生するらしい。
植え込みを観察して見つけた時に、変形した葉っぱを取り除いているのだが、少しずつ新たに発生が続いている様である。「もち病」は新しい葉に症状が発生する。
今日は、薬を買ってきたが、風が少々強いので、散布するのは日を改めることにする。
青虫の食害なども発生し始めている。
昨年のチャドクガの幼虫については、注意を払っているので、今のところ発生の気配はない。時期的には、もう少し後かもしれないけれど。
庭木の手入れというのは、結構大変であるとつくづく思う。
少し、生活のリズムを変える。
昨日は、姪が買ってきたピース又吉の『火花』を借りて読む。最初は読みずらかったけれど、途中からその語り口調にも慣れたのか、だんだん面白くなり、一気に読了する(中編小説という分量だったけれど)。内幕話ふうな所もあり、上手に最後まで読者の興味を繋いで、最後の方はちょっと感動的であった。次回作、期待したいと思う。
【15年5月21日】
中央公論特別編集『江藤淳1960』という本を読んでいる。文芸評論家江藤淳の安保改定の際とその後についてのルポ・評論・対談等をまとめたもの。
江藤淳当人から言えば、自己の立ち位置の再確認の軌跡、時代の流れの中から言えば政治的潮流からの離脱の書、という風な印象を感じながら読み進めている。
安保改定問題は、現総理の祖父が世論を一切無視して強引に国会を通過させるという荒技を披瀝したもの。
50年を経て、今度はその孫が同じようなことを国会で行おうとしている。まさに、歴史は繰り返すという悪しき実例であろうか。
昨日は、半日庭の手入れ。午後からはついでの機会なので読書はすべて中止して、床下に潜り込んで点検作業。ついでに、土台ねじの露出部分のさび止めなども行う。
地面に敷き詰められたビニールの上を匍匐前進ですすむのだけれど、なかなかおもしろい。
床下の風通しは悪くはないのだけれど、一番奥まった辺りはやはり、地面からの湿気の影響を受けるところがあるようだ。
この時期は、シロアリの活動が活発化する時期でもあるので、確認を兼ねて年に1度くらいは床下に潜ってみるのも良いことだと思う。
何となく、探検気分も味わえることだし。
全身埃まみれで床上へ。着ているものはすべて洗濯機へ、身体はシャワーへと移動する。
さすがに、少々作業疲れで、夜は普段より早めに就寝。
本日も4時過ぎに起床。5時から「歩き」に出かけるという、いつもの一日。
夕方、蕾のついた咲き始めの薔薇を1本切ってきて、小さな花瓶にさす。
今回は、トイレには飾らない。
【15年5月20日】
4時過ぎに目が覚め、眠れぬままに5時から「歩き」に出かける。朝なので膚寒いかと思ったが、今日はそうでもない。すでに、地平線には太陽が昇り、大山の姿が薄墨色に染まってみえている。
昨夜は、モニターが2本あり、朝の分は滞りなく終わり、夕方の分も特に問題なく視聴が終わり、まとめた内容をノートパソコンからメール添付という形でデスクトップの方に送っておいて、夕食を食べた。食事を終え、ではレポートを書こうかと、デスクトップを立ち上げ、ネットに接続した瞬間、トロイの木馬攻撃が連続3本あった。セキュリティーは一応きちんとしてあるので、そちらの方は即座に把捉され、事なきを得た。立ち上がった瞬間というのは、セキュリティーの方に、攻撃の時間が表示されるので、それで確認ができた。ごくたまにあることなのであまり気にもかけないで、エクスプローラを開けると、動きがおかしい。勝手に設定が変わっているようだ。前にも同様なことがあったので、ちょっと嫌な感じを覚えながらyahooを開くと、それとは別のページが勝手に立ち上がり、「パソコンが危ない。すぐに対策ソフトをインストールせよ」という警告が表示された。また、例の勝手に広告を書き換えるソフトが侵入してきたらしい。ただ、今回は立ち上がったばかりで、yahooにアクセスしたところであり、前回使ったときには普通に動いていたので、いつ勝手にインストールされたのかわからなかった。ただ、削除用ソフトを入れてあるので、前回はそれを使ってきれいに削除できたので、今回も同様の手順で消そうと考え、削除用ソフトを立ち上げた。4本のソフトが勝手にインストールされていたので、ひとつずつ削除しようとした。ところが、削除ができない。アンインストールの機能が可動しないのだ。前回とは違う性格のソフトが侵入したらしい。
レポートは、ネット経由で送る必要があるので、とたんに動きが重くなったパソコンに難渋する。特に問題だったのは、今回yahooメールを全く受け付けなくなったことだ。資料は、メール添付なので、メールが開かないと仕事を始める事ができない。メールをダウンロードすると、許可以外のものは開かないとメッセージが出る。メールは、ロード中の表示のままでいつまでたってもダウンロードが終わらない。まさか、yahooメールをノートパソコンからデスクトップに送った際に、例のおかしなソフトも一緒にこちらの側に送られてきたのだろうか、とふと思う。
とにかく埒があかないので、ノートの方に残してあったまとめを参考にしながら、デスックトップのメモ帳で下書きを書き、推敲を終えてそれをノートの方に移して、ノートからアクセスをしてなんとかレポートを送ることができた。ノートパソコンの方は、全く正常であった。
ともかくこのままでは、デスクトップの方はyahooメールは使えないし、動きは遅いし、不愉快な宣伝が勝手に送られて来るし、ということで何とかしなければならない。
ネット検索をかけると、同様の事例で困っている人達の書き込みがあり、その中に対策について触れてあるものがあったので、その方法の一つを試してみようと考えた。
エクスプローラの「アドオン管理」というところから、該当のソフトを無効にしてその働きを停めてしまうというものだった。指示通りの手順で「管理」開き、「アドオン」をすべて表示させると、怪しげなものが見つかった。早速、「有効」になっている設定を「無効」に切り替えようとした。ところが、「有効・無効」の切り替えができないのだ。その機能が働かなくなっているようだ。なぜできないのかは不明。しかし、これでもう打つ手はないのかと思ったけれど、画面表示の中にそのソフトがパソコンのどこに収められてあるのかが表示可能であることに気づいた。そこで試しに、その収納先を確認すると、プログラムファイルの中にそれが納まっていることがわかった。早速、プログラムファイルを開くと、怪しげなファイルが4つそこにある。更新日時を確認すると19日とある。時間も、トロイと同じ時間帯であり、その時に勝手にインストールされたものだと判断がついた。
どう処理したらようかと思ったけれど、ともかくそのまま「ごみ箱」へ廃棄することにした。
「ごみ箱」へ移し終え、再度インターネットエクスプローラを動かすと、通常通り機能する。yahooメールも普通にダウンロードができた。どうやら、復旧できたようだ。
本日、パソコンに堪能な兄のアドバイスを受け、「ゴミ箱」から完全削除。さらに、ディレクトリを掃除するソフトで、ディレクトリ自体もきれいにする。消去する前に、ざっと見たら、それらしいものも中に含まれていることに気づく。消去する。
それにしても、別段妙なサイトへも行かず、怪しいソフトをダウウロードもしていないのに、なぜこの台湾製か中国製かしらないけれど鬱陶しいソフトがセキュリティーにも引っかからず侵入してくるのか、全く腹立たしい。
ただ、これで対応策を二つ知ったことにはなるけれども。
長くなったので、本日は以上。
【15年5月16日】
昼前までは雨模様。しかし、昼近くから天気はどんどん回復してきて、午後は快晴となる。ただ、気温は平年並みくらいで、暑いと感じるほどではなかった。
垣根の薔薇は、現在5つほど開花している。ちょうど、通路にかかっているものを1本切り花にして、小さな花瓶に挿し、トイレに飾る。
垣根の上の方にまで延びた尖端にまだ蕾のままの花がいくつかあるので、ここ数日のうちに開くのではないかと思う。
そちらの方は、2階の窓から、見下ろすことになりそうだ。
山法師の方も、白い萼がちらちら姿を見せ始めている。
漢文は『老子』を読んでいる。詩文に比べてずいぶん読みやすい。しかし、内容はなかなか難しい。ただ、世界の始まりが混沌状態から、なんていう部分を読むと、東西の相違を越えて、共通の感覚や思惟のパターンなどを思ったりもする。
近代文学は、阿部知二の中編小説『おぼろ夜』を読み終えて、中山義秀の『厚物咲』というお話を読み始める。ちなみに『おぼろ夜』は、ストーカー殺人をあつかった小説である。ただし、その内容は非常に観念的で、殺人者の動機が形而上的な課題を殺人という手段を用いて解決しようとするというようなもので、痴情のもつれなどという今風な動機からはかなり離れているようなものだった。ただ、殺人者の異常な自我肥大というようなところは相通じる物があるのかもしれないが。
『厚物咲』の方は、ずいぶん古風な意匠をまとった小説のようである。
久しぶりに遠藤周作関係の評論も読み始めた。集中的に遠藤周作関連の本を読んでいたのは今から20年くらい前なので、それ以降の評論などはまったく手に取っていなかったため、今回読んでいる評論は、私の知らなかった遠藤周作の自伝的内容や人物像が紹介されてあって、大変興味深いものだった。
【15年5月15日】
安保法制が国会提出。
あるニュースで、各世代に安保法制に対する認知度調査のインタビューをした際、30~50代の人達は、知らないとか、よく分からないという答えばかりだったのに、60代、70代の人は、知っている、さらにその内容について簡単に説明までしょうとする人がいた。
たまたまそんな人達にインタビューがあたったのだ、ということではないだろう。放映された人数以上に多くの人に同様の質問をしたけれど、結局そのような形でまとめるほかなかったということが実際ではなかったか。
これが、国民のこの問題に対する現在の認識のありようの実体かな、と個人的に思ってしまった。それは老人世代が、たまたま時間があって、安保関連を含めニュースなんかをよく見ているというようなレベルの問題ではないだろう。
「戦争」というものに対する意識のありようの違いが大きく関わっている、という気がしたのだった。もちろん、その世代の人達も、直接戦場に行ったとか、空襲の被害を受けたという方達ではないかもしれない。しかし、まだ戦争の余波、余韻というものが時代の中に影を落とす中を生きてきた、さらにそんな戦後から現在に至るまでの日本の変化を見てきた人達の、実感に裏付けられた危惧の思いが、関心度の高さとしてそこに反映されているように思えたのだ。
今現在に対して直接責任を負う現役世代の大人ですら、大半が知らない、よく分からないというような現状であろう。
ましてや、20代、10代の諸君は、「アンポホウセイ」ということばすら知らない人が多いのではないかと思われる。
法が施行されれば、いずれ一番影響を被るだろう若い世代が、一番なにも知らない状態でことが進んでいく。
「禍根を残す」という言葉があるけれど、その言葉の内実にさらに悪しき実例をひとつ積み上げる結果にならないことを願う。
【15年5月14日】
朝、庭に出てみると、垣に這わせておいた薔薇が、花を開いていました。
まだ蕾のままと思っていたのですが。
数えてみると、あちらこちらに三つほど開花していました。いくつか蕾も見えるので、これから日ごとに咲いてゆくのでしょう。
楽しみです。
今日も朝から快晴。ただ、午後からは天気は少しずつ下り気味らしいけれど。
【15年5月13日】
台風から変わった低気圧の余波で、半日強い風が吹いていた。夕方になって、ようやくその風もおさまったようだ。
天気は一日中、よかった。昨日午前中の、かなり強い雨がうそのようである。
昨日は、アルバイトのレポート書きが3本入って、結構厳しかった。2本はニュース番組、1本は地元のラジオ番組で、数十年ぶりにパーソナリティーがお喋りする形式のラジオ番組を聴いた。
番組は大体1時間弱、見るなり聴くなりしながら、かなり詳細な内容と簡単な感想をパソコンに打ち込んでいく。まとめをプリントアウトし、それを見ながら、その後レポート作成。項目は選択式で3つ選んで記入。最後に全体についての自由な意見・感想をまとめて、ネットを通じて送信する。総字数は最大1600字までとなる。
レポートをまとめるのに大体1時間くらいかかる。その後、文章を推敲して、表現を整えてから送信ということになる。
文章を書くのは割と抵抗感はないので、さほど負担は感じない。ただ、同じ番組を1定期間モニターすることになるので、できるだけ多様な視点を取り入れて番組を見て、内容を評価しようとは考えている。
昨日は、最後のラジオ番組が10時終了だったので、いつもより就寝時間がそうとう遅くなってしまった。
とはいえ、本日も起床は5時で、そのまま1時間半の「歩き」に出かけはしたのだが。
本日は、強風と言うことを除き、特に変化はなし。相変わらずの1日だった。
ただ、昼過ぎにロバのパン屋さんならぬ、車でパンの移動販売の人が来たので、葡萄パンを買う。値段は少々割高だけれど、味は良い。
明日からしばらくは、朝食は葡萄パン、その他ということになる。
【15年5月11日】
今日は、午後から母の運転手を兼ねて、「夢コンサート」という催しに行ってきた。
往年のスター歌手達がずいぶん沢山出演する歌謡コンサートで、正直最初はあまり期待もしていなかったのだが、実際行ってステージを見てみると、これが予想外に面白くて良かった。
主な出演者は、小林旭、五月みどり、千昌夫、黒沢年雄、黛ジュン、山本リンダ、葛城ユキ、チェリッシュ、三善英史、狩人、あすか美生という面々。三昔前であれば、そうそうたるスター総出演と銘打っても良いくらいの出演者であった。
耳慣れた歌、郷愁、そして現在もさほど落ちてはいないと思われる歌唱力、ステージ進行の上手さ、という様々な要素が絡まって、結果として思った以上に良かった、という感想につながったように思う。
と同時に、30年も40年も、人によっては50年近くもステージに立ち、聴衆を前に歌うことを続けてきたという、そんな各歌手の生きざまにちょっと感銘を受けたということもあるのかもしれない。
一般人が想像もできないほどの大変なことが山ほどあったのだろうけれど、そしておそらく現在も抱え込んでいることはあるのだろうけれど、ステージに立ち、歌うということを全うしてきているのは、幸福なことではあるまいか、などと考えてしまう。
何となく、楽しさの余韻を感じつつ、日々録を書いている。
【15年5月9日】
本日は、久しぶりの雨が朝から降っている。
写真は、昨日の躑躅と、日の出の様子。水平線から昇り始めたばかりの朝日を、携帯のカメラで写したもの。
京都にいた頃は、マンションのベランダから、里山の向こうに昇る朝日が目慣れたものだったけれど、こちらは家並みの向こうに昇る朝日が望まれる。
躑躅のほうは、少しずつしおれ始めているところだ。
所属誌『汀』にお送りした短いエッセイの校正がメールで送られてくる。
あと、50字くらい追加が可能とのことだったけれど、これはこれでもうよいかな、と思う。通常ならば、俳誌ということで、自作の句をそえたりするのだけれど、今回は文章のみということにした。タイトルは「時の船」、しかしちょっとかっこつけて、「時じくの船」にタイトルを変えてみようかな、とも思う。「時じく」とは「時に支配されない」というような意味の言葉である。今が同時に永遠でもある、みたいな感じだろうか。俳句の時間というのも、そのような性質を持っているようだ。「永遠」はちょっと大げさだけれども。
土曜日は、通常のスケジュールにはこだわらず過ごす日。午後からは、母の買い物に付き合う予定。
【15年5月7日】
『文選』読了。思ったより早く、読み終えてしまった。ある種の達成感を感じる。ただ、読み通しただけなのだけれども。
いまは、各詩人の紹介をアイウエオ順に読んでいる。なかなか波瀾万丈の人生を歩んでいる人が多い。基本的に彼らは官僚や役人なので、政争に巻き込まれたり、帝の怒りに触れて誅殺されたり、という人も結構な数でいる。逆に、円満に立ち回って、立身出世ののち、天寿を全うするという幸福な人物ももちろんいる。中には、任官を拒否したり、ぱっとしない地味な人生を送った詩人もいたりする。つまるところ、人生様々ということなのだろう。
『水原秋桜子季題別全句集』を読み始めている。総体として上手い俳人だな、と感心しながら読んでいる。もっとも、最初は水原秋桜子、もういいかな、という気持ちをどこかに持ちながら読み始めたのだが、読みすすむに連れて、全部読んでみる価値がありそうだな、という思いに変わった。
それに、この人の作品は、俳句を初めて間もない人には、取りかかりやすく、ゆっくりと各自が読み味わうことが可能な作品が多いのではないかな、とも思い始めたものだ。
近代文学は、阿部知二の小説『冬の宿』を読み始める。変な内容の話である。
『高浜虚子の世界』は引き続き読んでいる。個人的には、虚子はどうも人物的に好きになれないな、という思いがあったのだが、しかし、読んでいくにつれて、これはやはりなかなかの人物だな、と思わざるを得ないような気持ちになってくる。
固定資産税の請求が来る。昨年度より、若干請求額が下がっている。喜ばしいような、喜ばしくないような、複雑な気分である。
今日も、一日晴れ。
近所の家では、内装のリフォームをしているらしい。終日、大工仕事の音がする。
【15年5月6日】
ゴールデンウイークも、本日で終わり。午前中は差していた日が、今は全天に広がった雲に隠されてしまった。明日は、雨になるらしい。
毎日が日曜日の身にとっても、大型連休の終わりはちょっと感慨を催される。
昨日は、どこからかバーベキューのにおいが漂ってきていた。
「歩き」の最中も、バーベキューを目撃した件数は2件。自宅の庭をつかって、家族や親戚と一緒に食事をする、いかにもゴールデンウイークだな、と感じたものだ。
庭は、躑躅が満開状態で、花にとりついているはなむぐりの姿が目につく。
はなむぐりは、どうやら躑躅の花びらを食べているらしい、ということに気が付いた。
花の中に潜り込んで、花粉を食べていたりするだけじゃないのかと思う。
『文選』。一年ぐらいかけてずっと読んできたけれど、あと数日で読了しそうなところまで来た。内容は、よく分からないものが多いけれど、すらすら読み解けるものもあって、苦しいながら、なかなか楽しい。
伊藤整『鳴海仙吉』読了。最後は、ちょっと悲惨な終わり方であった。引き続き『近代日本人の発想の諸形式』という、明治以降の近代文学の諸作を通じて、日本人の特徴的な発想を探るというなかなか興味深い評論を読む。小説『鳴海仙吉』のバックボーンみたいなものが伺えるようで、面白かった。無というものを根底においた物事のとらえ方が、根本にあって、それが西洋の近代と日本のそれとの違いをもたらした、ということらしいけれども。
【15年5月4日】
昨日は、「憲法記念日」。一連の戦争関連法案をもとに、護憲・改憲の論議がなされている。
どのように国を守るのか、という点を中心にして現在改憲の話は進んでいるようだけれど、新聞のアンケートなどを見ると、改憲と護憲のそれぞれの支持率は、同じくらいか、若干改憲の方が多いようだ。
ただし、内容を限定して「9条」改訂についてみると、圧倒的に改憲反対のパーセンテージが高い。この両者のギャップについては、きっと注意が必要なのだろう。
つまり、改憲を希望する人の中にも「9条」は改訂する必要はないと考えている人がそれなりの数含まれているということではないか、ということだ。
憲法が、時代状況にそぐわないという意識を持つ人の数はそれなりにいるけれど、その人達皆が皆「9条」に関して改訂を希望しているわけでもない、ということだ。
私だって、もし憲法を改定するとするなら、「国会議員に対する倫理規定」みたいなものを盛り込んでもいいんじゃないか、などと考えたりすることがある。国権の最高機関である「国会」を構成する国会議員諸氏の劣化が相当進んでいるように感じるからだ。
ついでに言えば、「9条」改訂を希望する人達も、今の方向で改憲が進んでいったとしたら、その結果は自分たちがイメージし、考えているような国防のありかたの実現に本当につながるのか、という点について、一度冷静に考えてみた方がよいのではないか、と思われる。
それと、ふと思ったのだけれど、戦争関連法案が実行力を持ったとしても、日本が戦争を起こすとか、戦争に巻き込まれるということはない、という論調があるけれど、ある意味それは間違っていないのかもしれない。基本的に日本が許されている戦争は、自国の防衛のための戦争だけであり、たとえば他国の戦争の後方支援で、結果として「戦闘」に巻き込まれたとしても、それは「戦争」という事態を成り立たせ、、それを満たす要件にはあたらない、ということなのかもしれないからだ。いやおうなく「戦争」に参加、ないし巻き込まれた訳ではなく、そこではあくまで「戦闘」がなされているだけ、ということだ。たとえ、その場で自衛隊の方達の命のやり取りが実際におこなわれているとしても、だ。
【15年5月3日】
躑躅が、ほぼ満開状態となった。花水木の方は、少しずつ散り始めている。
5時起床。「歩き」に出る。
朝日がちょうど昇って来る時間帯で、雲の下の方からオレンジ色の姿をのぞかせて、すぐ雲に隠れてしまった。
今日は、このあと天気は下り坂になるという。
朝食を終え、7時過ぎくらいから文章を書く。1時間半ぐらいで、中断。ちょっとテレビを見てから、続きを書く。
今日は、実家で昼食をごちそうしてもらえるということで、その前に頼まれた買い物に出かける。
プレミアム商品券というのを初めて購入、早速使ってみる。20%お得になるという商品券。
おつりが出ないと言う点で、使い勝手は今ひとつかもしれない。
新聞代にも使えるということなので、そちらにも利用してみようと思う。
昼食は、店屋物をとってもらい、美味しくいただく。
午後、市内に母が見たいというミュージカルのチケットを購入に出かける。幸い、悪くはない席が残っていたので、購入。こちらは、プレミアムチケットは使えなかった。
雨が降り出したとおもったら、急に強い降りになる。雨は、そのまま夕方まで降り続けることになる。
午後は、読書。『鳴海仙吉』はまもなく読了。現在は、演劇か、映画の脚本風な仕立てでお話が進んでいる。講演録だったり、日記だったり、手記風のものだったり、雑誌掲載論文という体裁だったり、私小説風だったりと、様々な手法を駆使して、話が進んで行く。
図書館から借りてきた角川の『高浜虚子の世界』を読む。各テーマについて、諸子の見開き2ページから多くても6ページぐらいの分量での評論集。物足りないものから、読み応えのあるものまで、様々なレベルの内容が1冊に集められてある。いずれも、書き下ろしの文章のようだ。
【15年5月1日】
10数年ぶりに城山へのぼってきた。天守閣のあった辺りから、大山方向を眺めたのが写真。ただ、ガラ携で撮したため、画像はいまひとつ。大山も、はるかかなたにぼんやり見えると言う程度であるのが残念だった。
今日から5月。市立図書館で借りてきた本の返却日が今日だったので、早朝から大急ぎで読む。結局、2冊ともに最後までは読み切れないと判断して、一旦返却することにした。
また、改めて別の日に借り直すことにする。
車で図書館まで。返却を済ませ、別の本を2冊借りる。今回は、本来の読書と平行して2週間で読めそうな、あるいは選択して内容がよめそうな本を借りる。
ついでに、岩城先生から紹介のあった俳人T氏の『文学界』掲載の短編小説を、読書室で大急ぎで読む。人間が鯖寿司に変身して、最後は滝と一体化するみたいな不思議な内容の小説であった。筒井の言うメタ小説的な部分があり、不条理というよりは小説の様々な要素を内側から否定したような作りの作品のように思われた。
大急ぎというのは、無料の駐車券の時間が2時間しかなくて、その時間を利用して市内を少し歩こうと考えていたからだ。
読了後、急いで図書館を出て新緑に引かれるようにして近くの山に向かい、結果として城山に登ることになったわけだ。
良い天気で、日差しがきつかったけれど、城壁の上は気持ちいい風が吹いていて、展望も360度開けて、気分がよかった。
帰宅すると、自動車税の請求が届いていた。今年度から正味の請求で、34500円であった。排気量が低い車なので、軽並みとまでは言わないけれど、もう少し税金を考えてほしいと思った。ちなみに、ハイブリッド車の方は9000円であった。税を75%割り引かれるらしい。それにしても、自動車税が500円あがったのだろうか……。
。