日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし
た。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。 一人言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。 |
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【15年7月30日】
ウインドウズ10無料アップグレードと言いつつ、古いパソコンでは対応できないということで、アップグレードは無理であった。
1台はかなり以前に、もう1台は5、6年前ぐらいに購入したものだけれど、どちらもディスプレーが互換性がないということで、だめなようだ。
新しくパソコンを購入したらとCMも出ていたが、そのためにあらたに買うのも馬鹿らしいので、特に使用上も何の問題もないのでそのまま使うことにする。
ともかく、暑い。もう7時過ぎなのに外気温はまだ30度くらいある。室内では、エアコンも扇風機も今は使っていないので、結構まだ暑い。しかし、その分時折窓から吹き込む夜風が冷気を含んでいて、気持ちよかったりもする。
昼間の暑さに、読書もままならない状態の時がある。エアコンを使えば良いのだろうが、どうもあのひやっとした人工的な空気の感触がいまひとつなところがある。
扇風機の風の方が、より自然で気持ちよいようにも思うけれど、さすがに今日などは、我慢の限度で午後からエアコンを使い、本もその部屋で読む。
高浜虚子の『俳諧師』。本人も含めてのモデル小説といいながら、なんとなく遊蕩話みたいな展開になっている。虚子版『青春の門』第一部東京編、みたいな具合である。
阿波野青畝句集『万両』読了。正直言って、最初の頃はなんと不器用な、と思っていたのが、やがてみるみる巧みになっていき、「写生」に習熟した様子で、ついにはちょっと単純にはわかりかねるような独特な世界にまで突き進んでいった、というような印象を持つ。「写生」という手法に、作者の主観や主情を巧みに折り込んでいくみたいなところがあるような気がする。
川柳人鶴あきら(漢字が出てこない)の評伝を読み終わったタイミングで、Hさんから川柳誌『SENRYUCARD(川柳カード)9』を送っていただき、少し読む。Hさんの作品、今号はちょっとおとなしめであったように思う。
【15年7月24日】
暑い一日、終日、読書。
夕方から一家総出で、ミュージカル『南太平洋』を見に行く。
藤原紀香、別所哲也主演、脇を太川陽介が固める。ちあきしんという女優の歌唱が素晴らしかった。
文句なく楽しめるミュージカル。
カーテンコールの拍手が鳴りやまないという状態であった。
幸福な気分で帰宅する。
良い一日だった。
【15年7月23日】
予定のモニターが1本、祭日の関係で放送されなかったので、選択番組から1本選んで、そちらの方をモニターする。
番組は震災以後の放射能汚染に関わって、被災者の「目に見えない復興」、心の立ち直りの問題を扱うとても良い内容のものだったけれど、それだけにレポートの方が大変むずかしくなってしまい、色々考えた揚げ句、昨夜そして今朝と結局3時間くらいかかってレポートをまとめることになってしまった。
時給に換算したら、労力の割に合わないものになるだろうと、ふと思う。
しかし、誠実な番組作りの姿勢が感じられて、送信し終えて、心地よい余韻が残ったものだ。
今日は、午前中市内の図書館に借りていた本を返却に行き、そのついでに向かいの美術館で行われている著名な写真家の展覧会を見に行く。
あわせて、図書館の二階で開催されていた、戦時中秘匿されていた地元の空襲や民間船舶の爆沈について、アメリカの公文書館から公開され、地元の学芸員さんの尽力でまとめられた資料の展示も見てくる。
写真展の方は、なかなか見応えがあって面白いものであった。ただ、展示数が思ったより少なくて、もう少し見てみたいとその点が物足りなかった。小さな美術館なので、それもやむをえないものか。それに、3.11の震災写真で、瓦礫を背景に地元の人達の姿を、まるで記念写真のようなアングルで、そこに立たせて撮しているものについてだけは、違和感を感じてしまった。
午後からは、普段通り夕方まで読書。
安倍総理の安保法案を火事でたとえる説明は、身内の自民党内部でもあまり評判は良くないようだ。
そうだろうなと思う。
【15年7月22日】
午後になって降り出した雨は、かなり本降り状態となっている。時折、降り方が強くなって、遠く雷の音が聞こえたりもする。
午前中は、昨夜2本見た番組のモニターレポートを、7時ぐらいからまとめ始め、思いの外短時間でまとめ上げることができた。
高校野球関係の15分番組と、1時間のラジオバラエティーの2本。番組自体は昨夜のうちに視聴して、記録もまとめてある。
野球の方は、15分とはいえ、レポートの提出条件は変わらないので、薄まったような内容にならないように注意して書く。
ラジオ番組の方は、一番最初に聞いたときは、なんだこりゃという感想を持ったのだが、しかし、聞く回数が増えていくと、なかなか面白くなる。
ラジオなりに工夫を凝らして番組を作ろうとしている姿が伺えて、頑張っているなという風に印象が変化してきた。
とはいえ、2本続けて書くと、少々疲れる。ゆっくり休んで、一日のスケジュールにかかろうと思ったが、今日は実家の犬を病院へ連れて行く日で、送っていただいた俳誌を少しだけ読んで、昼過ぎまで運転手を勤める。
幸い、犬の方は体調が前回より改善していて、その点はほっとする。皮膚が弱いので、薬や薬用シャンプーが効きやすいように、背中を逆モヒカン風にバリカンで毛を刈られる。珍妙な格好となる。
午後、意外と早く注文していったプリンターが届く。
さっさと繋いで、使えるようにしようと梱包を解いて、本体を取り出し、パソコンに繋いで、設定作業に取りかかる。
なぜか、インストール作業がいつまでたっても終わらない。相当の時間を使って、何度か繰り返してみるが、終わらない。
もしかしてと思い、前のプリンターのデータをすべて削除してから、再度作業を行うと、今度は上手く行った。インストール作業は終了。
しかし、試しに印刷してみようとしたが、プリンターが動かない。
コントロールパネルを開いて確認すると、パソコンがプリンターを認識していない。他のデバイスが悪影響を与えているのかと思い、印刷関係のデバイスをすべて削除してみるが、一向に状態は変わらない。線で繋ぐのをあきらめて、無線ランの方に切り替えて、再度インストール作業を繰り返すが、インストール自体は上手く行き、ランも繋がったにもかかわらず、相変わらずパソコンはプリンターを認識しようとしない。
結局、相談窓口の方に連絡を取り、その助言を得て、なんとか頑固なパソコンもついにはプリンターの存在を認知する、という人間だったらどろどろの展開風な結果となり終わる。
その作業が、夕方までかかり、半日何をしていたのか、茫漠たる気分で午後を終える。
【15年7月21日】
昨夕、庭をぶらぶらしていたら、葉の茂った木の枝にたまたま触れた瞬間、かなりの痛みを感じて、驚いて腕をひっこめた。
葉っぱに何かがいたらしい。触れた辺りをみると、緑色の長方形の体型の毛虫がいた。
全身に細い毛が生えていて、その一部が腕に触れたらしい。
すぐに殺虫剤で駆除したけれど、腕の方は次第に痛みが増してくる。虫さされの塗り薬をつけてみたが、あまり効き目はなさそうなので、実家の方に行ったら、幸い塗り薬があるということで、それを塗る。刺された部分が、でこぼこ腫れていたのだが、薬を塗ってしばらくすると、痛みが治まってきた。さすが、ムヒコーワに比べると薬効は高いようだ。
故障したプリンターは、持ち込みの修理屋さんへ持って行ったのだが、結局ずいぶん古い型(6年前のものなのだが)で、交換の部品もなく、修理は無理だということだった。
やむなく、ネットでメーカー品の手頃なものを購入することにした。すで、数日前から検索をかけ、新たに購入するとしたらということで、いくつか候補の目星をつけていたのだが、そのうちの一つを選ぶことにした。ネットの広告スペースに、ここ数日やたらとプリンターの広告が表示されていたのだが、そのうちのひとつでもあった。
『ホトトギスの俳人101』読了。面白かった。俳句を考える場合に、『ホトトギス』は無視できない結社であり、ざっとその全体像の一端でもわかればと思い、読み始めたのだが、なかなか多士済々という状態で、面白かった。ただ、やはり断然面白かったのは虚子の時代の俳人達の作品であった(本文は、その主宰ごとの時代区分で代表的俳人が紹介してあった)。現在に近づくほどに作風は、平易で日常化し、ともするとやや平板な印象を感じるようになった。けれど、ごく最近になってまた少し変化が生じつつあるのかな、という感触も持った。『馬酔木』によって虚子から離れた水原秋桜子が「さらにこの人たち」という番外編みたいなスペースに紹介してあったり、さすがに除名された著名俳人数名は、当然といえば当然かもしれないが、はなから除外されていることに気づいたりもした。
【15年7月20日】
たまたまテレビをつけたら、ニュースに安倍総理が出演していて、安保法制について説明していた。
国民の理解が進まないと言うことで、とうとう自らテレビに出演して説明することにしたらしい。
火事のたとえを使って集団的自衛権と個別的自衛権の話をしていたが、違和感ばかりが残った。
なぜなら、安保法制の実態は、そこに戦闘行為が含まれるということで、言うまでもなく火事場と戦場では、その本質が大きく異なるからだ。
もちろん、両者にはリスクが伴う点は同じようにみえるかもしれない。しかし、火事にしろ、次いでのように話してた御嶽山の災害救助にしろ、火事も自然も消防士や自衛官を殺傷するという意図と意図を持たない対象だ。自分たちの対応によって、そのリスクはかなり軽減できることだろう。
しかし、戦闘に置いては、明確に自衛官を殺傷しようとする相手が存在する。火事や噴火には、その意志はみじんも存在しないのだ。
まったく本質のことなるものを引き合いに出し、それに基づいて話を進めようとすることは、それ自体が明白なごまかしであり、ことの本質を隠蔽・秘匿することにほかならない。
そんなやり方をするから、説明された国民の側は、釈然としない、あるいは一層混乱するという事態に繋がるのだ。
安倍総理が、もし本気で国民に理解をもとめようとするならば、できるだけ具体的に戦闘・戦争の実態・本体に即して説明をする方が良い。
その結果、理解が進み、国民が賛同するか、ますます危惧の思いを深めるかは、その次の問題だと思う。
もう、ごまかしはやめて、事実、あるいは真実を明確に提示すべきだと思われる。
【15年7月18日】
本日予定していた丹後「すき句会」は、台風の余波で残念ながら中止となってしまった。
京都から丹後方面に向かうJRの一部区間が、半日運休ということになってしまった。早朝に、岩城先生から直接連絡があり、中止と決まった。
8月は、元もと句会は入っていなかったので、9月まで2ヶ月の休会ということになる。
4時過ぎから起きて、準備などしていたのだが、取りやめということで、ぽかりと一日予定が空いてしまったようになった。
いつも通り、時間通りに書いたり、読んだりという生活は取りやめにして、ぼっと過ごすことにした。
さいわい、これも台風の余波で、気温が高くない。ちょっと初秋くらいの状態なので、ぼっと無気力に過ごすにはちょうど良い。
とは言いながら、500ページくらい書いた文章の推敲に2時間くらい、しばらく中断していた辻田先生のエッセイを1時間くらい読み、その間に、庭で毛虫やカナブンなどを退治をしたり、薬剤を手押しで噴霧いたりとかしているうちに、あっさり午前中は終わってしまった。
実家からもらったシシトウを煮、大きな卵焼きを焼いて昼食を食べ、テレビを見ながら、ソファーで10分くらいうとうとする。
気がついたら1時過ぎで、再び推敲をしているうちに、また1時間ほどたっていた。
しばらく空き家で、売りに出ていたお隣さんの家に買い手がついたらしい。声がするので、2階からちらりと見ると、車を庭に入れて、伸び放題になっていた夏草を、夫婦でおしゃべりしながら抜き取ってきれいにしているらしい。小さな子供の声も聞こえる。
市内から少し離れ、買い物には車が必要だけれど、静かな落ち着いた地域なので、ゆっくり生活できるんじゃないかと思う。
【15年7月17日】
台風が接近中で、さすがに風雨ともに強まってきている。
ただ、中心部よりも東側の地域の方が雨風ともに厳しそうな状況であり、それが気になる。
県内の鉄道はすべて停まり、飛行機ももちろん飛ばず、市内では一部電線が切れて停電という事態も起こっているらしい。
昨夜、モニターの視聴を終え、まとめた内容をプリントアウトしておこうと、プリンターを起動すると、故障の表示が出た。
ネットで応急処置の方法を検索してやってみたが、直らない。どうやら本格的な故障のようだ。
とりあえず、レポート作成は翌朝、記録を画面に出して、それを見ながら同じ画面を使ってレポートを書くという煩わしいやり方で、時間をかけながら終えることが出来た。
プリンターは修理に出そうかと思ったが、修理代はかなりかかるらしいし、ネットで調べると、場合によっては修理代よりかなり安く、同じ程度の機能の新品が買える事が分かり、どうしようかと考えている。
まだきれいだし、直せば使えるものを廃品にするのはもったいないし、金銭的な事だけをいえば、買い換えた方が合理的かもしれないし……。
こんな発想をするのも、昭和半ば生まれ世代の個性なのかもしれない、と思う。
【15年7月16日】
台風が直撃コースに入っているようだ。予報円のど真ん中を進んだ場合、我が町の頭上あたりを台風の中心が通過して行きそうな気配である。
すでに、風が強まり、じわじわとその接近を感じる。
土曜日に、丹後行きが控えているけれど、状況によっては無理かなとも思う。大きな被害が出なければよいのだが。
図書館で借りてきた地元俳人中村襄介氏の句集『山眠る』を読む。「ホトトギス」の流れにある伝統派俳人のひとりということになるのだろうが、単純な「花鳥諷詠」派ではないようだ。冒頭の一句「雪を歩す遊び心を膨らませ」の心情表現。半ばあたりの「一陣の風一塊の散紅葉」の、写生句ではあるが「一陣」「一塊」という言葉の彩、最後の句「樹にこだま句碑にことだま山眠る』の「こだま」「ことだま」の虚実の対照と言葉遊び的要素など。
安保法案が特別委を通過。
常識的に考えれば、国民に周知されていないという明確な認識がありながら、それでも強引に法案を通過させるという手法は理解不能である。
誰のために気を遣い、誰のための法案であるのか、ということが、もろに透けて見えてしまう。
【15年7月13日】
うだるような暑さというけれど、まさに今日はそんな一日だった。
ちょっとおかしいと思えるほどの暑さで、エアコンなどほとんど使わない私が、もう限界ということで、エアコンの電源を入れた。
エアコンのひゃっとした冷たさはあまり好きではないのだが、そんな贅沢は言っていられない。
午後からは、エアコンを効かせた部屋に籠もって、本を読み、番組のモニターのバイトをやり、という状態になった。
ひんぱんに水の補給もした。いつの間にか、体内の水分が汗となり蒸発している。
からだがどこか、ずっと汗でしっとりしているような気分である。
主に麦茶を飲み、すでに1リットル以上飲んで、冷蔵庫に次の麦茶を作っているようなありさまだ。。
夜に入って、外は雨が降り出したが、それでも室内の温度は何も使わなければ、30度を超えている。
全く、一体どうなっていることやら。
しかも、今週後半には猛烈な台風がやって来そうだし。
気象に翻弄されているみたいである。
まったく!
【15年7月10日】
8月上旬に、京都の方に出かけるということで、ウイークリーマンションを借りることにした。
幸い、以前利用したことのある会社の部屋が空いていたので、仮申し込みをする。普通に宿をとるよりも、比較的安上がりで、その上生活用品など一通り整っているので、自炊や洗濯(夏なのでこれはありがたい)なども出来るのが助かる。
以前、マンションを売却してから、退職して帰郷するまでの3ヶ月ほどの期間を、同じようなところで過ごした経験があるので、なんとなく勝手も分かっている。
神経質な人には向かないかもしれないけれど、こちらはあまり気にしないので、とりあえず拠点が決まってよかったと思う。
この際、京都の知人にも時間をみて会ってこようかと思う。早速連絡も取ったりする。
1週間ほどの京都暮らしということになる。
朝は小雨。歩いているうちに、雨は上がる。その後は曇天。気温はさほど高くないのに、蒸し暑い。
高浜虚子の全句集を読み終わる。なかなか面白い。はじけた面白さとでも言おうか。虚子の句会というのは、ずいぶん面白いものだったのではないか。特に、時折、とんでもなくすごい句が詠われて、参加者もびっくりしたのではないか、などと思う。
水原秋桜子の方も、まもなく読了の予定。改めて、つくづく上手さというものを感じる。絵画とか、器物のような味わいを思う。。
【15年7月7日】
今日は「七夕」だけれども、朝からしとしと雨が降っている。一日中、降り続きそうである。
『歳時記』を読んでいたら、杉浦敬親氏の「枝打ちの済みし高みのゆれにゐる」という句が目に入った。その瞬間、京都北山のいわゆる「北山杉」のよく手入れされた林相がふっと思い出された。良い句だなと思って、再度読んだ時、読み間違いをしていることに気がついた。
最後の部分「ゆれにゐる」を「ゆれにけり」と読み誤っていたのだった。
「ゆれにゐる」の句は、今まさに枝打ちを終えた人が、高みに止まって木とともに揺れている情景であり、私が読み間違えた「ゆれにけり」は、すでに枝打ちが終わり、作業の人もそこにはいなくて、ただすらりとした丈高い木が風に吹かれて揺れている情景となる。
いずれの句であっても、枝を頭の部分に残した木は、いわば「頭でっかち」のようになって、一層風の流れに対して反応しやすくなる。木の情景と読み間違ったせいで、ふと自分にはなじみのある北山杉の情景が思い浮かんだのかと思った。
読み間違いを訂正することで、杉浦氏の森とそこで暮らす人達との一体感を感じさせる句の味わい深さを、一層感じることが出来たように思われたものだ。
昨日は、朝と晩に2度モニターのレポートを書いて、少々疲れた。提出したレポートに対して、相手からの直接の反応がないので、逆に適当にまとめあげたようなものは出せない、という緊張した気持ちになる。同じような内容になることも出来るだけ避けたいと思うので、視点や切り込みの角度を毎回考えながら、内容をまとめることにもなる。それが、楽しいけれども結構しんどくもある。
図書館で借りてきた水木しげるの戦記物の漫画を読む。独特の絵柄のせいもあるのだろうけれど、少年向きに描かれたものでありながら、戦場にしろ戦闘場面にしろひどく生々しいものとして迫ってくる。厭戦、反戦の思いが、少年漫画らしいはなばなしい日本軍勝利の場面などを含めて、ずっと底流していることを感じる。戦争を前提として、それに備える法案が大多数の国民の理解もないままに推し進められる今の状況は、本当に大丈夫なのかと改めて思ってしまう。
【15年7月5日】
知人のI氏が、結社誌『S』に「森澄雄ノート」と題して、俳人森澄雄氏の作品鑑賞を連載しておられる。今回で52回となる。
ここ数年、毎号掲載された文章を送っていただき、私自身はその文章を通じて、森澄雄という俳人とその作を知ったといってもよい。
今回、一度感想をこの「日々録」に書き込んでみてください、というリクエストがあったので、少し書いてみようかなと思い、書いてみる。
ただ、本文を読んでおられない方には何のことかよく分からないと思うので、本文の一部を紹介して、その部分について断片的な感想を書くというふうにしたいと思う。
まず、本文。
「『臥しをりて水澄む如くこころ澄む』 比喩について、友岡子郷氏は龍太の句について触れながら、こんな興味深いことをいっている。《ある実体を想念でなぞらえるのが比喩である。だから、比喩は実体そのものではなく、現に外界に形象として立ち現れているものではない。というような比喩の常識を、龍太はときどき覆す》(「飯田龍太鑑賞ノート」)このようにいい、鑑賞の対象にしている龍太の句の比喩が、想念というよりも実体として現に立ち現れているように思われてならない、と分析している。それにならっていえば、澄雄のこの句の実体は「こころ澄む」、比喩の部分が「水澄む如く」である。この比喩も龍太の句と同様に、想念というよりも、実体として現に立ち現れている気配がある。むろん、澄雄は病臥の身だから、これは戸外での情景ではない。したがって、「水澄む」は澄雄の脳裏に思い浮かんだ想念といえば想念だが、どこか実体として澄んだ水が流れているさまを、身体感覚で捕らえていそうだ。流れが見え、水の音が聞こえてくる気配がある。」
以上は、今回の鑑賞文の最初の一句についての全文である。
毎回感じることだが、まず選句の良さを感じる。おそらくこの一句も、森澄雄らしい深沈とした心意が反映した境涯句であると思う。
紹介した部分での筆者の主張は「水澄む如く」という比喩部分について、そこに想念ではなく実体の揺曳を感じるということのようだが、私自身はその受け止め方が、前回の文章でも、そして今回の別の部分でも筆者自身が触れている、森澄雄という俳人とその季語との一体化という、筆者自身の独自の観点の反映として、この鑑賞文をみてしまう。
言うまでもなく「水澄む」は秋の季語であり、秋の冷涼たる季感をあらわしたものであるが、筆者自身が本文で触れる「流れが見え、水の音が聞こえてくる」というイメージの次元を越えて、森澄雄自身の心境、あるいは心のありかたそれ自体が(つまり、森澄雄という一俳人の実存、実体そのもの)形象化されたものとして、筆者に受け止められているのではないか、というように一文を読ませていただいた、ということになるだろうか。
つまり、この「澄む水」とは秋の清涼たる水であるとともに森澄雄自身であるということである。そしてその時、句中における「澄む水」と「こころ澄む」という内容は、ひとつに重なり、この一句は筆者自身の主張する作者と季語との一体化の証しの一句ということになるのかもしれない。
ただ、今回偶然季語が比喩表現の中に取り込まれた例、という受け止め方が、私の感想の背景としてあり、今回筆者が引用された友岡氏の一文の言うところとは関連が薄いかもしれないけれども。
【15年7月4日】
平日は、毎日同じようなスケジュールで一日を過ごしている。
時に、順番を入れ替えたり、別の方面に寄り道してみたり、予定外の事が起こったりというような小さな変化はあるけれど、基本的な一日の過ごし方は変わらない。
ただ、さすがに毎日ということになると、それも窮屈だし、そうすることが義務みたいな感じになって、自身の生活を拘束することにも繋がっていきそうなので、毎週土曜日だけは、その枠を外すようにしている。
とはいえ、何も日頃と変わったことをしているわけではなくて、その時間の枠をはずしたり、スケジュールの枠内ではしずらいことをしてみたり、あるいはぼっとして何もしなかったりという風に時間を使う過ごし方に一日を使うということだ。
現在、ロボット掃除機(母から借りているものだけれども)が2階の部屋を移動しつつ、掃除している音を聞きながら、今日をどう過ごそうかと思っている。
昨日は、市立図書館に本を返却に行き、あらたに2冊借りてくる。一冊は水木しげるの戦記漫画、もう1冊は金子兜太編の俳句関係の随筆集。その随筆集の中に、水原秋桜子の「自然の真と文芸上の真」が収載されてあった。
帰宅後、短い文章なのでさっそく目を通す。概ね常識的な内容で、ただ俳句が文芸としての美を獲得するために、より多くの作者自身の介在を必要とするということを主張しているような内容であった。
ホトトギスが俳句の目的とする「」自然の真」の再現(「写生」という方法に基づく「花鳥諷詠」」について、それは俳句の目的たり得ず、その再現を期する限りは俳句は文芸としての根本的性格を持ち得ないとする。文芸の根本に「美」の存在を認め、俳句も一文芸である以上は、自然美の表現とは「自然の真」の忠実な再現であるとする発想は問題がある。なぜなら、「自然の真」は美学の対象ではなく、もちろん自然界における物理的法則の高度な整合性がもたらす調和的世界に仮に「美」を感じるとしても、それはあくまで科学が探求し、その調和の根源を法則性という形で明らかにするというような性格のものであること。その点で、「自然の真」は少なくとも文芸が対象とするような美の範疇外であり、「自然の真」=美であるという認識は誤りである。ただし「自然の真」は、俳句の重要な対象ではあることは確かで、俳句の美に「自然の真」が関係することも確かだが、それはあくまで俳句表現の素材として価値を持つものであって、俳句が真の意味で文芸であるためには、作者の想像力や創作力、そして表現力が素材である「自然の真」に働きかけをおこない、俳句作者によって文芸的に捕らえられることが可能な美に変容した「文芸上の真」として自然の再構成・再構築がなされることによって、俳句は始めて文芸としての性格を持ち得る、という主張のように思われた。一部本文にはない私自身の追加・解釈なども交じってはいるけれど。
自然はあくまで素材、作者の手によって「作者にとっての美としての自然」を再構築するところに、文芸としての俳句が成立するという考え方は、特におかしな所はないように思われる。近代的な文芸のとらえ方としては、ということではあるが。
ただ、水原秋桜子の全作品を大半読んできた結果としては、秋桜子が強調する文芸としての自然美、「文芸上の真」の具現としての俳句実作は、初期の『葛飾』、中期(と言っていいか)の『霖林』においてもたらされ、深化されたという面はあるにしても、多く類型化された美の自己模倣的再現という印象が強い。それはある意味、秋桜子自身がまさに自らが切り開いた地平を一途に邁進したということの結果でもあろうが、少し視界を広げ、俳句表現の世界という地点から眺めなおした時、そのような感想を持たざるを得ない。
現在、同時進行的に高浜虚子の全句集に目を通しつつあるけれど、妙な言い方だが、自身とその俳句に対して非常に謹厳で律儀であった秋桜子より、俳句に対してかなり自由奔放ともいい加減とも思えるような姿勢を見せてきた虚子の方が、その作の多彩・多様そして時にその深さ、あるいは美しさにおいて注目せざるを得ないという思いになる。
虚子が秋桜子に第一句集『葛飾』に対して、「たったこれだけ」という辛辣な感想をもらしたということは有名な話で、その言葉の背景に様々な状況はあったのかもしれないけれど、しかしその一言は、秋桜子のその後の全作品を通じて、ぐさりと深く突き刺さる恐ろしい一言であったのかもしれない、などとふと思ってみたりもする。
【15年7月3日】
プロ野球中継のために、担当モニター番組が予定時間より遅くなった。
夜は、本当に早く就寝するので、10分とはいえ、少々つらい。
1時間5分のラジオ番組である。学生時代以来、ほぼ全くラジオなど聴いた事のなかったものが、この番組モニターのバイトを始めてから、担当番組とはいえ聴くようになった。
色々考えさせられることもあって、なかなか面白い。
朝、5時過ぎ起床。庭掃除をし、ゴミを出しに行き、朝食をとり、いつの間にか7時になっていたので、中二階の書斎へ移動。昨夜、番組を聴きながらまとめ上げた内容とコメントをプリントアウトし、それを参照しながら、パソコンを相手に昨夜のラジオ番組のレポート作り。
1時間ほどかけて内容をまとめあげ、ネットを通じて送信する。
これで一仕事終わり。
万城目学の『とっぴんぱらりの風太郎』という長編娯楽小説を、昨日午前中かかって読了。実際は、貸出期間中に読み切れなかったところを、改めて借りてきて、今回は一気に読み終えたというところ。さすがに面白かったけれど、主要登場人物の大半が皆死んでしまうという展開は、少々救いがなかったように思われた。
唯一の救いの部分が、なんとなく作品的には『プリンセス・トヨトミ』と通じ合っている点があるのかと思い、そこに作者の遊びを感じたりもしたものだ。
今日のうちに返却してこようかと思う。
高浜虚子の作品を読み、同時進行的に水原秋桜子の全句集を読んでいくと、なんとなく両者の立地点いわゆる「伝統俳句」といわゆる「新興俳句」とが、逆転しているような印象を両者に対しては持ってしまう。秋桜子の著名な論評「自然の真と文芸上の真」の内容との照らし合わせの作業をしてみたいような気がする。
【15年7月2日】
大阪あたりで、年金データー流出がらみの詐欺事件が起こっているらしいけれど、一向ニュースにもならないのは、どうしてなのだろうか。
データ流出は、現在年金受給中の者だけではなく、将来の年金受給者も含まれているということなので、現在年金受給番号を持っている者はすべてがその流出可能性の対象になるらしい。
私自身も、まだ年金を支給される年齢ではないけれど、当然年金番号は持っているので、念のため過日年金機構の当該窓口に電話を入れてみた。
なかなかつながらないと言われていたけれど、さすがに事件が起こってある程度時間が経過したせいか、すぐに窓口に繋がり、早速簡単な手続きとともに確認してもらった。5分もかからず返事があって、謝罪とともに対象者ではなかったと告げられた。
データ流出というもやもやした薄気味の悪い事件を、今回まぬがれたことは幸いであったと思う。
そういえば、大阪はデータ流出が大量に発生した地域であった。
新幹線の中で焼身自殺をするという、想像もしなかったような出来事が起こってしまった。焼身自殺については、背景に何かに対する抗議の思いが潜んでいるということが多いらしいけれど、今回の場合、年金受給額の少なさということが原因であるような報道があった。18万の年金が12万にまで減額されたということで不満が募ったらしい。それにしても、減額の幅があまりに大きくて、一体どういうことなのか、不審に思ったものだ。ここ数度に分けて、支給額の減額方向での調整が行われたことは知っているが、それにしてもと思ってしまう。
無関係の他人までを巻き込む自死ということ。本当に理不尽なことであると思う。
それが、あくまで個人の異常な行動の結果なのか、社会病理的なものの反映なのか、いずれにしても、薄気味悪く、恐ろしい気がする。