日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし
た。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。 一人言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。 |
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【15年9月30日】
9月も本日で終わる。長年の習慣で、1年の区切りを年度で考えているところがあるので、それで言えば半分が経過したということになるのだが、今年と言うことで言えば、あと3ヶ月で今年も終わるということになる。
いずれにしても、早いものだと思う。
天気は曇り気味で、冷たい風が吹いている。今日は、外出の時はさすがに短パン・Tシャツでは無理だった。長袖・長ズボンに着替えて、2キロほど先の郵便局まで投函と切手を買いに行く。
車で行ってもよかったのだけれど、最近明らかに「歩き」の歩数が半減し、その分体重がぐずぐず上がったり下がったりしているので、ちょっと注意することにした。
休耕田や荒蕪地のあちらこちらに、コスモスの群落が風にゆらいでいる。いかにも秋らしいきれいな情景ではあるが、田畑として利用が中断された土地がこんなにもあるという証しのようにも見えてしまう。
明日は、爆弾低気圧のせいで、荒天になるらしい。大型台風並みの低気圧にまで発達するらしくて、被害が出ることを心配する。
最近、本当に気象にかかわる懸念が増えている。
昨夜も、大きな月が東の空から昇った。1日過ぎたので、もうスーパームーンとはいえないのかもしれないが、それでも普段に比べると充分巨大な月のように思われた。
夕食を終え、少しは歩いておかないとと考え、東の空に昇って間もない月を見ながら、外灯もない道を歩く。
遠くに隣町の灯りが見え、航空自衛隊の夜間訓練で、飛行灯を明るく輝かせながら、タッチ・アンド・ゴーとかいう飛行訓練を繰り返しているのが、遠く眺められる。その合間に、民間機が着陸したりもしているようだ。
帰宅する頃には、切れ切れの雲が、全天に薄く広がっていた。
さっさと就寝。ここ数日、夜中に目を覚ますことがない。もっとも、まだまだ夜に近い時間帯には目を覚まして、起き出すのだけれども。
【15年9月29日】
日、月と二日連続で、合唱の練習があった。11月が本番なので、そろそろ追い込みの時期にかかりつつある。
日曜日の練習では、ちょっと体調がおかしくなって、早々に退出する。呼吸法に問題があり、身体に不自然な負担をかけるようだ。以前から、たまに合唱前に声だしの時にちょっと調子が変になるときがあったのだが、どうもそのようだ。声を出す際の息の出し入れに無理があるのかもしれない。
そこで、月曜日はあえて遅刻して、声出しを避け、直に歌の方に入った。事前に車の中で、運転しながら軽く声を出しておいたので、のどに負担もなく、気持ちよく合唱に入ることが出来、その後2時間何の問題もなかった。以前はこんなことはなかったので、これも加齢現象か、と思ってしまう。
『歌合』読了。何ヶ月かかったのだろうか。恋の歌には苦労したけれど、全体としては大変面白かった。和歌とともに、その歌の判者の講評が興味深かった。
次は歌論集の方に読書を進めて行くのが順当なのだろうが、以前から読んでおきたかった『風土記』のほうにとりかかってみようかと考える。
日本の風土、とはいえ自然科学的な内容とはことなる文化的に構想された風土とでもいうものを眺めておきたかったからだ。これも、俳句の実作の背景のひとつとして意味を持つように思われたからだ。
数ヶ月単位で1冊の本を読み続けるということができることがとてもありがたいと思う。
10月に入ると内職風にやっている番組モニターに民放局が1本増える。1ヶ月間の予定表を作ってみると、結構詰め詰め状態になってしまったようだ。これから後期の半年間、レポート書きにも追われるような状態になるのかもしれない。
アグネスチャンに殺害予告、今度は安保で有名になった大学生とその家族に対する殺害予告の手紙。自分の意に沿わない者に対して、簡単に殺すことを思い、それを脅迫文として実際の行動に乗せる。奇妙にゆがんだ社会の歪みが、こんな時に露わになるようだ。
【15年9月27日】
朝から、良い天気だ。薄雲がかかっているので快晴とまではいかないけれど、穏やかな日和である。
ちょうど良いので、家中の窓をあけ、ついでに押入やクロゼットもすべて風を通している。書斎にも風が吹き通って、ひんやりと気持ちよい。
昨日は、午後から地元の句会に参加する。結果は相変わらずの状態ではあったけれど、珍しく1句が選者の特選を受けた。
こういう系統の句が、評価されるのかと、割とクールに受け止めていた。「発見」と「写実」というこの2点が、評価の対象となったらしい。
ともかく、私は私なりの句を句会に提出し続けるつもりだし、その過程の中で参加者の胸に響くような句が生まれれば、それでよいのではないかと考えている。俳句の特質というものを常に考えながら、独善に陥ることだけは注意しなければならないけれど、その上であとは好きなようにやっていこうと改めて思う。
毎回全没に近い状態は、多少こたえるところはあるにしても……。
岩城先生にお送りした1句について、わざわざファックスで返事をいただいた。きちんとこちらの意図する所を読みとっていただけてありがたかった。同一季語のみで1句を作った点、あえて五七五のリズムを崩した点などについても、触れていただいていた。季語のみの句というのは、「目には青葉……」という先蹤作品もあることだし、同一季語は一句の中での繰り返しという形で、岩城先生からも森澄雄の作品を指摘していただいた上で、表現上使われる手法の一つということで説明がつくと同時に、なるほど「類句・類想」の問題については、この表現手法という点からの説明が可能になる部分があるのではないかという点に気付くこともできた。例句をあげつつ、これで一つ短い文章を書くことができるかもしれない、とも考えた。
リズムに関しては、五七五定型は、その内容によっては単調で逆に句の味わいを削ぐ場合もある、いいかえれば句またがり等変則的なリズムが視覚的・聴覚的さらにはイメージ喚起の点にまでわたって効果をもたらす場合もあるということを念頭において、あえて変調にしたりもしたのだが、岩城先生にはその点もきちんと押さえていただいていたのはありがたかった。
何気なく1句を作る場合も多いが、時には様々な要素を念頭において1句を構成し、それが可能な限り俳句としての味わいを損ねないように、表現面で配慮するということは、岩城先生の「はじめなかおわり一切大文字」という句から学んだことであったりした。
俳句も、大変だけれども、奥の深い文芸である、と改めて思ったりもしたものだ。
【15年9月25日】
昨日は雨もよいの一日。今日も、午前中は、小雨がぱらつく。活発な秋霖前線の影響で、四国や紀伊半島の一部では、また豪雨が降ったらしい。水害にまではつながっていないのが、幸いだ。
昨日は、午前中にモニターのレポートをひとつ仕上げて送り、以後はずっと読書に時間を使っていた。
『荘子』も『歌合』も遅々として読みは進まないけれども、なかなか面白い。『荘子』は、時に全く意味が理解できないで、文字と語釈・解説を目でたどっているだけの状態に陥るときもあるけれど、ぐっとこらえて読み続けている。老子や孔子などが登場すると、ずいぶんわかりやすく面白い内容になったりもするのだが。『歌合』の方も、恋の歌に入ると掛詞や縁語など複雑な修辞表現や本歌取りの本歌自体の内容との照らし合わせなどで、内容が錯綜していて、理解に苦しむ時がある。恐らく、内容はまさにそこに書いてあるとおりそのままなのだろうけれど、現代人たる私は現代語との余計な橋渡し作業をおこなわなければならない分、一層混乱してしまう。点者の論評も、ごく短い文で「左勝ち」とか平然と書いてあったりするのだが、その左右の歌の善し悪しの差というものが、大概のばあいこちらには判断がつかない。なぜ、こっちのほうが良いのか、理解不能の部分が山ほどあったりする。
なかなか厳しい。けれど、面白い。
近代文学は、昭和の短編を読んでいる。その当時は同人誌や中央文壇で活躍していたけれど、現在はほとんど時間流れの中に埋もれている多くの作家達(かろうじて、中谷孝夫の名は梶井基次郎との関係で知っていたけれど)の代表作とされるものを、各1編ずつ掲載した筑摩版の日本文学全集の1冊を読み進めている。戦前、戦中の作が大半なので、その時代の影を濃く薄く残している作品なのだけれど、それぞれに作家の個性が反映されていて面白い。
西行作と言われた(実は違うけれど)『撰集抄』も継続して読んでいる。超能力者ばりの僧侶が次々に登場してきて、ちょっと怪異談、SF小説みたいな要素まであって、これも読んでいて楽しい。
句集は前田普羅の『普羅句集』を読み始める。「越中に隠遁せり」と人から言われていると、普羅本人が「小伝」に書き付けているが、「越中隠遁」が普羅を普羅たらしめているように思われる。作品的には、改めて読んでみて、ずいぶん共感するところが多いと、今回気がついた。こちらも「○○隠遁」的生活を送っているせいであろうか……。
今日は、午前中に頑張って地元俳誌へ送る5句を作る。宗祇や貞徳、宗鑑など古俳諧を元にした作品5句ということになる。古俳諧にあって、近代俳句が一端は切り捨てた機知・諧謔や言葉遊びの面白さなどを改めて感じつつ、それらの要素を生かせない自身の非力さも思ったりしたものだ。
【15年9月23日】
昨日は、日野町の俳句大会ということで、出かけてみた。町おこしの一つとして、今年で7回目を迎えるらしい。
根雨駅で下車、車に分乗して、後醍醐天皇ゆかりの明地峠や、映画『八ツ墓村』(松竹映画)の舞台になった別所集落や、「金持神社(かもち、と読む)」などを吟行する。ちょうど、収穫の時期にあたっていて、棚田のあちらこちらで稲刈りが行われていた。秋になると雲海で名高いという明地峠は、今朝も雲海が眺められたということだが、私たちが峠に到着したときは、快晴状態で、遙かに大山から烏ヶ山までの山並みが青空を背景にくっきりと眺められた。
町の図書館を会場に句会。持ち寄り3句と吟行句3句の句会。結果は、相変わらずいまひとつではあったけれど、個人的には1句だけこれはこの先一つの指針にしておきたいと思える句が出来たので、ありがたかった。
夕方帰宅。一日屋外に出るということがほとんどないような生活を送っているので、ひさびさの吟行は新鮮な体験であった。
8月の『醍醐会』以来、自分の句作について考えることが多くなった。結論的には、自分の作りたい句を作るということなのだけれど、それが単なる独りよがりに終わらないように、俳句に対する理解の度合いをさらに深め、自句の背景をしっかり固めるということも必要である、と改めて思う。勉強、勉強である。
現在の結社誌への投句についても、いままでのような内容ではあまり意味がないので、ちょっと別の内容で投句していこうかと考えてみている。
古俳諧のいわゆる「兄弟句(和歌で言う本歌取り)」的な句作も試みてもよいか、と思う。作句の基盤に古俳諧(別に芭蕉・蕪村・一茶に限定する必要はなくて)を置く俳人というのは今までも何人もいたことと思うけれど。
写真は左が別所集落、右が明地峠からの大山から烏ヶ山の稜線です。
【15年9月21日】
中学校の同窓会に出席。
最初に、出席者全員の記念写真撮影があり、ひな壇に並んだのだけれど、ほぼ全員、名前と顔とが一致させることができなかった。
その後、宴会に移り、胸にクラス番号と名前の書かれたシールを貼り、そのシールと眼前の相手とを見比べて、ようやく若い頃の面差しを確認して、お久しぶりと挨拶を交わすことになった。
私自身も同様で、何人かから直接名前を聞かれて、ちょっと驚かれたりもした。特に、昔は長髪だったのが、今は丸坊主ということで、その印象の落差は大きかったようだ。
吹奏楽部のメンバーとも再会し、話を取り交わすこともできた。各クラス毎の近況報告も楽しかった。皆、色々あったようだけれど、今はほぼ円満に暮らしている人達のようだった。
早期退職をして、ほぼぷー太郎状態で、毎日読書などして暮らすというヤクザな生活を送っている妙な人間はどうやら私ひとりのようであった。
まあ、仕方ないけれども。
最後に、元吹奏楽部員で元教師ということで、前に引っ張り出されて、音頭取りを勤めされられた上で、中学校の校歌の大合唱で宴会は締めくくられた。
なお、4人のひとがすでに亡くなっておられることもこの席で知った。中学時代の顔を覚えている何人かがすでにここに参加されていないということは、やはり衝撃的であった。
宴会は、その後同窓生の一人が経営する旧町内での店で二次会に移るようだったけれど、私はそちらは欠席することにした。
当日の記念の色紙にも書いた1句。「目に鼻におもかげのあり秋うららか」。
天気が暑いくらいによかったので、最寄りの駅まで、金色に稲穂の揺れるたんぼ道を歩いた。大山もくっきりとその姿を青空を背景に立ち上げていた。
楽しい一日だった。
【15年9月20日】
シルバーウイーク(誰の命名なのだろうか)2日目。朝から、快晴状態だ。
今日は、中学の同窓会に参加する。今までも同窓会は開かれていたのだろうが、高校以後京都で生活してきたことで、ほぼ地元との繋がりが切れてしまっていたのが、たまたま今春の知事選・県議選の立会人のアルバイトの最中、市役所に勤務する同窓生と再会して、同窓会が今秋予定されていることを知って、出席が可能になった。
幹事のひとに聞くと、今回70名ほどの参加者になるらしい。先生方も2名出席予定ということだ。40年以上の年月を隔てて、再会する機会を得て、おそらく名前も顔もなかなか一致しないのじゃないかと思われる。
それにしても、電話で同窓会のことを幹事さんに尋ねたとき、開口一番中学時代の私のあだ名で呼ばれた時は、ちょっと驚いた。
おりしも、実家の母から、物置を整理していたら、私が中学・高校時代に書いていた漫画原稿が出てきたといわれ、これも驚いた。
自分でも原稿の一部は手元に保管しておいたのだが、大半は紛失してしまっただろうと思っていたのだ。
おもしろいものが見つかったものだと思う。なつかしい.
【15年9月19日】
安保法制が成立した。安倍総理は、今度とも丁寧な説明を続けると言ったが、それは口先だけのことだ。
衆議院解散と引き替えに約束した議員定数削減の問題にしても、最後の一人までと言った消えた年金問題にしても、北朝鮮の拉致問題解決にしても、大きな問題になればなるほど、議論から押し込めてしまうというのが、安倍総理の政治手法の一つらしい。
安保法制が成立した時点で、法案は法律として社会の中に組み込まれ、内容が内容だけに一般国民からは見づらいものにと変わっていく。法律は、社会の中に溶け込み、浸透していくからである。憲法違反に対する疑義や内容の不備が指摘される法律案だけに、一方では丁寧な説明は必要であるとはいえ、その丁寧な説明を一番やりたくないのは安倍総理自身だからだ。
さっさと法案を確定し、あとは事態の沈静化を期す。
多少支持率は落ちても(これって、最初から民意など念頭にないということの表明であるが)、今後の経済政策で国民の支持など容易に回復できるという思惑の中で、自分のマイナスになるような、そして国民を無用に刺激するようなことを、総理も政府も進んで口にするはずはないだろう。
今回の一連の動きを見ていて、つくづく現在の与党の議員数は多すぎると感じた。別に政権交代どうこうというつもりはないし、政権交代可能な野党が見あたらないということもあるが、いずれにしろあまりに多すぎる与党の議員数が、正常に議論を尽くすという国会の持つ基本的性格を完全に破壊してしまったように思う。理想なのは、与野党伯仲の状態であろう。その緊張状態のなかで、初めて真剣な議論がなされるように思われる。少なくとも、今回の総理や閣僚の姿にみられるような、何を聞いても同じ答えの繰り返しという全く真剣さや緊張感にかけた答弁は、少しは減ってもっと必死で真剣な答えが出てくる可能性ももたらされることだろう。
あんまり政治向きの話を書き付けたくはないが、今回に関してはそれもやむを得ないところがある。我々の日常生活の基本的な質の問題に関わるからだ。
与党の議員の人数を是非整理してほしい。そのためにも野党はもう少し有能な人物の発掘を進めてほしいと思う。
いずれにしても、日本は大変大きな決断を下してしまった。ここ数日は、日本の戦後史にとって大きな意味合いを持つ日々であった。そんな光景を自分がよもや目撃することになるとは、ほとんど思ってもいなかったけれども。
それにしても、気になるのは、現役の自衛官とその家族の人達の思いである。国防軍から通常の軍隊へとその性格を変えた(国民の安全と幸福を護るのが国防軍であり、世界の人々の安全と幸福を護るのは国防軍の主たる任務ではないように思う。それを主たる任務のひとつとして可能にするのは、国防のみという縛りのない軍隊である)自衛隊の中で、国防軍としての自分と付与された軍隊の一員としての自分とのあいだでの葛藤が生じるのではないかとふと思う。それは、単純に世界の平和が日本の平和を担保するという理屈だけでは割り切れないもののように思われるからだ。そして、それを見守る家族の思いもずいぶん複雑なのではないかと思う。余計なお世話なのかもしれないけれど。
【15年9月18日】
雨の予報であったにもかかわらず、中二階の書斎には朝日ががんがんという状態で差し込んでいる。
午前中にかけて、雨雲がきれぎれに侵入してくるらしい。雨の前に少し歩いておこうかと思う。
昨夜は、合唱練習で市内まで。ハイドンの『天地創造』は少しずつ形をとってきたように思う。何人かの大変上手な人達が全体を引っ張って進んでいるようだ。団員達のレベルも、良い線をおっているのではなかろうか。11月の公演に向けてのポスター、チラシもできあがり、ノルマではないといいつつもチケットが6枚ずつ配布される。1枚2000円である。以前は、その3倍くらいの価格のチケットを扱っていたので、ずいぶん安いのだろうと思う。
昼間、弟夫婦やその仲間の人達が出演した地元のケーブルテレビの30分番組の録画を見る。歌あり、演奏ありの楽しい内容だった。
ご老人達の歌やハンドベルの演奏が、元気はつらつで楽しかった。
安保法案は、本日参議院を通過成立するらしい。
米国が現に行っている、貧困な若者たちを奨学金や高賃金で取り込んでいく「経済的徴兵制」といわれる制度のことが気にかかる。派遣労働の固定化という側面を持つ労働者派遣法の改正の中には、そのような形で若者の中から「志願兵」をつのる社会的機構の整備という意味合いも含まれているのではないか。もしそうであるならば、経済的格差は恒常的にこの社会内に残されるということにもなるのであろう。
安保法制をきっかけにして、日本というこの国の将来について、時折考えされられる機会が増えたようだ。しかし、あまり楽しそうな未来が思い描けないのが、残念で、寂しい。
【15年9月16日】
安保法案は、本日委員会を通過させるらしい。引き続き、円満に参議院を通過し、法案は法文の一切の修正・変更もないまま、最終的に成立するのだろう。
いずれ自衛隊隊員に、日本と日本人とを護るという目的以外で犠牲が出たとき(その可能性の方が断然高いのだが)も、安倍総理をはじめ、自民・公明、一部の少数野党の賛同者の誰一人として、その責任を負う者はいないだろう。なぜなら、法案として成立した時点で、それは日本という国家の意志、言い換えると日本という国家の国民の意志にすり替えられ、置き換えられるからだ。
さらに、犠牲者が出た時点で、その犠牲を口実にして、さらに法案はより旗幟鮮明なものへと「粛々と」変更されていくことだろう。政治とは、冷徹なものだと思う。
自衛官の知り合いは、私たちは命令に従って、命じられたその地におもむき、命じられた行動を取るだけです、と言う。私は、黙ってその言葉を聞くほかはない。
【15年9月13日】
昨日は、片道5時間かけて丹後まで句会参加。この頃は、時間の長い短いをあまり気にしなくなったような気がする。
老化現象であろうか。日々の生活が、時間に拘束されるということが少なくなった結果であろうか。
毎回の参加時に、地元の何かを手土産にと思って、駅で買っていたのだが、土産物を売るキオスクがコンビニ風に改装されて、それが出来なくなった。
こんな機会でもないと、自分が地元の土産物を食べることもないだろうと思っていたりもしたので、少々残念ではある。
時勢に流れであろうか。
3ヶ月ぶりの句会は、なかなか楽しいものだった。3ヶ月分の作の中から選んで出句されたせいか、結構選は幅広いものとなったようだ。
個人的には、自分の句の推敲の大きなヒントを与えられたので、ありがたくもあった。
岩城先生のお宅の薄の茂りには、薄に寄生する南蛮ぎせるが今年も紫色の花を咲かせていた。昨年は数本だったような気がするが、今年は数カ所に分かれ、数十本の南蛮ぎせるを見ることができた。「思ひ草」で、数句出句もあったりした。
会員のNさんの第一句集『雷神』も、句会の場でいただいた。それは、帰りの電車の中で読ませていただいたけれど、Nさんでなければ詠えないような句もたくさんあって、たいへん面白かった。
4時過ぎに句会は終わり、しばらくの四方山話の後、Mさんに車で駅まで送っていただく。岩城先生は丹後泊ということらしかった。
列車が来るまで、顔見知りになった駅の職員さんと話をして、やって来た1両列車に乗る。
豊岡駅で、遅れた特急を待って、20分近くの遅れで浜坂まで。乗り継ぎの列車に急いで乗り換えて、後は順調に進む。車中では、半分くらいうつらうつらしていたようだ。
激しい雨の中を、車で駅から帰宅。そのまま就寝。夜中に目が覚め、雨の音が騒がしかった。
日曜日。朝の内はのこっていた雨も、どうやら上がり、どんどん青空が広がっていく。
昼過ぎに、甥も出演するコンサートを聴きに、松江まで出かける。
夜は、合唱練習の予定が入っているけれど、参加するかどうかは、微妙である。
【15年9月11日】
こんな大きな災害をもたらすとは思ってもいなかった。台風としては勢力が弱く、日本海に抜ければ温帯低位気圧に変わるということで、雨台風との事前の報道はあったにしろ、このような豪雨と河川の氾濫をもたらすとは、ただ驚くばかりだ。
堤防の決壊と、川の水が宅地へとなだれ込む様子は、否応なく3.11の津波の様を思い出させた。
大震災から4年半、また自然の暴威に曝されることとなってしまった。
死者や行方不明の方もおられるらしい。被害がこれ以上広がらないことを願うばかりだ。
今朝は、ひさしぶりに日が差している。青空らしきものも見える。
家中の窓を開けて、外気を部屋の中に招き入れる。
押入やクロゼットなども開けて、空気の入れ換えを行う。
明日は、丹後「すき句会」の日。7・8月は休みだったので、3ヶ月ぶりの句会となる。
8月末の『醍醐会』で、なんとなくふっきれたものが、句作に反映していれば良いが、と思う。
【15年9月9日】
午前中は、母の運転手で病院へ。相変わらず、待ち時間は長いけれど、担当の先生はなかなか良い方らしくて安心する。偶然、知り合いの子と、研修医として再会もしたらしい。
午後、台風の余波の雨が、時折激しさを増す。風はまるで強くはない。雨台風というのは、こんな状態をいうのだろうかと思う。
大山では、すでに300ミリくらい降水量があったらしい。元谷あたりも、激流状態に変わっているのではあるまいか、と思う。
今朝モニターした番組のレポートを作成。早速、送信を済ませる。震災以後の地元の水産加工業の復興の遅れについて、再認識する。問題は、深刻で複雑だ。
そんな問題を指摘されると、何かとケチのついている東京オリンピックだけれど、単純に浮かれ騒いでいるわけにはいかないのではないかと改めて思ってしまう。
震災からの復興の象徴的行事としてのオリンピックという性格を持っていたと思うのだけれど。残念ながら、復興の足を引っ張っている側面があることは、すでに知られていることなのだろう。
かっての東京オリンピックは、日本社会の高度経済成長を背景に、明るい未来と希望の輝きに充ち満ちていたけれど、次のオリンピックは果たしてどうなのだろうか、とつい考えてしまう。
世の中の流れから少し外れたような地点で、ぼそぼそと毎日の生活を送っていると、何とも隠遁者的な気分に陥ることがあるものだ。
そう言えば、今日は一応「重陽の節句」ということになるのだろうか。さすがに、陰暦換算ではないので、菊の花にはまだまだ早いけれど、陽の気絶頂の日であるわけだ。
【15年9月8日】
片足の付け根が、時折痛むので、「歩き」を中止したり、歩行時間や距離を短めにしていたら、てきめんに体重が増え始め、これはマズイと思い少々食事に気をつけてみたが、体重が落ちない。
昨夜は、比較的状態が良かったので、夜てくてくと普段の距離を歩く。夜なので、人目も関係ないと思い、腰に腰痛用のベルトを装着して歩く。これが結構調子が良い。
短パン・Tシャツ姿だったので、夜風が寒いくらいだった。例年なら、今頃はまだ残暑の時期で、夜でも蒸し暑かったりするのに、それがない。気候が、変調状態に陥っていることを実感する。
明後日あたり、弱い台風が日本列島に上陸するらしい。また、豪雨や竜巻が生じたりする可能性が大きくあるらしい。
夢の中で竜巻に遭遇するのは、かならずしも夢占い的には悪いことではないらしい。そう言えば、今までにも巨大竜巻に襲われる夢は、結構何度もみてきたものだ。
しかしながら、現実に竜巻に遭遇するというのは、実際に被害に遭われた人達もいるわけだけれど、ごめんこうむりたいと思う。
安保も大詰めを迎えているらしい。共産党の提示した自衛隊の内部文書は結局見つからなかったとして報告が上がったらしい。恐らく、見つからないということで処理しようとここ数日をかけて、対応策をまとめたのだろう。すると、あの文書は一体何ということになるのか。共産党がねつ造したものか、いわゆる怪文書ということになるのか。出所もしれない文書は、討議の対象にはならない。根拠あるものなら、その出所を示せとでも政府は言ってくるのだろう。自衛隊内部の通報者の存在を明らかにしろ、と逆に詰め寄るという作戦であろうか。共産党が政府のそのような出方を予測していて、別の対応を準備しているとしたら、見つからないという作戦は、逆に自らの首をひと絞りすることになるかもしれないが。さて、どうなることだろう。
それにしても、NHKはまるで委員会の中継をしようとしない。(民放は、逆にバラエティーに総理を招待したりしているらしいけれど。番組中でコケにされていた辻本議員なんかは、どう対応するのだろう)。のどかに楽しい通常番組を流し続けているようだけれど。読売系の新聞も安保に関しては碌に報道しないらしいし。自主規制と言う名の、報道規制が進んでいるのかもしれない。
【15年9月6日】
I氏より、「森澄雄ノート」最終回を送っていただく。俳誌『杉』に54回にわたり連載された森澄雄の俳句と人物に触れた評論である。平成23年4月から続いた連載も今回で終了とのこと。私は、この評論を通じて森澄雄を知ったこともあり、大変感謝している。長い連載を終え、一人の作家の姿を追求し続けたI氏の継続的な努力とその成果を賞賛したい。
日曜日は、朝から雨である。今週は、秋霖前線の影響で、雨や曇の日が続くらしい。
暑さから解放されるのはありがたいけれど、雨に降り籠められるのは、少々気分的に重い。
土曜日。モニターレポートを2本書き、なんとなく気抜けした状態でその後を過ごす。
朝から、にぎやかな声が届いてくる。どうやら、近くの中学校の運動会が開催されているらしい。天気も良いので、「歩き」を兼ねて出かけてみる。日差しはあるが、日中でも暑い思いをしないで歩けるのがありがたい。
運動会は、グランドにテントを連ねて、保護者の声援の中、競技が行われていた。二人で棒を持って走るリレー競技で、放送部の子の実況と声援とがグランド中に響きわたっていた。
グランドに沿う小道を歩きながら、生徒数の少なさと、観客の多さを眺める。
空を覆う薄雲は、前線から派生したものなのだろうなと思いながら、近隣をぐるりと1周して帰宅。
早めの夕食をとり、空がまだ暮れ残る中を、合唱の練習に市内へと向かう。
夕方、少し歌詞読みの練習をしてきたせいか、前回に比べて、やや合唱に参加することができたかなという感じ。本日は、男性パートのみの練習であった。テノールの声が、なかなか素晴らしかった。
帰宅後、浅酌しつつ、たまたまやっていた映画を終わりまでみてしまう。007シリーズの1作。娯楽的というより、暗く重い内容だった。
【15年9月4日】
6時前に起床。そのまま、風呂に湯を入れ、朝風呂に入る。
しばらく前から、ちいさなヤモリが風呂場に出没するようになったのだが、今日はその姿が見えない。
朝食後、さっそく短評と講評の手直しと最終稿確定作業に入る。午前中をかけて、まとめあげ、書式を整えてから、封印。郵送のため、近所のポストまで投函に出かける。
思った以上に、とんとんと作業が進んだ。初めてのことではあったけれど、面白い仕事であった。
午後は、姪の買い物にちょっとつきあい、その後は読書。最近、読書のペースがぐっと落ちている。
夕方からは、句作。1句のみ時間をかけて作る、ということに方向を変えている。1句のために、周辺の季語の確認などもすることに時間を使う。
「醍醐会」二次会のやりとりで、なんとなく腑に落ちたところをやってみようという気持ちになっている。
モニター視聴1本。それを終えてから夕食。その後、午前0時からもう1本のモニター視聴があるので、それまで起きていなければならない。
虫の声が廊下通しに聞こえる。あれは、お隣さんの庭から聞こえるものだ。
鈴虫のようである。
大学時代のサークルの同期生会のメールが入る。今年は、もう京都市内には行かないはずだったが、この1回は参加しなければならない。まだ2ヶ月ほど先のことではあるけれど。
【15年9月2日】
4時過ぎに目を覚まし、5時過ぎに起床。天気は悪くないので、珈琲だけ準備をして「歩き」に出る。もう暑くはない。西の方から、青空が広がって来そうな気配である。
40分ほど歩いてから、帰宅。入れて置いた珈琲を飲み、朝食。
7時過ぎから、昨日のお仕事の続きにかかる。その日の状態によって、筆の走りは違う。今日はちょっと重そうな感じである。
2時間ほどかけて、短評を6句分書く。
初稿にあたる原稿を実家に持っていって、ざっと読んでみてもらう。分かりにくくないかどうかを確認する。
どうやら大丈夫そうだった。
その後、犬の体調が今ひとつなので、かかりつけの病院まで診察に連れて行くことになる。車で、片道30分弱かかる。
小さな動物病院だけれど、3代の飼い犬は皆ここでお世話になってきた。ずいぶん長い関係である。
注射を1本うってもらい、薬を受け取って帰る。犬は、結構いい調子でケージの中でごろごろしている。
午後からは、いつもの調子を取り戻すべく、読書。『荘子』と『歌合』。その後、5時過ぎまで句作。1時間ほど粘るが、1句も出来ず。
途中、気分転換に、壁の苔を苔取りスプレーできれいにする。北向きの壁や、庭木に面した壁には苔が出やすいらしい。
塗料自体もやや薬効効果が落ちてきているのかもしれない。
薄緑の苔にスプレーで薬液を吹き付け、しばらく放置しておくと、きれいな状態になる。水洗いなど必要ないので、処理が楽である。
明日一日で、短評書きの初稿分は終了のつもり。その後、作についての長い文章を2本書かなければならない。それがちょっと大変かもしれない。
9月分のモニターは金曜日に集中しているので、土曜日もそのレポート書きに使うことになるだろう。
10月からは、急遽決まった継続分と新規の分と2種類のモニターをこなすことになる。
【15年9月1日】
日曜日。京都行き。「醍醐会」に参加する。
森澄雄と飯田龍太を話題にした勉強会。なかなか面白かった。全体としては、ちょっと深める前に時間が来てしまったという感じもあったけれど、こちらとしては様々な刺激をいただけた。
木屋町近くの飲み屋で二次会。多いに盛り上がる。シビアな発言もあり(醍醐会らしいけれど)、ちょっと凹みそうにもなる。
二次会後、知人のマンションへ。さらに2時間近くの四方山話。パソコンの状態がいまいちということで、ちょっとだけ様子をみるも、よく分からなかった。
一晩、ゲストルームに泊めていただき、醍醐会の余波というか余韻で、睡眠不足状態で起床。
朝、2時間くらいゆっくりと過ごさせていただいて、10時過ぎに駅へと向かう。
少し時間があるので、地下街などをうろうろして、ついでに早い昼食を食べる。
地上は、雨模様である。
食事を終え、冷房の効いているようないないような地下街の、備え付けの椅子に腰を掛け、しばらく句作する。
なんというか、少々開き直った気分になる。これも、醍醐会のおかげか。
12時過ぎのバスに乗り、4時間ほどかけて、猛烈な雨が降る中を帰る。中国山地を越えると、天気は少し落ち着いてくる。
夜、疲れていたので、早々に就寝。
4時過ぎに起床。雨の降る暗い屋外を眺めながら、朝食。
その後、午前中をかけて、俳句関係のお仕事に励む。
11時頃、一段落。実家に顔出し。
母のパソコンをウインドウ10にバージョンアップすることになる。
いろいろとその準備をして、午後から本格的に作業。結局、すべて終わるのに、2時間近くかかる。
今日は、全く読書せず。
かくて、9月が始まる。