日々録
日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし た。             
備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。             
一人言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。

      
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【16年4月28日】
食費が、ちょっと上がっているかなと思う。
同じように買っていても(もちろん値引き商品を活用しつつ)、先月よりも出費が多いような気がする。
全国の物価上昇率は、前月に比べ下がっているにもかかわらず、食費の家計にかかる割合は上がっているらしい(エンゲル係数とかいうものだったか)。
まもなく4月も終わる。今年度最初の月が終わる終わるわけだけれど、前年度の4月と比べて、出費は大きく下がった。昨年度が、2年目ということで色々出費がかさんだということがあるのだろう。
歯医者にかかったので、その分今月は医療費が予定を大きくオーバーしたけれど、他の部分がさほどの伸びを見せなかったということかもしれない(食費をのぞき)。
新年度のスタートとしては、悪くないと思う。
この1年も、必要な所以外は、基本的には節約生活。とはいえ、なんとなくそんなライフスタイルが、我ながら板に付いてきたようだ。
原発なくても、電気大丈夫、みたいなそんな感じである。
今年は、少し緩めて京都やら東京やらにも出かけてみたいような気もちょっとする。
とりあえず、連休には一度地元の山、大山に出かけてみたいと思う。もちろん、登山は無理であるが……。
今日も1日雨。かなり強い降りの時もあった。
午前中、読書。昼前に、締め切りを思い出して、所属結社に投句7句を作る。午後1時に郵便の集配があるので、それに間に合わせる。締め切りぎりぎりには届くことだろう。
午後、読書。夕方、地元の結社に投句10句を考える。
ほとんど発作的即興的に10句作り、投函。明日には届くことだろうと思う。
夕方、赤ワインで浅酌。夕食は、軽めにしなければならない。
株価が、600円超下がる。だぶだぶの金余り状態の中で、金融緩和に慎重な日銀の姿勢がもたらした結果。素人でも分かる状況だった。
見ようによっては、市場が株価を通じて、日銀にプレッシャーをかけている構図のように見えなくもない。


【16年4月27日】
歌手とか俳優とか、全く興味はないのだが、昨夜たまたまつけたテレビでやっていた『重版出来』というドラマの主役の女優に好印象を持った。
美人とか、かわいいとかとは全く違うところで、すごく存在感のある良い演技をしていたと思う。目の表情が、特に良い。
後で調べたら黒木華という人だった。華と書いて「はる」と読ませるらしい。
プロフィールを読んでみると、なんと昨年度モニターをやっていたNHKの番組『真田丸』の梅役の女優さんだった。
モニター時は、梅よりも桐の方に注意が向いていた上に(三谷脚本の桐という女性は、ずいぶんややこしい性格付けがなされていたので)、ドラマ中ではあっけなく殺されてしまって、あまり印象を残さなかったのだが、今回の『重版出来』は、主役ということもあり、その演技や表情を含めて、ずいぶん強い印象を持った。
ドラマ自体も結構面白くて、あるいはこの先毎週見るかも知れないかもと思う。
今日は一日雨であった。
庭の躑躅が、一気に開花して、ほぼ満開状態となっている。


【16年4月26日】
朝から快晴です。
 
       

右は花水木ですが、白い花萼が小さくて見えないみたいですね。今年は、躑躅の花の数が例年比べて、少ないように思います。
剪定に失敗したのかも知れません。
午前中、古文・漢文の読書を済ませて、市内図書館まで本の返却に行きました。
数冊本を借りましたが、うち1冊は水木しげるの全集漫画から。有名な「のんのんばあとおれ」が掲載された分です。読むのが楽しみです。
市役所の駐車場が2時間までは無料なので、そのまま時間いっぱい市内をぶらぶら歩いてきました。
小運河のほとりは、八重桜と躑躅とが今盛りという状態でした。
少々暑かったですね。
そういえば、朝、外線。歯医者さんから、どうしたのか、と電話が入る。予約を完全に忘れていた。謝罪して、あらたに予約を入れてもらいました。うっかりしています。


【16年4月25日】
オリンピックのエンブレムが決まったみたいだ。市松模様のA案ということで、ちょっと意外な気がした。
人気があったのは、B案とD案かなと思っていたので。
マスコミの路上アンケートも、本選とは結構ズレがあったわけだ。
個人的には、シンプルなA案は嫌いではなかった。
庭の躑躅が、そろそろ咲き始めた。今年は、3株の間に開花の遅速があるようだ。
天候ののせいなのだろうか。
花水木はいま真っ盛りで、白い花(というか花萼)が、大変きれいだ。
今日は、6時前に少し歩く。すでに日は昇っているけれど、少々肌寒かった。野道を何人もの人達が、歩いたり、走ったりしていた。
健康を気遣う人が、やはり多いようだ。
今日は、一日読書。
俳人の加田由美さんから送っていただいた第2句集『桃太郎』(ふらんす堂)を少し読む。独特の感性が生かされた作品が多い。
『醍醐会』のメンバーの方でもあるので、いずれ句集評が会の方でもたれることになる。幾つも気になる点があるので、事前にメモをとっておくことにした。
面白い句集である。
『文章軌範』は韓愈を終え、柳宋元の文章に移る。『枕草子』は、第100段。ちょっと嫌な性格のひとで、人目がなかったら走っていってひっぱたいてやろうかしら、みたいなことを清少納言が書いていたりするのが面白い。時折、結構生な人間関係などに、ちらりと触れられたりもする。
今夜は、合唱の練習がある。市内の方にでかけてのレッスン。
お腹にものが入ると唱いづらいので、夕食はてのひらにのるくらいの大きさの味噌にぎりひとつ。


【16年4月24日】
漢文で『文章軌範』を読んでいたら、思わぬ人物の名前に出会ってちょっと驚いた。
『文章軌範』は、韓愈という人物の文章を文字通り手本として紹介するという内容のようなのだが、その例文の中に「李賀」という人物が登場する。
李賀は、特異な作風の詩人として有名な人物なのだが、彼が韓愈の推薦を得て科挙の試験に挑戦するのだが、李賀の父の本名が問題となり、韓愈自身も含めて責めを問われようとすることになる、ということがあったらしい。
それに対する韓愈の反駁の文章が紹介されているのだが、「李賀」はそこに登場する。
李賀自身というより、丹後の宮津で教師をしている際、親しくなった同じく国語の教師のA氏が、大学時代「李賀」を研究していて、卒業論文も「李賀」を選んだということがあった。
残念なことに、そのA氏は宮津高校在職中に交通事故で亡くなられた。
その、彼の卒業論文をしばらくの間、手元に預かるということがあった。
だから、「李賀」の経歴や、その作品について、A氏の論文を通じて、目にとめていたことがあったはずだ。
すでに30年近く前の話になるのだが、今日『文章軌範』を読んでいて、そんなことを思い出したりしたものだ。


【16年4月23日】
俳人の嵯峨根鈴子さんから、句集『ラストシーン』を送っていただいた。
最近、ずっと大正から昭和半ばくらいの句集を中心に読んできていたので、ずいぶん新鮮な印象を持った。
全体として、俳句的手法を生かした1行詩的な作品が、その自在なイメージ構築力も含めて大変面白かった。
なんとなく、ちょっと肩の力を抜いて、俳句を考えてみなさい、と示唆されているような思いになった。
ちょうど、平畑静塔の評論集も「不実論」という、俳句における虚の問題を扱っている一連の評論にさしかかったところで、それも刺激になっているような気がする。
今日は、地元の句会。この気分で、少し花鳥諷詠とは視点の異なる作品を考えて、持っていくことにする。
ちょっとでも選に入れば、面白いかもと思う。
午前中は、高曇りの空。午後からは、少しずつ下り坂に入っていくのだろう。
朝早く洗濯したものを、出しっぱなしにして出かけて大丈夫か、と気懸かりなところはある。まあ、大丈夫だろう。
ついでに、図書館にもよって、借りていた本を返却しよう。三岸節子の画集が、なかなか面白かった。ただ、海外の町並みを題材にしたものが大半で、この画集には載せられていなかったが、軽井沢で描いた作品など日本の風光を描いたものを見てみたいと思った。手法的な変化があったりするのだろうか、という興味がある。朱の色彩の変化が面白かった。
外光が明るいので、ベランダのところで本を読んでいると、釘打ちの音が届いてくる。近所で、新築の家が建設中だ。
昨日は、完成した土台の上に、1日で2階建ての家の屋根の形まで作り上げてしまった。
すごい速さで家が建てられるものだと、散歩がてら感心して見ていたりしたものだった。
若い大工が、7人くらいかかって、手際よく作業をしていた。
こんなに若い大工さんがいるんだと、変なところでも感心した。


【16年4月21日】
知人の写真館主人が、弟達の先日のコンサートの写真を現像・焼き付けしたので取りに来いとの連絡を受け、車を飛ばして市内まで受け取りに行く。
出来上がった写真は、さすがプロの手になるもので、素人の私が撮したものとは比べ物にもならない。
ありがたく頂戴する。
今日は、朝から雨。結局夕方まで降り続くことになるのだが、思ったほどには強い雨にはならなかった。
午後からは、いつも通り読書。
夕方まで、あれこれと読む。
チリワインの安いのをちょっと飲む。夕食は軽めに済ます。
SNSの盗聴法みたいなのが、国会で通過したらしい。熊本の震災のことに気を取られ、一般国民はほとんど誰も知らないうちに通過したみたいだ。
施行されたら、国は自由に個人のSNSに侵入が可能になるらしい。
そのうち、ネットも個人電話も同様なことになるのではないか。
なんとも、気持ち悪い。


【16年4月20日】
3ヶ月に一度の通院。8時過ぎに出かけ、終了が11時だった。
検査と問診が中心だったが、検査結果はどの項目も問題なし、ということで、安心して帰ってくる。
基本的には、節約と節制の2本立てを生活の基本として、日々精進?を重ねているわけだけれど、全項目問題なしというパーフェクトな結果は、珍しい。
つい、気を抜いてしまいそうな気分になる。
待合室で診察を待つ間に、先日図書館で借りてきた地元出身の方の遺句集を読む。生活詠を中心にした、素直な詠みぶりで、ほのぼのとした暖かみのある1冊だった。
何気なく裏書を見ると、出版元が天満書房となっていた。どこかで聞いた名前だと思ったのだが、あとがきに登場する人物の名前を読んで、一気に思い出した。
関西での生活の中で、俳句関係の人とは色々知り合ったけれど、そんな方の一人が経営しておられた出版社だった。
吟行句会などでもお世話になったことのある方で、ただ現在では出版業は中止されていると思われ、単独で総合雑誌なども出されて、元気に活動しておられた時期のお仕事のひとつが、この句集だったのかと、懐かしいような思いになった。
大変お酒好きな方だったな、ということなども思い出した。ご自身、関西における著名な俳人としても活躍しておられて、「ほととぎす」系の俳句だったが、滋味のある句柄の作をものしておられた。
昼前に帰宅。朝食抜きだったので、早めの昼食。午後からは、いつもの通りの読書暮らし、という事になる。
中村草田男の句集『火の島』読了。独特の生命力が、作品の中に横溢しているようで、上手いというより、すごいと改めて思ってしまう。
世界を草田男色に塗りつぶしてしまうようなところを感じる。
その力業がすごいなと思う。


【16年4月19日】
熊本震災を、いいタイミングと評価した国会議員がいたらしい。
「おおさか維新の会」の中心的な存在の人物のようだ。
なるほど、政治家の中にはこの震災をそんな風に捉えている人物もいるらしい。
大きな災害を政策の宣伝に利用したり、政局戦略のポイントとして考えたりするらしい。そんな種類の発想が、あるわけだ。
確かに、震災以降そんな動きが、ちらちらと伺えてはいたのだけれど、こんな露骨な認識表明は初めてだった。
当人は、すぐに表現の問題と訂正したらしいけれど、思わず本音が出たのだろうと思わざるを得なかった。
国営放送で、夜中に最初の震災報道に触れた時、申し訳なかったけれど、すぐに浮かんだのは、現在稼働中の原発のことだった。
3.11以来、地震と原発とは、ある意味のトラウマのようなものになっている面があるのではないか、と思っている。
30キロ圏に現在休止中とはいえ原発のある地域に暮らしている者にとっては、やはりそれは気になることだった。
明け方になるくらいまで、地震の報道をみていたけれど、残念ながら原発については触れることはなかった。
朝になって、念のためにネット上の地図で調べてみたら、震源地とはずいぶん距離が離れているのが分かって、これなら大丈夫かなと思っていた。
けれど、原発に不安を感じ、その一時稼働休止を求めている人達がいるらしいことをやがて知った。
個人的には、民心安定のカンフル剤として、この際思い切って原発の稼働を一時休止しても良いのではないかとちょっと思ったりもした。
しかし、休止を求める集団の中に共産党が含まれていたらしく、それなら休止へと判断が動くことはないだろうな、と思ったりもした。
共産党は、現在においても公安当局の位置づけが、暴力革命を志向する政党として位置づけられているらしいことを、報道で知った。
内閣もその見解を承認しているらしい。
そんな位置づけをされている党の主張を、お上が聞くはずはないだろう。
一体いつの時代の話かと思うのだけれど、2016年のそれが日本の現状であるらしい。
そうか、最近注目を浴びている共産党は、実は今もなお暴力革命を志向する政党であったのか、と正直驚いた。
出る杭は打たれるという力学は、政治の場においても生き生きと動いているらしい。
それにしても、原発について了解したこと。
原発は、危険な状態になるまでは、止まらないということ。
世界で一番厳しい想定基準に基づいて、判断され、承認されたものだから、それなりに安全ということなのだろう。
とはいえ、危険と判断されるまで、その稼働は止まらない、という理屈には、なんとなく釈然としないものが残るけれど。
世界一厳しい基準にクリアしたということと、安全ということの間には、実は論理的な飛躍があるということ、なのだろう。
その論理的飛躍を、釈然としない思いとして受け止めるのは、福島を経験した(はるか、間接的にとはいえ)人間だからかも知れない。
世界一厳しい想定基準にクリアしたとしても、原発の本来持つ危険性は、なんら除去も解消もされてはいないのだから。
相対的には安全とはいえ、その安全とは絶対的なものではないからだ。
そして、絶対的な安全に近づけるのは、稼働しないという簡単な選択肢の実行ひとつである、ということなのだが。
地震とは、直接関係ないことを、だらだらと書いてしまった。


【16年4月14日】
午前中は、昨夜のモニター番組のレポート2本書くのに時間を使う。
適宜休憩を入れながら、書いて、まとめて、送信をするといういつもの手順だったけれど、送り終えて少々ぐったりする。
1時間ものを2本レポートでまとめると、やはり結構エネルギーを使うことになるようだ。
本日、昨年度半年間モニターを勤めた民放から挨拶状とモニター料振り込みの手紙が来る。スケジュールの都合で、3本だけレポートを送る事が出来なかった。半年で21本書いたことになる。
色々考えたことが、今年度1年間の別の民放のモニターに生かせそうである。
かなり辛口の内容になっているけれども。
午後からは、いつも通り、読書。『枕草子』『文章軌範』そして、近代評論を1本読んで、そこで紹介されている作家牧野信一の短編小説を1編読む。
夕方からは、1時間ほどかけて、「歩き」。腰の痛みは、ずいぶん改善している。
夕日を眺めながら、畑地と荒蕪地とが入り組んだ土地に沿った自転車ロードを歩く。
帰宅後、赤ワインとグラノーラの夕食。食べてみたら美味しかったので、昨夜に続く夕食グラノーラである。
牛乳をかけて食べる。結構腹持ちすると思う。
明日の朝食は、ヨーグルトで食べてみようかと思う。
日経平均が昨日、今日とずいぶん高値を示しているらしい。
あるところにはお金が湯水のごとくじゃぶじゃぶあるらしい、ということが見えてくる。
実体経済と乖離したマネーゲームが、円安とオイル高で少々息を吹き返したらしい。いずれ、この反動があるだろうけれども。
今週は、こんな調子か。明日あたり、動きがあって、週末を迎えるのか。
おかしな世の中ではある。


【16年4月12日】
一日、快晴の天気。ただ、少し肌寒い。
花冷えの次期は過ぎてしまったけれど、それにしても寒い。実家では、ストーブを仕舞いかねているようだ。
今日も、顔出しをすると、室内が暖かい。ストーブを使ったらしい。
少々暖まって帰る。
今週は、前半にモニターが入っている。今日も、午前中は、1本仕上げる。
その後、図書館に本の返却に行く。
市役所の駐車場が、施設を利用すれば2時間無料になるので、図書館で新たに本を借りて、余裕の時間を市内歩きに回す。
1時間ほど歩く。昼前ということもあり、駅前の道でも人の姿をほとんど見ない状態だった。ただ、駐車場には車が結構停まっているので、人がいないわけではない。
町並みの向こうに、城山が遠望出来る。石垣しか残っていないけれど、そこからの展望はなかなかなのものなのだ。
いつだったか、写真をここに掲載した覚えがある。
石垣の上に、ぽつりぽつりと人影が望める。
桜がまだ散り残っているのかもしれない。
駐車場に戻り、帰宅。
午後からは、明日の雨を見越して、剪定した枝葉をかたづける。雨に濡れると、その始末が大変だ。
ビニール袋に4袋分ほどの葉っぱをかたづける。
雨が降れば、市営の焼却場に全部で10袋くらい剪定の袋を持ち込むことになるだろう。
お隣さんはリフォームの真っ最中で、今日も職人さんが数人入っていて、作業を続けているらしい。
屋根の上に、人の姿が見える。足場なしの作業らしく、素人目には少々恐い。
残りの時間は、読書。夕方からモニター番組を1本みることになっているので、その間の時間を使う。


【16年4月9日】
角川『俳句』4月号を読む。定期購読を中断しているので、久しぶりに読んだことになる。
今月号の特集は、俳句における「取り合わせ」の問題。最初に4人の俳人が、「私の『取り合わせ』論」として、各自の考察を語る。
文字通り、「私の」ということで、少々唖然とする部分があった。
個人的には、Tさんの主張が賛同できるものだった。二つの素材の衝突により、詩的効果がもたらされるという内容だった。ごく短い詩形である俳句にとっては、大変有効な表現技法である「取り合わせ」を簡潔に述べておられたと思う。
その他の方について、ある人は比喩表現が取り合わせだと言わせる。比喩は、置き換えの技巧だから、「取り合わせ」といえるのか、と疑問を感じる。
ある方は、「配合」と「取り合わせ」を引き合いに出しつつ、話を進められる。両者の扱いが、良くわかならなかった。最初に違いを説明しつつ、最後は同一のものとして扱っているのだろうかと思われた。
ある方は、俳句辞典を説明に流用しつつ、話を進められたが、その辞典の引用内容は、実は「配合」の結果としてもたらされるものが「取り合わせ」と説明してある。当然「配合」と「」取り合わせ」とはその機能・内実が別のものとなるだろう。しかし、この方もなんとなく「配合」と「」取り合わせ」を明確に区別しないで話を進めているような印象を持つ。
ちなみに「配合」とは、素材の組み合わせのことを意味するのではないか、と思われるが。
異質な素材の組み合わせ(=配合)が、異質な者同士の相乗効果によって、思わぬ世界をもたらす(=「取り合わせ」)というようなことになると思われるのだが。
なんとなく、読んでいるうちに、よく分からなくなってくる。
あくまで、「私の」なのだろうから、読者が適当に取捨すれば良いだけの話かもしれない。
とはいえ、定期購読を再会する気が、少々遠のいたような気分である。
富士見書房の『俳句研究』みたいな、もう少し俳句について突っ込んだ内容を扱う雑誌が復刊しないことだろうかと思う。
無理、なことなのだろうけれど。
暖かい一日。昼から少し時間をかけて、山茶花の剪定を行う。
脚立に乗って切り揃えたりするのだが、大汗をかく。
作業を終えて、一日が終わった気分になる。


【16年4月8日】
朝から、良い天気だった。
久しぶりに、早朝に歩く。距離は短かったけれど、結構気持ち良かった。足の痛みも、だいぶ和らいできたので、少しずつ歩く歩数をのばしたりしたいものだと思う。
昨日、夕方近所を歩いていると、しきりに上を見ている人がいたので話しかける。椿の花が午前中の強い風でずいぶん落ちてしまった、と嘆いている。
落花を嘆くというより、その後の掃除が大変だとのことだった。すでに前日、小さなゴミ袋一杯に落花掃除をしたのに、今日又、ということだ。
今年は、椿の花が例年になく沢山咲いているらしい。確かに、散歩の折りにも、よその家の庭の椿がしきりに目につくな、とは思っていたのだが。
暖冬の影響なのだろうか、などとしばらく話をする。
そう言えば、俳人の石田波郷は椿が大好きで、特に「酒中花」と名付けられた椿を好んだというようなことを思い出した。
以前、京都北区の植物園で、その「酒中花」の現物を見たこともあった、などと回想をたぐったりもしたものだった。
国会で話題になっていた、西川元農相の出版予定の本、アマゾンで予約受けつけしているとのことで、アクセスしたら繋がらなかった。
どうやら、アマゾンは予約を取りやめたらしい。
揉めているからか。
これ、本当に出版したら、結構なベストセラーになることだろうと思うけれど。
今の状況なら、出版停止ないしは、無期限延期(ほとぼりが冷めるまで)ということになるのだろうと思う。
出版元は中央公論だったか、どこだったか。大手なら、ゲリラ的に出すことはないだろうし。
いずれ出版すれば、そこそこ売れるだろうけれど、5月の時点で売り出すのと、そうでないのとではかなり売り上げ部数に違いがあることだろう。
執筆者本人の意向なのか、出版社の配慮なのか、アマゾンの危機管理なのか、それともどこかからの圧力なのか、いろいろ取り沙汰されそうな気がする。
それにしても、奇妙なことがぽろぽろ出現することだと思われる。
本日も、何かもめているらしいけれど……。


【16年4月7日】
朝から雨風が強い。
外に出ると、なま暖かい南風が、びゅんびゅん吹きつけてくる状態だ。
本日は、午前中にモニターを2本書いて、添付ファイルで送る。字数の規定は、600〜800字ということだけれど、ついその倍くらい書き込んで送る。
民放でも、いろいろ考えるところがあるなと思いつつ、1年間の長丁場のことを思っている。
1ヶ月につき10本まではレポート出来るので、頑張ってみようと思う。
昨年度は、毎月14本ずつ書いては送っていたので、その状態よりは楽ではある。
NHKの場合は、記入項目がいくつか指定されてあるので、その内容を意識しながら書く必要があったけれど、今回はかなり自由記述(極力辛口でということはあるが)なので、書きやすい部分もある。
条件通り、かなり辛口な内容になっている。
2本書いて、午前中は終わり。午後からは、読書の方に移ろうと思う。
漢文『中庸』はやっと読了。言葉の解釈とその積み上げみたいな部分に、異常な緻密さを感じてしまう。
その膨大な集積が、数千年の歴史の中に蓄積されているという点では、中国は巨大な知の国家的なところがあったのだろうと改めて思う。
最近は、どうなのか……。
次は、『文章軌範』を読むこととする。中国宋代にまとめられた名文集ということなのだろうか。
ちょっとだけ読んでみたが、わかりやすくて結構面白そうだ。
自分たちの意に添わない番組を、スポンサーに圧力をかけることで潰そうという、大政翼賛会みたいな民間(とは思えないけれど)団体があるらしい。
しばらく前に政権与党の一議員が、同じ事を主張して、国民的な顰蹙を招いたけれど、それをそのまま実行使用とする団体が嘘みたいだけど、存在するようだ。
政治家が言えば、権力行使にあたるが、民間がやれば表現の自由の侵害などに抵触しないということなのだろうか。
放送法の解釈でごたついた国会がやっと沈静化したと思ったら、実は沈静化していないどころか、とんだ別働隊の存在が明らかになった、というところだろう。
良識ある大人なら、あまりアホなことはせんといてほしい、と思う(思わず関西弁になってしまう)。


【16年4月3日】
様々な企画のコーディネーターにして俳人の、木割大雄氏から個人誌『カバトまんだら通信』を送っていただく。「第四期 一号」と銘打たれてある。
しばらくの間、出しておられなかったことがあり、今回あらたに第四期としてスタートを切られることになった。
愚直なほどに、師である赤尾兜子への追懐と追究の思いを書き続けておられ、木割氏を通じて赤尾兜子という俳人の生きざまとその作品を知らされるような思いになる。
今回は、別巻として木割氏の幼なじみでもある中田順周氏の兜子俳句のひとつ「盲母いま盲児を産めり春の暮」の英訳の試みの紹介が、小冊子としてまとめられてある。
俳句の英訳という取り組みが、単純な日本語の英語への言葉の置き換えなどではない繊細な作業(というよりほとんど再創造の世界)であるということを、非常に具体的に示唆される内容の文章である。
本編・別巻ともに読み応えのある内容だった。
木割氏の俳句作品も数句紹介する。
「春やわが空気と水と和田悟朗」(和田氏は、物故された関西の俳人である)
「梅ふふむ島を抜けたき男にも」
「中庭に春を集めて大きな木」
「草や木の小学校の卒業歌」
「藻の花へとどかぬ指を沈めおり」
「階に吐息の人か星月夜」
「秋風に不思議な窓を数えけり」
個人的には、最後の句が一番好きだな、と思う。


【16年4月2日】
新年度早々の土曜日で、毎土曜日は特に何もしない日ということにしているので、まず読書はなしということにする。
とはいえ、ちょっとだけ俳人永田耕衣の『耕衣自伝』を少々、読む。
実家の犬が狂犬病の予防接種にいかなければならないので、連れて行く。
狂犬病は、日本ではもう絶滅したように思っていたのだが、しかし罹患後の致死率は100%とかいう恐ろしい病気らしいので、その用心ということで、摂取が継続去れ続けているのだろうか。
そう言えば、インドに行く前に、狂犬病の予防接種(人間用)を受けたのだったか。
世界では、まだ絶滅という状態ではないようだ。
昼食後、つい「相棒」を見てしまう。2時間。大変おもしろかったけれど、なんとこれが前編で、以下来週に続くということらしい。
来週も見なければならなくなった。
その後、庭の植木の刈り込み。お隣の引っ越しが決まり、挨拶にも来られたので、まだ入居されないうちに、庭に入る許可を得て、そちら側からはみ出している枝などを剪らしてもらう。
主に、山茶花なので、落葉の心配はあまりないから、はみ出しの部分を剪る。
高いところで突きだしている紅葉の枝も、いまのうちにということで、ばっさりと剪っておく。
1時間ほど作業して、これから定番の「ビフォーアフター」を見る事になる。
土曜日は、テレビの日ということになりそうだ。


【16年4月1日】
新年度が始まる。
生活は、いつもの通り、読書中心の生活。
ちょっと連句の付けなども作って送信したりもするけれど。
俳人平畑静塔について、なにか書くつもりでいるので、改めて静塔の評論集を読み直し始める。
満開の桜の下、世の中は微妙な動きを見せつつあるようだ。