日々録
日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし た。             
備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。             
一人言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。

      
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【16年6月30日】
6月最終日。
午後8時過ぎに帰宅。期日前投票の立会人仕事は、ほぼ11時間の坐り詰め仕事だった。
時間的には長いようだけれど、個人的には不思議なほどにその長さを感じなかった。
普段は、自宅に引き籠もり状態で、世の中の動きのようなものを実感する機会に乏しいので、この立会人の時間の中で、投票所を訪れる様々な人の姿の中に、時代の一面を見たような気がしたからだ。
様々な年齢、様々な社会的立場の人達が、投票行動という同一の行動の中で、色々な姿を垣間見させてくれるようだった。
人の流れの合間には、選挙に携わる人達と会話を交わすこともできた。
これも、普段の生活の中には全くない経験で、それも良かった。
終わって、帰宅して、しばらくたつと、さすがに少々疲労も感じたけれど、良い1日を過ごしたという思いが実際のところだ。
投票会場の近所の神社では、茅の輪くぐりの神事も行われているらしい。
相方の立会人は、終了後神社の方に立ち寄って、家族の半年を人がたに託してくるそうだ。
良い6月の終わり方であった。


【16年6月29日】
今日は、曇り時々雨。湿度もそんなに高い感じではなく、気温も上がらなかったので、比較的過ごしやすかった。
『枕草子全注釈』は、最後の第4巻目に入る。
清少納言が宮仕えを始めた頃の、初々しい姿などが活写されていて、面白かった。
中宮定子の元に仕え始めた時、定子は20歳くらいだったか(まだ十代だったかもしれない)、そして清少納言は20台も間もなく終わりという「おばさん」と言って良い年齢だったらしい。
10歳近くの年齢差の定子と清少納言だったけれど、仕え始めた最初から、清女(清少納言のこと、略して)は定子に気に入られていたようだった。
うまがあったのか、清女がそれだけ魅力的な女性であったのか、そのあたりははっきりしないけれど、ただ周囲から見ていても、定子の清女に対する待遇は違っていたらしい。
清女も、いろいろ周りから色眼鏡で見られてたようなところもあったことだろう。
平安時代のキャリアウーマンとしての宮仕えの仕事は、楽しくもまた時に不愉快なこともあったことだろう。
誰かさんの発したたったひとつのくしゃみ(偶然なのか、意図的なのか。清女もそのことは気にしたりもするのだが)が、定子と清女の間をぎくしゃくした関係に陥れたりもするわけで、そんな微妙な人間関係も結構大変だったろうな、と思う。
吉本隆明の評論読了。平畑静塔の全句集を半分ほど読み進める。
ぼちぼちと読書は前に進める。
参議院議医院選挙真っ最中、明日は期日前投票の立会人の仕事。
ほぼ12時間立会人を勤めることになる。
久しぶりに、スラックスにワイシャツの姿となる。(クールビズということもあるので)ネクタイは、まあいいだろうと思う。
昨年に続き、2回目で、完全な坐り仕事なのだけれど、意外と時間がはやく経過することを去年経験した。
今年は、期日前投票の出足が、前回の参院選にくらべてだいぶん良いらしいけれど、さて明日はどうであろうか。
6月も、明日で終わりだ。


【16年6月26日】
今日は、俳人協会の米子支部句会の日。
昨日の句会、そして今日と二日連続の句会となった。
支部句会の方は、本部から講師を招いての本格的な句会なので、こちらもちょっと気張って、朝から個人で吟行に出かけた。
時間が1時間程度しか取れないので、大急ぎで吟行地へ向かう。
講師さんと役員のメンバーとは、昨日は淀江町のむき・ばんだ遺跡と真名井の湧水、今日は中海の水鳥公園へと吟行されるらしい。
私は、水鳥公園が近いので、そちらの方に出かけ、1時間ほど湖水を眺めながら句作を行う。
梅雨の晴れ間の好天の日で、日差しがきつく、暑い。
そんな中で驚いたのは、白鳥が3羽北へ帰らずにこの地に留まっている姿を目撃したことだった。
この先、猛暑の日本の気候に果たして白鳥が耐えることができるのだろうかと大変気懸かりになった。
句をまとめ、いったん自宅に帰って、改めて市内の句会場に出かける。
駐車場のことが心配だったので、ずいぶん早めに到着したのだが、あいにくグランドゴルフ大会と重なっていたらしく、車が停められない。やむなく、お隣の中学校の敷地に車を停めて、とりあえず出句だけして、一度自宅に帰る。
改めて出直すと、ゴルフ大会は午前中とのことで、楽々駐車することができたので、余裕を持って句会に参加することができた。
講師さんの「写生」や「吟行」に関する心構えなどのお話を聞き、その後句会。3句投句3句選。
数人の選には入る。選されなかった句は、「夏の鵜をネツシーと子は指さして」というもの。
有名なスコットランドにあるネス湖の怪獣ネッシーの写真(結局、偽造されたものだったはずだが)の首長竜と湖面遠くに浮かぶ海鵜の姿がなんとなく似ていたものだから。
恐竜と鳥類の縁戚関係なんてこともあるわけで。
水鳥公園の鵜を眺めながら、これは完全に頭で作った句。ふざけて作ったわけではない(「客観写生」の立場の人からすれば、フザケンナ!と罵声が飛びそうだ)けれど、さすがに選ぶ人はいなかった。
耳みたいな翼の句が高得点だったけれど、幼鳥の体側の翼の比喩として使われていて、最初は違和感しかなかったけれど、しかしやがて体側の小さな翼のとらえ方とその表現としては面白いかもと思われた。こういう句も、本日の講師さんの話に従えば、客観・主観の間を一周まわった揚げ句の「客観写生」の句ということになるのかもしれない、と思う。
作者は、独特の感性に裏付けられた句を作る人で、昨年の日野町の吟行句会でも、個性的な猫の句を作っておられる方だった。
地元にも、面白い方がおられるものだと感心した。


【16年6月22日】
まさか、本当にイギリスがEUから離脱するとは思ってもいなかった。
多少世論はゆれても、最終的に国民投票の段階では、リスク回避で安全な方を選択すると思っていたのだが。
グローバルであるよりは自国中心と考える、これも右傾化といえばそういうことになるのだろうけれど、その圧力の方が強かったということになるのか。
それにしても、国民選挙で、国論が二分する姿をまざまざと見せつけられた思いにもなった。
国民の間に、意識面で大きな断絶が露わになったということだ。この先、イギリスは、どのようにしてこの断絶を埋めていこうとするのだろうか、と思う。
民進党も「安倍政権下での改憲は否定」という条件部分を除けば、憲法改正を真っ向から否定しているわけではないようだし、この先改憲論議が進展し、国民投票にまで至った場合、日本においても、これに似た状況が生まれることになるのだろうか。
改憲に際しては、第一野党の民進党の合意を得なければと安倍総理が口にするのも、民意の割れを怖れる思いがある、ということなのだろうか。
相手陣営を手元に取り込む戦術のひとつなのだろうけれど、ちょっとはその事態を怖れる本音もあるのかもしれない。
割れた部分は、上手に穴埋めしていかなければ、いずれさらに大きな亀裂をもたらすことにも繋がりかねないだろう。
G7でも、取り立ててイギリスのEU離脱は問題視されていなかったようだし、変な言い方だが、某総理がご本人も否定した「リーマンショック級」の事態が、現出してしまったということにもなる。
言霊解釈風にいえば、「言ったことが実現してしまった」ということか。口にした当人も、今はさぞ驚いていることだろう。
ともかく、びっくりした。
これで、世界はさらに流動化の状況を強めることになるようだ。


【16年6月22日】
「#自民党に質問」という、自民党が一般の人達に自らの党についての様々な質問を募集しているツイッタがある。
たまたま別のツイッターを見ていて、それを知って覗いてみたら、次から次へと様々な質問が書き込まれていて、驚いた。
あるわあるわ、という状態で、様々な疑問・質問が書き込まれてあった。中には、信じられないような新情報も提供してあって、少々恐ろしいような気分にもなった。
一般市民に自らをさらけ出そうという自民党の姿勢は評価すべきであろうが、ただその内容が他人事ながら自爆状態を招くのではないかとも思われた。
自民党の現職議員で、テレビでも良くその姿を見る山本某氏が、その回答者にあたっているらしいけれど、これ、本当にちゃんと答えられるのだろうかと思われる。
23日から回答を始めるらしいけれど、当日になったらページ全体が削除されていた(すでに書き込まれたかなりの質問が削除されているような印象を持ったのだが)、なんて不幸なことにならないことを祈っている。
それにしても、こんな企画、誰が思いついたのだろうか。なかなか画期的な内容ではあるけれど、自民党自身が発案したものとしたら、まだそんな柔軟な部分が残っていたのか、と感心する。
最近の自民党が失った大きな宝は、こんなどんな状況にも対応できる柔軟性と懐の深さ、そして党としての自己検証意識だったのだが。


【16年6月19日】
昨夜はコンサートに行く。
曲目は、ベートーベン「エグモント序曲」、シベリウス「カレリア組曲」、ブラームス「交響曲第2番」。アンコールは、ブラームス「ハンガリー舞曲」。
聞き所の多い演奏だった。特に、シベリウスは、初めて聴いた曲だったけれど、とても良かった。弦の響きが素晴らしかった。
終演後、自宅近くの回転寿司屋で遅い夕食。地元産の魚を使った鮨は、なかなか美味しかった。
日曜日。朝方は豪雨になったけれど、それも昼前には止む。午後からは良い天気。
午前中のうちに、モニター1本仕上げる。あとは、ついうだうだ過ごしてしまう。
午後、同様。ちょっと、緊張感に欠けているのかもしれない。
昨日欠席した句会の件で、お世話になったひとに電話。いろいろ話しているうちに、1時間くらいがたってしまう。
こんなに長電話をしたのは、近来ないことだった。
俳句について、こまごま話し合う。
夕方、ワインを飲み、早めに夕食。
6時からは、定番の『真田丸』を見る予定。


【16年6月17日】
さすがに、5日連続ラジオを聴いてモニターを書くのは無理だった。
5日目はパスする。
明日は、テレビ番組のモニターが1本。
夕方からは、弟が指揮する地元医大管弦楽団のコンサートに出かける予定。ブラームスの2番とか演奏されるそうで、楽しみである。
昨日は、夕方から合唱の練習。ちょっと発声法が分かってきて、以前よりずいぶん楽に歌えるのがうれしい。
その場で、昨年11月の「第九」のCDが配布された。
練習を終え、帰宅してから、早速聴く。9時を過ぎていたので、ボリュームを落とし気味にして聴く。結構いい感じの演奏だった。
現在練習しているモーツアルト「レクイエム」は、来年の3月が演奏会になる。まだまだ本番は先のことであるが、「第九」に比べると合唱団の団員数は3分の1くらいなので、やや苦しいかな、というのが現在の状態である。
今日は、一日梅雨の晴れ間。
明日は、今日以上に良い天気になるらしい。気温も、おそらく30度を超えそうだ。
夕方からのコンサートには、天気が良い方が、断然条件的には良いのだが、ただ暑いのは少々厳しい。
まだ、暑さには身体が慣れていない、ということを感じる。


【16年6月15日】
担当外のモニター番組のレポートを書いて、送ってしまっていた。
今月分の確認のミスが原因だった。
ただ、本来の番組は月末だったので、まだカバーすることができて、それがラッキーだった。
こんなミスを、ちょこちょこしでかすようになっている。
不注意といえば、完全な不注意ミスなのだけれど、初めてのケースだったので、少々驚いた。
廊下現象であろうか……。いや、老化現象。
図書館で借りてきた『山口誓子の100句を読む』を、重点的に読んでいる(返却しなければならないので)。角谷昌子の解説が大変面白い。この人は、たしか杉田久女のことを書いて、評論賞かなにかを受賞したことがあったと思うけれど、本当に力量のある人だと思う。
今日は一日蒸し暑かった。
夜に入っても、まだ湿度が高いように感じられる。
結局、マスゾエ、やめちゃいましたね。
まだ、手元に残るものがあった、ということなのでしょうか。2000万以上の退職金以外にも。
法律的には、問題として追究しきれない。しかし、道義的には、やはり許されない。
許されない、という一般人の思いの包囲網と、それに危機を感じた自民党のトカゲの尻尾切りが、今回の結果を招いたということなのでしょうか。
それならば、アマリも本質は同じだ。胡散臭い金の出入という点では。
ただ、彼は何事もなかったかのように公務に復帰した。
やっと心おきなく眠ることができるようになったのでしょう。
不思議なことです。
マスゾエは、自民党という大きな後ろ盾を失うことでわが身を処する結果になったが、アマリにはいまだに大きな後ろ盾が存在するという、その違いなのでしょうか。
不思議なことです。


【16年6月14日】
今週1週間は、ラジオモニターが生活の中心になりそうだ。
月曜日から金曜日まで、午後の時間がラジオ聴取の時間となる。長さは1時間程度だが、番組自体は4時間ほどあり、その時間帯の中から1時間程度を聞いてはレポートを書くことになる。
同じ時間帯で書くわけにいかないので、1時間ずつズラして聞いて、その内容を書くことにする。
ラジオのモニターをする人が少ないらしく、その分まとめてこちらに廻ってくるようだ。
昨年度は、ラジオの場合には念のためテープ録音をしておいてモニターレポートを書いていたが、今回はテレビ同様、出来る限り詳細にメモを取る、というやり方をする。
レポート自体は、次の日の午前中に書くことになるのだが、その際メモは記憶を補う形で活用できる。ただ、実際にレポートにそのまま使う部分はほとんど無いに等しい。
あくまで念の為にということで、メモを取り、時に感想も書き付けておく。
それにしても、実はラジオの方がメモ取りの負荷はテレビに比べるとかなり少ない。
何しろ、ラジオは音声のみであり、テレビは音声に映像が伴うので、テレビの場合その両方をメモとして書き留めておくぶんだけ、ラジオに比べて負荷が大きいということになる。
なんとも、アナログなやりかただけれど、録画等に初期費用をかけることができないので、やむを得ない。
今日は一日良い天気で、敷布等大きなものを洗濯する。
半日太陽に当てて乾かして、夕方には取り込む。
なかなかよい気分である。
テレビでは、マズゾエ事件。最後まで腰が引けていた自民党もさすがに辞任要求を出すらしい。
それにしても、公明党と共産党の追究のしかたは、鋭いものがあったと思う。
自民党は、最初はそれなりだったけれど、途中からはへろへろ状態で、質問者が気の毒ですらあった。手かせ・足かせの上での質問だっただろうな、とちょっと同情する。
マスゾエ、はどうするのか。辞任か、ひょっとすると議会解散ということも十分あり得ることなのだろうな、と思う。
今の彼には、自らに対する矜持以外は、公人として失うものはもうほとんど何も残っていないだろうから。


【16年6月12日】
夕方6時になるのを待って、BSで「真田丸」を見る。
面白い。息詰まるような展開、ということがあるけれども、石田三成がストレスで腹痛気味などという小ネタを交えつつ、北条滅亡に向けて、どんどんドラマが進んでいく。
一人一人の人物像がくっきりと描き出されたあるので、それらの人物同士の葛藤や対立や、そして極限的な状況の中での繋がりなどが、緊密に演じられているので、見ているこちらのほうまで、その人間ドラマの中にぐいぐいと引き込まれてゆくようだ。
さすがは、三谷幸喜だと感心する。
もう、手放しでドラマに魅入られているようである。
まあ、それにしても、大変面白い。
豊臣秀吉の権力者の薄気味悪い狂気とか、北条氏政の追いつめられた矜持がもたらすほとんど悲喜劇とでもいえるような別の狂気など、演者の熱演もみどころだと改めて思う。
次は、8時の本放送かな……。


【16年6月11日】
映画2本を、チャンネルをこまめに切り替えながら見ていて、見終わったら、なんとなく目が覚めてしまった。
すでに午前0時を少し過ぎている。
普段ならとっくに眠りについているか、一眠りしてちょっと目が覚めたというような時間帯だ。
室内は、昼間の余熱でなんとなく蒸し暑い。ただ、窓を開けて外気に触れると、けっこう涼しくも感じる。
薄雲の合間に、星が輝いているのが見える。
朝、午前中くらいは日が差すのではないかと思い、ベランダで毛布を干す。
土曜日は、基本自由時間なので、とりあえず、道路に面した植え込みの刈り込みを行う。日差しがかなり強くて、なかなか厳しい。
剪定ののち、下に溜まったままになっている朽ち葉や小枝の類を、植え込みに手を突っ込んで外に引き出す。地面はきれいになったけれど、腕は細かい擦り傷で一杯になる。
とはいえ、土いじりの要領で、結構楽しい。花期を終えたお礼肥の油かすををきれいになった地面に点々と埋ける。
一仕事終えた気分で、居間で休んでいると、ぱらぱらと雨が降り始めた。
慌ててベランダに出て、毛布を取り込む。その雨が、口切りになったみたいにその後は、曇りと豪雨とが入れ替わりの状態で夕方まで続くことになる。
雨は、雨脚が白く見えるくらいの強い降りで、歩きに出るタイミングを完全に失ってしまった。
午前中は、やむなく番組モニターのレポートを1本まとめて、添付ファイルで発送。
午後からは、ちょっと実家に顔を出し、今日が誕生日の姪としばらく仕事の話などをして過ごす。
その後は、図書館から借りた美術書を見て、その詳細な解説書を、細かい文字を辿りながら読む。
抽象画の見方、というよりは、図像学というわけではないけれど、読みとり方のようなそんな内容の解説であった。それはそれで、なかなか面白い。
絵から受ける印象というものを、様々な観点から自己分析し、それを抽象化、一般化して、解釈を確立するみたいな、そんな内容のようであった。
そこに、当時の哲学や時代相や、絵画のおかれた状況、画家とその流派のこととか、様々な外的要因を勘案して、さらにその解釈をよりまとめ上げていく、みたいな感じだけれど、そのあたりになるともうまるでわからないような世界となる。
ちなみに、画家の名前はアントニ・タピエスという。
夕方からは、いつもの番組「ビフォーアフター」、引き続き「住人十色」を見る。この2番組だけは、土曜日の定番となっている。
今日は、夜に合唱の練習があるので、お腹にものを溜めないため、早めの夕食を軽めにとる。
また、強い雨が降り始めた。しかし、外は明るい。西に傾いた太陽が、雲間からのぞいている。
まったく、妙な天気だ。


【16年6月8日】
さすがに、気圧の谷間にいるだけあって、夕方から雷と豪雨。
幸い、短時間で通過したので、すでに今は小康状態。
このあと、夜中にかけて、また少々手強そうな雨雲が通過していきそうだ。
夜に入っても、蒸し暑い。
昼間以上に、むしっとしているのは、雨が通過したせいだからだろうが、気温が下がらないままでいるらしいのが、鬱陶しい。
遠藤若狭男氏の句集『去来』を読了。昨日、図書館で借りてきた本の1冊である。
「狩」という結社に所属している人で、作品はなかなか面白い。
虚実の間に遊ぶ、ちょっとロマンチストで文学通、表現派という、「狩」という結社の持ち味の良い部分を発揮しておられる作家のように思われた。
評論も書かれるらしい。
一方で、すでに解散した結社「雲母」の所属する西島麦南の『人音』という句集を読み終えたばかりでもあり、どちらも文学派的な側面は持ちつつも、一方はいわば「硬派」、もう一方は「軟派」的な性格の違いがあって、その作品間の落差がそれはそれで面白い。
少々、目が疲れるのが困る。
老眼なのか、眼精疲労かのか、よく分からないけれど、時に文字がみずらくなって困る。特に、小さい文字はよみずらい。
あまり眩しいところで読むのも目の負担になるかと思い、光量をカーテンで調節しながら読んだり、読書の合間には庭に出て、緑を眺めたり、ついでに剪定したりなどしているが、日によってかなり負担に差があり、困る。
最近は、車の運転にも、光を遮るドライバー用のサングラスみたいなものをつけて運転したりもする。これは、結構具合が良い。
目が光に対して弱っているのかもしれない。
実家からもらった、ブルーベリーのサプリメントも必需品のようになっている。これは、微妙に効果があるような気がする。
昨夜は、夜中前まで良い天気だったので、星空がきれいだったけれど、天の川が以前よりもはっきり見えるようになった気がするからだ。
気分だけかもしれないけれども……。


【16年6月7日】
マスゾエ氏の話題聞くと、何というのか、ひたすら情けないような気分になる。
本人も、その周辺も、さらに政党やマスコミを含めて、世界に向けて、日本の恥を曝しているような思いになる。
重要な問題ではあると思うのだけれど。
突然、回復したアマリ氏の、そのおちゃめぶりにも、マスゾエ同様唖然とするところがある。
国会が終わったとたんに、元気が回復する、というのも、なにやら見ている方が、恥らむような思いになる。
せめて、マスゾエ・アマリ両氏を教訓として、政治資金規正法の、ざるの目が詰まることを期待したいものだ。
アベ氏の「新しい判断」発言、聞いてびっくり。
そんなアホな詭弁が通用するなら、日本はほぼ民主主義国家としての体を3分の1くらい失うようなものだろう。
日本の嫌う中国や北朝鮮の道を、当の日本が邁進することに繋がることを危惧する。


【16年6月4日】
それにしても、「真田丸」は、本当に面白い。
先週は、京都行きで見逃していたのだが、土曜日の再放送があるので、そちらでみることができた。
みごとな脚本であり、演出であり、役者陣であり、美術であり、撮影であり、照明であり、効果でありということで、テレビドラマとして、本当に全体がこれほど高い質でまとめられたものというのは、なかなかないのではないか、とつい思ってしまう。
偏向報道などで、叩かれもしているNHKではあるが、ドラマではその資力と番組作製のノウハウの蓄積がこんな風に生かされてあるのかとも思う。
最初は、モニター担当の番組として見始め、すぐにはまってしまったようだ。
韓流ドラマで、「チャングム」を見たときも、結構はまったりして、次回が待ち遠しいということがあったけれど、あれはかなり露骨な筋展開によるつなぎ(ひとつが解決すると、ちゃんと次の課題が準備されてあるということの繰り返しだったけれど)の妙ということだったけれど、「真田丸」はそうではなくて、視聴者の興味(壺といったほうが良いのだろうか)を押さえつつ、ぐいぐいと先へ先へと進行していく。
そのスピード感がみごとだと思う。
明日のBS6時からが、楽しみである。
どんな論争が展開し、どのように事態が進行していくことだろうか。
土曜日は、フリーに過ごす日なので、ゆっくり起きて、1時間ほど近所をぶらぶら歩き、その後庭の植え込みの手入れを昼近くまで行う。
剪定やら、枝の整理やら、土壌の調整と施肥などで、畳2畳分ほどの植え込みであるが、結構時間がかかる。
お隣さんも、ちょうど道路に面した植え込みの剪定を行っておられた。
梅雨をひかえて、ちょうどそんな時期にあたるのかもしれない。
天気は、下り坂。夕方には雨が降り出すだろうと思われる。
雀や頬白だろうと思われるのだが、屋外で小鳥がしきりに鳴いている。


【16年6月3日】
6月に入ってから、気持ちの良い日が続いている。
快晴で、そのわりに気温がそれほど上がらず、6月ではあるけれど、五月晴れのような陽気である。
早朝に歩き、夕方にまた歩き、合わせて9000歩ぐらいの歩数を確保する。2回に分けた分、腰にかかる負担は軽減されているようだ。
湿度が高くない、というのもありがたい。
このくらいの陽気が一年中続いたら、どうなることだろう。
生活全般が、かなり変化していくことになるだろう。極端に暑い、寒いがもたらされる温暖化現象は、少なくとも勘弁してほしいと思うけれど。
世の中は、ごたついているようだ。せめてものこととして、北海道の行方不明の子供の発見は、朗報だった。
動かないで助けを待つという知恵は、どこで身につけたのだろうかと思う。
外国では、「放置された子供」と、ずいぶんストレートな内容で報道もされたようだ。
「しつけ的な」という部分は、最初から問題外とされ、「虐待」的な扱いになっているのだろうか。
漢文『文章軌範』の上巻読了する。
中国人の発想の面白さというものを思う。
規範の意識や我の強さとか、少々辟易とする部分もあったりするけれど、それはそれで面白い。
もっとも、それらが形を変えて、現代中国の問題にも繋がっているような気もするけれど。
『枕草子全注釈』は、第3巻半ばあたり。中宮定子の父が亡くなり、兄たちが地方に左遷(流罪みたいなものだろうが)され、定子自身も辛い立場に置かれる中で、権力争いの相手方藤原道長と親しかった清少納言は、微妙な立場に追いやられ、長い里住み生活となる、というような内容が書かれる。
華やかな宮中絵巻を豊かで鋭い感性で描きあげたとする『枕草子』の中にも、こんな風に時代の軋轢や、その中で翻弄される自分を含む人々の姿などがちらりと描かれたりもするのだ、と思う。