日々録
日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし た。             
備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。             
一人言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。

      
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【16年7月31日】
二度寝のあげく、ちゃんと目を覚ましたのは、7時半近かった。
今日は、8時から町内会の一斉清掃が予定されているので、慌てて起床する。
朝食をとる時間がないので、珈琲だけ飲んで、身支度をすませ、集合時間に間に合うように出かける。
田舎ということもあるのだろうが、この地域の町内会はちゃんと機能している。
ゴミ出しとか、庭木の剪定とか、小さな問題もあるけれど、清掃活動などには、ほぼ全戸が参加して、町内の道路や公園をきれいにする。
特に、今回は、来月そうそうの祭の準備も兼ねての清掃活動となる。
もっとも、私自身は京都行きと重なるため、参加することはできない。ちょっと残念ではある。
1時間ほど、道路の清掃作業。それが終わるのを見計らったように、突然の降雨。
しばらくぶりの雨が降る。かなり強い降りとなるが、短時間でそれも上がる。
午前中は、モニターのレポート書き。
午後は、吉本隆明をちょっと読み、結社誌や送っていただいた冊子などを読む。
夏の俳句講座の件で、担当の人に電話をいれ、ついでにしばらく四方山話。
結社を辞めた人のことなど聞く。
その後は、合唱練習で市内へ。
大型書店の2階が練習会場になっている。本番指揮者の指導を受ける。
ほぼ、3時間立ちづめで発声、ならびに合唱の練習。
冷房の利きが悪くて、室内が暑いということで、かなり疲れる。
そもそも歌を歌うということは、それ自体結構エネルギーを使うことだ。
練習は、明日も引き続き予定されてある。
帰宅後、途中からだが「真田丸」を見る。だんだん、重く、苦しくなっていくような展開。
最初の頃のようなある種の痛快感とか爽快さが失われてしまっているようだ。
都知事選。大方の予報通り、小池氏が当選を果たす。自民・公明推薦の増田氏は落選。
新都知事と議会主流派の自・公のねじれ関係はどうなることだろうか。
小池氏に関する政治資金問題なんかが、早い段階で浮かんでくるかもしれないし……。
都政もしばらくは落ち着かないことだろうな、と思う。
7月も、本日で終了。


【16年7月30日】
昨日は日本で一番暑かった町だったらしいけれど(鳥取市とワンツーフィニッシュだったらしい)、今日もなかなか暑かった。
日が落ちて、ときおり涼しい東風が吹いてきたのが、救いである。
一気に猛暑状態となってしまった。
昨日は、出窓の網戸を修理して(網がやぶれたまま、物置に放り込んであったのに気が付いて)、少し寝室の風通しが良くなったようだ。
年金積立金の運用に失敗したらしい。総額で5兆円ほど赤字になったらしいけれど、それがどれくらいのお札の量なのか、まったく想像がつかない。
1年間にこの積み立てから公的年金に支出する額が5兆円超らしいので、本来の支出以外に同じほどの金額が、どこかに流れ去っていったようなものだ。
株は上下するし、長期運用なので一喜一憂する必要はないと、よくものの分かった方は繰り返し、安心感を演出・喚起するけれど、そもそも株の運用は、ほぼ博打みたいなもの。
大もうけをするときもあれば、大損をする時もある。
だから、その大損には目をつぶり、大もうけの夢ばかりを追うとすれば、典型的な株で(博打で)損するパターンにはまり込むのではないかとも思われる。
大きな損失も被りうるという認識が、どの程度当事者にあったことだろうか。
一時的に損はしても、結局は儲かるのだという「株神話」みたいな、楽観的な思いこみがあるのではないか。
国民の拠出している金なので、もうちょっと慎重に使えよ、と言いたくなる。
今回、黒字になったのは、日本国債の運用益だけだったらしいけれど(2兆円くらいだったか、これも結構な黒字額だったと思うが……。かつての運用比率だったら、5兆弱くらい儲かったのではないか)。
運用比率、見直した方が良いのではないか、と素朴に思われる。
ついでに言わせてもらえば、儲けた時は何も言わないで、損をしたときだけは文句を言う、などと非難がましいことを口にする人が、時にいるようだけれど、失敗に対して文句言うのは当たり前のことだ。
年金積み立てに拠出しているごく普通の国民の誰ひとりとして、時に失敗してもかまわないよー、なんて寛容な心で年金の運用を受け止めている人はいないと思う。
基本的に失敗はゆるされない。常に成功して、年金積立金をすこしづつでも積みましていくことが、厳しく求められているはずだ。
しかし、諸般の事情により失敗することも、ことの本質が「博打」であれば、起こりうることではあろう。
とすれば、少なくともそのリスクに対する丁寧な説明と事前の覚悟と了解とを国民に対して行いもし、求めもするべきだっただろう。
このリスクの説明と了解の上に立っての株式運用代行なんて、民間の会社では厳しく求められ、その説明責任については厳しく規定されている当たり前で当然の手続きのはずだ。
リスクに対する了解の上で、行われた運用比率変更であれば、そんな危険性もあるけど、それを踏まえたうえで、年金制度の出来る限りの維持・存続に資するためには止むを得ない、それを了解したのは自分たちなので、運用に失敗しても一方的に非難するわけにはいかない、捲土重来を期待するということになるだろう。
納得と共感のベースが出来ていれば、ということなのだが。
しかし、今回について、はたしてどこの場面でリスクの説明や、リスクの受容の上に立っての、年金基金の運用変更が行われたのだろうか。
そんなことなしで、いつの間にか、どこかで決まり、どんどんリスク満載の株式50パーセントの運用比率変更という「博打」の世界へと打って出てしまった。
運用機構のホームページからは、それまで公開されてあった株式運用に伴うリスク説明の文言が、ご丁寧に削除されてもいたらしいけれど。情報隠しとも受け取られかねない。
別の意味でのリスクには、きっちり準備しておいたとも。
その変更初年度の結果が、年度通しての5兆円の赤字という結果だ。
べらんめえ調で言えば、頼みもしねえのに勝手なことやって、その上、損まで出しやがって……みたいなことだ。
しかも、不愉快なことには、その損失に対して、実は責任を取る「人」がどこにもいない、という無責任体制が、今回も又露わになっているようだ。
もっとも株等の運用に関して、銀行も証券会社も手数料はきっちりとるけれど、運用失敗については(不正な場合を除き)何一つその責任はとらない。
説明されたリスクを了解した上での取引だから、成功しても失敗しても、最後はすべてお客様にかかるもの、ということになるらしい。せめて運用費用や手数料くらい返せよ、と言う程度の理不尽みたいな気も、ちょっとするけれども。
年金の運用会社は、成功報酬ではなく、運用失敗のペナルティーがかかるのかも……。
そもそも、運用比率の変更とアベノミクスとは、密接な関係を持ち、アベノミクスが上手く行き続けていれば、比率変更はさらに大きな運用益をもたらすはずだった。
その自信があったから、国民への理解と周知という煩雑な手続きはすっとばして、文字通りの「大博打」に打って出た。
読み間違いだったみたいだ。
経済活動と株価の好循環という流れは、萎んでしまったようだ。


【16年7月27日】
さすがに、気温35度は暑かった。今夏の最高気温ではないかと思う。
ただ、明日は今日以上に暑いらしいけれど。
午前中の読書を終えて、図書館に行く。
借りた本を返却して、あらたに吉本隆明・水木しげる、そしてアンリ・マティスの画集を借りてくる。
午後の時間帯は、冷房無しではさすがにきつくて、エアコンを入れて、居間で午後の読書。少々光が乏しい。
老眼のせいなのか、細かい文字がよみずらくなっている。
ただ、28度設定しているのだけれど、部屋が冷え始めると、空気が乾いてゾクゾクと冷たい感じになってくるので、適当にスイッチを切って、調整をする。
人工的な冷気は、少々苦手である。
夕方になっても、まだ暑い。


【16年7月25日】
バーチャルな世界が現実世界を犯し続けている、という点については、「ポケモンGO」についても、今回の異常な大量殺人事件についても、共通の本質を持っていると思う。
あの殺人犯にとって、自分の行動は、自分の判断の領域の中(脳内世界ということになるのだろうが)では、誤ったものという認識は恐らくないだろう。
それどころが、自分が正しいと信じる正義の実現として、あの異常な行動はなされたということなのだろう。
彼の頭の中では、自身の行動は当然なすべき行動として肯定され、さらにその行動は現実レベルでは「心神喪失」に伴う「異常行動」として現実の側から判断され、自分自身は、一時的な拘束の後に適切に処理されるであろう、ということまで、彼自身の頭の中では完結したものとしてあるらしい(いずれ、現実から手痛い反撃を喰らうだろうけれど)。
すでに、彼自身の脳内では終了している一連のドラマに対して、最後に彼に残されている課題は、それを現実世界において追体験し、脳内で構成され、完結したドラマを、具体的行動を通じて現実化するという行程だけだったように思われる。
スマホのもたらす架空空間の中に存在するデータを、現実の場を借りて捕獲する(実際はそれ自体データ化された「現実」の場においてなされる新たなデータ化ということで、それが現実レベルの行動を通じてなされるということなのだろうけれど)、ただ、虚のレベルを動因としてなされる具体的な行動が、時に自己や他者やそれらを含む社会とその秩序に被害や破綻をもたらす、ということが現実問題として生じていることは確かなことだ。幸い、それがいまのところ命のやり取りにまで先鋭化していない点が、不幸中の幸いなのかもしれないが(米国あたりでは、早晩「ポケモン」がらみで殺人事件がおこらないとも限らないが……)。
そんなことをちょっと考えていると、この「ポケモンGO」現象というのは、たわいないゲームのお話というレベルを越えて、今の時代の奇妙な歪みのようなものの顕現のように感じられて、なんとなく薄気味悪くなってしまうのだ。
より明らかに、脳内世界、バーチャルな世界によって、人々が歯止め無しにその行動を突き動かされるという傾向が、一層露骨に見えてきたのではないか、という気がする。
「ポケモンGO」によって、外歩きが増えましたとか、世代を越えて共通の話題が増え、コミュニケーションの機会が増しましたとか、本質とは関係ない、ちょっとしたおまけのようなものに思われる。
考えすぎ、ということなのかもしれないけれど。
でも、気持ち、悪い。
今日も、一日暑かった。
図書館で借りてきた画集「セザンヌ」を、作家評ともども見終わる。
評論を通じて、セザンヌのその独自の手法の1枚の絵画上での実現の困難さを、具体的に目の当たりにする絵画を指摘されて、かなり衝撃を受けたものだ。その絵は、セザンヌの絵画の中でも有名な作品のひとつだったけれど、その絵の画面の右半分近くがはっきりと左半分の完成した部分と異なっていることを一目瞭然に了解することができたからだ。
色彩の混沌と形態の歪みとが、どのような経過を経てそうなるのか、その技法の部分はこちらの理解を完全に超えてはいるけれど、ゆたかな調和に導かれているのが、ど素人のこちらの目や胸に感動と言う形ではっきりと伝わってきたのだった。
こんな経験は、正直初めてのことだった。その評論の的確な解説も含めて、大変感心した。
ついでに、ずっと違和感を持ち続けてきた、セザンヌが「印象派」の一人(実際のところは、作品面でずいぶん違うとずっと思い続けていたのだが)であるという位置づけに対する、その背景を今回知ることができて、なんとなくすっきりした気分にもなったものだ。当時のジャーナリズムによる同時期の若手画家のひとくくり的命名を、後に追認した結果ということがあるらしい。セザンヌ自身にはその認識はなかったみたいだけれど。彼自身は、あくまで自分を「独自の存在」と考えていたようだし。


【16年7月24日】
午前中は、日差しがあって暑かったけれど、午後からは曇り空に変わり、少しだけ過ごしやすくなったようだった。
久しぶりに、モニターのレポートを1本書き、午前中はほとんどそれだけで終わってしまったようだった。
レポート提出を頑張りすぎたせいか、今月はレポート依頼数が半減してしまい、思い出したように時折書いて提出、という状態となってしまった。
8月に入ると、俳句の選と講評の仕事が入ってくるので、そちらの方に結構エネルギーが取られることになるだろうと思う。
京都への1週間の滞在も、俳句講座の手伝い以外に、句会や京都の知人達との会食や遊びなどの予定も決まり始めている。
8月は、京都には2度泊付きで出かける予定があり、我にもなく忙しい月になるかもしれない、と思う。
午後は、読書。
裏口の辺りが結構涼しいので、そこに本を持っていって読んだりもする。
夕方からは、涼みを兼ねて実家に相撲を見にいく。
最後にちょっと盛り上がった取り組みになったようだ。結構、面白かった。
6時からは、自宅に帰り、BSで「真田丸」を見る。
最初の頃ほどのパワーはなくなったけれど、それでも人間模様が面白い。
老いの問題などもそれなりに扱われてあって、巧みなストーリー展開だと感心する。
大河ドラマをまともに見たことは、今まで一度もなかったので、今回の「真田丸」は我ながら本当に異例中の異例という気がする。
妙に腰が痛かったりするのだけれど、それでも夏らしい夕暮れの景を眺めながら、近所を歩いて来る。
朝、ちょっと歩いていたので、ちょうど自宅に帰着したとき、歩数が8000歩ぴったりだった。
あたかも計算したかのような「歩き」であった。


【16年7月23日】
今日も、ついでに「ポケモンGO」について。メーカーとしては、「歩きスマホ」しなくても、近所にポケモンがいたら、バイブで知らせるから、「歩きスマホ」などの状態をもたらさないと考えているらしい。
けれど、実態として、遊んでる人は、ポケモンが見つかるまで、スマホをしまっておいて、バイブによっておもむろに取り出して、ゲームを開始するなんていうまだるっこしいことはしていない、ということがある。対策が、まるで実効性がないということだ。注意しましたよ、対策立ててますよ、という体の良い責任逃れに過ぎないだろう。
個人的には、この流行は気持ちが悪い、という感触を持っている。
どうでも良いことなのかもしれないけれど……。
今日は終日暑かった。
さすがに、気温も30度を超えていたようだ。
土曜日は、フリーに過ごす日なので、手つかずにしておいた雑用を二つ、三つし終えて、午前中は昼からの句会の準備をする。
早めに出かけたつもりだが、会場の無料駐車場が満杯で、しかたなく私営の駐車場の方にまわる。
そのため、時間ぎりぎりに句会場着ということになる。
句会の結果はいつもの通りの惨憺たるものではあったけれど、面白い出句に出会えて、その点は大変よかった。
こちらが、本日一番の句と考えていたその作者から、唯一2句自分の句を選ばれたのも、ちょっと面白いことだった。
すべて勉強だな、と思う。
日が落ちて、時折涼しい風が吹いてくる。
なんとなく、ほっとした気分になる。
パウル・クレーというドイツの画家の画集を図書館から借りていた。
独特の抽象画を描く作家だけれど、その作家論を含めて、大変面白かった。
自然というものをつきつめて考えて、抽象化された自然の本質を、独特の線と面と色彩との動的構成で構築しようとした画家のように、こちらとしては受け止めた。
ただ、そんな理屈を越えて、その稚拙とも思われるような絵を眺めていると、なんともいえず「面白い」という感触を感じさせられた。
この人を具象的な絵画と抽象的な絵画との理解の橋渡しみたいにして考えることができるかもしれない、などとも思ったものだ。
句会終了後、クレーの画集も含めて、図書館に返却。次いで、吉本隆明の評論集と水木しげる漫画全集の1冊と、セザンヌの画集とを借りて来る。
ここしばらくは、このパターンで本を借りることが続いている。ただ、吉本の本がそろそろ底をついてきたのが、気懸かりである。


【16年7月22日】
「ポケモンGO」が、日本でも配信開始ということで、テレビの報道でもトップニュースとして流されているけれど、そんなによってたかって報道するほどの価値がある内容なのか、と個人的には思う。
というより、どうでも良いような内容について、各報道局が競うようにして「ポケモン」を流している姿が、少々薄気味悪いような気分になる。
社会現象の一つとしての興味・関心と、個人的には気になっているゲームの最中に当人や周りの無関係な人に、危害を生じさせないか、という点に対する危惧ということで、注意を促すということであるなら、報道する価値も多少はあるかもしれないけれど。
かなり本気で注意を喚起するぐらいだから、なにがしかの事故が生じる可能性は高い、という認識は日本政府ですら持っているようだ。
「歩きスマホ」を推奨するような内容のゲームなのだから、事故が起こる可能性は、実際高いことだろう。
でも、一度事故が起こってしまったら、その責任は誰が取るのだろうか。
あくまで当事者が、ということで済むのだろうか、という思いがある。
注意だけはしたので、あとは当人の責任ということに単純になるのだろうか。
特に、ソフト配信会社は、配信にともなって当然なにがしかの利益をそこで得ていることだろうし、その配信したゲームソフトが、「歩きスマホ」という状態を必然的に伴うような体裁のものであるだけに、事故が起こった際には、その起因のかなりの部分がそのソフトのもたらすゲーム形態に直接関わる、ということになるのではないか、と思われる。
バーチャルな世界が、路上にまで流出し始めた、ということでは、ある意味画期的な出来事なのかもしれないけれど、事故ればはた迷惑というのも、また本当のところなのだろう。
それにしても、この責任の問題は、「ポケモンGO」に乗っかろうとする企業や、地方公共団体に対しても当然関わっていくだろう内容にもなるように思われる。
いずれにしても、一過性のブームとして、さっさと終わってほしいと思う。
よけいなお世話、なんだろうけれど……。


【16年7月19日】
梅雨が明け、夏本番とは言いながら、太平洋側の猛暑に比べて、この地域は比較的過ごしやすい日が続いている。
湿度は高いながら、最高気温は30度を割っており、室内にいると、開けた窓から時折涼しい風が吹き込んできて、結構快適である。
エアコンを使う必要もとくにない。
和室の窓を開けて、畳の上にしばらくごろりと横になっていると、畳の乾いてひやりとした感触が気持ちよい。
和室は、まさに夏の日本の気候にマッチした作りであるな、とその良さを再認識したりもする。
この程度の暑さで一夏終わってくれればよいのだが、今週末くらいから、本格的な暑さに突入することになるみたいだ。
3連休はゆったりと過ごして、本日からいつもの調子の日課が始まる。
午前中は、3時間の読書。昼食。休憩をはさんで、午後は2〜3時間本を読み、夕方の1時間は俳句を作る。
夕食後は、8時から最近はBSで「ER」という番組があるので、それを見て、その後さらに1時間くらい俳句を考えて、その後就寝。
明日は午前中通院があるので、その日課通りにはいかないけれど、そんな小さなスケジュール変更を除いては、ほとんど毎日判を押したような生活を、すでに2年と3ヶ月ほど続けてきていることになる。
我ながらよく続いているな、という気持ちもないわけではないが、早期退職を決めた時点から、そのような生活を送ろうと考えていたので、自分の思い描いた通りの生活を送っている、ということになるのだろう。
生活は質素だけれど、本当に贅沢な毎日を送っている、と繰り返し繰り返し思いながら、日々を送っている。
妙な人間なのだろうな、とも我ながら時折思う。


【16年7月18日】
丹後行き。片道4時間強の運転だったけれど、往路と復路では、40分ぐらに復路の方が時間が短縮された。
天気が良かったことや、新緑の山、間近に迫るジオパークの山陰海岸の情景と、見所が多くて、運転がまるで苦痛ではなかったということが、大きかったのかもしれない。
というより、長時間の運転は、移動の快感という点で、結構気分が良いもののように感じられた。
句会はいつも通り。宿題の「風通し」、席題の「蛙葉の花」と、どちらも少々手強い季語だった。
久しぶりに、出席者も多くてその分、多彩で愉しい句会となった。
句会終了後、いつもならば、列車の時間を気にしながら駅へと送っていただいたりするのだが、本日はゆったり余裕をもって、句会後の四方山話に参加することもできた。
夕食は、岩城先生の行きつけの居酒屋へ。おしゃれなお店で、岩城先生の教え子の方と、句会のMさんとの4人で、置酒歓語状態となる。
時事的な話から、認知論に至るまで、かなり幅広い多様・多彩な話を取り交わす。
なかなか愉しい。
その後、岩城先生宅に引き返し、山積みになっている本の中から欲しいものを好きなように持っていけということで、文学全集や思想全集など、段ボール6箱分をいただけることとなった。
会員の方をさらに一人招いての話。皆さんの思い出話が尽きないなか、12時近くなったので、失礼して一人就寝する。
開けっ放しの窓から、時折涼しい風が吹き込んできて、快適である。
翌日は、段ボールを3箱だけ積み込んで、6時過ぎに先生宅を失礼して、帰路につく。
車が少なくて、快適に車を走らせる。
10時には、米子帰着。一休みして、昼食後、さらに一眠り。
それなりに緊張していたようだ。
月曜日。海の日。
今日は、地元の「短歌・俳句・川柳」ごちゃ混ぜのイベントに参加。
地元で活躍する桂小文吾氏の落語「加賀の千代」という結構珍しい演目も聴けて、愉しく半日を過ごすことができた。
ずいぶん中身の詰まった3連休だった。


【16年7月15日】
土・日と丹後行き。
いつもの「すき句会」に出るのだが、岩城先生が丹後泊ということで、私も1泊させていただくことになった。
そこで、それなら一度車で丹後まででかけてみようと考えた。
日帰りの車往復は、さすがに負担が大きいだろうけれど、二日に渡るものならば、なんとかなるだろう。
丹後で勤めていた頃、一度50CCのバイクで、片道8時間かけて宮津から自宅まで帰ったことがあったけれど、さすがに今回が8時間はかかるまい、と思う。
久しぶりの車による遠出になる。
今夜は、早めに寝ることにしよう。


【16年7月12日】
現在、世界中で100兆円くらいお金がだぶついているらしく、その反映か、昨日今日の両日で、日経平均が1000円くらい上がりそうな勢いだ。
世界のお金が、日本に集中しているみたいだ。すごいものだと思う。
これで、調子に乗って株に手を出したりすると、流れに乗り損なって、高値で買って、どんと株価が下がるみたいな悲惨なことにもなりかねない。
本当に、マネーゲームだと思ってしまう。
都知事選は、ばたばたしているみたいだ。
東京から遠く離れた、人口最少県の県境に住む人間としては、遠くで騒いでいるなという印象が強い。
とはいえ、高校を卒業した若者のかなりの数が、首都とその近傍の大学に進学し、そのままで生活の基盤をそこに置くという状態は、地元の人間としては東京を筆頭に、大都市圏の「良いとこ取りだ」ということを、いまさらに感じてはいる(自分も地元を離れ、関西の地で暮らしてきた人間なので、偉そうなことはいえないのだけれども)。
ちょっとした国家並みの予算で動く都市なんて、なかなかすさまじい存在のように思われる。
東京に入る税金の一部を、出身県人口割合で各都道府県に東京からのプレゼントとして、再配分してくれたらいいのに、などといじましいことを思ったりする。「ふるさと納税」という手が、現実にあるけれども。
「一将功成りて、万骨枯る」なんて言葉があるが、大都市の一人勝ちの背後で地方がばたばた命脈を断たれるみたいな事態は、本当になんとかしてほしいと思う。
昨日も今日も、蒸し蒸しして気温も高い。
そういえば、一昨日の夜、大山中腹まで、実家の人達と一緒にホタルを見にいった。
大川寺の奥まったところ、大神山神社に通じる参道に、沢山の姫ぼたるが、この時期に飛ぶ。一度見に行ったことのある姪の「すごいよ」という薦めで、見に行くことになった。
車で1時間あまり、夏のシーズンを控えた人気のない夜の旅館通りをまっすぐ参道の方にあがる。
雲の背後に月があるせいか、巨大な杉木立の背後に、大山北壁のくろぐろとした姿がのぞき見える。
自然石を敷き詰めた真っ暗な参道は、歩くのにあぶなかしいものだったけれど、一切の灯りがない状態で、小さな鳥居を過ぎてしばらく行くと、ブナ林の闇のあちらこちらに、薄明るく輝く姫蛍のあかりを見る。
奥に進むほどに、ほたるの光はその数を増やし、時折、光の塊のなかから、ふわりと浮いて、参道の方に流れてくるものもある。
20年ぶりくらいにほたるの姿を目にして、足元を気にしつつも、つい見入ってしまった。
普通、姫ホタルの光は弱いといわれているけれど、この大山中腹のほたるの光はずいぶん強い。
時期的に少し遅かったようだけれど(姪達が行った時は、ほたるの光の乱舞に包まれたそうだ)、本当に堪能したものだ。


【16年7月11日】
参院選終了。与党の圧勝という結果であった。
改憲勢力も3分の2を越え、本格的な憲法の見直しも行われていくようだ。
時代にそぐわない部分があれば、当然内容の変更は必要になるだろうけれど、それは国民の意向に基づくものであって、党利党略による変更の為の変更はお断りしたいと思う(「教育の完全無償化」なんて、本当に憲法の規定の中で実現したらすごいと思ったりはするのだが。施策ができなければ、憲法違反なんて、インパクトは大きいと思う。これは若者と日本の将来にとって本当に大きな意味をもつのだけれど。それに必要な予算3兆円は捻出可能な金額だと思われるし)。
自民党の憲法草案は、背後にある極右集団の「日本会議」(選挙が終わって後、初めてそれを取り上げたテレビ局があったけれど、そのような情報を一切流さない多くのマスコミよりは、かろうじてマシだったかもしれないけれど。)の意向に基づいた「国民主権・平和主義・基本的人権」を制限ないし、否定する内容なので、日本人自身の手になる法案とは言え、正直お断りしたいと思う。
安倍総理は、自民党案を中心に据えた改憲を考えているようだけれど。まさか、丸ごとすっぽり現行憲法を自民草案に置き換えるつもりではあるまいと思うけれど(「政治力」が、そんな強権発動を意味しているとはあまり思いたくないけれど。本心は、そうしたいのだろうが……)。
少なくとも、慎重にじっくりと議論を進めてもらいたいものだと思う。安倍総理の総理在任期間をタイムリミットとして、一政治家の野心の実現、改憲総理として歴史に名前を残すという不純な動機で、国民全体にかかわる事柄について、憲法の変更の論議と調整が進まないことを心から願う(でも、それも起こりうる事態だけれども)。
ついでに言えば、イギリスのEU離脱騒動同様に、訳も分からないうちに、国民投票が行われ、後になって、ヤフー検索で「改憲てなに」なんていう検索用語がやたら取り沙汰されるような愚かな事態は避けて欲しいと願う(十分起こりうることではあるが。なにしろ、盛大に情報隠蔽や情報操作が行われるだろうから。国民は正常な判断を疎外されることになるだろう)。
永六輔氏が亡くなったという。なんというのか、この時期に、ひどく象徴的な出来事のような気がして仕方ない。
彼の死とともに、昭和、大衆文化、そして戦後状況というものがまた一つ扉を閉じたような気がする。
私個人は、かつての自民党は嫌いではなかったし、その多様性は評価できるところがあった。
けれど、いまの安倍総理とその親分の意向に汲々とする連中は、少々常軌を逸しているように思う。腰巾着的な公明党も、権力の毒に蝕まれて、毒が全身に廻ってしまったのか、と思われる。
「蟻の王国」が、着々と建国されようとしているような印象を、持つ。
少々、好き放題を書いてしまったようだ。


【16年7月7日】
七夕。とはいえ、夕景は高曇りという状態で、今夜星合の空を眺めることは難しそうだ。
「人の恋路を邪魔する奴は犬に蹴られて(食われてだったかも)死んじまえ」という物騒な言葉もあるようだし、そっと静かに雲の向こうでの二つ星の逢瀬を祝福すればよいことか。
今度の「すき句会」は丹後1泊ということになりそうだ。久しぶりに、岩城先生と一献傾けるということになる。
たのしみである。
8月は、2度京都行き。一度はウイークリーマンションを借りての1週間の京都泊ということになる。どちらも俳句関係というのが、うれしいような……。
日々、本読んで過ごすような変わり映えしない生活にも、ちょっとは変化があるのが、夏らしいのかもしれない。
京都泊。久しぶりに会ってみたい人もいるので、その連絡調整などもしなければ、と思う。
なかなか、楽しい。
今日は一日、梅雨の中休み。気温もさほど上がらなかったようだ。時折、涼しい風が東から吹き込んでくる。
図書館で借りた、吉本隆明の評論『家族について』、水木しげるの漫画全集中1冊、そして画家デュフィーの画集中作家論の部分を読了。絵を見る前に、作家論を読むのは、順序が逆かもしれないけれど。
吉本の評論は、大いに共感する部分と、それは違うのじゃないかと反発を感じる部分の両方を含んだ面白い内容だった。とはいえ、ずいぶん強く「誠実さ」というものを感じはした。もう少し、吉本隆明の評論は読んで(少なくとも図書館に在るだけの本は)みようと思う。
世の中は、いろいろ動いているみたいだけれど、少々うんざり、げんなり気味。


【16年7月4日】
長年使ってきた携帯の液晶画面に一部ドット抜けみたいなところが出来てしまった。充電の途中で、画面がおかしくなり、その後抜けが分かった。
九州の兄に電話したら、いずれ画面が見えなくなるだろうから、なんとかしたほうが良い、と助言を受ける。
私としては、まだまだ十分使えるので、このまま限界を迎えるまで使いたい思いはあるのだが、でも念のため一度ショップの方に行ってみようか、とも思う。
きっと買い換えを勧められることだろう。
ガラ携をずっと使ってきたので、いまさらスマホに変える気は毛頭無いけれど……。
今日は、終日気温が30度を超えず、30度を超えなければ、暑いという感じもなくて、割と過ごしやすかった。
いつものような日課で終日過ごし、夕方になってから、甥の迎えを兼ねて、市役所に期日前投票に出かける。
先日は、立ち会いする方だったが、今日は逆の立場になっていて、少々妙な気分だった。
当日も選挙業務に携わっていた人達から、笑顔で迎えられ、一言二言会話を交わしてから、滞りなく投票を済ませた。
あの人達は、この選挙期間中、毎日12時間以上も選挙業務に携わっていることになる。本当に、ご苦労様、と思う。
実家の母から、妙な訪問者があったと聞く。
リフォーム詐欺の手口によくある、訪問作業員のようだった。
家の様子を見せて欲しいと言ってきたらしい。
母は上手に対応して事なきを得たけれど、近所には高齢者の家庭などもあり、妙な話に引っかからなければよいが、と思う。
なんとも物騒な時代ではある。


【16年7月3日】
NHKで介護殺人のことを話題に取り上げていた。
NHKらしい膨大な情報処理と取材とによって、番組を手堅く構成していた。
番組を見ながら、その語られる内容の悲惨さに、途中で一度チャンネルを変えてしまったが、結局すぐにチャンネルを戻して、最後まで見た。
そして、なんとなくNHKらしくない煮え切らない中途半端な終わり方に、気持ちの悪さを感じた。
もちろん、介護とその厳しい状況の中で殺人にまで追い詰められる状況に対して、簡単な分析や、軽率な状況判断や、一面的な状勢批判などがほとんど意味を持たないということは理解出来る。
しかし、その上でNHKたるもの、起こった状況のみをインタビューという形で流すだけで、この話題を終えてしまっていいのだろうか、という疑念を強く感じるということがあった。
辛い悲惨な現状をありのままに伝えることも報道の大切な役割のひとつだとは思う。しかし、事実を流して、それでおしまいというやり方は、問題提起としてもある意味報道としてずいぶん無責任ではなかろうか。
なぜ、そのような追いつめられ、殺人にまで繋がる状況が現在の日本に現出しているのか、その状況に対するNHKらしい分析や認識や見解を、やはりコメントすべきだったのではないか、そんなことを思った。
それにしても、介護とその結果として、肉親を殺害する状況にまで、介護者がおいつめられるという状況が、他の各国においても、現代の特徴的な事象として日本同様に頻出しているというようなことがあるのだろうか。そんなことを思ったりもした。
膨大な介護費用を少しでも削減するために、介護を家族の手にゆだねるということが国の基本的方針として打ち出されているはずだ。
人情論としては、家族の介護は家族の手にということは、通りの良いことなのだろう。
しかし、それでは済まないような現況のひとつが、介護殺人という現実であり、そうであるとするならば、現状の介護制度に大きな問題点をはらんでいるのでは、という程度の疑問は誰でも持つことではないか、と思われるのだが。
その点で、今回のNHK特集は、その話題の衝撃的であることばかりが印象づけられて、あまりに本質追究の点が不十分のような印象を持った。
NHKらしくない番組だったと思う。
テロで7人の日本人が犠牲になった。痛ましい出来事だった。
たまたまそこにいて、偶然テロに巻き込まれたということではなく、明らかなテロ対象として、日本人もまたこの事件に巻き込まれたという意味合いが今回の出来事には強いように思われた。
被害に遭われた方の、「私は日本人だから撃たないで」という叫びが、冷酷にうち砕かれたことに、痛ましさと恐ろしさとを感じる。


【16年7月2日】
暑い一日だった。
気温は35度超の真夏日で、雨が降る前は、それでも湿度がさほど高くなかったのが、雨が近づき、降り出すと、湿度のほうも一気に上がってきた。
夜に入っても、その状態は変わらず、今も蒸し暑い状態が続いている。
まいってしまう。
今日は、土曜日で、フリーな一日だった。
とはいえ、何をするでもなく、暑さにうだりながら一日を過ごしてしまったようだ。
かろうじて、ボナールという画家の画集とその解説とを読んだ。
ボナールという画家については、ほとんど興味関心の対象に入っていない人物だったけれど、たまたま図書館で目に留まって借りて、今回その作品と解説に触れてみて、なかなか面白い人物らしいとうことを知った。
位置的には、印象派とキュビズムとの間を占めるラビ派というグループの一人らしいのだけれど、両者の橋渡し的な立ち位置というよりは、影響を残しつつ、独自の歩みを進めた人ということらしい。
日本の浮世絵などの影響も受けつつ、その影響からも自由になった人のようだ。
個人的には、ムンクなどの画風やテーマなどにつながるところがあるような印象を持っている。その点が興味深い。
それにしても、蒸し暑い。今夜は、完全な熱帯夜、というところだろう。
エアコンは、あまり好きではないので、扇風機の力をおおいに借りなければ、と思う。。