日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし
た。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。 一人言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。 |
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【16年9月30日】
本日で、9月も終わる。
天気は、曇り。ときどき小雨がぱらつく。
豊洲もオリンピックもごたごたしているようだ。
いろいろなものが、本当に片づかない、そんな時代に突入してしまったような気がするが。
この「片づかない」という言葉は、夏目漱石の何かの小説に出てきたような気がしている。出典は、何だったのだろうか。
苦虫をかみつぶしたような漱石の表情が、ふと思い浮かんだりもするものだ。
そういえば、テレビドラマで漱石の奥さんの鏡子さん(漱石にしてみれば、鏡子さんもまた「片づかない」存在だったのかもしれないが)を主人公にしたようなものをどこかのチャンネルでやっているのだろうか……。
ちらっと見たような記憶があるのだが。
それにしても、妙な方向に社会を「片づけ」てもらうのも困りものではあるけれども。
庭の金木犀は、今日もまだ香りを残している。
実家の銀木犀は、どうやら今年はダメみたいだ。
。
【16年9月29日】
東京オリンピックの次は、大阪万博か。
2025年にそれが実現するかどうかはわからないけれど、なんとなく時間軸がぶれて、過去と未来とが渾然として揺らいでいるような、奇妙な感覚を覚える。
高度経済成長のあの時期を、未来に再現しようとしているのだろうか。
夢よ、もう一度、というつかみ所のない願いがどこかに揺曳しているような、そんな印象を持つ。
それは、未来の明るさよりも、ある種の悲哀感を感じさせるのは、一体何故なのだろうか。
すでに、一度経験した人間の、時に対する哀惜の感情なのだろうか。
東京オリンピックにしても、実現するかどうかは未定だが、大阪万博にしても、果たしてそれらが未来に対する健全な指向性を内在したものなのか、どうか。
個人的には、よくわからない。
豊洲に続いて、オリンピックもなんとなく波瀾含みの様相を呈し始めているようだが。
明日で、9月も終わる。
本当に月日の移りすぎる速さを感じる。
朝のうちに、投稿用5句を完成。「秋の暮」という縦題の重たい季語を使っての5句だった。
ホトトギス的な立場から言えば、薄い内容の5句ということになるだろうな、などと思う。
句の評価軸として、季語の本意という伝統に培われた美意識を判断基準として、句の善し悪しを振り分けるということがあるのだが。
本意にとらわれすぎると、結局すでに出来上がったものに一句をあてがって、そのものさしで評価するということでもあり、極端な言い方をすれば、新しさの否定というようなことにまで繋がっていきそうな気がする。
芭蕉は、新しい季語のひとつでも創出できれば俳句にとっての大きな賜物と語っているけれど、新季語ということではなく、従来の季語の本意の深化という方向性も一方ではあるように思われ、それもまた芭蕉の思いにそうものではあるまいか、などと一人思ったりもする。
【16年9月28日】
ここ数日、句作中心の毎日だった。
某コンクールへ応募する作品30句をなんとかまとめあげ、二つの所属結社への投句7句、5句をそれぞれ絞り出す。
いずれも、日のあるうちに投函を済ませ、結社への残り5句を夕方から考え始めた。
出来れば、伝統的な季語を一つ使って5句作ってみようと試みたが、難しくて結局本日は1句どまり。
明日の午前中には作って投函しなければ、締め切りに間に合わないので、何とかしなければならない。
それにしても、なぜこんなに雨が多いのだと思われるほどに雨だらけの日々。
かろうじて、昨日一日は良い天気だったので、家中の窓という窓をすべて開け放ち、室内のドアというドアを襖も含めてすべて開いて、とにかく日差しと風を誘い込む。
2階の敷き詰めのカーペットが、古いせいか湿気を吸ったまま一部にたわみを生じた状態だったので、特にそれが気になっていたのだが、一日の効果はてきめんで、湿気が抜けたせいか、平坦な状態に服したのはありがたかった。
窓を開けっ放しにしていると、玄関と裏庭とにある金木犀が香ってきて気分が良かった。
昨年は、剪定に失敗して(切った時期がまずかったようだ)、小さな黄色い花がほとんどつかなくて、せっかくの香りを全く楽しむことができなかったので、今年は剪定をぐっと我慢して、伸び放題の枝を眺めつつ、花の咲く時期を待った。
待った甲斐があっての今年なので、結構うれしい。
今日は一日、雨。
明日以降も雨降りが続きそうだ。おまけに、すでに台風18号が発生していて、秋霖前線はまたまた盛大に刺激されることになるようだ。
おまけに、本日は午前中に3度も地震があった。2つは気付かなかったけれど、一つは、窓が不自然にかたかた鳴って地震と気付いた。
県中部を震源とする地震だったけれど、鳥取県は地震のエネルギーが溜まりやすいところのひとつらしくて、自宅から南にも北にもそれぞれ15キロほど離れた辺りに、そのエネルギーが溜まりやすい、歪みを起こしやすい地域があるらしく、それを思うとなんとなく落ち着かない気分になる。
東京都。小池氏と自民党との確執は、少々茶番劇じみて見える。もっとも茶番は主に自民党の方に要因があるみたいだけれども。
政治の劣化というものが、加速度的に進んでいるような気がする。
少々恐いような気もする。
【16年9月25日】
土曜日、午後。地元句会。
近来になく好結果。迎合というのではなく、ここしばらくの自己の句の有り様を少しずつ変えていこうという方向性が、具体的な結果となって現れたのならば、好ましい。
ただ、ここで浮ついた思いに流されないように、十分注意しなければならないだろうと思う。
多く選ばれたから良い、というわけではないからだ。
選句の方は、全体の高得点句のうちでも、ちょっと問題のあると思われる句はたとえ上手くても選からはずしているし、作として優れた内容の句で結果として高点句となっているものについては、ほぼこちらも選んでいるので、選句の評価軸がある程度妥当性を保っていることの証になるかもしれないと思う。
と同時に、ほとんど自分しか選んでいない句については、こちらとしては選んだ理由がかなりはっきりあるのだけれど、その判断と評価が適正であるかどうかについては、慎重に考えてみる必要があると思われる。
総体に、「ほととぎす」系統の結社に属する人達の句は、手慣れて上手いということが多いのだけれど、手慣れて上手いというそのこと自体が、参加者の共感を生み、選ばれやすい句を作る能力の高さと表裏一体の部分があり、結果として高得点だが、句としての質は(共感するという部分を割り引いて考えた時)、必ずしも高いとはいいきれないということがある。
こちらとしては、質の高い俳句に出会い、こちらが学ぶ手がかりとして、自分なりに全力を傾けて選を行うということが、句会に参加することの大きな意味のひとつなので、自らの選の結果に対しては、十分意識的でありたいと考えている。
特に、参加者にはほとんど選ばれていないけれど、自分が選び、すごいと感じることの出来る句との出会いが、句会の醍醐味でもあり、事実この句会においても、前回、前々回とそのような経験が続いていたので、所期の目標のひとつは達成されているといってもよいかと思われる(今回も、紺屋の通し土間についての1句はみごとなものだった。これは最多得点句でもあったが)。
日曜日。
午前中は、1時間の「歩き」ののち、モニターの視聴やレポート作成2本で終わる。
午後は、結社の投稿句(最低17句)と、それ以外の投稿句(こちらは20句近く)をこの数日中に準備しなければならないので、とりあえず本日は集中して句作。
夕方まで行い、雨が降り出し始めたので、「歩き」の続きは中止して、少し本を読む。
【16年9月23日】
午後になって、一気に天気は回復した。
久しぶりの日差しが差し込んできた。
ともかく、窓という窓を全部開けて、外の空気をたっぷり部屋の中に取り込んだ。
二階の床の敷物が、湿気を含んでいて、すこしだぶついたような状態になっていたので、カーテンも全開にして、日差しがあたるようにした。
布団も日にあてようかと思ったけれど、それは止めにした。
夕方、歩きながらこれも久しぶりに星が輝いているのを見た。日が沈んだ空は、きれいな紺色に静まっていた。
このまま暗くなれば、きれいな星空が見えるかも知れないと思う。
甥の友人が京都から遊びにきていて、夕方実家のピアノ教室の方で、甥と友人との二人で、トロンボーンの演奏を聞かせてくれた。
モーツアルトとバッハの曲。
なかなか素敵な演奏だった。
「アンコールは?」と尋ねると、「ない」と一言いわれてしまった。全く愛想ない甥っ子ではある。
明日は、地元の句会。7句準備をする。
短冊に手書き。
普段ならば、パソコンからデータをプリントアウトして、それを切り分けて短冊として提出、ということになるのだが、ちょっとそれがやりずらい雰囲気で、しばらく前から手書きに切り替えることにした。
毎回、ほぼ全滅状態ではあるけれど、これもまた挑戦のひとつである、と自分を鼓舞する。
中村草田男を主宰とした俳誌『萬緑』が来春終刊するという。
現代俳句の推進役のひとつとしての有力な結社誌がまたひとつ終わろうとしている。
時代の変遷ということを改めて思う。
『萬緑』出身の関西俳人T氏から季刊で雑誌を送っていただいている。
今日は、その最新号を改めて読み直して見る。
平畑静塔の評論と合わせ読みをしながら、T氏の俳句について考える。
岩城先生の「Tさんの俳句は、基本的に写生句である」、という発言の多義的な意味を考えさせられた。
【16年9月22日】
今日も終日雨が降ったり止んだりの状態で、梅雨とはちがってひんやりと室内が湿気ているような感覚だ。
ニュースを見ると、真っ先に福原愛ちゃんの結婚の報道が行われている。
なんとなく世の中がざわついている中で、オリンピック・パラリンピックの話題に続いて、心和ませるような話をずいぶんマスコミも愛ちゃんに期待しているように思われる。
それにしても、見事な中国語なのだろうな、と感心して見ていた。
中国でもきっと今一番人気のある日本人は愛ちゃん(「チャン付け」がこれほど似合う人もまたいないかもしれないけれど)なのだろうな、と勝手に思ってしまう。
朝、雨が降り出す前に「歩き」に出た以外は、買い物もしないで自宅で過ごす。
本を読んでは、休憩時間にダンベルを使って筋トレを行う。
ここしばらく体重がまた増え始めているので、食事をちょっと気遣いつつ、エネルギー消費ということで、合間合間のダンベル体操ということだ。
ダンベルは断続的にやってきているので、しばらく継続してやっていると、なんとなく肩や胸や腹部に筋肉の所在を感じるようになる。
たんなる疲労による筋肉痛ということなのかもしれないけれども。
スクワットをやっていた時期もあるが、こちらは「歩き」があるので、あまり続かなかった。
太股だったか、ふくらはぎだったか、そこは第二の心臓だとかいう話で、続ければ、健康によいのかもしれない。
天気が良くなったら、一度大山(日本中で「大山」を「ダイセン」と読める地域は限定されているらしい。大体は「オオヤマ」と読むようだ)登山に出かけたいものだ。
現役の頃は、コースタイムの半分くらいの時間で大山頂上の往復が可能だったけれど、もう6合目に登り着くのがやっとかもしれない、と思う。
とはいえ、大山6合目からの眺望は、眼前の北壁と眼下の弓ヶ浜から島根半島、美保湾を越えて日本海の沖合はるかの隠岐島と、展望がすばらしいのだけれども。
頑張って出かけてみることにしよう。
雨もよいのに一日に、そんなことを考えてみたりもするのだ。
【16年9月21日】
引っ越したときに、庭に置いてあった木製ベンチ。
特に使うこともなく、ブルーシートをかけて雨風にはさらさないようにして保管しておいたのが、今朝ブルーシートを外してみると、得体のしれない黄色い茸があちこちに生えていて、かなり惨憺たる状態になっていた。
コンクリートのブロックの上にベンチを据えて、ブルーシートの両側から風が入って、雨に濡れず、乾燥を保つようなつもりで段取りしておいたが、結局だめだったようだ。
思った以上に座卓の部分の木もいたんでいたので、思い切って解体することにした。
のこぎりやペンチ、ねじ回しなどをフル活用して、木部と金属部品とを分けて、ばらばらにした木部をくくりつけてひとまとめにする。
時折小雨がぱらつく中での、屋外作業となる。1時間ほどで、解体完了。
そのまま車に積んで、市のクリーンセンターまで持ち込むことにする。
重さが10キロ以内ということで、焼却費用は150円くらいで済んだ。
いつか処分しなければとも思っていたので、一気に片づけることができて、一仕事終えた気分になる。
ついでに買い物をして、帰宅。
午前中はもうなにもする気分にならず、ぼっと過ごす。
午後、読書。
吉本隆明と茂木建一郎の対談集読了。
吉本自身、その思想家的出自のややこしい人で、かなり自由な発言を茂木の方が上手に整理しているような印象を抱いた。
吉本隆明は戦後の著名な思想家ということであったが、単純にその見識や発言に共鳴するわけにはいかない、かといって全面的に意義を唱えるというわけでもない、それこそ一つ一つの発言について、色々考えながら応対していく必要のある、これはこれでとても面白い人物であることが、読後の実感であった。
もうちょっと読んでみたいが、目に付くものは全部読んでしまったので、吉本の他の著作が図書館に置いてあるのだろうか、確かめてみなければならない。
鳥取県の図書館事情は、全国的に見ても立派なものらしいので、県内の他の図書館からの取り寄せなども可能なのだろうと思うけれど。
俳人平畑静塔の『京大俳句』や『天狼』に関する評論集を読み進めている。
新興俳句運動の当事者の一人であり、『京大俳句』により官憲の弾圧を受けた一人として、その回想や発言は詳細にわたり、実感のこもった内容だった。
精神科医だからということなのか、どこか主知的でクールな(時にやや晦渋な)語り口が大変興味深かった。
【16年9月18日】
台風の影響の下、大雨のために伯備線が不通になっているようだ。
所用で遠出していた甥が、列車を利用できず、やむなく岡山泊まりということになった。
こちらは、終日雨ではあったけれど、それほどの降りでもなく、台風の影響はまだまだこれからと考えていたので、ちょっと驚いた。
山沿いに大雨が降ったようだ。
午前中、まずモニターを1本仕上げ、一息ついているうちに、本日予定のモニター番組をうっかり見逃してしまった。残念なことをした。1本分1000円、稼ぎそこなった。
午後からは、つい「相棒」を見始めて、2時間スペシャルを最後まで見てしまった。
やや物足りない内容ではあったけれど、しかし最後まで見せる色々な工夫が盛り込まれてあって、なかなか良かった。
その後は、夕方まで読書。俳句関係の本と、送っていただいた同人誌『静かな場所』を読む。
今評判の若手俳人北大路翼の作品が招待作として掲載されてあった。意外とおとなしい作品のような印象。
6時からは、いつも通りBSで『真田丸』を見る。敗残の一族ということで、かろうじて死罪は免れ、九度山村に蟄居ということになった。なんとも重たい展開である。
徳川家康、もうちょっと老獪さや悪辣さがほしいな、という気になる。なんとなく、普通の悪役という感じにおさまってきているような……。
豊臣秀吉の醜怪な絶対権力者という演技は、すごかったなと思う。
拉致家族会が、強い調子で政府に迫ったようだった。
「核問題」と「拉致問題」は切り離して考え、「拉致問題」解決を優先せよ、ということだった。
家族会としての、非常に強い危惧の思いの現れだった。
北朝鮮に対する圧力団体として家族会を位置づけ、政治的に利用しつつ、実質何もしてこなかった政府の対応に対する、率直な思いのあらわれだと思う。
「誰が責任を取るのか」という拉致問題解決に関する日本側の責任の所在を、はっきり問うたのも今回が初めてではなかったか。
日本政府を信じるといいながらも、その信頼の糸はずいぶん細くなっている、という印象を持った。
【16年9月17日】
夕方になって、とうとう雨が降り出した。風は、午後から少し強く吹き始めていたのだが、雨とともに風の方は静まったようだ。
この3連休、甥・姪ともに遠出しているので、天気があまり悪化しないことを願う。
今日は土曜日なので、本当に何もしないでぼーと過ごす。
亡くなった大阪の叔父から生前もらった「金のなる木」が、すっかり衰えてしまったので、いったん庭から鉢植えにしていたものを、再度庭の方に移し植える。
鉢から抜き、根の部分を水洗いすると、根っこがほとんど消えかかっていて、この状態では庭に移しかえても難しいかもしれない。
「金のなる木」は、本来生命力旺盛な植物なので、葉っぱだけを切り取って、それも土に植えておく。
うまくいけば、そこから新たに根付き始めるかもしれない。
雨が来る前に1時間ほど歩き、その後テレビを見ながら、浅酌。
缶チューハイ1本で、ほんのり気分となる。
歩きながら、平畑静塔と茨木和生のことを考えていた。
俳句における縄文的発想みたいなところで考えてみるのだが、稲作を中心とする農耕生活に基盤をおく発想と、狩猟・漁労等にまで生活や文化の基盤をひろげた発想を根底に置く俳句創作、というようなことを漠然と考えてみる。
考えつつも、ちょっと観点がずれているような気分にもなる。
今のところ、良く分からない。
短い評論を書く必要があるので、そんなことも念頭において考えてみる。
新たに申し込んでいたテレビのモニターは、残念ながらダメだった。昨年、半年間モニターを行っていた局なので、それがネックになっていたのかもしれない。
来年は、別の民放を一つ申し込んでみようと思う。田舎なので、そんなにチャンネルの数はないのだけれども。
【16年9月16日】
朝、夕に歩く。高曇りの一日。暑くもなく、涼しくもなくという状態。
昨夜は、結局きれいな中秋の名月を眺めることはできなかった。
丑三つ時の夜空は、厚い雲に覆われていた。
吉本隆明と脳学者の茂木建一郎の対談を読み始める。図書館に老いてある吉本関係の本が、ほとんど老いに関わるような内容で、今回もまた「老い」や「生と死」をテーマにした二人の対談だった。
高齢化の進む地方の読書層の反映なのであろうか。
吉本が亡くなってすぐの出版のようで、彼の遺作のひとつということになるのかもしれない。
「老人」は「超人間」という彼の規定が面白い。「老人」は「思い」と「行動」の間に複雑な思考や妄想過程が介在する分、「思い」と「行動」とが反射的に繋がる動物的存在から最も遠い存在として、並みの「人間」をも越えた「超人間」である、という。それが、彼の老人論の中核に置かれている基本的で実感をともなう認識らしい。なんとなく、分かるな、と思ってしまう。
豊洲移転問題。
闇の深さを、ずいぶんわかりやすく感じさせる問題。
連日のマスコミの報道(ちょっと異常なくらいの報道各社の熱の入れようという気がしなくもないが)を通じて、少しずつ闇の一部が剥がれ始めているのだろうか。
それにしても、まず共産党が動き、先日来公明党や民進党の各会派も動き始めているのに、豊洲移転を強力に押し進めたとかいう最大会派の自民党が全く動かないのは、なぜだろう……。
闇は、深そうだ。
今回も又、おなじみの利権がらみの土建屋行政のなれの果て、みたいな様相を呈しているけれども。
【16年9月15日】
窓を開けると、空全体を覆った雲の一画に、ぼんやりと中秋の名月が輝いているのが眺められる。
すっきりと晴れてくれたら、秋の月を鮮やかに望むことができるだろうに、この空模様ではそれは期待できそうにもない。
ちょっと残念である。
夜気はずいぶん涼しい。
隣のうちの庭から、しきりに鈴虫の鳴く声が聞こえてくる。
今日は、午前中に昨夜視聴した番組のレポートをまとめ、その後市内の図書館に本の返却に行く。
車は定期点検に出していて、代車として、ワンランク上の車を置いていってくれたので、それに乗って出かける。
快適である。
市役所の駐車場に車を置き、公園広場を横切って図書館へ。
広場の木々の中には、うっすらと紅葉を始めているものが見受けられた。紅葉は、木の上部、枝だの先端部分から始まるようだ。
ベンチに寝転がっている人、本を読んでいるひと、昼食を仲間と食べているひと、そんな人達の姿が目に入る。
屋外で過ごしていても、快適に過ごせる陽気に明らかに変わっているのを感じる。
ありがたいことだ。
本を返却し、代わりの3冊(これは毎回この冊数を借りることにしている、継続して読んでいる本の間に挟むので、この程度の数がちょうど良い)を借りる。
その後は、真っ直ぐ帰宅。そして、読書。夕方に句を案じてから、実家に顔出し、といういつのも調子である。
すでに月は中天近くに移動している。
雲が薄れて、先ほどよりは明るく、輪郭もはっきりしてきている。
今から就寝しても、闇が一番濃くなるという丑三つ時辺りには目を覚ますだろうから、西に傾き始めた名月の鮮やかな姿を寝室から望めるかもしれない。
【16年9月14日】
昨夜、たまたまテレビをつけたら、『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花』をやっていた。
途中からだったのだが、最後まで見てしまう。
私がいままで見てきた全部の映画の中でベストワンは、この『ハイビスカスの花』だな、と改めて思う。
見終わって、安らかな気持ちで寝付く。
夜の間に小雨が降っていたのか、朝の路面はうっすらと濡rていた。
歩こうと思って外に出ると、すぐに小雨が降りだした。
一度引き返して、朝食後、改めて歩きに出かける。
ほぼ8000歩歩いて、帰宅。今日のノルマを果たしたような気分になる。
母の検査のことがあったので、ここ数日落ち着かない気分で過ごしていたのだが、結果も分かり、いつもの予定に帰る。
午前、午後と読書。今日は、買い物も昼寝もなしだった。
夕方になって、句作。「敬老日」で1句作ろうとする。
一端出来たので、そのまま追加の歩きに出かける。
30分ほど歩きながら、頭の中で「敬老日」を推敲する。
最後には、「あぶな絵」でまとめることにして、帰宅する。
夕食。
今夜は、7時からモニター番組を1本見る。
【16年9月13日】
今日は、母の運転手を兼ねて病院へ。
9時前に入ってから、全部が終わって、病院を出たのが3時過ぎ。
さすがに、今日は長かった。ずいぶん、時間がかかったと思う。
とはいえ、検査結果は、懸念していたような状態ではなかったので、一安心。
朝から絶食の母と、病院の食堂で、遅い昼食。二人とも、トンカツ定食を食べる。
ころもさくさくで、医大の食堂にしては、ずいぶん美味しかった。
昨夜は、豪雨状態であったが、本日は終日小雨がちな天気だった。
秋霖前線の影響下、季節は着実に秋を押し進めているようだ。
帰宅後、待ち時間の長さに少々疲れる。
考えてみると、私は病院のソファーの上で、正味6時間待ち続けた、ということになるわけだ。
その間、通院してくるいろいろな人の姿が目にとまった。
出身中学の制服を着た女学生とその母の姿。二人とも口数少なく、採血に呼ばれるのを待っていた。制服が、45年前と同じであることが、妙に印象的だった。熱心に練習に励んだ吹奏楽クラブのことを、ふと思い出したりしたものだ。土埃のグランドとか、その周囲の桑畑の情景なども、脈絡なく思い浮かんだりもした。
受付の前で、待たされることを声高に言い募る高齢の男の姿。若い看護士に向かって、強い口調で、何時間待たせるのだと詰め寄っていた。そう言いたくもなるよな、とちょっと同情しつつも、皆同じだよ、とも思ってみる。
ソファーに腰を下ろして、経済新聞らしいものをひろげて読んでいる老紳士。その人に、何人もの人が通りすがりに、挨拶をしていく。そのたびに、鷹揚に老人は応え、一言二言会話を交わしている。
その老人を知っているらしい隣の人に、あの人は誰なんですかと尋ねてみると、地元で商工会議所の会頭も勤めたことのある老舗の会社の社長さんであるという。
名前を知らない私をちょっと意外そうな表情で見返しながら、お隣さんはいくつかの会社の名前を、私に教えてくれた。
前の席に坐った男。隣の老女を相手に、延々と自分の病歴や介護の体験などを話し続けている。すでに20分以上、途切れなく話し続ける。結構専門的な用語なども交えた話らしい。しきりに、自分は勉強してきたという言葉が繰り返される。普通の調子でしゃべっているので、その男の声だけが待合いスペースの中できわだって聞こえる。
それにしても、話しかけられている老女は、知り合いという訳でもないようだ。偶然隣り合って坐って、男から一方的に話しかけられている風情である。にもかかわらず、ひどくきまじめな表情で、老婆は男の言葉に耳を傾けている様子だ。ほとんど、ひとことも聞き漏らすまいというような姿に見える。
その真摯ともいえる姿が、次第にこちらの胸にも響いてくるようだ。
やがて、老女の診察の番がきたらしく、彼女はゆっくりと立ち上がると、男の方に丁寧に挨拶をして、診察室へと入って行った。
後に取り残されたという風情の男の姿も、妙に印象的だった。
じっと坐って待っている自分の周りを、色々な人間模様が流れていくようなそんな思いがあった。
【16年9月11日】
今日はたまたまモニター視聴が重なって、午前・午後とテレビ番組2本、ラジオ番組1本のレポートを書く。
途中、「相棒」をつい最後まで見てしまったこともあり、結局、今日はモニター書きと「相棒」で日中を終えることになってしまいそうだ。
夕方からは、ちょっとパワーは落ちたけれど『真田丸』をBSでまず見ることになるので、それまでの1時間ほどを妖怪関係の美術書を見て過ごそうかと思う。
妖怪関係の美術書、というよりは、絵画や工芸の中に描かれ、造型された妖怪をまとめた本、ということになるのだが。
なかなか面白い。
『水木しげる漫画全集』も、図書館で借り始めてから、もう10巻を越すほどになった。「フーシギくん」とか、「おばけのムーラ」とか、初めて見るような漫画が多いけれど、鬼太郎や悪魔くんの前身だろうか、などと思いつつ、愉しく読む。
個性的で、豊かな才能だな、と改めて感心する。
日が高い間は少々蒸し暑かったけれど、日が低くなるにつれて、涼しくなる。風も、時折カーテンを捲り揚げるほどの強さで吹く。
明日は、どうやら雨らしい。
秋霖前線の影響らしい。
これからしばらくは、天気がぐずつくらしい。
秋らしい陽気になったら、一度大山に登ってこようか、などと考える。
頂上まで行かなくても、夏山登山道を6合目の避難小屋辺りまで登って、北壁の切れ落ちる様をまじかに見てきてもよいな、と考える。
今月は、遠出の予定はもうない。
【16年9月9日】
重陽の節句である。
菊の節句ともいい、お酒に菊の花びらを浮かべ、長寿を言祝ぐ、そんなお目出度い日である。
そんな日にも、世界には核実験を強行する国がある。
米国へのアピールと国威発揚と自らの権力基盤強化のために「核」を弄ぶ姿は、異常以外の何者でもないと思われる。
同盟国とはいえ、日本国もここぞとばかりあまりヒステリックな反応は示さないでほしい。
中には、明日にも北朝鮮が日本に核ミサイルを撃ち込んでくるみたいに思いこむ人もいないとは限らないので。
冷静に状況に対応してほしいと思う。
英知とともに外交力を発揮してほしいと思う。
それにしても、これで拉致問題の解決は、またずいぶん遠のいてしまった。
我が町にも、ひとり拉致被害の方がおられるのだが、この先どうなっていくのだろうか、と思う。
思えば、政府がこの間全く何の手も打ってこなかったことが、腹立たしい。
拉致担当大臣を兼務にした時点から、この問題について当面何も手を打たないということは見えていたけれど、事態がこんなに険悪な状態になるまでに、少しは動くことができなかったのかと思う。
「拉致被害者の会」は、こうなると北朝鮮に対する日本国内の圧力団体のひとつとして、上手く政府に利用されるだけの組織として終わってしまいそうな危惧も感じる。
「高きに登る」というのも、重陽の節句に関わる季語のひとつだ。
皆で近所の丘とか、どこか高いところに登って、いわばピクニックを楽しみつつ、健康を祈る行事である。
高いところに登れば、きっと視界も大きく広がることだろう。
目先のことも大切だけれど、先を見渡す視点も必要なのだろうな、と思う。
夕方、テレビでパラリンピックの車椅子バスケットを見た。
ずいぶん激しいスポーツだと驚いた。
健常者のバスケットとは異なる、色々な戦略と戦術がある、ということも分かって面白かった。
【16年9月8日】
今日は、最高気温が24度ということで、ようやく残暑を抜け出したかな、という気分になった。
朝、パラリンピックの開会式を見る。
映像をふんだんに活用した、面白い開会式だった。
雨による転倒というハプニングがあったものの、聖火点灯もよかった。
マスコミでは相変わらず、メダルの数何個以上目標と言うことをしきりに喧伝している。
本当に、馬鹿じゃないかとつくづく思う。
何処の全体主義国家かと目を疑ったという、オリンピックのメダル獲得についてのマスコミの過熱報道(どのチャンネルを見ても、同じことしか報道していない)について、慨嘆した外国人の日本文学研究者もいた。
メダルの数にこだわることを否定はしない。けれど、その数に固執することで、オリンピックの本質を見失う部分もあるだろうと思う。
その典型が、ロシアだ。
ましてや、パラリンピックにおいてまで、そのメダルの個数ばかりを問題とするマスコミ(その背後には、利害関係を含めて様々な圧力要因があるのかもしれないけれど)の姿に、正直あきれてしまう。
パラリンピックにこそ、オリンピックの精神の本質が生きているように思われる。
その部分をないがしろにするような、ある種の成果主義は、障害者の大量殺人を生んだ歪んだ人間の精神とどこかで繋がっているような、そんな不快感をもたらす。
考えすぎなのかもしれないけどね。
午前中かけて、モニターのレポートを仕上げて送信する。
今回も、つい頑張って書いてしまう。
時給にしたら珈琲一杯分くらいのものだけれど、書くことでお金をいただけるということがやっぱり嬉しい。
ありがたいことだと思う。
今日は、7時から「プレバト」。
楽しみである。
【16年9月7日】
ここ数週間、午後8時からはBSで「ER」というアメリカの医療ドラマを見ている。
その中で、国民皆医療保険制度のない米国において、様々な悲劇が起こっていることを、ドラマなので誇張はあるのかもしれないが、描いている。
国の制度としての医療制度の不十分な米国では、民間の保険会社が医療保険制度を担っているようだ。
とはいえ、経済的に苦しい人達は、保険料を支払うことが出来なくて、無保険ということで、もし治療や検査を受ける際には高額の実費支払いを余儀なくされる。
だから、そうならないために、必要な医療行為を受けないという事態が生じることになるらしい。
ドラマの中では、肺ガンの疑いのある自営業者が、無保険のため高額な検査料を支払うことができず、自ら検査を拒否して退院することになってしまう。
このドラマでは、時折そんな非情な場面が出てきたりもするのだ。
そういえば、今秋の臨時国会で、TPPに関する討議が本格化するようだ。
TPPの条項の中には、民間企業の企業活動を国家が疎外するような制度に関しては、企業の側が国家を訴えることが可能になるというようなものが含まれているらしい。
裁判ではなく、調停機関のようなものが、国家と企業との紛争を裁定することになるらしいが、企業活動がを優先された場合、国家が破れ、莫大な損害賠償の支払いが求められ、あるいは制度自体の変更が促されるということも起こりうるかもしれない。
たとえば、米国の保険会社が医療保険に関して、日本への営業活動を行った場合、そこには大きな阻害要因がある。
それは、国民皆医療保険制度という日本国の制度だ。
その制度がなくて、国民が国の医療制度に加入するか、そうではなく、民間の医療制度に加入するか、その自由な選択の余地があれば、日本国民は場合によって、自国の制度ではなく、たとえばアメリカの民間会社の用意する保険に加入するということも起こりうるはずだ。特に、保険料を国より安く設定したり、その補償条件を国より好条件にすれば、一層その可能性は高まる。
現実に、医療保険制度の負担金と、さらに入院したときの医療費の補填として民間の保険に入っているなんていうケースは、ざらにあることで、その両方を合わせた保険料はずいぶん高額なものになっているだろう。それをひとまとめにした形での保険と言うことで、料金をかなり割安風な価格設定という形にすることは可能ではないか、という気はする。
ただ、そうするためには、アメリカの民間企業にとっては、国の制度としての皆国民保険制度が、明らかに企業の営業活動上、大変邪魔な存在になるのは明らかだ。
米国の保険会社は、TPPの規定に従い、日本国を訴えるということも起こりうるだろう。
国の根幹に関わる制度の変更など、いくらTPPの協約上は許されうるとしても、現実には起こり得ない、などという声があるのは確かだ。
しかし、本当にそんなことは起こり得ないのか、その歯止めは少なくともTPP協約の中には存在しないのではないのか、ということを怖れる。
ただ、そうなると国家財政的には大きな負担削減効果が生じることにもなるだろうけれど。
国民が、民間企業の医療保険に加入すれば、その分国としての負担は軽減されることにも繋がることだろう。
あるいは、医療保険分の歳入が縮小することで、結果として医療保険制度自体の破綻に繋がっていくかもしれないけれども。
制度変更により、国民が国の用意する医療保険と民間の提供する保険との選択を許すような事態になれば(現在のアメリカのように)、国民皆医療保険制度は崩壊し、最悪の場合、国民の中に無医療保険者が現れるということも起こりうるのではないのか。ちょうど、年金保険料を支払うことが出来ず、無年金の人が現実に存在するように。
ドラマ「ER」の中では、その理不尽さに耐えきれず、とうとう主役級の看護士が職場を退職するということになってしまった。
アメリカにとっては現実のことでも、日本人にとってはあくまでドラマの上での虚構という受け止めをしてしまう場面なのかもしれないが。
なんというか、色々想像を刺激されるような終わり方ではあった。
【16年9月6日】
俳句の選評と総評について、午前中をかけて。最終的な推敲を行う。
その上で、念のために実家に原稿を持ち込んで、こちらでは見落としているかもしれない点について、読み直しをしてもらって確かめる。
こちらとしては、出来上がったつもりでいるので、意外と細かい点での問題点を指摘してもらったりすることがある。
思いこみは、なかなか厄介なものだ。
今回は、特に指摘もなく、これを最終稿として返送することにする。
この後、年内に向こうとのやりとりなどがあって、その後、作品集として小冊子が出されることになる。
昼の買い物のついでに、郵便局で原稿を発送し、これでこの件は一段落となる。
昨年より2日、発送が遅くなった。京都行きが影響したようだ。
昼食後、借りていた本を返しに市内の図書館へ。
外は結構暑い。
あらたに本を3冊借り、行ったついでということでもないが、隣接する美術館で、作品展2つと写真展1つを見学して帰る。
芸術の秋ということでの取り組みのひとつなのだろうが、こんな風に一般市民参加の展覧会が割と気楽に開催されることは、とても良いことだと思われる。
絵画も写真の、なかなか力作が多かったように思われた。
帰宅後、11月に行われる俳句大会の作品を考えることにする。
あれこれ考えたが、どうにも意に満たなくて、書いたものをすべて破り捨てて、一から出直すことにする。
提出締め切りがあるので、明日くらいがぎりぎりのところではある。
いろいろ迷っているようだ、全く……。
【16年9月5日】
昨日、今日と京都へ。
本来は、入院している方へのお見舞いのための京都行きなのだが、ちょうど所属結社の句会が予定されているので、合わせてそちらへも参加することとした。
日曜日は、その句会。他の出席者は吟行を経ての参加だったので、直接句会のみ参加のこちらとの間に微妙な落差があったような気がする。
とはいえ、句会自体はずいぶん盛況で、大変刺激的で面白いものだった。
句会を終え、そのまましばらく市内を歩いて、本日の宿泊所であるカプセルホテルへ。
京都の中心街にこのような施設が出来ているのは、本当に意外な気がしたのだが、それもまた時流の結果なのだろう。
結構たくさんの人が宿泊しているようだった。
カプセルホテルとはいえ、中で立ち上がることが出来るくらいの広さで、シャワーや自販機などの設備も整っていて、思ったよりも結構快適に一晩過ごすことができた。
九州に接近している台風のことが気懸かりだったが、少なくとも京都にはほとんど全くその影響はなかったようだ。
翌日も良い天気で、少々暑いくらいだった。
ホテルから地下鉄駅まではほんの5分ほどで、地下鉄の下車駅から病院までは10分ほどの歩きだった。
立派な病院の最上階が病室で、ちょっとやせたという印象の方と1時間半ほど、談話コーナーや病室で話をした。
その折り、主治医の若い先生が話しに来られて、退院を明日にするということになった。
今日、、お見舞いに来たのは大正解だった。
今月の予定についての打ち合わせと、来月以降についての見通しの話などもして、11時過ぎに病院を後にした。
そのまま、地下鉄で京都駅まで行き、バスの時間ぎりぎりくらいに到着。ほぼ待ち時間なしで、帰りの高速バスに乗車。
帰路、兵庫県辺りを通過する際、台風の余波と思われるかなり強い雨に降られるが、バス自体の運行には時に問題なく、いつも以上に早く米子に帰着する。
こちらは、風もなく、雨も降っておらず、大山が頂上部分だけを雲に隠して、きれいに望まれた。
7年以上前の手術以降の影響が、いまだに時々出るので、そのせいで今日一日腹痛に悩まされもしたけれど、帰宅するとそれも楽になった。
気持ちの部分、遠出にともなう緊張感のようなものが、ちょっと影響しているのかもしれない。
命との引き替えということなので、これはやむを得ないものなのだろうと思う。
少々疲れたので、早めに横になるが、また起き出してこれを書いている。
【16年9月3日】
「プレバト」、面白い。夏井氏の、テレビ向けの毒舌とはいえ、ポイントをついたコメントも、視聴者目線で言えばずいぶん直裁でわかりやすいものなのだろうと思う。
どうしても選者の好みや傾向が反映するだろうから、単純な写生や花鳥諷詠風な作は、もの足らなく感じられるのかも知れない。
全体として、新興俳句風な表現主義的色合いを選や添削に感じるけれど、そこが視聴者には面白く感じる部分なのかもしれない。
それにしても、最近のタレントさんたちは文字通り「タレント」としての、多方面に渡る才能を発揮しなければならないので、大変だろうなと思う。
とはいえ、常連の出演者の中から本当に俳句にはまり込む人がでたら、それはそれで結構なことだと思う。
明日から京都。とはいえ、台風12号が九州から日本海側に回り込んで来るらしく、出発と帰着の高速バスが果たして走るのだろうか、という点が気懸かりだ。
出発便が走らなければ、それで京都行きは中止になるので、決着は簡単ということになるかもしれないのだが。
帰りは、最悪台風か、それが変わった熱帯低気圧が日本海の比較的陸地に近い辺りで勢力を発揮しているところへ向かって行く形になるので、リスクの度合いが大きい。
最悪、バスを変更して、京都に追加1泊ということになるかもしれない、と思う。
俳句の講評は、一応書き終わり、総評の部分も引用を除いて、終了する。
昨年の総評と比べると、ちょっと形式的な部分が崩れて、句作に関わるところが増えたようだ。
かなりの書き直しが必要になるかもしれない。
今日は、朝から良い天気。ただ、風が少し吹いている。
それはそれで気持ちが良いのだが、それを吹かせているものが台風かもと思うと、少々複雑な気分になる。
土曜日なので、フリーな一日。
本は読まない。
総評の手直しに時間をかけようか、と思う。
テレビのいわゆるコメンテーターというものが、いかにもヤクザな商売であるということが、ニュースショーなど見ていると、感じる時がある。
小池問題、対ロシア問題など、特に政治がらみの内容についてはその印象が強く、最初から筋書き通りの話の進展ということが、賛否両論に渡り見受けられるのが興味深い。
自分にあてがわれた分だけのことを言って、あとはなにもコメントを発しないいわゆる学識経験者などというものの姿も、何となく番組に使われている感が強くて、気の毒な思いになる。
コメント料と、テレビに出演したという虚名が手にはいるので、結構なことなのかもしれないけれど。
あるいは、司会者とコメンテーターが寄ってたかって、特定の論調をぶち揚げたりする番組も中にはあるようだ。それって、ニュース報道に名をかりた、「やらせ」ではないか、と思ったりもする。
マスコミをマスゴミと揶揄する風潮が、一時期ネット上にあってなるほどと思ったりした部分もあったけれど、最近ではゴミを通り越して、一部有害物質化しているのかもしれない。
【16年9月1日】
9月に入った。
一日、良い天気。昼間は、少々蒸し暑かった。
とはいえ、朝夕は秋らしい涼しさで、2回にわけての「歩き」も結構快適だった。
8000歩というのは、たしかに無理ない歩数だな、と思う。
午前中は、俳句の講評書き。ひとつの部門の講評を書き終え、次の部門へと移る。
作品が良いせいか、講評を書くのが愉しい。
つい次の作品まで書いてしまいそうになるので、適当なところでストップをかける。
でも、明日で一応下書き段階の講評はすべて書き終えそうな様子だ。
16日が必着という条件だったので、ちょっと厳しいかもと思ったけれど、作品に救われたようだ。
明日は、総評の方までいけそうなので、とりあえず京都に行く前に、事前の準備を終えることができそうだ。
ありがたいことだ。
最近、少々老眼が進行してきているみたいで、本が読みづらい時がある。
一度、眼科に行った方がよいかもしれない。
そういえば、年に一度の人間ドックの申し込みをした。さすがに、10月中旬くらいまでは予約が詰まっているらしいけれど、それ以降はまるで空いているらしい。
こういうところは、田舎はありがたい。
10月下旬に予約をいれて置く。
残暑は、まだしばらく続きそうだ。
さて、「プレバト」を見てくることにしよう……。